シュティルナーの唯一者といっても、私が理解する唯一者は独自のものかもしれない。私は唯一者を創造の情熱として捉えており、現在的には創造的無として存在していると理解している。そこで問題にされているのは自我の主体性であり、その点では独特な唯一者理解とはいえないが、主体としての自我の在り様として創造の情熱あるいは創造的無を考えるとき、それは少し自分独特なものではないかと感じている。もっともその唯一者の捉え方も、自分の中ではシュテイルナーのエゴイストから導き出されるものであり、シュティルナーのエゴイストから離れたものではなく、力点の置き方によって人それぞれ微妙な違いが生じてくるだけと思っている。ただ、シュテルナーのエゴイストという言葉の使い方は、創造の情熱という視点が弱いと思うので、エゴイストというより唯一者という言い方が好きである。 唯一者・アナーキズム・スピリチュアリズムの間を揺れ動いていると「何故、心霊無政府主義なのか」のところで書いたが、ここでは唯一者とアナーキズム、唯一者とスピリチュアリズムの関係、さらには唯一者そのものについて考えていきたいと思っている。揺れ動いているといっても、唯一者とアナーキズムの間で揺れ動いていた時、基本的には自分は唯一者であった。それでも自分がアナーキストと思っていたのは、シュティルナーを知ったのがアナーキストになってからだったからである。シュティルナーを知った時、アナーキストになる以前から考えていたこと、感じていたこと同じだなと思った。それが創造の情熱、創造的無という考え、すなわち自分は何かを求めているがそれが何なの分からないという感覚だったのである。自分はアナーキストとしてシュティルネリアンになったわけであり、そのことにそれほど問題性を感じなかった。また、多くのアナーキズムについての本ではシュティルナーはアナーキストとして取り上げているから、アナーキストとシュティルナーとの間の微妙な違いを感じているアナーキストも、アナーキストでありシュティルネリアンであるということをそれほど問題にしなかったということもある。 それに対して、アナーキストでありスピリチュアリストであるということはそうはいかない話であった。もっとも、大正時代の印刷工アナーキストが一番好きだったと書いたが、彼らは自分のことをアナーキストの仲間に入れることには躊躇するものがあったようである。そして、唯一者・アナーキズム・スピリチュアリズムの間を揺れ動くということになったわけであるが、正直に言うと、今でも自分はスピリチュアリストというより唯一者なのかもしれない。それ故、今の自分にとっては唯一者とスピリチュアリズムの関係が一番重要なものである。唯一者とスピリチュアリズムの関係は『純正無政府主義論』の中で付記的に書いているが、ここではそこで書いたことをもう少し深めることが出来ればと思い、また書かれていないことを書いていきたいと考えている。勿論、唯一者とアナーキズムの関係も考えていきたいし、唯一者そのものについても考えたいと思っている。