心霊無政府主義探究  唯一者  純正無政府主義論

第一章 自己放棄の弁証法的展開

第一節 内 向 法 (2021年3月6日)

   第一項 レヴィ=ストロースとフロイト
   第二項 人間の本質としての創造的無
   第三項 シュティルナーを考える
   第四項 反対論の立場とそれへの反論

第二節 自己放棄 (2021年3月6日)

   第一項 創造的無の循環
   第二項 シュティルナーにおける自己放棄
   第三項 自己無存在化としての自己放棄
   第四項 シュティルナーにおける自己放棄の原因
   第五項 創造への可能性としての自己放棄
   第六項 自己放棄の超越性
   第七項 自己放棄における自我の肯定性
       被造物の過剰性
       自己放棄と自我のサイクル
       否定の否定としての肯定
       解消する自我の肯定
   第八項 唯一者の単純性と自己放棄の合理性

第三節 過渡期と源初の自己放棄 (2021年3月6日)

   第一項 過渡期とその両義構造
   第二項 自己放棄の必然性
   第三項 存在即肯定
       前本質による肯定と否定
       前本質そのものの肯定と自我の肯定性
       源初の肯定性と存在即肯定
       自立期と存在即肯定

第四節 未開社会における矛盾・二極性と肯定性 (2021年3月6日)

第五節 自己放棄の弁証法的展開としての歴史 (2021年3月6日)

   第一項 シュティルナーの歴史観
       社会そのものの宗教性
       古い時代
       新しい時代
       エゴイストの時代
       シュティルナーの問題点
   第二項 自己放棄の弁証法的展開
   第三項 創造的無の否定と基本理念

 

第一節 内 向 法

第一項 レヴィ=ストロースとフロイト

 レヴィ=ストロースは、自己の精神を媒介として、空間的に離れたものでも、その思想・精神の心理学的根拠を理解することは可能である、とトーテミスムに関する本の中で主張している。

 「ベルグソンが、トーテミスムのいくつかの面を、民族学者より良く、あるいは民族学者より先に理解することができたのは、トーテミスムを内側から生きている、あるいは生きたいくつかのいわゆる未開民族の考えと、ベルグソンの思想とが奇妙な類似を示しているということではないだろうか。民族学者にとっては、ベルグソンの哲学が、シウー・インディアンの哲学を想起せしめるのに抗し難い。……ここでわれわれが教訓を引き出そうとするとき、肝要なことは、ベルグソンとルソーが内向という歩みによって、つまり、まず外部から把えた思考方法あるいは単に想像した思考法を自分自身について試みることによって、異国の制度(ルソーの場合は、それが存在するとも気づかずに)の心理学的根拠にまで遡るのに成功したということだ。こうして、この二人の哲学者は、おのおのの人間精神は、いかなる距離によってへだてられているものでも、人間精神の中でおこることならこれを検討する実験の場となりうるということを立証している。」(『今日のトーテミスム』)

 この自己内部の対象との共通部分を使って対象を理解するという方法を、とりあえず内向法とでもよぶことにする。それは空間的に離れた対象だけでなく、時間的に隔たった対象にも有効であろう。ただ、レヴィ=ストロースの内向法には問題がないわけではない。レヴィ=ストロースはその例としてベルグソンの哲学とシウー・インディアンの哲学の類似性をあげているが、だれもがベルグソンと同じ哲学をもつわけではないように、あるいは自己の哲学と類似の民族と出会うとは限らないように、トーテミスムを研究する際、その方法が誰にも有効であるということにはならないのである。たまたま未開民族と同じ精神構造をもった者は、その自己の精神構造を使用して未開民族を理解することができる、と言っているにすぎないともいえるわけである。それに対してフロムは、それと同じ方法論を空間的な距離ではなく時間的な距離に適用し、さらにより一般的な方法として展開している。すなわち、過去も含めたすべての人間に共通な、無意識の中の一次的人間経験を鍵として、先史時代は理解できるというのである。

 方法の問題を考えてみよう。私は先史時代の始まりにおいてこうであったろうと思われる人間の心を、〈再構成〉することを提案した。……私が強調したいのは、現在利用しうるデーターも、原始的な宗教および儀礼に関してこれから見いだされるべきデーターと同様に、もし私たちがそれを解く鍵を持たなければ、先史時代の人間の心の性質を明らかにしてはくれないということだ。この鍵は思うに私たち自身の心である。私たちの意識的な思考ではなく、私たちの無意識の中に埋もれていて、しかもすべての文化のすべての人間の中に存在する経験的核心であるような範疇の、思考および感情なのである。簡単に言えば、それは私が人間の〈一次的人間経験〉と呼びたいと思うものである。この一次的人間経験は、それ自体が人間の存在条件に根ざしている。この理由からそれはすべての人間に共通なのであって、人種として受け継いだものなどと説明する必要はない。(『破壊』)

 フロムによれば、このような方法を切り開いたのは、現代人の無意識の分析から得られたエディプス複合に対する原初的人間として、家父長制的に組織された男性優位の族の一員という歴史的構成概念を導き出したフロイトである。フロムはこのフロイトのエディプス複合は、人間経験の最も深い層ではなかったというが、フロムのいう一次的人間経験とは、根本において人間を規制しているもの、言葉をかえれば人間の本質とでもいうようなものと理解できるであろう。ただ、はたしてその人間の本質を理解する唯一の方法が精神分析であるかどうかは断定できないし、その人間の本質はあくまで現代人の分析から得られた現代人の本質であり、ただちにすべての時代の人間にあてはめるのは、論理の飛躍であろう。
 整理するなら、内向という方法においては、まず現代人の本質を明らかにし、次にいつぐらい過去の人間まで、それをその人間の本質としてよいか、その時間的限界を明らかにし、その時間的範囲内でその本質の共通性を通じて過去および過去と現在の関連性を理解する、ということになる。

第二項 人間の本質としての創造的無

 フロムは人間の本質は無意識に対する精神分析から得られるとするのであるが、本論ではシュティルナーの唯一者を私なりに解釈した、創造的無という概念を人間の本質とする。シュティルナーの唯一者という思想は、自我を根本的な主体としているわけであるが、現代人の本質を創造的無とするときには、当然自我が根本的主体であるということは前提になっている。創造的無という言葉は、シュティルナーが唯一者を創造的無といっているところからとっているのであるが、その創造的無という言葉は、創造の情熱+無として、二つの部分に別けることができる。創造的無の創造的という部分を、私は無が創造的という意味で使っているわけではなく、シュティルナーが唯一者を創造の情熱と表現しているが、そういう意味で使用している。そして、創造的情熱といわれても、分かったような分からないような気にさせられると思うが、漠然としたイメージをもってもらえれば、それで十分なのである。というのも、それは欲求・欲望・目的といった言葉でも実はかまわないのであり、要するに各人は一種のエネルギー体のようなものであり、重要なことはそのエネルギーが何かへのこだわり、あるいは充足・創造これまた何でもいいが、やはり一種の自己価値化・価値判断とでもいったものと結びついているということである。シュティルナーはすべてのもについての価値判断基準を、自分自身に求めているが、その際の自己内部において、物事への判断基準となるものを意味しているともいえるわけである。
 次に、創造的無の無であるが、何かをしたいんだけど何をしたいのか分からないというように、欲求の対象が分からないばかりでなく、欲求はあるんだけどその欲求自体が漠然としている、いわばそのような状態を示している。何かを創造したいんだけど何も浮かばない、何かを求めているんだけど、何をどうすればいいのかわからない、そんな八方塞がりの状況を意味しているわけである。目的という言葉で無を理解しようとするなら、目的実現の手段が分からない、その前に目的そのものが分からない、さらにいかに目的を知ればいいのかその手段も分からない、そのような三重否定の状態が無ともいえるわけである。
 そのような否定的状況にもかかわらず、自我の内部には情熱・エネルギーが充満し、決して充足させられることはないのに、次から次へとその情熱・エネルギーが湧き出て来る、それが創造的無という言葉で示そうとする自我のイメージであり、自我が主体的であるということであり、自我の根本的な姿であるというわけである。さらに、このような状態が自我の姿であるとすれば、自我にとって、すなわち創造の情熱にとって、存在するすべてのものは目的でもなければ手段でもないということで無価値ということになるが、無という言葉にはそういう意味も含まれている。

第三項 シュティルナーを考える

 創造的無に対する私の理解では、そこに目的性といったものを認めた。それは、人間は何の召命も課題も持っているわけではないというシュティルナーの主張と矛盾しているようにみえる(1)。しかし、よく読むと必ずしもシュテイルナーは目的性といったものを完全に否定しているわけではない。人間は己の力を用いようとする存在であり、その場合使命とか課題と結びつけことは余計なことであり、それは人間のいかなるときも現実的な実在する行為にすぎないというのである。しかし、自己の何かのためにその力を用いようとするのだともいえるし、その何かとは目的性をまったく否定しているともいえないであろう。シュティルナーは自我を動的なものとして捉えている。それは、「自らの思想をもち諸決意をもち情熱をもつこの体ある私」や「私の自己発展、私の自己活動、私の自己創造」といった言葉に示されている。さらに、シュティルナーはその自我の活動性をあくまでも主体的なものとして捉えようとする。「旧見解では、私は私自身に向かうものであるのだが、新見解では、私は私自身から発するもの」であって、「途方もなく巨大なへだたりが、この二つの見解をへだてている」のであり、自我とは主体的な存在なのである。シュティルナーの言いたいことは、自我における目的性の否定ではなくて、自我の主体的性格であり、この自我の主体性を考えたとき、目的が自我の活動性をもたらすのではなく、自我の主体性そのものが目的性を自ずから含んでいるということであって、あらためて目的性を強調することは、主体性という点からみるなら、余計なことだということなのである。
 シュティルナーがそのことを主張するのは、目的・課題・使命といったものが自我の上に立ち、いわば外部から自我に押しつけられているような現象があるからである。シュティルナーの真意は、その外部にある目的性を自我内部に取り戻し、主体性の中に溶解させてしまおうということなのである。もし、目的性といったものを完全に否定してしまったら、シュティルナーが否定しようとする外部的な目的や課題・使命といったものの存在を、シュティルナー自身説明できなくなってしまう。一般に、シュティルナーは先ず極端な主張をし、次にその主張を微妙に修正するという方法をとる。例えば、「諸子自身を求め、エゴイストとなり、諸子の各おのが一の全能の自我となるのだ。あるいは、よりはっきりいえば、ただ諸子を再認識し、諸子が現実にあるところのもののみを認識し、諸子の偽善的努力を捨て、諸子があるより以上の何ものかであろうとする愚かな熱望を去らしめるのだ。」というとき、全能の自我と現実にあるところのもの以上の存在になる必要はないということとは、同じではないであろう。全能でなくても、あるいは不完全でも、現にある以上のものである必要はないということはいえるのである。また、「宗教が、われらすべて罪びとなり、とのテーゼをたてたのにたいし、私は、われらすべて完全なり!とのテーゼをもってこたえよう。いうまでもなく、われらは、あらゆる瞬間に、われらがありうるところのすべてであり、断じてより以上であることを要しないからだ。」とか、「諸子自身を求め、エゴイストとなり、諸子の各おのが一の全能の自我となるのだ。あるいは、よりはっきりいえば、ただ諸子を再認識し、諸子が現実にあるところのもののみを認識し、諸子の偽善的努力を捨て、諸子があるより以上の何ものかであろうとする愚かな熱望を去らしめるのだ。」というが、これらの例の最初の部分、自我が完全であり全能であるという主張は、目的・課題・使命の否定と同じように、少し考えると矛盾していることがわかる。もし我々が完全なら、どうして「われらすべて罪びとなり」という宗教が生じてくるのであろうか。もし、我々が全能なら、シュティルナーが存在するという「私は私にとって絶対に十分ではなく、私を絶対に満足させない」といった感情もありえないはずなのである。シュティルナーの本意は、すぐにもその矛盾が分かる極端な主張を先ず提起し、次にそれを微妙に修正し、最後に言葉で言い表せない自我の主体性、主体的自我に導いていくことなのである。シュティルナーは「それをこえでる歩みは、いいがたいものへとつらなってゆく、…」という言葉にみられるように、言葉では言い表せないようなものを問題にしようとするところがあり、シュティルナーにとって「私も君も曰くいい難いものであり、われわれは言葉では表しえないもの」なのである。すなわち、最初の主張の微妙な修正部分に彼の真意があるわけでもない。それをも否定した、あるいはそれをもさらに修正したところに、シュティルナーの真意があるとみるべきである。最初の修正部分において、シュティルナーが主張していることは、我々は今在る自分で十分だということである。それは今在る自分の肯定であって、今在る自分が完全か完全でないかは、その自己肯定において問題ではない。しかし、これだけでは、その自己肯定は何らかの価値性と結びついているともいえる。シュティルナーの本意は、さらにその自己肯定から価値性をも取り除いて、自我をまったくの主体的存在とすることなのである。そこでの自己肯定は自己の主体性と同一視される。自己からただただ発する主体としての自我に、自己否定はありえない。その意味で、主体的自我は自己肯定的である。しかし、そこで真に重要なのは自己肯定性ではなくて自己の主体性である。別な言葉でいえば、自己肯定ではなくて自己享受ということになる。自己享受とはシュテイルナーによれば生の利用であり、生の利用とはロウソクに火をともしてこれを利用すると同よう、生を費消することである。人は、生と己れ自身・命あるものを――消尽することにおいて、生を利用し、己れ自身・命あるものを利用するのであり、生の費消とは自己享受である(2)。

 本論において、創造的無という言葉を創造の情熱+無として、二つの部分にわけた。しかし、今までの議論でいえば、創造的無という言葉は単に無という言葉ですまそうと思えばすませられるということになる。創造的無とは自我が言葉では表せられない、実在物で、それが主体的なものであるということを、創造的という言葉を付け加えることによって、重ねて強調しているにすぎないとも解釈できるからである。ただ、本論で創造的ということを創造の情熱としてとらえ、それに目的性を付与したことは、今までの議論からみても、シュティルナー的立場においてかならずしも否定されることではない。 では、無についての解釈はどうであろか。シュティルナーにおける無という言葉を考える場合、「神は、人類は、自らの事柄を無の上に据え、自ら以上の何ものの上にも据えはしなかった。ゆえに、私も同じく、私の事柄を私自らの上に据えよう。神と同じく他のすべてを無とする私の上に、私のすべてである私の上に、唯一者である私の上に。」という言葉を考慮すればいいであろう。
 この言葉のうちの、最初の「自らの事柄を無の上に据えた」という部分におる無とは、「私が真理の基準なのであって、しかし、私は断じて理念ではなく、理念以上のものであり、つまりは言葉には表しがたいものなのだ。」というシュティルナーの言葉にみられるように、基準としての自我が言葉では表しえないものであるということを示しているともいえる(3)。
 次の「神と同じく他のすべてを無とする私の上に」という言葉は、自分以外のものを基準とすることを否定する、基準としては自分以外は無である、ということとともに、自分以外の事柄にそれ固有の価値を認めることを否定しているということでもある。シュテイルナーによれば、「エゴイスト的であるとは、いかなる事柄にも一の固有もしくは『絶対的』な価値をおかず、その事柄の価値を自らのうちに求めること」なのである(4)。固有の価値を認めないということは、それを肯定することもあれば、否定することもあるということで、一方に固定しないということである。そうでなければその事柄を自己の「気のむくままに処理できる」ということにはならないし、そうなるとシュティルナーのいうように「己れの生を好みのままに用いる」ことはできなくなるからである
 ところで無としての自我はそれ自体、目的性を含むものであった。ということは、自己が基準ということは、その目的性が基準ということである。とすれば、ある事柄を私の事柄としたとしても、自己内部の目的性が変わらない限り、その事柄がその内部的目的性によって、否定的なものでしかないものもあれば、肯定的なものもあるということである。これは、気のむくままに処理できるということと矛盾する。すなわち、無についての解釈を少し修正しなければならないということである。もし、内部的目的性によって肯定される事柄があったなら、その事柄についてわざわざその固有の価値を否定することは必要ないであろう。固有の価値を主張しようがしまいが、それを肯定するしかないのであり、そもそも、もしそれが内部的目的性によって肯定されるなら、その事柄がわざわざ自分の外部で、自己の上に立つような形で自己の価値を主張する必要もないし、そのようなことが起こるはずもないわけである。それが、自分の上に立ち、その前での自己否定を求めるとすれば、それは、その事柄が内部的目的性にとって否定的でしかないにもかかわらず、それを肯定的なものとみなそうとするからであろう。ということは、すべての事柄が内部的目的性からみれば否定的なものであるということでもある。何故なら、何らかの内部的目的性からみて肯定的な事柄があるとすれば、わざわざ他の否定的な事柄をあたかも肯定的なものとみなすことも必要ないからである。

第四項 反対論の立場とそれへの反論

 創造的無への反対の立場としては、創造的無を構成する三つの要素、主体としての自我、無、創造の情熱のそれぞれへの反対が考えられる(まったく異なる次元からの批判ということは、当然ありえるが、私の能力では、とりあえず自分に引き付けてでないと、理解できないということでもある)。
 自我を主体的存在とすることへの否定には、利己的遺伝子といった自我(この場合は個体というほうが理解しやすいかもしれない)をより小さい部分に還元してしまう立場、国家・人類・種といった自我(個)を含むより大きな集合にこそ自我を超えた主体性を認める立場、そして仏教の無我のように関係性の中に主体的自我を解消させてしまう立場などが考えられる。
 次に無の否定であるが、それには目的や手段、あるいは目的を知るための手段を具体的にあげればいいわけである。例えば、食欲や性欲、金銭欲や名声欲・権力欲、あるいはもっと高尚に芸術的欲求や宗教的悟りへの欲求、それらは人間の根源的なところから生じている欲求にも思えるし、その充足やそれにともなう事柄を、人間の目的や手段と考えることができるかもしれない。無の否定としては、その他にもあれやこれやの欲求や事柄の意味や価値を考えるのではなく、人間はその存在そのものがすでに完全であり、それゆえ絶対的に価値化された存在であり、自己価値化など考える必要もない、という立場もあるであろう。また、心が捉えがたいものであるように、自我もある種捉えがたさをもっているが、それを具体的なものに結びつける考えも、無の否定につながるかもしれない。例えば脳や身体というものと自我を結びつければ(それ自体は、主体としての自我の否定にはならない)、自我というものを具体的なものとして感じることができる。そうなら、自我にとって自我が具体的な対象としてあるということになる(もっとも、自分の脳味噌を見た人はほとんどいないといえるが)。そして、その具体的な対象としての自我を研究すれば、いつか自分自身を具体的に理解できる、すなわちその具体的な目的をも知ることができるともいえるわけである。すなわち、少なくとも目的を知る手段としての自分を具体的にもっている、ということになり、無を否定しているともいえるわけである。また、これらを総て合わせたような、人間性といったものもある。それは、自我の一部分である一方、人類に共通なものとして自我を超えた普遍性を与えられる。そして、それは物事の判断基準として機能し、人間性の名で具体的にあるものを肯定し、あるものを否定する。
 最後に、創造の情熱を否定する立場とは、要するに人間は何も求めていない、あるいは使命や目的といったものをもっているわけではない、本当は人間にとってすべてはどうでもいいことなのだ、といった立場にたつことであろう。

 創造的無の否定への反論であるが、人間に目的などというものは存在せず、人間にとっては本当はすべてがどうでもいいのだ、だから根源的目的だとか価値なんていうことを考えることは無意味であり、人間の本質などということを考えること自体無意味だ、という否定論と創造的無とは必ずしも対立するわけではない。すべてがどうでもいいなら、逆に創造的無という立場に立ってもそれはそれでかまわないわけである。それにある意味では、創造的無という立場は、すべてがどうでもいいという立場からみればもっとも論理的立場ともいえるのである。人間は目的をもつとしながら、本当はすべてがどうでもいいとすれば、結局求めている目的を具体的にあげることはできないであろう。せいぜい、何かを求めている、としか言えなくなるわけであり、それは必然的に創造的無という立場にならざるをえないということになるわけである。
 目的あるいは基本的欲求として提示された具体的な事柄の問題を考えてみる。まずいえることは、一般的にいってもしそれが人間の本質に関るものであるなら、それを否定するあるいは対抗・反抗する根拠というものを人間はもたないはずである。それはすべての人間に重要なものと認められている、あるいはそれに反する欲求や価値観がない、ということが人間の本質にかかわる目的・欲求には要求されるということではではないだろうか。しかし、実際には人間の根源に関ると思われるような欲求・価値観には、それに反する欲求や価値観があったり、あるいはそれを軽視する人がいる。食欲に対しては、断食して即身成仏を願う僧もいれば、拒食症もある。性欲には禁欲主義があり、芸術的趣味など無関係に金銭欲・権力欲・名声欲を必死に求めている人間がいる一方、世間的にはそれらは低俗なものとして否定的に評価される。また、地上のあらゆる思想にはその反対者がいるといってもいいであろう。私のような、創造的無という考え自体を主張しようとする人間もいないはずなのである。もし、そのような人間どうしにおける、対立・矛盾するような事柄があるとすれば、それは人間の共通の本質ではなく、あくまで各人のそれぞれの本質とすることによって、その多様性を認めるか、あるいはその矛盾の存在根拠について説明しなければならないであろう。
 もっともそれは、創造的無という立場に対しても、そのような立場を否定する立場が存在することについて、説明が求められているということでもある。まずいえることは、創造的無にとってすべての事柄が無価値であるが、しかしすべての事柄が無であるということが、逆にすべての事柄に意味をもたせるということである。森で迷子になった子にとってはすべての道が、家に通じているかどうか分からないという意味では無価値であるが、しかしそれらの道はすべて家に通じているかもしれない可能性をもっている道でもあるわけである。そして、必死で家に帰ろうとし帰り道を探している迷子にとって、それらの道がどれも家に通じている可能性があるということは、それらの道の一つ一つが無視できない意味をもつということでもある。同じことが創造的無にもいえるわけであり、その無がある意味で絶対的な無であり、一方創造の情熱もまた絶対的なものであることから、その無の中ですべての事柄が創造への可能性を持ってしまうわけである。すなわち、具体的なものに人間が価値を認めるのは、実はこの可能性としての価値を誤解して、本質的な価値としてしまっているのかもしれないわけである。しかし、創造的無からいえば、理由はそれだけではない。それは自己放棄ということとも深くかかわっている問題なのである。そして、この自己放棄ということは、その他の創造的無への否定的立場すべてについてもあてはまる問題なのである。
 この迷子の例はこれまでの創造的無の説明からずれているところがあるかもしれない。例えば、すべての事柄が内部的目的性からみれば否定的なものであるといったことや、内部的目的性によって肯定される事柄があったならそれを肯定するしかない、といった主張と迷子の例を結び付けることはできないであろう。迷子の例では、全ての道がその先には我が家がないということではないし、といって我が家に続く道があったとしても、それが我が家に続く道とは分からないとするからである。実は最初の創造的無の考えは、もし創造的有とでもいえるものが目の前に在ったら、あるいはそれに手を触れたら、直ちに創造の情熱にとっての価値が分かるだろうということであった。それ故、創造的無とは目の前、手に触れるものの中には創造の情熱にとっての価値があるものは無いということであった。しかし、森の迷子の例は、目の前、手に触れるものの中に創造の情熱にとって価値があるものが在っても、その価値を価値として分からないこともあり、その場合も創造的無に含めているということである。どちらにしても、客観的には別かもしれないが、主観的・主体的には自我が八方塞がりの状況に置かれることには変わりはないであろうし、どちらについても創造的無という言葉を使っても問題はないであろう。客観的と主観的・主体的ということでは、例えばどの道をたどっても我が家に辿り着けるとしても、主観的・主体的には創造的無状態にあるということもあり得るわけである。勿論、迷子の例ではそこに立ち止まってしまえば我が家に辿り着くことはないし、来た道を戻ってしまえばそこには我が家は無いが、しかし捜索隊が出ているかもしれないし、その場合は動かずじっとしている方がいいもしれないし、戻った方が捜索隊と出くわす可能性があるかもしれないわけである。迷子の例は、創造の情熱にとって価値があるものが現実に無いということではなく、霧に包まれた状態、無明状態にあるのだといえる。

(1) 「一個の人間は、何に「召命」されているわけでもなければ、何の「課題」、何の「天職」を有するわけでもない。それはすなわち、草木動物が何の「使命」を有するわけでもないのと同断だ。花はべつに自己を完成させるとの使命を有しているわけではない。ただ、花は己の力のすべてを用いて、能うかぎり世界を享受し消尽するだけのことなのだ。」

(2) 「生活することにのみ心を労している者は、この不安のあまりに、生の享受を容易に忘れる。生きることのみに心を労して、ただ生きられさえすればと思う者は、生を利用し、つまりは享受することに、己れの豊かな力をもちいることはしない。さて、では、人はいかにして生を利用するか?ロウソクに火をともしてこれを利用すると同よう、生を費消することによって、だ。人は、生と己れ自身・命あるものを――消尽することにおいて、生を利用し、己れ自身・命あるものを利用するのだ。生の費消とは自己享受であるのだ。」

(3) 「私が真理の基準なのであって、しかし、私は断じて理念ではなく、理念以上のものであり、つまりは言葉には表しがたいものなのだ。」

(4) 「エゴイスト的であるとは、いかなる事柄にも一の固有もしくは「絶対的」な価値をおかず、その事柄の価値を自らのうちに求めることであるのだ。」

引用・参考文献
 『今日のトーテミスム』クロード・レヴィ=ストロース
 『破壊』エーリッヒ・フロム
 『唯一者とその所有』マックス・シュティルナー(特に断らないかきりシュティルナーの引用は同書)
(頁先頭)

 

第二節 自己放棄

第一項 創造的無の循環

 創造的無においては、総ての事柄が無であるが故に、逆に総ての事柄に創造への可能性を求めざるをえないし、その意味で総ての事柄が創造への可能性をもってしまう。そして、自分が生きているということは、否応無しにそれらの可能性のうちの一つを選択させられてしまうということである。森の中の迷子は、立ち止まるべきかもしれないし、歩きつづけるべきかもしれない。右へ行くべきかもしれないし、左に行くべきかもしれないし。はたまた、今来た道を戻るべきかもしれない。迷子はこれらの行動の一つを必ずとらなければならないし、また一つしか行動できない。自我は主体的であるから、選択させられるというよりは、どれか一つの選択を決断するとでもいうべきであるが、この決断により選択された可能性は、創造的無の中でその可能性は否定され、その無へとかえされる。そしてまた、再び創造的無の中で、総ての事柄が創造への可能性を持ち、決断・選択されるわけである。すなわち、創造的無において自我は、無である総ての事柄の創造への可能性化→決断によるそれらの事柄からの選択→選択された事柄の創造への可能性の否定・無の再確認(無化)→選択の解消・解体、という循環を繰り返すわけである。
 これがシュティルナーのいう自己享受、自己消尽の意味であり、シュティルナーが自己を創造者というとき、創造の情熱という意味と、総ての事柄が創造への可能性をもつなかで決断・選択する自分という意味の二つの場合がある。「私は万物の創造者である」ということは、総ての事柄が創造への可能性を持つということであり、「私の被造物」とは、決断・選択されたものということであり、「私は創造者であって被創造者である」とは、自分で決断・選択し、そして自分でその決断・選択を解体して無へと消滅させるということになるわけである。この創造的無の中で創造の情熱が作り出す循環、自我のサイクルはシュティルナーによれば瞬間的なものである(5)。

第二項 シュティルナーにおける自己放棄

 ところで、シュティルナーはこのサイクルのなかで、決断・選択された可能性が、次に無へと解体されるのではなく、そのまま固定化されることから非利己性・自己否定・自己放棄が始まるという(6)。選択したもの、すなわち被造物の固定化とともに始まる自己否定・自己放棄は、いくつかの形態をとっていく。その固定化された被造物は自立化し、さらには自立化した被造物が自我の上に立つものとされ、絶対化される。そして、その絶対化された被造物の前で、人間は自己を否定し、その被造物に拝跪する。「それが一の固定された目的あるいは一つの――固定観念となり、それがわれわれをのぼせ上がらせ熱狂させ狂信させはじめるとき、つまりは、それがわれわれの独善と化し、われわれの――主人となる、その時」、「創造者がその被創造物に駆り立てられることに」になり、「それは私から離れ解き放たれている」のであり、「我々は、それを絶対的なものとして敬いはしても、それを費消することは叶わず、それはわれわれから創造の力を奪い去ってしまい」、「被造物が創造者より以上のものとなり」、「それ自身で、それ自身のため」のものとなる(7)。そして、そのように絶対化し、聖化され、神格化されたものによって、再び人間が聖化されることになる(8)。この聖化された被造物による人間の聖化は、一種の循環論になっている。何故なら、その被造物を聖化するのは人間だからである。シュテイルナーによれば、「神なるものの前にあって、人は、あらゆる力の感情と勇気を失う。人はこれに対し、無力・謙抑なる態度をとる。だが、それ自体によって神聖なるものはなく、ただ、私の聖化宣言によって、自らの言葉、自らの判断、自らの拝跪、つまりは私の――良心によって、それは神聖となる」のである。
 尊崇、神格化、絶対化、これらは宗教的な事柄に属する事柄であり、宗教は忘我の境地のように自己放棄性とも強く結びついているが、シュティルナーは「さて、神聖なるものにも神聖ならざるものにも、純粋なるものにも純粋ならざるものにも、かくのごとく自己否定が共通している。……聖ならざる者が物欲の神のまえに自らを否定するごとく、聖なる者は神と神の掟のまえに自らを否定する。……地上の物欲の神と天上の神とは、いずれもまさに同じ度合いの――自己否定を要求するのだ。」といい、単に宗教的なものにのみ自己否定・自己放棄を考えているわけではない。

第三項 自己無存在化としての自己放棄

 聖なるものにも俗なるものにも自己否定・自己放棄が共通しているとすれば、自己否定・自己放棄とは単に自己を否定的存在として捉えるという以上の意味を持っているということであろう。俗なる世界においては、必ずしも自己が否定的存在とばかり捉えられているわけではないからである。自己の境遇に満足しきっている人間もいるわけであり、大なり小なり自己を肯定的存在とみなしている人も多いであろう。また、人間が聖なるものによってあらためて聖化されるとすれば、そこにおいても人間は価値化されることになる。そのような自己肯定性や再聖化という自己価値化においても、自己否定・自己放棄が存在するとすれば、自己否定・自己放棄は単に自己存在の否定的状態を意味するのではなく、自己存在そのものを否定したい、自己を存在しないものとみなしたい、という衝動と結びついていると考えるべきであろう。自己否定も自己肯定も偽りの自己を自己とすることによって、本来の自己を追い出してしまい、自我を空っぽの自我にしてしまおうという戦略であって、結局それは、自己という存在をなくしてしまおうということなのである。固定化は、決断・選択された可能性の解体という自我の働きを放棄するということであり、自己否定の固定化は主体としての自我、創造の情熱としての自我の否定であり、自己肯定は創造的無としての自我における無の否定であり、それはどちらにしても創造的無としての自我の否定であり、偽りの自我を自己とみなしていることに他ならない。そして、自我の本質を創造的無とすることへの反対の立場は、当然にも創造的無という自我の否定であるから、創造的無からいえば、自己放棄への衝動の結果として説明されるということになる。

第四項 シュティルナーにおける自己放棄の原因

 では、このような固定化・自己放棄・自己否定はどうして生じるのであろうか。被造物が絶対化され、自己の上に立つものとされ、聖化される過程は、同時に、それらののものに対比されるかたちで、自我が自我としては無価値なものとされていく過程でもあるが(その結果、もはや自我は自身では無価値であり、ただ聖化された被造物によって聖化されることによってのみ、価値あるものとなる)、シュティルナーによれば、自我の自己自身に対する否定的感情・認識がそもそも自己放棄を生じさせるのである(9)。

第五項 創造への可能性としての自己放棄

 確かに、創造的無という状態は創造の情熱にとって否定的な状態であることは間違いない。しかし、その否定的状態と自己否定・自己放棄を単純に対応させるだけのシュティルナーの説明では、十分とはいえない。「ありうることは、私が私自身からごくわずかのものを創りうるにすぎないということだ。しかし、このわずかなことはすべてであり、私が、他者の力によって、道義の、宗教の、法の、国家の、等々の調教者によって私自身が創りださせるものよりは、はるかにましなのだ。」とシュティルナー自身述べている。しかし、わずかどころか、まったく何も創り出せなくても、創造の情熱はただ創造しようとするだけであって、創造の情熱の主体的性格からいえば、そのような自我の否定的状態は、何ら自己放棄に結びつくものではない。もし、結びつくとすれば、自己放棄もまた、創造への可能性をもつということであろう。あらゆるものが創造への可能性をもつとき、そこから自己放棄のみが除外されるということはありえない。

第六項 自己放棄の超越性

 この自己放棄の創造への可能性という肯定性に、超越的・客観的立場からみた自己放棄の整合性が重なる。自己放棄は、何らかの絶対性・過剰性を帯びた被造物を媒介とした間接的なものであれ、直接自我の無存在化を求めるものであれ、自我の無存在化を求めるものではないかということであった。しかし、そのような自我の無存在化は、他面では自我の超越性化ということをも含んでいる。創造の情熱は創造的無という情況の中で、ただ主体的存在として創造を目指すのであるが、しかし、それは決して自我の永遠性を求めるとか、何かを創造するまでは存在し続けずにはおかない、といったことではない。明日消滅するならしてもよいのである。創造の情熱は自我が存在する限りにおいて、創造を求め続けるということにすぎない。それが、自己費消、自己消尽の意味であった。シュティルナー的にいえば、その瞬間において、創造の情熱は創造を求めるのであって、その瞬間が続く限りにおいて、創造を求めるだけである。ある日突然、自己が存在しなくなればそれはそれでいいのである。その瞬間が無限に続くのか、あるいは終わりがあるのかは、どうでもよい。このような一種の客観的立場、あるいは超越的立場からいえば、自己放棄によって、自己が存在しなくなるなら、それはそれでかまわないということになる。そういう意味でも、実際に自己放棄が自己の無存在化を可能にするかどうかを別にして、超越的立場から自己放棄をみれば、それはそれで整合性を帯びるということになる。このことは、自己の無存在化ということを通じて、自己放棄は自己を超越的な存在とみなそうとしているということでもあろう。すなわち、自己の無存在化は自我の否定であるとともに、他方では自我は自分自身をも超えたより大きな存在であり、自我は一種の肯定性を与えられているともいえるわけである。

第七項 自己放棄における自我の肯定性

被造物の過剰性
 被造物の聖化、その聖化された被造物による人間の聖化、という自己放棄における人間の価値化は、循環論的であるが、自己放棄という閉じた世界では意味をもっている。そのような聖なるものによる人間の価値化とは別に、自己放棄は自我のサイクルとの関係性の中で、潜在的に自我の肯定化を秘めている。
 シュティルナーにおける被造物の絶対化としての自己放棄を考えてみると、単なる被造物の選択は自己放棄ではない。それは、創造の情熱の行為にすぎない。その被造物が絶対化と結びついたとき、あるいは絶対化された被造物の選択が、自己放棄をもたらすのである。被造物の絶対化が自己放棄なのは、それが絶対的なものとして自我を支配するからであもあったが、その絶対化された被造物によって自己が聖なるもの、すなわち肯定化されることによって創造的無の無を否定しているからであった。そこにおいては、無と絶対化された被造物は対立しており、その対立が自己放棄をもたらすわけである。しかし、単なる選択された被造物もある意味で創造的無の無と対立している。創造的無において、総ての事柄は創造の情熱にとって創造への可能性さえもたない絶対的無であるとすれば、それは創造の情熱によって創造への可能性への期待として選択された被造物とは対立しているともいえるわけである。しかし、その対立はあくまでも自我のサイクルのなかにあって、自己放棄とは結びつかない。
 このことは、被造物の絶対化による無の否定・対立には過剰性があるということである。その過剰性とは、絶対化が可能性以上のものであるということであろうか。しかし、無にとっては、可能性であろうと、それ以上のものであろうと、無の否定ということでは違いがない。すなわち、単なる選択の対象としての被造物と絶対化された被造物の違いは出てこないのである。では、絶対化された被造物の過剰性はどこに求めることができるであろうか。

自己放棄と自我のサイクル
 自我のサイクルにおいて選択されたものは、次には解消される。単なる被造物と絶対化された被造物が選択の場において違いが見出されないとすると、その違いは解消をめぐってであろう。単なる被造物の選択が創造的無における無と対立するとしても、それは創造の情熱によって選択されたように無によって解消されるのである。解消という無の機能への対立・否定は存在しない。ということは、単なる被造物と自己放棄における絶対化された被造物の違いは、この無による解消という機能への態度で違ってくるしかない。絶対化された被造物はいわばその選択が固定化され、永遠化を自明のこととするであろうから、解消ということとは対立するであろう。すくなくとも、その被造物を絶対化する自己、自己放棄しようとする自己にとってはそうである。自己放棄の中で、無による被造物の解体ということが否定されるのである。被造物の絶対化は、創造的無にとっては何ら実効性はもたない。絶対化された被造物も解体される。しかし、その選択→解消という自我のサイクルの流れは、自己放棄の中では、極限的には選択→永遠性として、そこまでいかなくても、選択→固定化→解消という流れとして捉え直されているのだといえよう。
 ある事柄の絶対化・永遠化をみるなら、それは最初からそのような性格を与えられているというよりは、時間の流れの中でそのような絶対化・永遠化がなされているとみるべきである。それゆえ、もし自我のサイクルを瞬間的なものと考えるなら、被造物の固定化は、選択→解消という自我のサイクルの中に割ってはいる、選択→固定化→解消という時間の流れということになる。すなわち、固定化はそれ自身の時間を持つということになる。そうすると、無の絶対性のなかで、どのようにしてそのような固有な時間としての固定化が可能なのか、という問題が生じる。この問題は、自我のサイクルを瞬間的なものとするのではなく、一定の時間があたえられたものとするなら、取り除くことができる。自我のサイクルを瞬間的なものとするのは、自我が創造的無の絶対的主体性に対していかにもふさわしい。しかし、創造的無の絶対的主体性にとって、そのような瞬間性はかならずしも必要というわけでもない。必要なのは選択があり解消があるということであり、そのサイクルが必ず生じるということである。そうすると、固定化はその時間内で自己放棄が選択に与える過剰な意味付けということになる。自己放棄による選択の固定化は、実際に選択→固定化→解消という流れがあるのではなく、自我のサイクルの自我そのものにおける絶対性からいって、あくまでも自己放棄内部で作り上げられる仮構ということになる。

否定の否定としての肯定
 しかし、その仮構である選択→固定化→解消という自己放棄の内部の回路も、自己放棄の内部では当然意味を持つのであり、その回路は自我にある種の肯定性をもたらす。自我のサイクルで考えると、選択された被造物が無とされるのは選択の解消の局面であるから、無が有とされ、そのことによって自己放棄が成立するのも選択の解消の局面でということになる。そこにおいて無が有とされるということは、解消が否定されているということであり、それは選択が固定化されているともいえる。
 この自己放棄のサイクルにおいて、否定されるのは創造的無のサイクルでいえば、解消する自我である。創造的無のサイクルを形式的に考えてみると、そこにはある事柄を選択する自我とその選択を解消する自我があり、その二つの自我は対立関係にあるともいえる。もっとも、それはあくまでも形式的に見てということであって、創造の情熱が主体的であるということは、自我のサイクルにおける自我・創造の情熱の形式的自己否定、それ自体は意味を持たないということである。選択にしろ解消にしろ、それは相手を否定しようとしているわけではなく、ただ、その時々の創造の情熱の主体的行為でしかない。しかし、逆にいえば、その形式的な自己否定構造に意味を与えることは、創造の情熱にとっては自己を否定されることでもある。ということは、自己放棄がその形式的否定関係に意味を与えていることは十分考えられる。選択の固定化ということ自体が、その形式的否定関係に意味を与えているのだともいえよう。
 今、自己放棄のサイクルの自己放棄が、この形式的否定関係に意味を付加させているとすると、固定化による自己放棄は、解消する創造の情熱の否定であり、それは解消する創造の情熱による選択した創造の情熱の否定の否定ということになって、それは選択した創造の情熱の肯定ということになる。そういう意味で、自己放棄は単に自己否定的意味合いをもつのではなく、自我を肯定する意味合いもその内部において持つわけである。絶対化された被造物は、選択する自我によって創造への可能性への期待を付与されると同時に、その選択した自我を絶対化された被造物が肯定化するわけである。特に、最初に選択されたものが自己放棄そのものであり、それが固定化されたとすると、その固定化された自己放棄は、創造への可能性に、選択する自我の肯定という肯定性が重なるわけである。

解消する自我の肯定
 選択の過程でその固定化による自己放棄が生じるなら、解消の過程でも自己放棄が生じないだろうか。その場合、選択の固定化が解消する自我の否定であるとすれば、今度は選択する自我の否定ということになる。しかし、その選択する自我の否定を過剰性に求めるとすると、過剰性が入り込む隙間がない。何故なら、選択する自我の否定の過剰性とは、その否定に特別の意味を与えるということであるが、その特別な意味とは、創造に結びつくもの意外にはありえない。しかし、解消の局面はそのような創造へ向かう局面ではないから、そのような意味付けを何が与えるのか、ということが問題になるのである。その意味付けを自己放棄を求める自己が行なうのだとしても、次に、ではそのような自己放棄の欲求がどうしてこの局面で生じてくるのかが問題になっていく。選択の局面では、自己放棄も選択の対象の一つであった。そこにおいては自己放棄が意味を持ってくる契機があったが、解消の局面ではそのような契機は存在しないのである。
 ただ、選択の場で何らかの形で解消が組み込まれることは可能であろう。例えば、Aなる被造物が解体されて、Bという事柄が選択されたとする。そのBが「Aは解消されたがゆえに次に選択されなかったのだ」という主張をもっていたとすると、Aは解消されて再び選択されてもいいのだから、それはAが選択の場で選択の対象から外されていたということをいっているわけであり、その主張は過剰性をもつ。すなわち、そのような主張が自己放棄をもたらすわけである。あるいは、Aの解消が創造への何らかの要素を与え、それが必要不可欠とされるなら、Bの中にはそのAの解消ということが含まれていくことになるであろう。この場合、選択→解消という過程においては、選択と解消は形式的に対立関係にあったのであるから、解消する自我は選択する自我の否定であり、逆に選択する自我は解消する自我の否定ということになる。すなわち、Aの解消は解消する自我による選択する自我の否定であり、またその逆に選択する自我による解消する自我の否定でもある。しかし、Bの選択においてはその中にAを解消する自我がふくまれており、そこにおいてはAを解消する自我は選択する自我において肯定的なものとなっている。Aの選択もBの選択も一つの選択する自我の働きでしかないし、同様にそれぞれの解消も一つの解消する自我の働きである。Aを解消する自我のBを選択もする自我による肯定は、選択する自我において解消する自我が肯定されているわけであり、それは選択する自我による解消する自我の否定がさらに否定される、否定の否定としての肯定ともいえる。

第八項 唯一者の単純性と自己放棄の合理性

 自己放棄は超越的・客観的立場からみて整合的であると同時に、自己放棄は自分が作り出す問題の解決法でもあるという意味でも整合的である。創造的無という状態は創造の情熱にとって否定的な状態であることには違いない。ただ、その状態が否定的だから創造しようとするのではない以上、創造の情熱の主体性にとって、そのことは意味を持たないが、逆にいえばそのことに意味を持たすこと、すなわち創造の情熱による創造が、創造的無という否定的状態からの脱出のためとみなされることも自己放棄につながるわけである。目的は創造的無からの脱出であり、創造はそのための手段とされる。そして、創造が単なる手段でしかなく、否定的情況からの脱出が問題だとすれば、創造ではなくてもそのような脱出が可能な手段ならなんでもいいということになる。そして、自分が存在しなくなれば、例えば悲しみや苦しみも存在しなくなるのであるから、自己放棄自身がそのような脱出の手段になっているわけである。人間における根本的な悲苦といったものは、創造的無という否定的情況の中で、自己放棄が創造的無という否定的情況に意味を与えた時から生じてくるのであり、意味を与えることが出来るのは自己放棄だけである。自己放棄において、創造的無の否定的側面が強調され、特別な意味付けがなされているとすれば、人間における根本的な悲苦の感情は、その自己放棄による創造的無の否定的側面への意味付けに発しているといえるだろう。悲苦は増幅された創造的無の否定性ということになる。そして、自己放棄は悲苦を作り出すとともに、自らがその解決策にもなっているわけである。自己放棄もまた、創造への可能性をもつのであるから、自己放棄は創造によって悲苦から自己を解放する可能性をもつと同時に、自己を存在しなくするということによっても悲苦から自己を解放するということになり、その点で合理的である。自我の否定的情況を考えるなら、自分放棄されて自分が存在しなくなれば、その自我の否定的情況も存在しなくなる。
 シュティルナーにおいては自己放棄は否定的なものとみなされているが、しかし、自己放棄は必ずしも否定的なものではなかった。それは、創造への可能性の一つであり、それは一つの整合性をもっており、その整合性は創造の情熱を超えるという意味で、肯定性を自我に与えるということであった。さらには、その内部において、聖化された被造物によって、あるいは否定の否定による肯定を通じて、自我に肯定性を与え、それ自身が作り出す問題に対して、それ自身が解決法にもなっているのという意味で整合的であった。その内部において整合的であり、かつそれが創造への可能性でもあるなら、そのような事柄の選択は合理的であろう。同じように、それ自身の内部において自我が肯定的であり、その内部を離れても創造への可能性を持つなら、その事柄の選択はやはり合理的であろう。このように、自己放棄の選択は一つの合理性をもつといえるのである。
 もっとも、自分が作り出す問題の解決法にもなっているという点での自己放棄の合理性には限界があるかもしれない。何故なら、自己放棄は幻想なのであるから、その幻想が崩壊した時、悲苦も崩壊すればいいが、新たな自己放棄のために、その悲苦にさらなる悲苦が付け加えられるということがあるかもしれないからである。そして、確かに自己放棄の崩壊は、自我の肯定性の崩壊でもあるし、手段の喪失でもあるから、悲苦の増大なわけである。自己放棄は悲苦からの解放の手段であると同時に、悲苦を増大させるという悪循環に陥っているかもしれないのである。また、我々が創造的無から何らかの創造への糸口を見出したとき、自己放棄的人間はせっかく見出した糸口を否定するであろう。そうすることが、その時には自己否定・自己放棄になるからである。また、本当に自己放棄が創造への糸口だったらどうするのかということにもなる。自己放棄が創造への糸口なら、自己放棄を求めることは自己放棄ではなくなってしまうということになる。自己放棄自身一種の悪循環におちいってしまうが、その悪循環を自己放棄は突破できるのであろうか。また、自己放棄を否定しようとすることは、そのまま自己放棄ということになってしまう。どちらにしても矛盾である。
 この点で、シュテイルナーが自己放棄に対して否定的であるとすれば、その否定は二次的レベルでの否定ということになる。しかし、シュティルナーが自己放棄を否定し、自己放棄者に対して唯一者を対置させるとき、それは一次的な問題としてである(10)。この自己放棄者に対する唯一者の対置は、自己放棄の合理性に対する唯一者の単純性の対置でもある。自我すなわち創造の情熱を否定しようとする者が、逆に創造をなしえるなどということがありえるだろうか。そのような考えは不合理に見えるし、創造を求める者が創造を可能とする、と考えるほうが単純であり、整合性がとれているといえないだろうか。さらにいえば、創造の情熱としての自我は単純に創造、創造の情熱の充足を求める能動的主体なのであるから、そこにあるのは単純さといえ、唯一者とはその単純な存在になろうとする人間なのだともいえる。

(5) 「自己を脱れようとするその努力と苦悶は、自己分解を求める誤解された衝動以外の何ものでもない。もし君が君の過ぎ去った時にしばられ、昨日鳴いたがために今日も鳴かねばならず、刻々に君を変容させえないならば、その時、君は自分を奴隷のくびきにつながれ硬直したものと感じるだろう。だから君の存在の瞬間ごとに未来の新しい瞬間が君を招き、かくして、君を自己発展させながら、君は「君から」つまりその時々の君から脱れ出る。君が各瞬間にある姿において、君は君の創造物でありながら、しかも、君は、この「創造物」にのめりこんで創造者たる自分を失うことは望まない。君は自ら、君があるよりも高次の存在であり、君自身を超える。しかし、君よりも高いものであること、つまり君が単に創造物たるにとどまらず同様にして君の創造者でもあること、まさにこのことが、不自由なエゴイストである君の目には入らず、……」

(6) 「私は、自分の昨日の意志に今日も、以降も縛られることになるのではないか?その場合には、私の意志は硬直しているわけなのだ。いとうべき固定だ!私の被造物、つまりは私の一定の意志表現が私の命令者となるのだ。しかして、私は私の意志を、創造者たるこの私は自らの流動と解体を阻まれることとなるのだ。非利己性とはどこに始まるのか。それは、ある目的が、その所有者であるわれわれの気のむくままに処理できるような、われわれの目的・われわれの所有であることを止める、まさにその時なのだ。」

(7) 「恐れられたものは、かくて尊崇へと祭りあげられて、もはや手にふれることも叶わなくなる。畏敬は永遠化され、尊崇されたものは神各化される。人間はかくてもはや、創造的ではなく、学習的(知り、探求する、等々)となる、すなわち、一つの固定的対象にかかずらい、それに沈みこんで、自己自身へと環帰することもない。対象にたいするこの関係は、知の、探求の、論証の、等の関係であって、消滅の(廃絶等々の)それではない。……」
 「創造者がその被創造物に駆り立てられることになるのだ。それはすなわち絶対的権利であり、それは私から離れ解き放たれているのだ。我々は、それを絶対的なものとして敬いはしても、それを費消することは叶わず、それはわれわれから創造の力を奪い去ってしまうのだ。被造物が創造者より以上のものとなり、「それ自身で、それ自身のため」のものとなるのだ。……」

(8) 「真理は神聖・永遠であり、それは聖なるもの・永遠なるものである。しかし、君は、君がこの聖なるものによってみたされ導かれる者であるならば、自身聖化されるのだ。……」
 「聖なるものが、それを崇める者をあらためて聖化し、彼はその礼拝によって自ら一個の聖者となり、同様にして、彼のなすところも神聖となる。」

(9) 「ところででは、個人的関心事を主張し、これを四六時中秤にかけるその人びとのエゴイズムが、なおくりかえし坊主的もしくは教師的・つまりは理想の関心事に屈服するということが、なぜおこるのか。すべてを要求し、完全に自己を貫徹しうるためには、彼らの人格は彼ら自身にとって余りに小さく余りに無意味にみえるからであり、事実またそのとおりであるからだ。……」
 「私は私にそむき敵対する。私にたいして私は戦慄し嘔吐する。私は私にとって一の恐怖だ、あるいは、私は私にとって絶対に十分ではなく、私を絶対に満足させない。こうした感情から、自己分解あるいは自己批判がうまれる。自己否定とともに宗教性ははじまり、完成された批判をもってそれは完結する。」

(10) 「人が目的に自らの力を及ぼしうるかぎりでは、人はまだ非利己的ではない。……目的が私自身のものであるかぎり、そして、私が自らをその目的の盲目の手段たらしめず、これをつねに懐疑の中においておく、そのかぎりで、私は非利己的ではない。ゆえに、私の熱意は、もっとも狂信的なる者のそれにも毫も劣る必要はないとはいえ、しかも同時に私は、この目的に対して氷のごとく冷静に、不信をもちつつ、不倶戴天の敵でありつづける。私はその審判者でありつづける、けだし私はその目的の所有者なのだから。」
(頁先頭)

 

第三節 過渡期と源初の自己放棄

第一項 過渡期とその両義構造

 人間の本質を創造的無として、次にその時間的範囲が問題になる。もし、人間の本質が変わっていないならそのような時間的範囲を問題にする必要はないわけであるが、本論ではある時点で創造的無を本質とするようになった、という立場をとる。では、そのような本質の変化があったとして、今からどのぐらい前の出来事なのであろうか。その絶対年代を考えなければならないが、その前に、そのような本質の変化があったとして、その際どのようなことが生じたかを考察してみる。

 いまその変化をaを本質とするA期からbを本質とするB期への変化として、もしその変化において過渡期というものが存在したとすれば、その過渡期は前後のA、B期とは区別される時期ではあるが、A・Bとまったく同格な時期とするわけにもいかない。別の言い方をすれば、過渡期はその前後の時期に依存する時代、あるいは規定される時期であって、その前後の時期のようにそれ自身で自立した時期ではないということである。過渡期とは、もし存在するとすれば、A・Bというそれ自体では完結し、それゆえ本来的に断絶的な二つの時期に対し、連続的時間の中での変化を可能にするものである。とすれば、過渡期はA、Bという二つの自立期と連続性をもつということであろう。すなわち、過渡期とはA、B両期と連続的であるとともに、区別される時期ということになる。連続的であるとは、過渡期がA期的であるとともにB期的でもあるということであり、そしてそれが過渡期を特徴づけているということが、過渡期がA、B期によって規定され、依存的であるということの内容であるともいえる。
 二つの自立期の違いはその本質の違いということであり、この本質の違いがその断絶性をもたらすといえる。別の言い方をすれば、Aなる自立期の本質aがBなる時期においても存在するとすれば、もはやその本質としての性格を保持してないということである。とすれば、自立期と過渡期が連続しているということは、過渡期において自立期の本質をなしていた要素が存在しているとすれば、その本質としての基本的性質を保持しているということであろう。一方、過渡期において前後の自立期の一方の本質のみが存在するということはない。もしそうなら、それはその自立期の内に含まれるべきだからである。また、両方とも存在しないということも考えられない。その場合、連続性という点で問題があり、特に過渡期から後期の自立期への移行において、突然その本質部分が現れるというようなことは、連続性からいって考えにくいであろし、もし両方の本質が存在しないとすれば、それは過渡期というよりも、一つの自立期とみなすべきであろう。少なくとも、創造的無からいえば、そのような状態とは本質的な違いがある(そう感じざるをえない)。それに、本質が何も無い状態というのは、静的で内発的エネルギーの存在しない状態、単に在るというだけの状態ともいえるであろう。しかし、過渡期においても人間は能動的であり、それなりに主体的な活動をする存在だったことが考えられる。少なくとも、生活する存在だったであろう。
 過渡期においては、その前後の自立期の本質がその基本的性質を保持しつつ存在しているということになる。そして過渡期の依存性とは、その過渡期がこの二つの本質のみによって特徴付けられるということでもあろう。ところで、過渡期とは単にaとbを本質とする時期ということではない。
 それは次のように考えれば分かる。ある時期に、その時期の任意の事柄にたいしxiとxという二つの判断が対立するとき、xiよりxの判断が優越するときxi<xと記す。そうするとx<x<x<…<xという列が考えられる(ただしx<x,<x<x, x <xのような循環構造は存在しないとする)。またこのような列は複数考えられ、こうして判断されるすべての事柄に対しどれかの列が対応するようにできる。これらの列の一番右の要素の集合を考えると、その要素間には以上のような優劣関係は存在しない。そして、これらの列の一番右の要素の集合をこの時期の本質と考えてみる。今、一番右側の要素がaとbだけの時期を考えてみる。その時期の本質は{a,b}ということになる。ところで、この{a,b}はA期B期のaやbとはその基本的性格が違っている。何故なら、A期においてもしbがあるとすればb<aであり、B期においてはa<bであるが、ここにおいてはaとbの間には優劣関係がないからである。自立期と過渡期が区別できないなら、それは一つの自立期とみなすべきであろう。
 そして、過渡期においてはaとbはその本質としての基本的性格を保持しているのであった。過渡期においてもaからみればb<aであり、bからみればa<bなわけである。しかし、b<aかつa<bということは、aとb間に優劣はないということではないだろうか。二つの本質が互いに相手にたいして優越し、かつ二つの本質の間には優劣がない、このような矛盾性は、過渡期の存在を否定するというよりは、もともと過渡期とは連続しながら区別されるというように曖昧な性格をもつのであるから、この矛盾的性格こそ、過渡期の特性ということになる。
 過渡期は自立期と連続しているとともに区別される時期でもあるのであるから、過渡期はAであってAではない、あるいはBであってBではない、という矛盾した言葉で表現される時期であるともいえる。この二つの矛盾的規定を組み合わせると、過渡期はAであってBでもある、AであってBではない、AではなくBである、AではなくBでもない、という四つの表現によっても表わされることになる。これらそれぞれが過渡期の一側面であり、実体的である。しかし、過渡期がそれぞれの領域に分割されるわけではない。立方体の各側面のようにそれぞれ独立の領域としてそれぞれの側面があるわけではないのである。いわば、過渡期とは一にして二、二にして一とでもいうことになる。それらは一側面であるとともに、相互に浸透しあっているのであり、相互に浸透しあっているということは、それらの側面どうしが関係しあい、その相互関係にまたそれぞれの側面が関係する、そういう関係の重層構造になっているとも考えることができるであろう。

第二項 自己放棄の必然性

 この矛盾性という過渡期の特性を踏まえて、創造的無と過渡期の関係を考えてみる。自立期としての創造的無において、前の自立期(A期とする)の本質(aとする)は創造の情熱にとって無とされる。しかし過渡期においては、それは創造の情熱にとって無であり、無ではない。これは次のようにも考えられるであろう。過渡期において前の自立期の本質は無ではない。何故なら、もし無なら過渡期においても、すべては創造の情熱にとって無ということであり、それは創造的無にほかならなくなってしまうからである。といって、それは有でもない。もし有とすれば、創造的無ではなくなるからである。いわばそれは創造的有ということになるが、といって過渡期が創造的有そのものであるということも不自然である。例えば、過渡期において創造的有であったものが、自立期になると創造的無になるということであるから、無から有への変化は分かるが、有であったものがどうして無に移行してしまわなけばならないのかと考えた場合、そのことを了解することは困難であろう。創造の情熱が創造的有という状況を自ら放棄するとは考えられない。有から無への変化、それは連続的とはいえない。少なくとも有から無への変化は、創造の情熱によっては説明できないから、そこには創造の情熱を超えた、より大きな力が働いたとしか言えなくなり、その大きな力の存在を考えると、それはいわばその大きな力をこそ本質とする、新しい自立期と考えるべきであろう。
 すなわち過渡期において、前の自立期の本質は創造の情熱にとって無でもなく有でもない、ということになるが、この表現の方が、無であり無ではない、というより過渡期にはふさわしいであろう。普通XでもなくYでもないということは、第三のZということになり、そのような表現方法のほうが二つの自立期にたいする第三の時期でもある過渡期の性格をより表していると考えられるからである。
 過渡期における本質a、bの関係を考えてみる。B期においてはa<bであった。すなわち、いまbにとってaが不都合なものであったら、aは否定・排除・破壊・解体されてしまうわけである。しかし、過渡期においては、aは一方的に否定されたり解体されてしまうわけではない。過渡期においては、a>bでもあるからである。過渡期とはBであってAではない、ということでもあったから、aは創造の情熱にとって無である一方、過渡期とはAであってBではないのでもあるから、aの自己主張に対して、創造の情熱は一方的にそれを否定したり解体したりできるものでもないということになる。このaの自己主張は、aが創造の情熱から自立したもので、一方的に創造の情熱によって扱われるものではないとすれば、それは創造的無としての創造の情熱からすれば、一種の固定化ということになるであろう。すなわち、過渡期において最初の固定化があり、それは過渡期において必然的なものであったということになる。
 ところで、このような過渡期をあらためて創造的無という立場からみてみる。これには二つの意味がある。一つは、前に述べたように各要素の重層的関係の中で、創造的無と前期の関係に対する創造的無のさらなる関係が考えられるし、もう一つは、過渡期は結局その前後の時期に依存・規定される時期なのであるから、それはそれ自身によってというよりは、その前後の時期の目によってみるほうが、その姿をよくみることができる、もしくはその前後の時期の目で見た過渡期をその過渡期の姿とすべきではないかと考えられるからである。
 創造の情熱にとっては、ある事柄は有か無である。すなわち、有でないということは無であり、無ではないということは有である。このことを過渡期にあてはめてみると、aが創造の情熱に対して一定の自立したものであり、単なる無ではないということは、無ではなく有ということになる。すなわち、aがAの本質であり、創造の情熱に対して一定の自立性をもつということは、創造の情熱にとってaは創造に結び付くものであり、その意味で価値あるもの、有ということでもあるわけである。このことは、自立期からみなくても、過渡期の二面性からもいえる。
 しかし、一方ではaはあくまでも無である。とすれば、それは無でしかないものが有とされる、価値あるものとされる、ということであり、そこにあるのは自己放棄にほかならないということになる。すなわち、過渡期において最初の固定化に結びついて最初の自己放棄がやはり必然的に生じるわけである。過渡期においてはBであってAではない、ということでもあったのであるから、この側面からいえば、aが無ではないということは自己放棄的なわけであり、この自己放棄性は過渡期に必然なものになるわけである。

第三項 存在即肯定

 もう一度いえば、この自己放棄の中で、前本質aは単なる無ではない。すなわち、単なる幻想として無が有とされるわけではなく、ある種の実体性をもつものとして有とされるのである。この創造の情熱にとって前本質が有であるということをもう少し考えてみる。

前本質による肯定と否定
 前本質が創造の情熱にとって有とされたが、一方創造的無からいえばそれは無であり、その有は幻想であり、幻想が実体的有とされることは自己放棄ということであった。同じことは、前本質による判断についても考えられる。創造の情熱のもとで有とか無とか価値判断があるように、前本質のもとでもなんらかの価値判断があると考えられる。創造の情熱にとって前本質は創造的有、肯定的なものとしてもあったのであるから、前本質が肯定するものは創造の情熱にとっても肯定的なものということがいえるであろう。では、前本質によって否定されるものはどうなのであろうか。この場合は、少し話がややこしくなるが、前本質の肯定が前本質の判断をそのままに創造の情熱も受け入れることと理解するなら、前本質の否定という判断はそのまま創造の情熱の判断ということになり、創造の情熱にとっても否定的なものということになる。一方、前本質にとっての創造的無を考えると、その無は前本質にとって肯定・否定の判断を無化してしまうということであり、それは一種の肯定的なものが否定、否定的なものの肯定ということができるであろう。前本質にとってもその肯定・否定の判断が実体的であると同時に、幻想でもあるということになるわけである。

前本質そのものの肯定と自我の肯定性
 しかし、創造の情熱にとって前本質が有とは、単に本質としての創造の情熱と前本質が並立しているということだけがからもたらされるのであるから、前本質の本質性という性質のみが問題になっているともいえる。それ故、創造の情熱による前本質の肯定は、それは前本質による否定・肯定という価値判断とは無関係の、それを超えたところの前本質の肯定なのだともいえる。例えば前本質にとって喜びや楽しみというのは肯定的なものであり、悲しみ苦しみといったものは否定的なものだとして、そのような喜んだり楽しんだり、あるいは悲しんだり苦しんだりしながら生きている、その前本質的自我がその在り様に関わらず創造的有状態に在る、すなわち喜楽ばかりでなく悲苦もまた創造的有として肯定されているという、肯定的状態にあるということである。それは前本質的自我そのものを丸ごと、全的に肯定しているのだといえよう。
 過渡期は一にして二、二にして一なのであるから、二にして一からいえば、創造の情熱を本質とする自我、前本質を本質とする自我が在るわけではなく、またそれぞれが自我の異なる側面を表わすものでもなく、ただ単に自我が存在しているだけである。創造の情熱を本質とする自我即自我であり、前本質的自我即自我ということになる。すなわち、過渡期において前本質的自我が肯定されるということは自我が肯定されるということであり、創造の情熱にとって創造の情熱としての自我が肯定的存在としてあるということである。

 前本質の判断において、判断の対象が前本質そのものである場合を考えてみる。この場合、前本質にとって前本質が肯定的なものであるなら問題はないが、もし否定的なものだったら、前本質の判断が創造の情熱の判断でもあるということは、前本質が否定的なものになってしまう。創造の情熱において同じことを考えてみると、創造の情熱にとって創造の情熱自体は有とか無という判断を超えたものとして在るといえる。創造の情熱が創造の情熱にとって有なら、そもそも創造的無という状態はありえない。一方、創造の情熱にとって創造の情熱が無だとしても、それは創造の情熱そのものが無だということを意味しない。創造の情熱は創造の情熱として在るだけで創造の情熱にとって有であるということを否定しているだけであり、またそれは創造的無の固定化をも意味しない。創造の情熱はあくまでも創造の情熱の充足を求めるであろうし、充足されるかもしれないのである。創造の情熱は創造の情熱にとって有か無かということを超えたものとしてあくまでもあるわけである。同じことが過渡期におけ創造の情熱にとっての前本質にもいえるなら、この場合は前本質による前本質の判断ということは問題にならない。しかし、前本質にとっての前本質にも同じようなことがいえるとは限らないのである。ただその場合も、前本質自身は前本質による判断を超えているということはいえないとしても、創造の情熱が前本質の判断を超えているということはいえるであろう。例えば、前本質にとって価値あるものはない、いわば前本質的無とでもいう場合を考えてみる。前本質にとって有すなわち肯定的なものはないのであるから、前本質にとっての価値判断だけが問題だとすれば、創造の情熱にとって有なものもない、別の言い方をすれば、創造的無ということになってしまう。しかし、もともとは前本質は無ではない、前本質は有である、それゆえ、創造的無ではなく創造的有ということだったのであるから、この結論は矛盾をもたらす。すなわち、過渡期において、前本質は有であり無である、というのではなく、前本質は無であるといっているのであるから、これでは過渡期ではないということになる。このことから、過渡期において、創造の情熱にとって前本質が有であるとは、前本質にとって有なるものが有、無なものは無といったものにとどまるのではなく、それを超えた次元での話、前本質的立場からみた自我の状態ではなく、前本質そのもの、前本質的存在そのものが問題になっているということになるであろう。創造の情熱にとって創造の情熱自身はそれが有であるか無であるかという判断を超えたものである。それ故、前本質が前本質によって否定されるとしても、依然として創造の情熱にとって前本質は肯定的なものとして在るということはいえるわけである。

源初の肯定性と存在即肯定
 過渡期において生じるいわば創造の情熱にとっての源初の肯定性とは、あくまでも創造的無ではないという意味での創造的有ということであった。一方、自立期の創造の情熱にとっては、創造を完成している、すなわち、目的を達成している、あるいはその欲求を全的に充足している、あるいは創造への手段が分かっている、さらには目的・欲求を達成・充足しつつあるということが創造的有であり、当然過渡期における創造の情熱についてもそのことが当てはまる。そのような自立期の創造の情熱の立場から、創造の情熱によって肯定的なものとされる前本質を見た時、それは前本質による創造の情熱の完全な充足なのであろうか、あるいは前本質は創造への手段ともしくは前本質によって創造の情熱が充足されつつあるのということなのであろうか。
 創造の情熱が完全に充足されているのか、未だ完全には充足されていないのかは、過渡期の源初の肯定性において関係している要素は創造の情熱と前本質なのであるから、この場合は前本質がどのようなものとして在るのか、その状態によって決定されるといえる。しかし、過渡期における創造の情熱に対して前本質が有であるとは、前本質のあれやこれやの性質によるのではなく、前本質が本質として在るということだけが重要なのであり、過渡期においては本質であるという以外のことが求められているわけではない。それ故、前本質が創造的有とされるとは、それ以上の発展があるわけでも、前本質的存在として存在しているということ以上のものが必要とされることでもない。そう考えると、過渡期における創造的有とは完全であり、全的に肯定状態にあるということである。過渡期における存在即肯定とは、存在しているということ自体が完全な状態であり、創造の情熱が完全充足状態にあるということになるわけである。前本質そのものを創造的有とするということは、創造の完成、目的・欲求の完全な達成・全的充足という意味で、創造的有的ということになる。それはまた、前本質としての自我の全的肯定ということであり、過渡期における自我の全的肯定ということになる。
 前本質の自我の全的肯定性、さらには自我の全的肯定性は過渡期に必然なものであり、それは努力して獲得されるものでもなく、時間をかけて得られるものでもなく、過渡期という時代に存在すること、そのことだけを条件にしている。そういう意味では過渡期における自我は、創造的有として、肯定的存在として始めから存在しているわけである。さらにいえば、過渡期という条件は客観的な視点から言えることで、過渡期に存在している創造の情熱としての自我であれ、前本質的自我であれ、それは過渡期においてある条件を満たすことによって存在するわけではなく、単に存在しているだけである。すなわち、創造の情熱としての自我は存在即創造的有、存在即肯定として存在しているということになる。創造の情熱から見れば前本質は創造的有であり、創造的無から見ればその創造的有は単なる幻想ということであったが、実体的であれ幻想であれ、その肯定性は存在即肯定としてあるわけである。
 もっとも、源初の肯定性の成立するための条件は、創造の情熱、前本質、及びその並立すなわち過渡期であるともいえる。存在即肯定である以上、その肯定は無条件の、あるいは存在のみを条件とした肯定ということになるが、実際には前記三つの条件下のもとでの肯定性であった。別の言い方をすれば、ある条件のもとでの存在であるが、しかしその条件のもと以外にはあり得ない状態の中での肯定性である。このうちの創造の情熱は、肯定性をもたらす条件というよりは、肯定性が問われるその土台という意味での条件ということになり、肯定性をもたらす条件としては前本質と過渡期ということになる。また、創造の情熱と前本質は過渡期の中に含まれることを考えるなら、肯定性をもたらす条件としては過渡期だけが残るともいえる。そういう意味でも、特に重要なのは過渡期という条件であろう。過渡期という条件の下で前本質と創造の情熱及び創造的無が結び付けられ、そこから総てが始まるわけである。
 前自立期の本質が創造の情熱にとって有だとしても、それは前自立期の本質そのものの力によるものではなく、過渡期に存在した者にとって、前自立期の本質が有であるということは、単に過渡期に存在しているというそのことによってもたらされるものであり、過渡期そのものがもたらす結果であった。創造の情熱における前本質の肯定性は、創造の情熱という自我からみれば、何かを主体的に選択した結果ではなかったし、自己の存在に付随するものであり、条件としては過渡期に存在するということであるが、その過渡期に存在するということもまた主体的選択の結果ではないから、自我からみれば過渡期は中立的な存在、透明化された存在ともいえる。もちろん新しい本質としての創造の情熱と新しい自立期をもたらす何ものかが考えられ、それは過渡期をももたらすともいえるわけであるが、その創造の情熱・新しい自立期をもたらす何ものかが創造の情熱にとって有ということではない。それは単に新しい自立期をもたらすのであって、その過程で生じる過渡期が、過渡期という性格から前自立期の本質を創造の情熱に対して有とするのである。前自立期の本質が有であるというのは、それ自身の力によるのではなく、過渡期に依存しているといえるわけであり、また、過渡期という条件は、過渡期に存在している人間にとっては無条件で成立するものであるから、その意味では条件とさえいえないともいえるわけである。
 存在即肯定を別の言葉で説明すれば、過渡期において第一次的に肯定されるのは前本質であるが、その肯定をもう一度創造の情熱に引きつけて捉えなおしたのが存在即肯定ということである。前本質の肯定性について創造的無という視点がより強く出てくることにより、前本質の内容が無化され、抽象化される形で存在性という性質のみが残り、存在そのものが肯定的ということになっていくともいえるわけである。さらに、源初の肯定性に創造的無を重ねる時に自己放棄が生じるということが、源初の肯定性の中で存在即肯定が重要な意味を持つことになる。すなわち、創造的無はあらゆるものの内容を無化するともいえるから、そこに残るのは内容を失った単なる存在ということになり、源初の肯定性もその存在の肯定、存在即肯定ということになるわけである。また、自立期からみれば過渡期は自立期と自立期が作り出す影のようなものであり、その意味でも存在を条件付ける過渡期というものそのものが、存在を条件付ける力として限りなく弱いものとなり、一種の透明化された存在となることにより、過渡期によって条件付けられた存在が単なる存在性になっていくともいえる。源初の肯定性というとき、有としての前自立期の本質と存在即肯定としての肯定は不可分のものであり、また不可分としても論理的に不都合は起こらないし、過渡期においては、それは源初の肯定性を別々の視点から見ると、そう見えるということであり、源初の肯定性として別々のものとしてあるというわけでもない。過渡期における有としての前自立期の本質をさらに新しい本質である創造的無と重ね合わせたとき、それは自己放棄となるということであったが、それは前自立期の本質の具体性が改めて無とされるともいえ、前本質が抽象化されていくということであり、その意味でも単なる存在の肯定となっていくともいえるわけである。

 過渡期における前本質の肯定性は存在即肯定という意味で肯定的であるとともに、全的肯定という意味で肯定的ということになる。過渡期において創造の情熱による前本質そのものの肯定は、前本質による判断を超えた肯定であるということを考えるなら、過渡期における創造的有の核心は、自己の存在即肯定、自己の全的肯定にあるということになる。そして、存在即肯定とは自我が存在している以上、それは自己の全的肯定でもあることになるであろう。過渡期における源初の肯定性は、前本質が肯定するものの肯定、前本質の肯定、自我の存在即肯定という三重の肯定ということになる。

自立期と存在即肯定
 自立期における存在即肯定性を考えるなら、過渡期における存在即肯定の存在性とは、ある条件のもとでの存在であるが、しかしその条件のもと以外にはあり得ない状態の中での存在ということであった。そして、その条件とは一種の透明化された過渡期そのものが条件であったが、自立期になっても存在即肯定性が存続しているとすると、その肯定性は実体性を失い、幻想性のみが残ることになるが、その存在性、すなわち肯定性をもたらす条件についても変化が生じると考えられる。すなわち、自立期になるとともにその条件であった過渡期そのものが消えていてくわけであり、自立期そのものはこの場合肯定性をもたらす条件ではないのであるから、残る肯定性をもたらす条件とは、もはや存在しているという条件しか残らないのではないだろうか。すなわち、自立期になっての存在即肯定とは文字通り存在しか条件としない肯定性ということになる。前本質の肯定についても、前本質の本質性は消えていくのであるから、その意味でも残るのは肯定性だけともいえるのではないだろうか。新しい自立期における存在即肯定とは幻想であるが、そこにおける存在の条件とはただ存在しているということだけであり、肯定性は前本質の肯定性をそのまま引き継いで全的肯定ということなり、存在即肯定とは存在しているだけで全的に肯定ということになる。
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第四節 未開社会における矛盾・二極性と肯定性

 過渡期における人間存在の肯定性は、まったくの幻想ではなかった。ある意味では実体的なものだったのである。とすれば、本論の立場が正しいとして、過渡期以後の創造的無の時代において、人間が何らかの価値・肯定性を主張しようとするとき、その源泉・根拠をこの過渡期の実体的肯定性に求めるしかないであろう。そして、このような本論の立場を支持するかもしれない事柄がないわけではない。そのことを 、主にエリアーデにみてみる。
 エリアーデによれば、インド精神は「絶対」につきまとわれてきたが、それは対立や分極性の彼方でのみ認知可能なものなのである。「絶対」究極の解放、自由、解脱、涅槃は対立や分極性をのりこえなかった者には近づくことのできぬものである。ここで「絶対」究極の解放、自由、解脱、涅槃として表わされる「絶対」的肯定が、対立や分極性の彼方にあるということは、「絶対」的肯定が対立や分極性とまったく無関係だということなのではない。逆に「絶対」の前提条件として対立や分極性が必要不可欠なものであるということである。「絶対」究極の解放、自由、解脱、涅槃は、対立や分極性の彼方にあるものとされながら、対立や分極性を通してのみその存在を感じることができるということである。他方、過渡期を考えるなら、過渡期もまたある意味での対立性、分極性と密接に結びついているといえる。すなわち、過渡期は前後二つの自立期に依存し、その二つの自立期と切り離すことはできないし、そして過渡期の実体としての肯定性はこの過渡期の両面性と不可分なのである。とすれば、エリアーデの述べるインド精神の「絶対」的肯定は過渡期における源初の自己放棄の存在即肯定に、その源泉・根拠を持っているかもしれないし、このエリアーデの指摘する事柄が過渡期の存在と、そこにおける実体的肯定性の存在を示しているかもしれないのである。
 「絶対」的肯定性と対立、分極性の結びつきは、エリアーデによればインド以外にも広くみられるものである。

 このようなインド的再解釈はわれわれに、アルカイックな社会の幾つかの儀礼を思い起こさせてくれる。それらは分極構造をもつ神話に統合されているが、まさしく集団の躁宴のなかで対立するものを周期的に廃棄することを狙いとするものである。われわれは既に、ダヤク族の新年の祭りのうちはいっさいの規範、刑罰を一時停止させることをみた。ダヤクの神話・儀礼の結構と、対立を廃棄せんとするインドの哲学および技法との違いを力説しても無駄だろう。その違いは明らかだが、にもかかわらず、両者とも、「最高善」は分極性の彼方に位置づけられている。(『宗教の歴史と意味』)

 過渡期は二つの自立期の中間の時間ともいえるが、人間のいくつかの社会においても、「絶対」的肯定性は二つの区別された時間に挟まれた中間の時間に結びついている。日本では、太陽はお天道様として神格化されているが、正確にいえばどの時間帯の太陽も神なのではない。太陽が太陽神として信仰されるのは、日の出あるいは日没の瞬間だけなのである。例えば沖縄で太陽が尊ばれたのは日の出の前後であり、出雲の日御崎では海に沈む時の太陽が信仰の対象になっている。東アフリカのエルゴニ族でも太陽は上にあるときは神ではなく、昇ってくるときが神であると信じられているという。
 日の出・日没の太陽は時間的にも場所的にも区別された二つのものの間に位置している。時間的には、それは昼と夜との境目、その中間の時間帯であり、場所的には、「天照る」は「海照る」であるといわれるが、天と海、天地の境目に位置している。そのような二つの部分の中間、境目にあるということが、神格化された太陽にとって重要なわけである。
 このような中間性の重要性は正月についてもいえる。エリアーデによれば、ダヤク族は通過儀礼や新年の祭りのごとに、神話で語られた聖なる歴史を演じ直す。そこにおいて、ダヤク族は原初の全体性に立ち帰り、宇宙開闢を反復する。宇宙開闢とは二つの分極原理の対立によって生じるものであり、原始的統一の破砕である。すなわち、ダヤク族では、分極・対立を越えるということは、ひとつの退行、原始の全体性への回帰に他ならない。ダヤク族の人々は「原初性」と「全体性」にとりつかれているのであり、彼らにとって、原初の神の全体性だけが唯一完全なものである。その年の終りとはひとつの時代とひとつの世界の終りであり、新年の儀式は原初の聖なる全体性の時間への回帰を目的とする。「年と年との間の時間」と呼ばれるとりわけ聖なる時期に、生命の樹の複製が村の真ん中に立てられ、その瞬間、ダヤク族のすべての人が宇宙開闢以前の原初の時期に戻るのである。
 このダヤク族にもみられる旧年と新年の間の時間が、その中間性と強く結びついていることは、その中間の時間に死者がその家族を訪れるとされることにもあらわれている。同じくエリアーデが指摘しているように、死者はこの瞬間においてこそその家に帰ることができる。なぜなら、死者と生者をへだてている一切の障害はとり除かれるからであり、そして死者はこの矛盾的瞬間において時間は一時留保され、従って生者と再び同時代人となり得る故に帰り来るのである。その時期に死者の霊魂がこの世に侵入してくるのは、俗的時間の停止、「過去」と「現在」の共存というパラドシカルな現実化のあらわれ以外のものではありえない。
 ここでは、年末から年始にかけての数日間が、二つの自立期と連続であり、その二つの自立期が重なりあり融合している過渡期の性格と、きわめて同じ性格を有していることが示されている。
 エリアーデによれば、いずれの正月行事も、時間の初めからの再開始、即ち宇宙開闢のくり返しであるが、この宇宙開闢、天地創造の時も一種の中間期である。エリアーデによれば、荒涼たる不耕の地はカオスと同一視され、そのような土地の占有は、占有の儀礼がすむまでは――もっと正確にはこの儀礼を通さなければ、現実のものたり得ない。そして、この儀礼は、ただカオスをコスモスにかえる事業である宇宙創造のはじめのわざの一つの複写なのである。新しい、未知の、耕されざる国土に住みつくことは、天地創造の大業に等しい。すなわち、カオスは無価値であり、といってコスモスが価値を有するなら、人間はたえず宇宙開闢の時に回帰する必要もないはずであるから、コスモスも無価値である。ただ、カオスをコスモスに変える天地創造の時のみが価値を有する。ということは、天地創造の時はカオスともその後のコスモスとも区別される、その両者の中間の時ということができるわけである。この天地創造即ちコスモス創造の時とコスモスそのものを区別して、この天地創造の時に中間性を与えるために、安息日が必要だったわけである。

 エリアーデによれば、古代人にとって、外界の事象も人間の行為も、正しくいって何らの自律的本来的な価値を持たない。事象とか行為とかは、一つの様式、また他の様式に従って、それらを超越する実在とかかわりあうゆえに価値を獲得し、そのことによって真実なるものとなる。自然の生な生産、人間の工作によって形づくられる事物は、その実在性、その本体性をただ超越的実在とのかかわり合い方の範囲でのみ獲得するのである。そのような、超越的実在とは、天空の祖型、中心のシンボリズム、神々、英雄ないし祖先によって、創めのときに設定された行為などである。
 そして、それらの多くは中間性というものと結びついている。宇宙開闢は時間的中間性であったし、中心のシンボリズムは、例えば聖なる山は世界の中心であるが、そこはまた天地が相会う場所、すなわち天地の中間点である。確かに、このように超越的実在は中間性をおび、それゆえ過渡期とその性格を同じくするが、他方そのような超越的実在によって人間が価値を与えられるということは過渡期における存在即肯定とは異なる。ということは、これまで取り上げてきた例がどこまで過渡期とそこにおける肯定の実体性を表明するか疑問が生じるが、人間の価値がすべてこのような超越的実在によって与えられるわけでもない。
 エリアーデによれば、たしかに、ダヤク族にとって「最高善」は神の全体性によって表わされており、そしてそれのみが充実した生の新しい創造、新しい顕現を確実ならしめうるものであるのに対し、ヨーガ行者やインドの観想者たちにとっての「最高善」は宇宙と生の超越にある。なぜならそれは存在の新しい次元、「無制約」の、絶対的自由の、至福のそれを表わすからである。そしてこの存在の様態は宇宙においても、神にあっても等しく知られていないものであってみれば、それこそ人間の創り出すものにほかならず、したがって人間にのみ接近可能なものなのである。神々でさえも絶対の自由に近づこうと望むのであれば、化肉し、人間によって発見され、洗練された手段をとおしてこの解放を手に入れなければならない。
 インド精神のひとつの現れである仏教でも、やはり人間存在そのものが肯定的なものであるが、それは超自然的存在によって与えられたものではない。「衆生は(その本性が)本初以来清浄であるからであります。本初以来完全清浄であるからであります。」(『八千頌よりなる般若波羅密経』)といい、「なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世の一切の法は、その本性は清浄なものだからである。ゆえにもし、真実を見る智慧の眼(般若)をひらいて、これらすべてをあるがままに眺めるならば、そなたは真実なる智慧の境地に到達し、すべてみな清浄ならざるはない境地となるであろう。」(『理趣経』)という。

 またエリアーデは、我々はどこでも心理的・経済的・精神的ないし社会生活の全領域にハイエロファニーを認めるとの考えに慣れなければならない。それらのリストは人間の日常生活、仕事、肉体的行動、言語の基本的言葉などを含み、それらがある時代、ある地方で聖なる価値を与えられなかったものはないが、然し、どの宗教、どの民族もいまだかってその歴史において、これらすべてのハイエロファニーを包含したものはない、ともいう。すべてのものではなく、あれやこれやの一部のもののみが聖化されるということは、過渡期の存在即全的肯定そのものではないが、しかし、確かに時代・地域の違いはあるにしても、あらゆるものが聖化されるということは、その根源を過渡期の全的肯定性にもつのではないだろうか。時代・地域によって聖化されるものが違うということは、過渡期の全的肯定性が幻想化される中で、それぞれの時代・地域でそれぞれに特定のものに集中していったということではないだろうか。「文化の最古のレベルにあっては、『人間存在として生きる』ことがそのままひとつの『宗教行為』であったろう。なぜなら、食べること、性の営み、労働、それらのすべてが秘蹟の価値をもっていたからである。換言すれば、人間であること――あるいは人間になることといった方がよいかもしれない――と《宗教的》であることとは同義なのである。」(『宗教の歴史と意味』)ともエリアーデはいう。この「人間存在として生きる」ことがそのままひとつの「宗教行為」であるとは、人間存在そのものが「聖」なるものであるということである。それも、過渡期の存在即肯定と何らかの形で結びついているといえなだろうか。もっともそれは完全に一致するわけではない。過渡期においては、存在即肯定であったのに対して、エリアーデが問題にしている日常の聖性は、その秘蹟の価値を超自然的存在によって与えられたとされるからである。

 より古い民族と見られる例では、ブッシュマンのグイの男の成人儀礼も対立性・二極性・矛盾葛藤と密接に結びついている。グイの男性成人儀礼は日常生活を営むキャンプから離れた場所で行われるが、その儀礼地が日常生活空間と対極的なものとされていたことは、普通のキャンプではグイの小屋は入口が一つしかないが、儀礼地のキャンプでは入口が二つないし三つあり、そのうちの二つの入口を結ぶ軸が儀礼地からキャンプへ向かう方向に直角になっていることからもいえる。菅原によると、年長者がしつらえたもっとも重要な儀礼的な仕掛けは、入門者たちに神霊ガマを指し示すことである。ガマとは造物主としての神であると同時に、災厄をもたらしたり人の体に入りこんで病気を惹き起したりする悪霊としての面も併せ持っており、菅原は「神霊」という訳語をあてている。また、死んだことをガマのもとへ入ったというよな言い方もするし、死霊と同義のものともみなされる。空が白みはじめるころ、年長者たちは新入者たちを順々に引き起こした後、その頭にすっぽりと毛布をかぶせて一列縦隊に日の昇る方向に向かつて並ばせる。それから、新入者はガマを見ろといわれ、見るなといわれる。また、見るなと言わたのに見たというと殺すといわれる。見なかった、見えなかったと言ったらどんな反応が返ってくるか菅原は記していないが、どちらにしてもそこでガマをめぐって新入者は「見た」と言っても殴られ「見ない」と言っても殴られる矛盾葛藤状態に置かれるという。二極性・対立・矛盾が源初の肯定性と結びつくなら、グイの新入者はそこで源初の肯定性に触れたともいえるわけであり、源初の肯定性を再定立しているともいえるわけである。成人儀礼のあいだ中、新入者は矛盾葛藤状態に置かれる。夜明けに、焚き火にあたっている年長者たちは新入者に近づいて「火にあたれ」といい、近づこうとすると「止まれ」と命じる。あるいは、手がかじかんで匙でうまく食べれないときに、食べてもいいといい、誰かがそれをとり落とすと、それ後の者は食べさせてもらえない。このような矛盾葛藤状態と、例えば遠くまで採集にでかけた後で、儀礼地に近づいた頃年長者に突然すれすれに槍を投げつけられるなど追いまわされ、そのまま儀礼地に走りこむと大きな焚き火を飛び越えされられるとか、鞭で背中を打たれたりしながら、ものをみるための「分別」』について教えられるなど、充満する「儀礼的暴力」の中で新入者は過ごす。グイにとっての成人儀礼が源初の肯定性の再定立、源初の肯定性と触れる体験の場であるとすれば、「儀礼的暴力」も源初の肯定性と結びつきがあると考えるべきであろう。この暴力性はブッシュマンの日常生活とは異質のものといえるであろうが、その他にも菅原(「失われた成人儀礼ホローハの謎」)によれば、成人儀礼には「順番」と「行列」というグイの日常生活においてはまったく見られない特異な「身体配列」があるという。また、儀礼地に小屋が建てられると、この家の「持ち主」または「長子」が定められるが、これもグイの日常生活には見られないものであろう。順番や行列のときはこの「長子」が先頭に立つ。
 このガマとの接触において、新入者はそれぞれガマが見えたり、見えなかったり、はっきり見えなかったりする心理状態におかれる。そして、多くの者は最終的にそれを「ほうっておく」ことにする。この「ガマを見たような気がしたけど、よくわからなかったので、それをほうった」という、複数の年長者によって異口同音に表明された態度こそ、菅原はグイあるいはガナの「現実主義」と呼ぶにふさわしい生き方が凝縮されているという。しかし、まったくほったらかしにされたままでなかったことは、おそらく新入者の時には同じ態度をとったであろう年長者が、成人儀礼において同じことを繰り返していることからいえよう。これは、重要なことはガマを見るということではなく、ガマを見るということを通じて新入者が矛盾葛藤状態に置かれるということだったということではないだろうか。菅原は「ダブル・バインドこそがガマという『純粋な表象』に対してグイが投げかける根源的な態度であったということだ。『知覚しえないものは存在しない』という素朴な実在論(リアリズム)と、『神はおわします』といった先験的な信念との境域に、彼らはとどまり続ける。」(『遊動民―アフリカの原野に生きる』「失われた成人儀礼ホローハの謎」)というが、神は存在するかどうかという現代人にとっての問題意識とはかけ離れたところで、グイの成人儀礼におけるガマとの接触儀礼を考えるべきであり、ダブル・バインド状態そのものが実はその儀礼の目的だったということである。

引用・参考文献
 『宗教の歴史と意味』 エリアーデ
   『謎のサルタヒコ』 鎌田東二編著
 『永遠回帰の神話』 エリアーデ
 『八千頌よりなる般若波羅密経』
 『理趣経』
 『遊動民―アフリカの原野に生きる』「失われた成人儀礼ホローハの謎」                菅原和孝
 『狩り狩られる――経験の現象学』  菅原和孝
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第五節 自己放棄の弁証法的展開としての歴史

第一項 シュティルナーの歴史観

社会そのものの自己放棄性と歴史
 シュティルナーは、自己否定・自己放棄を、社会の問題を考える際にも、根本的な問題としてとらえている。シュティルナーにおいて、ある社会の成員の性格が、その社会の性格を定める。何故なら、「彼ら成員が社会の創造者である」からである。そして、社会についてシュティルナーは「自己を完全に発展・主張せしめることはおろか、由来人間はつねに、彼らの社会を自己自身を基に樹てることさえせず、それよりむしろ、たださまざまの『社会』を設けて、その中に生きてきただけだった。」といい、「まさに、社会にむけられる関心がこれほど情熱的眩惑的でなければ、人は社会ゆえに、その中にある個人をこれほど見失ってしまうこともなく」、「宗教とはすべて、社会の礼拝であり、社会的(文化的)人間がこれによって支配されるところの原理の礼拝である」といい、「人は、社会とこの原理から流れ出る一切を廃物化せしめるただそのときにのみ、宗教を根底に絶滅する展望をもちうる」のであり、「社会を形成する諸個人が古いままであるかぎりは、社会も新しくはなりえない」とする。社会において、人間はエゴイスト・唯一者として存在しているのではなく、自己否定者・自己放棄者として存在しているのであり、その自己否定性・自己放棄性が社会の内容を形成する。社会そのものが自己放棄的であるともいえよう。さらに、人間は社会において自己放棄者として存在しているだけでなく、社会は人間を自己放棄者にしたてあげる。それゆえ、社会の諸問題を考えるにあたって、それを根本から考えようとするなら、この自己否定性・自己放棄性にさかのぼって考えなければならないというのが、シュティルナーの立場であった。シュティルナーによれば、社会とは宗教(すなわち自己放棄)の源泉である。そして、社会を構成している人間が自己否定者・自己放棄者である以上、社会問題を解決するために社会を変える必要があるなら、その構成人員を、自己放棄に対峙できる人間、唯一者に変えていく必要があるのである。人間が社会を形成していくのではなく、社会が人間を形成していくという考えは、自己否定性・自己放棄性から生じているし、そのような考え自体が自己否定・自己放棄を作り出す。
 シュティルナー的立場からは、社会の内容が自己否定性・自己放棄性によって形成されるし、過渡期において、存在そのものが自己放棄的ともいえた。過渡期において社会が自己放棄的であり、それ以後も社会に蓄積されていくものが自己放棄的なものでしかないとすれば、社会そのものが自己放棄的ということになる。シュティルナーにおいて、瞬間的自己解体が停止され、固定化とともに宗教が始まるとされたが、もしそれが固定化されず、ただちに解体されていくものなら、蓄積ということもありえないから、時とともに蓄積されていくものは自己放棄的なものであろう。ただ、自己放棄が自己崩壊していかざるをえない以上、固定化され蓄積されたものもも時の流れとともに解体されざるをえない。しかし、何かが残され、そしてその蓄積されたものが一つの変化をみせ、それが歴史として捉えられるのだとすれば,その残され蓄積されたものとは、自己放棄によって生みだされたもの以外にはありえず、歴史もまた自己放棄の歴史ということになる。

古い時代
 この自己放棄的存在としての社会は、ある時代において一つの傾向を帯びるのであって、シュティルナーは、古い人びとの時代、新しい人びとの時代、それに未来のエゴイストの時代に区分する。  人類は世界を一個の真理として、世界と世俗の諸関係、自然と自然的世界秩序、事物の力等に額づいて生活していた。それが古い人びとの時代であり、古代人は生の享受、生の享楽を求める人々であった。古い人びとにおける、この世界秩序、あるいは世界の事物に属するのは、単に自然だけにとどまらず、自然の手で自分がその中に置かれた、と人間の目にはうつる諸関係、家族、共同体、つまりいわゆる自然的紐帯のすべてが、そこに含まれる。
 しかし、シュティルナーによれば、この古い人びとは、自ら彼らの真理を解体しはじめたのであり、「ありていにいえば、古い人びとその人が、自らの真理を一個の虚偽と化することに向って、営々と努めてきた」ということなのである。「古代人は彼らの時代に悟性と心性を持ち入み、「精神へと飛翔し、自ら精神的であろうと努め」だす。生の享受は、真実の生を求めることにとって替られ、現世は蔑視あるいは敵対すべきものとなり、そして古い人びとの時代は、現世との断絶によって、世界を無価値なもの、非真理とすることによって、自然への、世界への無関心によって終る。

新しい時代
 シュティルナーによれば、彼らのこの自己を解体する努力が、「この世界は空虚なり、というキリスト教の定言、キリスト教的世界蔑視」の場を切り開いたのであり、新しい人びとの時代とは、精神を一個の真理とする時代であった。新しい人びとは、世界を、現世を超えた精神、彼岸的な自由な精神、世界と現世性を喪失して、精神的なものだけとなった精神を求め、精神を神としてあがめる。神とは精神であり、新しい人びと、キリスト者は「ひたすら精神のことにいそしむべき」とされ、そしてその精神とは自由な精神、世俗を喪失した精神なのであるから、精神にいそしむ営みとは、ただ思惟ということになり、精神的なものとして思想、理念、認識の対象としての真理といったものだけに観念的なものだけにかかわりあうことになる。しかし、シュティルナーによれば、新しい人びともまた自らの真理の解体に努めるのである(11)。

 シュティルナーによれば、プロテスタントは精神的坊主的人間のみを、キリスト教の真の完成者としてみとめることにより、彼らのみがひとり、精神の真の帰依者であり、完成者となる。ルター主義は、精神のみにかかわるというキリスト教の理想を実現するが、それは逆説的方法によってである。

 プロテスタンティズムは、現世的なるものとしての現世的なるもの、世俗性にはカトリシズよりもなおいっそう無関心なのであって、カトリシズムは世俗世界を存続させ、自らにもそれの享受をゆるしているのにたいし、理性的な徹底したプロテスタントは、現世的なるものを、ことごとく、まさに簡明にこれを聖化するというやり方によって、抹殺しようとかかっているのだ。……ルター主義は、できるかぎり、あらゆる事物の中に精神をもちこみ、あらゆるものの中に聖なる精神を本質として認識し、こうして現世的なるものすべてを聖化しよう、と努める。

 シュティルナーによれば、プロテスタンティズムはフォイエルバッハによって、「現世的諸関係はそれ自身によって神聖であり、単にそれが存在していることによって神聖であるのだ。」というところまで押し進められる。もはやフォイエルバッハによって、神とは人間の人間的本質の誤認であり、神とは人間的本質にすぎぬとされ、人間が神としてあらわれるべきであるとされる。そして、シュティルナーによれば、類としての人間、あるいは人間の本質とは概念であり、精神にすぎないのであり、それ故、人間宗教としての自由主義は「キリスト教信仰の最後の転態物である」にすぎない。

エゴイストの時代
 以上の、古い人びとの時代から新しい人びとの時代へ、そして新しい人びとの時代の終りへ、という歴史は、シュティルナーにとって、エゴイズム化の歴史である(12)。

 シュティルナーによれば、古い人びとは世界の背後に至ろうとし、結局、世界をかたづけたのであり、その古い人びとの歴史は、最初のエゴイズムの勝利の歴史である。

 自我が世界において己が所有を克ちえたことをもって、古代史は事実上閉じられる。……世界は私にたいして優越的であり、近よりがたく、神聖であり、神的等々であることをやめた。……世界は、私が私の(つまりは精神の)好むがままに取りしきりあやつれるわが所有となったのだ。自我が、世界の所有主たることへと自らをたかめたとき、エゴイズムはその最初の完全な勝利を手におさめ、世界を超克し、世界をはなれたものとなり,長い幾世代もの獲得物をしっかりその手におさえこんだのだ。

 すなわち、新しい人びととは最初のエゴイズムの勝利者であり、キリスト教は自然の定めや欲望によって、人間が規定されることのないようにしようとしたのである。そして、シュティルナーによれば、このエゴイズムの反逆は、新しい人びともまぬがれえないのであり、それは古代人がやり残したものに向う。

 新しい人びとは、何の背後に至ろうと求めたのか。それは、世界の背後、では最早ない。けだしそのことは古い人びとがすでに極めていたからだ。それはすなわち、古い人びとが残していったもの、神の背後、「精神であるところの」神の背後であり、精神に属するすべてのもの、精神的なるものの彼方、なのだ。

 シュティルナーは、「われわれは一時代の分れ目に立っている。」と言う。すなわち、最後のキリスト教である自由主義、人間宗教の登場は、新しい人びとの時代の終りと、それに替わる第三の時代の出現を告げているからである。では、新しい人びとの時代の次の時代はどのようなものであろうか。それは、今まで述べてきたシュティルナーの歴史観からいえば、自明のものである。新しい人びとは古い人びとの自己に対する戦いの結果、世界を所有する者となったのであるから、未来は、新しい人びとの自己に対する戦いの結果、精神を所有する者となるであろう。そして、精神的であるとは世界を所有するということであるから、精神を所有するということは世界を所有するということでもある。すなわち、もはや総てを自己の所有物とみなす人びとの時代、エゴイスト、唯一者の時代である(13)。

 私の歴史について、シュティルナーは次のように述べている。

 個それ自体が、一の世界史であり、爾余の世界史を己れの所有として所持するものであること、これこそがまさにキリスト教的なるものを超えでることなのだ。キリスト者にとっては、世界史はより高いものである。というのも、世界史とはキリストの歴史あるいは「人間なるもの」の歴史であるからだ。エゴイストにとっては、ただ己れの歴史だけが価値を有する。というのも、エゴイストはただ己れ白身を発展させようとするのみであって、人類の理念だの、神の企てだの、真理の意図だの、自由等々だのを発展させようとするものではないからだ。エゴイストは己れを、理念の道具だの、神の器だのとはみない。エゴイストはいかなる使命も識らず、人類の前進発展に参与し、そのために己れの微力を寄与せねばならぬなどとは思いもせず、ただ己れを生き尽すだけであって、人類がうまくしのいでゆくか失敗をやらかすかなどということは気にもとめないのだ。

 エゴイストの時代とともに、歴史は私の歴史となり、歴史は消える。この古い人びとの時代、新しい人びとの時代、エゴイストの時代、という歴史の発展をもたらすものは、シュティルナーによれば、エゴイストとしての自我である。

 しかし、精神をもその無の内に解消せしめるのは、そも誰であるか。精神を藉りながら自然をも同じ虚無へと転落せしめうるのだ。それをなしうるのは、自我なのだ。無制約なる自我として君臨・創造するところの、諸子の各々がそれをなしうるのだ。一言をもっていうならば、それをなしうるのは―エゴイストなのだ。

シュティルナーの問題点
 ところで、この歴史はエゴイズムの歴史であるという、シュティルナーの歴史理論そのものが、シュティルナーの歴史理論を解体する。すなわち、エゴイズム史観に一つの重大な欠点があるのであり、その欠点とは、何故エゴイズムは古い人びとの時代を解体するのに、精神を藉りたか、ということである。このことは、エゴイズムから何ら導き出すことはできない。世界を無なるものとするのは、根本的に自我そのものである以上、古い人びとの時代はエゴイズムの戦いとして、エゴイズムそのものの獲得へ向けた戦いであってもいいはずであるし、それがエゴイズムの戦いである以上、古い人びとがエゴイズムに無関係な精神などというものを持ち出してくるということ自体、ありえないはずである。すなわち、その歴史理論はキリスト者の登場を説明できない。
 このことから、新しい人々の時代の次にエゴイストの時代が来るとは限らないということがいえよう。その次にくるのは、新たな自己放棄の時代でしかなかったというのが、私の考えである。シュティルナーのいう人間宗教や自由主義は、「キリスト教信仰の最後の転態物である」というよりは、新しい自己放棄に属するものと考えるべきである。また、古い時代の前にも、別個の自己放棄の時代があったかもしれないし、それがどのぐらいあったかは分からないが、その出発点を過渡期におくことができるであろう。
 では、過渡期に始まる宗教、すなわち自己放棄の体系の諸段階はどのように展開していったのであろうか。そのメカニズムは古い人びとの時代から新しい人びとの時代への変化を見ることによってわかるであろう。

第二項 自己放棄の弁証法的展開

 シュティルナーにおける、古い人びとの時代と新しい人びとの時代を比べるとき、その区別はまず、自己放棄の方法の違いとして捉えることができる。古代人は自然的なもの、世俗的なものを拝跪するのであり、キリスト者は神=精神を拝跪する。それはその時代における理想の相異としてみることもできる。時代の理想について、シュティルナーは二つの時代の理想を、相対立するものとして捉えていることに気がつくであろう。古代人にとって、理想とは自然であり此岸的なものであるのに、新しい人にとって理想とは精神であり、彼岸的なものである。古代人にとっては内世界的であることが重要であり、キリスト者にとっては外世界的であることが重要である。古代人は現実的であり、新しい人は観念的である、等々(14)。

 ところで、シュティルナーによれば、古い人びとの時代の歴史と、新しい人びとの時代の歴史とは、この二つの時代の理想が対立的であるように、各時代そのものの歴史の方向性もまた対立的である。

 前キリスト教ならびにキリスト教時代は、一の相い反する目標を追いもとめた。すなわち、前者は現実的なるものを理想化しようとし、後者は理想的なるものを現実化しようとする。……前者は現実的なるものにたいする無感覚に、「世界蔑視」に終る。これにたいし、後者は、理想的なるものの放棄、「精神蔑視」をもって終るだろう。

 すなわち、「異教の終末において神的なるものは外世界的なるものとなり、キリスト教の終末にあたってはそれは内世界的なるものとなる。」のであって、二つの時代はそれぞれ反対方向に進む過程である。このことからシュティルナーにおいて、古代から新時代への移行は、古代の終末が新しい時代の理想となり、そして古代の終末とは古代の理想の否定であるから、次の時代の理想は前の時代の理想の反対物ということになる。そして、シュティルナーによれば新しい時代の終末は、人間宗教・自由主義として、再び内世界的なものを求めているのであるから、未来の理想は再び現世的なるものとなるであろう。すなわち、シュティルナーの問題点を整理し、そこから改めて導かれる自己放棄史理論の最初は、歴史は相反する理想を持つ時代が交互に繰り返す、すなわち、現実的なものを理想とする内世界的時代と、世界を空虚なりとする、彼岸的なもの観念的なものを理想とする、外世界的時代が交互に繰り返すということである。
 これは、次のように考えられる。シュティルナーによれば、古い人もキリスト者も、自己の理想の背後に至るべく自ら努め、そして最後にはその理想を解体してしまうのであるから、各時代は自己崩壊するものとして捉えられている。
 この自己崩壊性は自己放棄の自己崩壊性によって説明される。しかし、自己放棄にとってはその自己崩壊は自己放棄そのものの消滅をしか意味しない。その自己崩壊はシュティルナーのいうエゴイストの時代へと直行してしまうわけであるから、新たな自己放棄の段階を創出するためには、そのエゴイストの時代にむかう力を変え、再び自己放棄的なものに向けなければならない。そのために二つのことが利用される。

 かくも心そそる壮麗な世界の本質が、その根底を見た者にとっては―空無となる。空無が世界本質となる。かかる時、宗教的なるものは、欺きの幻しを相手とせず、空なる諸現象にかかわらず本質を見すえ、本質において―真理をもつ。

とシュティルナーはいう。このことから、次のようなことが考えられる。理想の自己崩壊は自己放棄の自己崩壊性によってもたらされるのであったが、その過程では、当然理想は否定的存在としてあることになる。それゆえ、その理想を否定するものは、その側面に関する限りにおいては真理を持つわけである。さらに、そのものについて、その理想の否定という側面だけを取り上げ、強調していけば、そのものは真理そのものという性格を帯びていくであろう。理想の崩壊が進めば進むほど、その理想はますます否定的存在とみなされ、それに対してそれを否定する立場は真理を体現するものとなっていく。
 すなわち、ある理想の自己崩壊がある程度進めば、その理想と対立する理想の方は、その対立性のゆえに、相手の理想の否定という点において真理を持つし、またその点を強調することによって、その理想を過大評価することも可能なわけである。
 一方、創造的無のサイクルからいえば、崩壊したものは、次には再び創造への可能性をもつものとして決断の対象となる。崩壊したものは、理想そして自己放棄そのものであった。このうち、創造への可能性としての自己放棄の再選択と、、前の理想を否定することにおいて真理を持ち、その真理性をバネにした新たな理想を結びつければ、その新しい理想は新しい時代の理想として確立されていくことになるわけである。此岸的・内世界的であることと彼岸的・外世界的であることを強調する立場は対立し、相互に相手を否定する立場であるから、この二つの性格を持った理想の時代が交互に繰り返すことになる。
 ところで、此岸的・内世界的理想と彼岸的・外世界的理想が交互に繰り返すとして、もし理想がA→B→Cという順で登場するとすれば、CはBの否定として真理を持ち、BはAの否定として真理をもつ。ところで、A=Cとすると、BのAの否定は、CのBの否定、すなわちAのBの否定によって相殺されてしまう。すなわち、BのAの否定という真理性は失われてしまい、それはBが理想とされるためのBの力も失われてしまうということになる。Bがもはや理想でなくなるということは、当然にも理想Bの否定という真理性に依存している理想Cもまた、それが理想化される力を失うということである。すなわち、Cが理想として定立されるためには、CがAと異なるものでなければならないということになる。
 この問題を、人類は理想を基本理念と中心理念に分けることによって回避していると考えられる。新しい人びとの時代を考えると、その中心にキリスト教というものがある。キリスト教は彼岸的であり外世界的であり、新しい人びとの時代の彼岸的・外世界的な性格を体現しているが、しかし、キリスト教だけがそのような性格を持つわけではない。しかし、キリスト教の重要性も明らかである。以上のことを考えると、新しい人びとの時代は、彼岸的・外世界的性格を基本理念とし、キリスト教を中心理念としていると考えられる。では、古い人びとの中心理念は何か、ということになるが、シュティルナーにおいては、それは明確に示すような記述はみられない。それについての本論の考えは、後で述べていくことになる。
 このように理想を基本理念と中心理念という二つに分けると、使い分けということが可能になる。A→B→Cという変化を中心理念の変化とすれば、AとCが異なるものとなって、前述の問題は解決されるわけである。根本的には基本理念にたいする別の基本理念による否定であるが、その否定はあくまでも中心理念と結びついた形で行われるのであって、さらには新しい中心理念による前の中心理念の否定という形で行われるわけである。
 新しい理想が定立されるのは、それがその前の理想の否定ということで真理を持ち、そのことによって新たな理想としての力を持ちえたのだとすれば、その理想は否定すべき前の理想に依存しているということがいえる。すなわち、否定すべき古い理想が消滅するとき、新しい理想も古い理想の否定という真理を失い、消滅しなければならないであろう。このことから、新しい理想の古い理想への依存、否定すべき対象としての古い理想の新しい時代における維持ということがでてくる。それ故、シュティルナー的にいえば、「いずれもまさに同じ度合いの自己否定を要求する」ところの「地上の物欲の神と天上の神」は「つまるところは、両者は共どもに補ない」あうのであり、大方の者は「半ばは坊主的あるいは信仰的に振舞い、半ばは世俗的に身を処しつつ、神と金銀の神の両方につかえる」ということになり、「彼ら自身が二つの人格に、永遠約人格とかりそめの人格に分裂し、その時に応じて、時に一方を、時に他方を思う」ということになる。シュティルナーによれば、「古い人びとが無思想だった,などと信じてはならない」し、彼らは「すべてについて、世界・人間・神等々について、それなりの思想」を持っていたのであり、一方「カトリシズムは世俗世界を存続させ、自らにもそれの享受をゆるしている」のである。また、古い理想・理念が再定立されると、その再定立はあくまでも新しい理想・理念のためになされるのであるから、今度はその古い理想・理念も新しい理想・理念に依存していることになる。新しい理想・理念と古い理想・理念は対立しながらも、他方では相互依存の関係にあるわけである。
 以上のことから、広義の宗教・自己放棄史は弁証法的過程をとるのだといえよう。すなわち、定立としての古い理想・理念→反定立としての自己崩壊と新しい理想・理念→綜合としての古い理想・理念の再定立と新しい理想・理念との統合。
 さらには、古い理想・理念が再定立されるためには、その理想・理念が一定の力を持つためにさらにその前の理想・理念も再々定立されなければならない、ということにもなる。このような、その時代の理想・理念、再定立・再々定立された理想・理念、これらの全体がその時代の自己放棄の体系ということになる。また古い理想・理念が自己崩壊して行く過程で、新しい中心理念が創出されるまでの間、自己崩壊しつつある理想・理念に対して再定立されていたさらにその前の理想・理念が一定の力を持つかもしれない。しかし、他方その理想・理念は自己崩壊しつつある理想・理念に依存していたのであるから、その力にも限界がある。その意味でも、それ自身が新しい理想・理念にはなりえないであろう。
 自己放棄の体系の崩壊はそれと自我との対立によってのみもたらされるのではなく、自己放棄の体系内部の矛盾によってももたらされる。新しい自己放棄の体系は古い自己放棄の体系を内部に統合することによって現実に機能していくのであるが、それは古い自己放棄の体系の否定という新しい理想・理念と現実の体系の乖離をもたらすであろう。すなわち、新しい理想・理念は自我ばかりか、その自己放棄の体系とも衝突するのであって、その衝突はその理想と体系の弱化をもたらし、結果としてその理想・理念と体系の崩壊をもたらす。理想・理念とその自己放棄の体系と創造の情熱としての自我との対立と、その内部対立によって二重の意味で崩壊していかざるをえないのである。

 第三項 創造的無の否定と基本理念

 二つの基本理念は、シュティルナー的にいえば、自然的・此岸的・内世界的であり、精神的・彼岸的・外世界的であった。これを創造的無に即して考えればどうなるであろうか。その二つの基本理念は対立的でなければいけなかったが、さらに、その二つの理想と創造的無の対立の仕方が異なるほうがよいであろう。なぜなら、新しい理想の定立は、前の理想の創造的無の否定の否定という真理性に立脚する以上、その創造的無の否定の仕方が同じなら、ここでも、その否定の否定がすぐさま自分自身にかえってきてしまうからである。
 自我とは創造的無であり、創造的無とは、創造の情熱+無であった。自己放棄を、この創造的無=創造の情熱+無に即して理解しようとするなら、自己放棄とは創造的無の否定であり、その否定は創造の情熱か無の少なくともどちらか一方を否定すればよい。すなわち、二つの理想の創造的無の否定の仕方が、一方が創造の情熱の否定、もう一方が無の否定であれば、都合がいいわけである。  無の否定であるが、無に直接対置されるのは有であり、このことから自我についてなんらかの創造的有の主張ということが考えられる。すなわち、自我は創造のための手段、あるいは手段はわからなくとも少なくとも創造とは何かということについての手掛かりを有している、等。
 創造の情熱の否定であるが、自我における創造の情熱の存在に対置されるのは、創造の情熱の無存在ということになる。まず、考えられるのは無目的性。しかし、もし自我が無目的なら、無目的性の主張そのものがどうでもいいことになるのであるから、もうひとひねり必要ということになる。そこで考えられるものの一つは、無の永遠の固定化である。創造的無において、無は永遠に固定化されてあるものではない。それは、創造の情熱にとって、あくまでもこの瞬間の問題である。それ故、そのような創造の情熱の立場を否定し、自我を永遠に無の中に固定化してしまう立場は、創造の情熱そのものの否定である。
 ただ、この方法は、一応創造の情熱を認め、ただ自我が永遠に創造的無として存在するということを主張するわけであるから、間接的な創造の情熱の否定ということができる。しかし、間接的ということであれば、創造的有も創造の情熱の否定であるということができる。なぜなら、創造の情熱にとっては、無でしかないものを有というのであるから、それは無の否定であるが同時に間接的に創造の情熱を否定しているということになるであろう。同じ間接的な創造の情熱の否定ということで、異なる創造的無の否定の仕方という点からは、この方法も問題があるということになる。そうすると、求められるものは、自我の無目的性という直接的な創造の情熱の否定ではないが、無の永遠の固定化という間接的な否定よりは直接的な創造の情熱の否定ということになる。

 創造の情熱と自我の主体的能動性とは密接不可分で、そうすると、自我における創造の情熱の無存在とは、この自我の主体的能動性の否定ともいえる。自我を没主体的あるいは受動的な存在とみなすことは、創造の情熱を否定していることになるわけである。創造の情熱は一種の目的充足希求であり、その場合の希求という点に関して、自我が創造の情熱というとき、単に目的の充足を求めているというだけでなく、その目的を充足するために能動的であろうとする存在、能動的にならざるをえない存在として自我はあるということをも意味している。ただ、創造の情熱において主体的受動性が完全に否定されるわけではない。目的充足すなわち創造の情熱の充足は、偶然でも他者によるものでも構わないのであり、重要なことは創造の情熱としての自我が現実に充足するということなわけである。創造の情熱は能動的ではあるが、しかし、創造の情熱の充足が自己の能動性のみによってもたらされなければならないというわけでもないということである。その意味で、自我は能動的主体である必要はなく、ただその充足を享受する主体としての自我、受動的主体であってもかまわないともいえ、自我とは能動的であり受動的でもあるといえる。そういう意味では、創造の情熱としての自我を主体という視点から見れば、自我=能動的主体+受動的主体、創造の情熱=主体的能動性+主体的受動性ということができる。

 創造の情熱を主体的能動性+主体的受動性とするなら、創造の情熱の否定とは、①主体的能動性と主体的受動性の両方の否定、あるいは②主体的能動性の否定(主体的受動性のみ)③主体的受動性の否定(主体的能動性のみ)の三つの場合が考えられることになる。このうちの①は、主体的能動性による創造的有化も偶然性や他者による受動的な創造的有化も否定するということであるから、それは創造的有化の否定であり、無の固定化ということができるであろう。この場合の無の固定化は直接的な創造の情熱の否定ということができる。それは無の固定化による創造の情熱というよりは、創造の情熱の否定が無の固定化をもたらすということである。
 ①と②、③はともに創造の情熱の否定であり、自己放棄ということになるが、此岸性と彼岸性の関係でいうと、それらは同じではない。①の主体的能動性かつ主体的受動性の否定は無の固定化であり、此岸における創造的有の否定ということで彼岸的である。それに対して、②と③は創造の情熱の否定という意味では彼岸的であるが、それは主体的能動性あるいは主体的受動性としての此岸における創造的有化の可能性は認めているわけであるから、その意味では彼岸的ではないともいえるわけである。②と③が此岸的中心理念と結びつくか、彼岸的中心理念と結びつくかは、前中心理念との相対的関係の中で決まることになる。ただ、②と③では、③はもし創造的有化が他者によってもたらされるとされるなら、それは源初の肯定性・存在即肯定性の外化としての超越者によってもたらされるということになるであろうから、自己の力での創造的有化を意味する②よりも、より彼岸的ということはいえるであろう。また③は決定論的でもない。何故なら、そうすると、自我はいずれは充足が約束されている、すなわち、まったくの創造的無とはいえなくなるか、あるいは決して充足することのない、無として永遠に固定化されているということになってしまうからである。また、②と③はそれぞれ相手の創造的有化を認めていないのであるから、それぞれ相手は無の固定化ということになるであろう。
 創造の情熱の否定は、それが即此岸性・彼岸性に結びつくわけではないが、無の否定は現に存在している自我の創造的有性を意味するわけであるから、即此岸性ということになる。また、能動性と受動性を過渡期における実体としての存在即肯定について考えるなら、それは自己の能動性によって肯定性を獲得するということではないから、能動性の否定ともいえるが、偶然や他者によって肯定性がもたらされるというわけでもないから、受動性の否定ともいえる。といって、それは実体的でもあるから創造の情熱の否定、自己放棄でもない。自我・創造の情熱としては主体的能動性+主体的受動性として存在しているが、その肯定性はそれらによったもたらされるものではないという意味では、主体的能動性や主体的受動性を超越しているというべきであろう。

 「近代におけるアナーキズムの位置」では②と③のみを創造の情熱の否定としたが、主体的能動性と主体的受動性の両方を否定する立場も創造の情熱の否定として加えなければならない。

(11) 「先には、『古代人にとって、世界は一個の真理だった』とのべたのにたいし、この度は、『新しい人びとにとって、精神は一個の真理だった』といわねばならないのだが、先の場合と同様、今もこう書き加えぬわけにはいくまい。その一個の真理の偽真の背後に至るべく努めて、ついに彼らは実際にそこまで至りついた、と。」

(12) 「歴史は、人間なるものを探しもとめる。だが、人間なるものとは、私であり、君であり、われわれであるのだ。一の神秘的本質として、神的なるものとして、最初は神として、ついでは人間なるもの(人間性、ヒューマニティ、人類)として求められてきたそれは、個的なるもの、窮極なるもの、唯一者として見出されるのだ。」

(13) 「キリスト教の結末であり成果でもある人間なるものとは、自我として、新たな歴史の、犠牲の歴史の後の享受の歴史の、人間もしくは人類のではなく――私の歴史の、始まりであり、私の歴史が用いるべき素材であるのだ。」

(14) 「古い人びとが最大の価値をおいたまさにそのものを、キリスト者は、価値なきものと却け、古い人びとが真実と認めたものに、キリスト者は、空なる偽真の烙印を押す。……さて、こうして、おのおのが、相反するものを真理とみなし、一方にとって自然的なものが真実であるとすれば、他方にとっては精神的なものが真実とされ、一方にとってこの世の事物とのつながりが真実であるとすれば、他方にとっては天上のものが真実とされる……。」
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