心霊無政府主義探究  唯一者  純正無政府主義論

第四章 ヨーロッパの第四段階とキリスト教

  

第一節 メソポタミアにおける国家共同体主義の崩壊 (2021年7月3日)

第二節 ローマと国家共同体主義 (2021年7月3日)

第三節 ローマ帝国における自己放棄の第四段階 (2021年7月3日)

   第一項 ローマ帝国末期の変化
   第二項 ローマ帝国末期の聖性
   第三項 ローマ帝国末期と個人
   第四項 神の代理人
   第五項 エジプトの修道士と源初の肯定性
   第六項 中心理念としてのキリスト教

第四節 ビザンツ帝国における国家共同体主義の再定立 (2021年7月3日)

   第一項 ビザンツ帝国の皇帝
   第二項 国家共同体主義の崩壊と再定立

第五節 西ヨーロッパ中世 (2021年7月3日)

   第一項 ゲルマン民族
   第二項 メロヴィング朝における王の聖性と国家共同体性
   第三項 クローヴィスのフランク王国建国とキリスト教
   第四項 フランク王国における国家共同体
   第五項 王権とキリスト教の相互利用関係
   第六項 中心理念としてキリスト教が勝利した時期
   第七項 西ヨーロッパにおける皇帝と教皇
   第八項 カノッサの屈辱とカトリック改革
 

第一節 メソポタミアにおける国家共同体主義の崩壊

 アテネの王制の崩壊は国家共同体主義の崩壊を意味しているのかもしれないし、それはゼウスの性格の変化にもみられるかもしれないとしたが、アッシリアでも国家共同体主義の崩壊と考えられる現象がみられる。ジュリアン・ジェインズは、彼自身の「二分心」と翻訳されている心の状態説の例証として、古代のメソポタミアを取り上げているが、彼の仮説を離れて国家共同体主義という本論的な立場からも示唆に富んでいる諸例が記述されている。「二分心」とは、遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていたというもので、「二分心」はそれを統制する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた社会統制の一形態であり、この展開の中にこそ文明の起源があり、そのおかげで人類は小さな狩猟集団から、大きな農耕生活共同体へと移行できたという。しかし、人間社会が複雑化するにつれ、神の言葉に従うという「二分心」に依拠した社会統制では収まらなくなり、やがて人間に主観的意識が誕生してきたというものである。これまでも、シャーマンなどを通じた神の言葉に従って政が行なわれていたということは語られてきたが、「二分心」においては、民衆も含めてその行動のほとんどが自己内部の「神」の言葉に機械的に従っていたとされる。しかし、例えばブッシュマンについてそのような「二分心」を見ることはできないから、それは、狩猟採集民以降のある時期の人間の心の状態を極端な形で表現していると見なすべきであろう。ある意味で、それは国家共同体主義における人間の心の状態を表しているともいえる。人間の心が「神」と「人間」の二つの部分からなるということは、王は神であると同時に人間であり、一般民衆も王を媒介にしてやはり神であり人間であるという、国家共同体主義的な人間の在り様に対応している。楔形文字の文献には、人間はそれぞれの神「イリ」の陰の中に生きたという記述があり、人間と個人の神は分け隔てできぬほどに強く結ばれていたので、個人名の一部にはたいてい個人の神の名前が入っており、その人物の「二分心」的特性を示していたというが、メソポタミアでは一般民衆も神であったわけであり、そのことを通して原初の肯定性を取り戻すことこそ国家共同体の目指すものでもあった。そして、「二分心」から意識の誕生への過程は、国家共同体主義の崩壊に対応することになる。
 ジェインズによれば、紀元前一二三〇年ごろのアッシリアの専制君主トゥクルティ・ニヌルタ一世は、それまで歴史上に存在したどんな祭壇ともまったく違う石の祭壇を造らせたという。それは、立っている王から、そのすぐ前にひざまずいている王、そしてそれよりはるかに注目に値するのは、アッシリアの残虐な王たちの初代がひざまずく前にある玉座が空だという事実であり、これ以前の歴史に登場した王で、このようにひざまずく姿を見せた者は一人もいなかったし、それまでに描かれた場面で、神の不在を示すものも一つとしてなかったという。トゥクルティのほかの祭壇の彫刻にも、同じく神の姿はなく、それに対して、ハムラビ王の場合は必ず、はっきりとそこに存在している神の前に立っており、このような比較を行なうと、メソポタミアでは、〈二分心〉の崩壊した時点がハムラビとトゥクルティの時代の間にあることが、かなりはっきりするという。『トゥクルティ・ニヌルタの叙事詩』では、バビロニアの諸都市の神々は、自分たちをなおざりにするバビロニアの王の態度に腹を立て、そこで神々が都市を見捨てて住民たちに加護を与えなかったため、トゥクルティのアッシリア軍の勝利が確実になったというが、たとえどのような状況下であれ、神々がその従僕たる人間を見捨てるという、このような概念は、ハムラビ王のバビロニアではけっしてありえず、これもまた、まったく新しい現象であるという。

 では、人間の前から居なくなった神はどこにいったのであろうか。ジェインズによれば、神の住まいはジッグラトや住宅内の祭壇であることが多く、太陽や月、星などの天体と結びついている神や、最高神アヌのように天に住む神もいるが、大部分の神々は人間とともに地上に暮らしていた。これがすべて、前一〇〇〇年紀に入って変わってしまい、地上は天使と悪魔任せになる一方、地上からいなくなった神々は、アヌ神とともに天に住んでいると考えられるようになったようだという。ゼウスの天空神化もこのような流れと無縁ではないと考えるべきであろう。また、ギリシャでは王を示す言葉が、ワクナスから線文字Bではそれほど重要ではない人物を指をさしていたバシレウスに変わったが、メソポタミアにも同じ同じような王の格下げが起こっている。アシュール・バニバル(在位前668-627)の「即位礼における祝詞」では、「アシュール神は王です。…彼(アシュール神)の手が創造したアシュール・バニ〔バル〕はアシュール神の[副王]です。」(『世界史歴史料 1 古代のオリエントと地中海世界』 歴史学研究会編)とあるという。そこにおいては、王の側から神がいなくなるだけでなく、王位そのものが神のものになって、地上の王は副王扱いになって格下げされているわけである。同じようなことはユダヤ人にもみられるかもしれない。エリアーデによれば、バビロンの正月儀礼であるアキーツ祭では君主が顕著な役割を演じており、王はこの正月儀式における時間の再生に責任を持つが、それは王が神的存在だからであり、神として世界を創造する者だからである。そして同じような祭儀はユダヤ人の正月儀礼にも見られ、諸研究は詩篇の儀礼的要素と宇宙開闢的―終末論的意義をあきらかにし、正月祭における王の演ずる役割に注目しているという。この祭儀は、光の力の主であるヤーヴェが、暗黒の力(海のカオス、太初の怪物ラハブ)に対する勝利を記念し祝うものであるが、この勝利についで、王としてのヤーヴェの即位があり、これにつづいて宇宙開闢のわざがくり返される。ヤーヴェは王として即位するわけであり、ヤーヴェが王であるとすれば、真の王ということになり、地上の王はその副王ということになるであろう。
 アシュール神は、アシュールと呼ばれた土地の神格化によって生じ、アムール市とそれを中心とするアムール国(アッシリア)の最高神となったという。そうすると、アシュール神において国家共同体そのものが神格化され、その神格化された国家共同体が王とされているわけである。それは、国家共同体主義の持つ構造と同じといえるが、違うことは国家共同体主義はあくまで地上の構造であるのに対して、それは天上の構造となっており、本来此岸的な存在である国家共同体主義が彼岸化されているといえる。また、神による人間の原初の肯定化という視点からいえば、国家共同体そのものが神格化されることにより、その構成員は王を媒介することなく、直接今や神格化された国家共同体のもとで原初の肯定性を獲得するということになる。そこでは、当然、王という存在は副次的なものになる。国家共同体主義の崩壊過程のなかで、王を媒介にする原初の肯定化という中心理念が機能しなくなり、しかし基本理念としての原初の肯定性の希求にはまだ生命力が残ってもいるという状況のなかで、相対的に力を回復した神という存在によって、原初の肯定性を獲得しようとする動きがあっても不思議ではない。ギリシャでも線文字Bでは、王が支配する土地は彼の「temenos」と呼ばれているが、この言葉は後に神々を祀った土地にしか使われなくなったという。国家共同体全体が神格化されるわけではないが、王が神に吸収されることによって、王の支配地が神々の土地になっていったということができるであろう。ただ一方では、王はもはや神ではないということであり、それはまた他の人間も神ではないということでもあるわけである。

引用・参考文献
 『神々の沈黙――意識の誕生と文明の興亡』  ジュリアン・ジェインズ
 『世界史歴史料 1 古代のオリエントと地中海世界』 歴史学研究会編
 『永遠回帰の神話』 ミルチャ・エリアーデ
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第二節 ローマと国家共同体主義

 ローマは最初王制であったというから、その当時のローマは国家共同体主義が機能する都市国家として捉えることが出来るであろう。ただ、メソポタミアから地中海にかけての国家共同体主義の崩壊の中で、新しく建国された国家共同体ということができるかもれしない。ローマは、地中海世界の全体的な国家共同体主義の崩壊と、建国による国家共同体主義の昂揚が混在する場であったといえる。ラテン人たちの都市国家建設は、エトルリア人や南イタリアのギリシャ人の影響が強く働いていたとされるが、ローマ建国が国家共同体主義の崩壊という雰囲気の中でなされたことは、エトルリア人からもいえるかもしれない。エトルリア人は前1000年から前800年の間に小アジアから来たと考えられ、早くから都市に分かれて住み、宗教的なゆるい連盟をつくっていた。前八~六世紀にはギリシャ植民市を除けばイタリアでも開けた民族であり、ローマにも大きな影響を与えたといわれる。そのエトルリアも、最初は王がいたが、その後、奴隷や農奴の上に立つ少数の貴族が支配するようになったらしい。エトルリアの墳墓の多くは、故人のこの世での日常生活、狩猟、宴飲などの楽しい日々の有様が描かれているが、恐ろしい冥府を描いているものもある。そのような暗い題材はエトルリア人の勢力が傾いた時代のものとされてるが、後代の墳墓の絵は現世から来世の世界を描くものへと変化しており、エトルリア人社会の国家共同体主義の崩壊が相当進み、此岸的なものから彼岸的なものへの関心も強まったということを示しているのではないだろうか。
 一般にラティウムで都市国家が形成されるのは前七世紀の後半から前六世紀の初めの頃と考えられているが、ローマの建国も、ローマ時代の歴史書が伝える前753年より後の前600年頃とみられている。ローマがギリシャのポリスと違うのは、ギリシャがより大きな集団単位が崩壊し、細分化した共同体を基盤としてポリスが成立していったのと違って、ローマは小さな集団が集まって都市国家が建設されたということである。ローマはパラティンの丘のラテン人と、その北にあったサビニ人の集落が一つになることにより成立したと考えられている。伝説では、初代の王ロムルスはサビニ人の王タティウスと共同で統治していたという。ラテン人もサビニ人も前1000年頃北から侵入してきた印欧語族で、その印欧語族はラティウムに落ち着いたラテン人と、ザビニ人など多くの部族に分かれてラティウムの北や東、あるいは東南の山の多い土地に定着した二つのグループがあって、ラテン人の方が早く来て、平地部分を占拠したと考えられている。ラテン人はラテン人の名(ノーメン・ラティーヌム)を共有し、共同の祭儀を通じて同一民族としての一体感を早くからもっていた。ロムルスについていえば、伝承では若者集団の頭的存在であり、その集団はならず者あるいは盗賊集団だったともいわれる。ローマはそのような徒党を組む集団も含めた、雑多な寄せ集めだった可能性もあるわけである。国家共同体主義的にいえば、ローマはその建国の時、その成員の間に、国家共同体に必要な同質性・統合性をもっていなかったといえるのではないだろうか。一方、王の神聖性であるが、モムゼンはローマの王の神聖王的性格を否定している。王は共同体の神々と交わり、それに諮問し、神意をかなえ、男女の神官すべてを任命し、王の衣装も最高神の衣装と同じであったが、王は民衆の神ではなく国家の所有者というべきであり、ローマ民衆の一体性を宗教の分野ではローマのディオウィス(ユピテル)が代表するのであって、王は法の領域で代表するにすぎない。特定の氏族一門に与えられた神の特別な恩寵といったものにも、王が他の人間とは異質な存在であることを示す、ある種の秘密に満ちた魔力といったものにも、ローマ人は無縁だったというのである。法的には、しかるべき年齢になった心身ともに健全なローマ人男性ならば、誰でも王位につくことが可能であり、このようにして王は一介の市民に他ならず、勲功や幸運、そしてとりわけどの家にも一人の主人がいなければならないという必要性が、同等なる者の上に立つ主人として王を位置付けたのだとする。ローマは商業都市だったという指摘もモムゼンは行っているが、王が自然に呪術的に働きかける儀礼的・イデオロギー的存在とは無縁で、その記述には王の物質的な優越性を示すもので占められていたという、商業交易の要路を中心にした西スーダンの古王国と同じことがいえるということかもしれない。
 ただ、ロムルスもマヌも鳥占で王になったといわれる。単に物質的な観点から王になったわけではないかもしれないわけである。またロムルスが死んだとき、閲兵式の最中に激しい雷をともなう嵐が巻き起こり、気がつくとロムルスがいなくなっていたといい、ローマ兵全体がロムルスのことを神であり神の子、ローマ市の王にして父といって万歳をし、ロムルスが今後子孫たち護ってくれるよう熱心に祈ったという。ロムルスの次に選ばれたマヌはサビニ人であったというが、伝承では、マヌの妻は女神エゲリアであった。少なくともマヌ自身はそういっていたように伝えられている。つまり、彼はビュロスの王のように女神の相手の男神という立場に近い存在だったともいえるわけである。また、マヌはユピテル神のため神祇官を一人選んで祭司とし、その神官に相応しい服装と王の象牙椅子を与えたとされ、またヴェスタ女神のために処女を選び、その処女性と他の諸儀式でもってそれを神聖たらしめ、またアルバ族からのみ選ばれるようにし、その他にも神祇官を制定し、また自分の妻がその一人であるカメナエ女神たちの聖地をもうけ、フィデース(誠実)神の毎年の定例祭をも制定したといわれる。ロムルスやマヌの伝承では、ローマの初期の王に神的性格があったともいえよう。特にマヌにそのことがいえるということは、ラテン人と一緒になる以前のサビニ人の社会が、神的存在としての王をもつ国家共同体であった可能性がある。ロムルスはサビニ人のタティウス王と共同で統治していたともされるが、サビニ人にはもともと王がいたのではないだろうか。そして、サビニ人であるマヌに神聖王的性格が濃厚にみられることは、サビニ人の王に神的性格があったからだともいえるわけである。ローマの一員となったサビニ人の社会が、もともと神的性格を持つ王をいただく国家共同体だったとすれば、当然、ローマも国家共同体主義的なものをその内部に含んでいたということになる。ただ、マヌより後の王には神的な性格はみられない。
 ローマが王制から共和制に移行した理由はよく分かっていないようである。伝承は、最後の王であるタルキニウスの傲慢さと即位の非正統性を伝えている。また、最後の方の三代の王はエトルリア人であった。ただ、王が外部の人間であるというとは、王や首長の外部招聘にみられるように、必ずしも国家共同体主義にとって否定的なことではない。国家共同体主義的に考えれば、王制の廃止は国家共同体主義の崩壊を意味するが、王の神性が急速に失われていったこと、さらに市民の統合・同質化にも失敗したということが、ローマの王制を不安定にしたのかもしれない。国家共同体としてのローマが不安定だったことは、ロムルスたちのサビニ人の女性の略奪と、それによるローマとサビニ人との戦争に、女性達が和平を懇願したという伝承が、ローマの初期にはラテン人とサビニ人の統合が問題だったことを示しており、また共和制初期に平民と貴族の統合問題が噴出していることからもいえるであろう。ローマでは、貴族と平民の身分の差別は、その通婚を合法の婚姻として認めないものとするほどはっきりしていたといい、それは他ではみられなかったものだともいわれる。貴族と平民を同質な存在とする国家共同体ローマはその初期には存在しなかったともいえるわけであり、次の課題は貴族と平民を統合した国家共同体を形成することであったといえる。貴族と平民の統合がうまくいっていなかったことは、共和制初期に平民がサケル山に立てこもって、ローマから独立して、自分達の国をつくると脅かした反乱にも現れている。平民たちは、自分たちの代表者の身体を神聖不可侵なものとして団結したという。平民たちは自分達の最高権威者をいただく国家共同体を独自に作ろうとしたわけである。成員の同質性化がうまく進まず、国家共同体の基盤が成立しないなかで、王の神格化も不十分だったとすれば、国家共同体主義的にいえば、王という存在が無意味なものになってしまったともいえるであろう。あるいは、その弱い基盤以上の統治権を王に与えた結果、王自身の立場が逆に不安定になってしまったということなのかもしれない。
 ただ、王制から共和制という動きが、一直線的にローマの国家共同体主義が崩壊過程に入ったことを意味するかというと、共和制の後にまた皇帝が登場するという問題がある。ローマは国家共同体主義の崩壊傾向と、建国という国家共同体主義的エネルギーのなかで揺れ動く存在であり、そのなかで、王制から共和性、再び皇帝制という変動も生じたと考えるべきなのかもしれない。皇帝の神性については、初代ローマ皇帝アウグストゥスは生前は第一位のローマ市民と称していたにすぎず、死後神格化されたものの、あくまでもローマ市民の一人にすぎなかったが、例えばコンスタンティヌス帝はキリスト教徒となる前に、自身をアポロン神と同一視していた。ディオクレィアーヌス帝の頃には皇帝が直接神から由来するという考えが広まっていたといい、皇帝礼拝所が各地に設けられていることなどから、ローマ初期の王とは違って、皇帝は後代になるほど神性を帯びていったといえる。皇帝制のもとでの国家共同体ローマであるが、ローマの特徴として氏族とクリエンテスの関係があった。クリエンテスは王制廃止後の貴族と平民が激しく争ったときにも、貴族に忠実だったといわれるし、一氏族がそのクリエンテスと共に独自に戦争を行うだけの独自性と団結性があった。クリエンテスとその保護者パトロヌスとしての貴族との関係は、地主と小作といった関係があったかどうか明らかでなく、信義が両者を結びつける紐帯だったと伝えられ、パトロヌスが戦争で捕虜になった時にはその身代金を支払う義務があったが、それ以外の経済的義務は伝わっていないという。この貴族とクリエンテスの関係は、貴族とクリエンテスの統合性という意味で、国家共同体の基盤となりえる性質をもっていた可能性もあったわけである。アウグウティヌスは複数のピラミッド状のクリエンテス関係を一つのピラミッド型に統合し、その頂点に立ったともいわれるが、そのことによってローマは一つの国家共同体として強化されたともいえるかもしれない。ローマの皇帝制は国家共同体主義の再強化として捉えることもできるかもしれないし、その場合、共和制ローマは完全な国家共同体主義の崩壊状態にあったのではなく、国家共同体主義の枠内に在ったからこそ、その再強化としてローマの皇帝制が登場してきたということになるであろう。

引用・参考文献
 『ギリシアとローマ』世界の歴史2 村川堅太郎責任編集
 『ローマの歴史 Ⅰ』 テオドール・モムゼン
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第三節 ローマ帝国における自己放棄の第四段階

第一項 ローマ帝国末期の変化

 『古代末期の形成』の日本語版への序文においてピーター・ブラウンは、出版された1976年当時、すべての研究者が同意しているのは、マルクス・アウレリウス帝(在位161-180)とコンスタンティヌス帝(在位306-337)の間に、ローマ帝国によって支配されていた地中海世界のすべてにわたって政治・社会・宗教生活が顕著な変化をとげたということであり、それは前例のない宗教的・知的興奮の時代と一致するということであった。その期間中に非キリスト教的思想伝統も変容したが、それは以前の「古典」期においては見られなかった、宗教的で「来世志向」の基調に転じることによってであり、その基調の中の一つであったキリスト教もローマ世界で支配的な位置を占めるまでに成長していた。ローマ帝国は五世紀の蛮族侵入の時代まで生き延びていたが、すでに「古代社会」であることをやめていたのであり、かつてのローマ帝国を活気づかせ、その肯定的な人生観を支えてきたことのすべてが空になり、ローマ帝国はすでに中世の冷たい陰の中に生きていたにすぎなかった。この「三世紀の危機」ともいわれる時代に、伝統的ローマの衰亡とキリスト教の成長が同時に起こっていたわけである。レジーヌ・ル・ジャンによば、地中海を中心とする後期ローマ世界は、すべての自由人が制度的に「ローマの人民」に属する事実、膨大な土地財産と都市参事会からローマの元老院に至るまでの公共奉仕(栄職)の行使を威厳の源としていたエリート集団による支配、専門の兵士団を給養するべく定められた複雑で重い租税制度、そして奴隷制的生産様式に基づき、都市を起点として東方と西方とを結びつける交換体系を特徴とする。そしてそのローマ世界の変容は、西ローマ帝国最後の皇帝が罷免された四七六年よりもずっと前に、ローマ帝国の一体性の漸次的な崩壊とともに始まっていた。この崩壊が五世紀に西ローマ帝国の政治的な断片化を、自立的な諸王国の誕生を導いたのであり、四世紀末に国教となったキリスト教が、皇帝に具現化される国家信仰を弱めることによって、ローマ帝国の骨組みを蝕んでいったとされてきたが、おそらくそれ以上に決定的であったのは、有力者たちが次第にローマに対する関心を失っていき、属州と彼らの所領に撤退したことであるという。これによって中央の衰退や政治的な断片化、社会の分節化や経済の衰退が加速し、地方がそれぞれ一つの枠組みになっていったのである。そのようなローマへの紐帯心の弱体化とローマ社会の分解は、国家共同体主義の崩壊がもたらしたと考えられるわけである。同時に国家共同体主義の崩壊は、キリスト教や彼岸的異教徒の思想の勃興をももたらすであろう。ヨーロッパ中世を見ると、その時代は彼岸的理念の時代といっていいであろうし、自己放棄の弁証法的展開からいえば第四段階ということになり、その中心理念はキリスト教を核とするものであったといえる。そして、キリスト教の中心理念化は、コンスタンティヌス帝の改宗から国教化という過程を通じて、ローマ帝国時代すでに成立していたと考えられる。

 ローマ帝国末期とキリスト教の関係について、ピーター・ブラウンの『古代末期の形成』と『古代末期の世界』を参考にして考えてみたい。ピーター・ブラウンによれば、ローマ帝国を襲った政治・社会・宗教生活の顕著な変化について、研究者たちはこの時期に起こったことは「三世紀危機」というたった一つのフレーズで要約することができると考えていた。さらに、彼らにとってこの「危機」は決定的なものと考えられ、古代の「古典的」世界は廃墟となって終末を迎えており、中世がすでに始まっていたのである。当時の研究者には二つのグループがあり、一つはミハイル・ロストフツェフの影響下にあった。著名作家の著作解釈が中心であった従来の古典古代史研究に、考古学の成果を取り入れる上で大きな役割を果たし、階級関係を中心に、歴史を発展段階的に捉える社会経済史の研究視点を古代史にも適用したのがロストフツェフといわれる。カール・ポランニーによれば、ロストフツェフにおいてはローマ帝国衰退の諸原因という問題は古代における資本主義の性格という問題と同じであり、ロストフツェフはヘレニズム期と帝国の最初の時期には資本主義は開花して近代的な産業資本主義に発展しようとしていたが、ちょうどその時にローマ帝国の衰退が経済を圧迫して破綻させてしまったと考えているが、これは古代資本主義が広くいって近代資本主義と同じ性格のものであったことを意味している。それに対して、ウェーバーは反対にギリシャやローマの資本主義は性格の点で近代資本主義とはまったく異なっていることを主張しており、ウェーバーにとってそれはなによりも政治に基礎を置くものであって、経済に基礎をもつのではなく、ローマの資本主義は戦利品とか奴隷労働とかあるいは徴税や公共事業のような政府の職権の私的略取に基礎を置く、本質的に非生産的タイプのものであったという。本論的にいえば、ローマの資本主義が産業資本主義的なものかどうか、近代資本主義と同質のものかどうかということが問題ではなく、ローマ時代においてそれが第一義的なものであったのかどうかということであり、それは近代資本主義についても問われなければならない問題である。
 もう一つの研究グループはアンドレ・フェステュジエールやE・R・ドッズなどの知的領域や宗教に関する歴史家で、E・R・ドッズが明快に要約した言葉によれば、その時期は「不安の時代」だったのであり、自分たちの知的・精神的諸問題の解決のために理性よりも啓示に頼るようになってしまった、というものである。フェステュジエールやドッズの感じとるところによれば、破局に導く崩壊を経験した社会のみが、中世のキリスト教文明の基礎として立ち現れるような宗教的理念や宗教的組織のさまざまな形態を生み出すことができるのであり、ロストフツェフが描写したような、ローマ帝国が広汎で深刻な「三世紀危機」を通過したに違いないという考えは、フェステュジエールやドッズのような側の研究者が提示した、深い感情によっても信頼を勝ち取ることになったという。この二つの研究グループにおいて、社会・政治の視点からと同様、宗教・文化の視点から見ても、三世紀は絶望的な時代であり、社会や政治で絶望的な時代なのだから、暗くて絶望的な思想がそこから出現して来たとしても、驚くにはあたらないというわけであった。ピーター・プラウンは1976年までに、こうした視点の数々に賛成できなくなっていたという。

 ピーター・ブラウンも二世紀末から四世紀初めの時期、あるいは古代末期に大きな変化があったことそのものは否定していないし、その中でも三世紀の百年間をいかなる古代末期の叙述においても中心にくることは間違いないとする。そして、「二世紀末から三世紀を経て四世紀に至る時期に、地中海世界の生活と社会関係がどのように変化したか、その特質を考えようとすると、やはり当時の聖性に関する議論以上に深く、それに関係するものはないのです。」(『古代末期の形成』)という。都市生活の発展も多様であったが、しかしそこから文化・宗教的要因の重要性が照らしだされてくるのであり、そして三世紀の宗教上の諸変化が、公共災害に対する数多くの「反応」に還元されないのだとしたら、それらの変化は空間的にはより私的な領域のなかで、時間的にはより長期的な広がりのなかに、すなわち都市や街区、それに宗教変化のなかに求められなければならないという。ピーター・ブラウンによれば、「対面社会で生きる緊張こそが、古代末期を特徴づける不幸の主題」(『古代末期の形成』)であり、小さな共同体の中での「栄光と悲惨」こそが、そこから深い宗教と文化の変化が生じてくる土壌なのである。
 自己放棄の体系の弁証法的展開における古い理念の崩壊という視点から言えば、かつてローマ帝国をあれほど活気づかせ、その肯定的な人生観を支えてきたことのすべてが空になり、ローマ帝国はすでに中世の冷たい陰のなかに生きていたにすぎなかったという、ピーター・ブラウン以前の研究者の見解は興味深い。ただ、古い理念の崩壊は、経済的・社会的危機がもたらすのではなく、それは契機とはなるかもしれないが、また同時に古い理念の崩壊が経済的・社会的混乱をもたらすかもしれないが、基本的には古い理念の崩壊は古い理念の自己崩壊として捉えていかなければならないのであり、ましてやそれがピーター・プラウンのいうように、ヨーロッパ啓蒙主義の基準に従って「合理的」であったか「非合理的」であったかの基準で判断するような研究姿勢であるとすれば、本論的にいえばそのような研究の利用価値は少ないといえよう。それよりは、古い理念の崩壊は新しい理念の創出に連動しているという自己放棄の体系の弁証法的展開の立場からは、当時の宗教をめぐる状況を、ピーター・ブラウンが否定的に記述する、破局の瞬間に対する反応、「衰亡」や「不安」といった状態がもたらす単なる否定的状況、ドッズがロストフツェフの『ローマ帝国社会経済史』のメロドラマじみた最後の章に立ち返って、この時期の非常に多くの思想家を特徴づけたように見える疎外感が現れるのは「かくも知的に貧困化し、物質的に不安定で、恐怖と嫌悪に満ちた三世紀のような世界から」に決まっているとする研究者よりは、宗教の持つ意味をより積極的に捉え、三世紀に遭遇するような宗教的情熱は、不可避的に完全な崩壊の縁にある社会の傾向を示すものではなく、このような宗教的情熱は、気ぜわしくはあるかもしれないが、もっと弾力性のある社会によって、その社会が、一種の調整期間を経過するときに惹き起こされるのであり、緊張として出現する調整期間の先には、このような社会にはまだ長い創造的な未来が広がっているという、ピーター・ブラウンの方が、本論にとってより有益な情報を与えてくれると思われるのである。もっとも、彼の見解が本論の立場とまったく一致するわけではない。例えば、激しい宗教的情熱や宗教上の新しい試みが、宗教組織のさまざまな形態において現れてくる時代は、けっして破局的な社会の崩壊のしるしではないということの例証として、非常に極端な神秘主義と禁欲苦行を伴うフランシスコ会の運動が、十三世紀というヨーロッパの興隆する時期に著しい成長を遂げたことをあげるが、此岸的理念から彼岸的理念への転換期であるかもしれないローマ帝国末期と、彼岸的理念の最盛期、あるいは崩壊期へと向かい始めていたにすぎない十三世紀のフランシスコ会の運動を、同列では取り上げられない。また、人類学的方法を重視する、あるいは生活のなかで訪れる小さな不幸、小さな「共同体」の中での「栄光と悲惨」こそが、そこから深い宗教と文化の変化の生じてくる土壌であるとするピーター・ブラウンに対し、人間の本質を問題にする本論は、個々人を問題にしているかもしれないが、個々人に起こる生活上の問題を無視したしところから出発しているともいえるのである。
 個人に訪れる不幸についていえば、それはいつの時代にもあるだろうし、対面社会で生きる緊張もどの時代にもあることであろう。ブッシュマンの社会にも軋轢はあったし、時には一方が遠くへ去っていくことによってようやく解消されることもあった。それ故、社会の変化を対面社会の緊張に求めるとすれば、古代末期は特にその緊張が高まった時期としなければならないし、その高まった緊張とはどのようなものだったのかが問題になる。また、ブッシュマンの社会に対して、その社会の中での「栄光と悲惨」ということはあまり意味のある言葉とはいえないが、やはり小さな共同体の中での「栄光と悲惨」は古代末期以外にもあったことであろうし、古代末期特有の「栄光と悲惨」が問題になるのだともいえる。個人の不幸といっても古代末期特有の個人の不幸を問題にすれば、それは古代末期がもっていた問題を浮き上がらせる事にもなるわけである。当然、古代末期特有の「栄光と悲惨」は、古代末期特有の個人の不幸と密接に関係するし、古代末期の問題と結びつくであろう。

 ピーター・ブラウンは古代末期は野心の時代でもあるという。人々は非常に高い競争状態に引き込まれ、権力や名誉、評判を競ってきた結果、競争の報酬は成功する少数者にとってはかつてないほど大きく現れる時代になったのである。そして、三世紀の危機の経緯において崩壊したのは、都市貴族それ自体ではなく、彼らがそれまで自分たちの破壊的な野心を都市に繋ぎとめていた、そして彼らの成功を古風な礼儀作法とともに隠していたメカニズムであったという。ピーター・ブラウンによれば、古代世界において、都市の公共生活の文化的・宗教的側面が単なる飾りものであった時期は一度もなかった。伝統文化や伝統的宗教が共同体の連帯意識を維持してきたのであり、後期帝政の社会を特徴づける諸現象、階級間の区別が先鋭化し、都市参事会員が貧困化し、富と地位がますます少数者の手に委ねられ、蓄積されていくことなどは、それまでの元首政期ローマ世界の社会史のなかで十分予期されることであったが、それに対して帝国各地のエリートたちは、彼らの伝統文化や伝統的宗教生活といった伝統資源を動員して共同体の連帯意識、都市の伝統的公共生活をを維持しようとしてきたのである。そして、五賢帝時代は「対等性のモデル」や全体としての共同体を強調する態度が、伝統的宗教儀礼の言葉でいきいきと血の通った表現が与えられた最後の時代だったという。五賢帝時代とは競争への強い衝動とそれを覆い隠す伝統的な公共生活の間の均衡の時代だったのだが、その均衡は微妙なものであり、三世紀になるとその均衡が崩れてしまい、人々はその個人の野心を?き出しにするようになり、地域共同体の少数の構成員が仲間を犠牲にして、特権的地位を享受する傾向が現れたために、「対等性モデル」は掘り崩されていったのである。
 それまで都市の有力者は都市に寄贈する公共の建物や彫像などの大きさでその権威を競い合っていた。しかし、野心の時代になると都市の中心地にあった「フォルム(公共広場)」をはじめ公共の場は重要性を失い、郊外や周辺の農村にあった個人の邸宅が重要な意味をもつようになり、都市の景観から見ても、古代末期の都市の栄光は公共ではなく私的な邸宅の中に見出され、私邸が都市を支配するようになった。しばしばそれらの私邸は伝統的な公共道路を侵食してその形を変えてしまい、公共建造物と同じ資格をもつかのように描かれようになる。ピーター・ブラウンによれば古代末期の都市は貧困化したのでもなければ儀式に欠けていたのでもなく、富と儀式が以前の手段、すなわち公共建造物と公共の信仰から離れていったのであり、有力者の儀式は神々の儀式以上の意味をすでにもつようになっていたのである。
 五賢帝時代はきわめて競争的だが、それにもかかわらず、仲間の人間や地域共同体と何を共有しているかを常に意識している人々の中で文化を創り出すことが他に例をみないほど達成されていたが、やがて伝統的神々への信仰も消えていくことになる。伝統的神々への信仰の消滅に関しては、劇的な側面もみせており、ピーター・ブラウンによればドイツの歴史家ゲッフケンは『ギリシャ・ローマ異教世界の終末』において、彼の深い碑銘学の知識によって、古代都市で異教が終末を迎えるその瞬間を見つけ出した。碑文は伝統的な都市の神々の信仰に、公共の忠誠心と個々人の心からの支持が向けられていたことを示していたが、ゲッフケンを驚かせたことに、こうした碑文は二世紀後半から三世紀初めになっても、まったく予期されないほどに数多く発見されたのであるが、紀元二六〇年以降、一世代のあいだに消失してしまったという。そして、ディオクレティアヌス帝の四分統治時代に一時的に衰えた火が燃え上がるが、その後は神々の上に永遠の闇が覆うことになる。

 ピーター・ブラウンは五賢帝時代の伝統的公共生活に競争への衝動を覆い隠す役割しか与えていないように見えるが、しかし伝統的神への信仰と結びついた伝統的公共生活の持つそれ自身の価値を考える必要があるであろう。伝統的公共生活とは、国家共同体主義と結びついているのである。国家共同体主義においては、人々は国家共同体の中で自己を神とするのであった。人々は国家共同体という共同体の中で自己を源初の肯定性にむすびつけ、自己を肯定化できるのであり、都市への忠誠心の中で自己を肯定化するわけである。神と自分たちの都市が一体化し、都市と自分たちが一体化することによって、都市の住民が神となるのだとすれば、当然人々は自分達の都市の神への信仰を大事にし、公共生活に積極的に参加することになる。都市の一員として彼らの神を敬い称える競争に参加することは、神と都市の一体性を示す行為であり、それはまた公共的な行為であるから、自分たちと都市を一体化することになり、さらに彼らの伝統的な神々を称えれば称えるほどその神は偉大な神ということになるから、自分達の価値もより高まるわけである。
 ローマ帝国は地中海から遠く離れた広大な地域を支配下に収めていたが、それでも、もともとあった「一つの小さな世界」という建て前にこだわっていたといい、ローマが広大な地域を支配しても、ローマ人にとっての国家共同体はローマ市であった。ローマが各都市を自己の国家共同体に組み込もうとしなかったということは、ローマ帝国の中での他の都市もまた、一定の国家共同体的性格を維持していたといえる。ピーター・ブラウンによれば、二世紀のスミルナのポレミオスにとって、スミルナに優る都市は存在しなかったし、皇帝すら彼には対等な存在にすぎなかったというが、中にはエーゲ海交易で潤っていたスミルナのような都市もあったのである。それ故、有力者の公共建造物への競争もまた国家共同体主義の名残だったといえる。その有力者が公共生活に興味を失っていったということは、国家共同体主義の崩壊がさらに一段進んだことを示しているといえよう。国家共同体主義の崩壊は人々が伝統的社会の中で自己価値化できなくなったということであり、自分で自分を価値化しようとし出したことが、野心の時代を切り開いたのである。もっとも、自分の力による自己価値化といってもその価値観の根底には国家共同体主義があるといえるであろう。一方、有力者が自分の都市のために出来ることを競い合うという考えは東部のギリシャ語圏では失われていなかったともいうから、野心の時代へ向かう傾向に対して、国家共同体主義を維持しようとする努力もまたあり、その二つの力の間の葛藤に、国家共同体主義的公共生活の中で自己価値化できなくなり、自分自身の力で自己価値化を計ろうとする諸個人間の競争がもたらす葛藤が加わったのが、古代末期の対面社会における緊張だったということになる。
 各都市の国家共同体主義は自己崩壊の過程をたどるしかなかったのであるが、さらには都市の有力者と皇帝との直接的結びつきが、その崩壊に拍車をかけることになった。ピーター・ブラウンによれば、二世紀から三世紀の初めには、農民は問題があると皇帝に直訴していたが、四世紀になると「パトロヌス(庇護者)」と呼ばれていた地元の有力者を頼るようになり、彼らに皇帝へのとりなしを頼むようになったといい、ローマでも地方の有力者が影響力を揮うようになって、ローマの主役は皇帝ではなくなっていった。皇帝の影が薄れ、農民と皇帝の一体性も薄れていったともいえるわけであるが、他方有力者の間では皇帝が無視できない存在としても現れてきた。かつては都市に寄贈する公共物でその権威を競い合っていた有力者が、四世紀になると地位の高さを競い合うようになり、皇帝から授けられる官職が重要な意味をもつようになり、個人が都市に寄付していた公共の建築物が急減したのもそのせいであるという。ピーター・ブラウンによれば、四世紀にギリシャ的東方の大都市出身の地方家族は、コンスタンティノーブルの元老院や宮廷に吸い取られる形で上昇し、生地を離れていく一方、彼らの後には恨みを含んで口やましく、貧困化した同僚が残されたのである。

 この都市の一部有力者の皇帝との直接的な結びつきは、各都市の国家共同体主義の崩壊に拍車をかけたかもしれないが、それはまたローマ帝国が一つの国家共同体へなっていく動きとも無関係ではないのである。ローマ市の主役が皇帝ではなくなっていくとことは、同時に皇帝にとってローマ市が特別な都市ではなくなっていくということでもあった。皇帝たちはライン川やドナウ川周辺に宮廷を構えるようになったし、皇帝自身もローマ市民出身ではない者たちが実力でのし上がってくるようになり、ローマ市への関心も薄れていったのである。ローマ帝国全体については、ピーター・ブラウンによれば四世紀のローマ帝国にみられた特徴の一つは、ローマ帝国全体の平準化が進んだことで、各地の支配層は同じように帝国の政治に関与するようになり、イギリスで見つかったモザイク画にある支配層の姿は、アンチオキアやエルサレムでみつかったモザイク画の支配者層と同じであるという。さらに、下層民までもが「ローマ人意識」を持つようになり、ガリア地方やスペインではケルト語に代わってロマンス語が使われるようになった。さらに三世紀以降になると被征服民も「ローマ人意識」を持つようになっていたという。ドナウ川流域は兵隊や皇帝を多く輩出したが、同時に狂信的な伝統主義者や献身的な役人や司教も生み出した。ローマ帝国内の住民が一体感を持つようになり、誰もが「ロマヌス(ローマ人)」を自称するようになったばかりか、帝国そのものも「ローマニア(ローマ人の国)と呼ばれるようになり、同時にローマ帝国が違った意味を持つようになり、かつてローマ人が忠誠を誓っていたローマの元老院は新しいローマ人には何の意味も持たなくなり、特にローマ帝国の東部ではローマ帝国はローマ皇帝のことを意味するようになリ、皇帝に強い忠誠心を持つようになっていた。ローマ帝国全体が一つの国家共同体化していく中で、皇帝のみがひとり公共の喜びと儀式のすべての創始者となり、テシオドシウス二世の治世までには、権力の儀式はビザンツの最高実力者、すなわち皇帝自身に集中していくことになる。ローマ帝国が一つの国家共同体としての形成されていくとすれば、もはや各都市の都市を国家共同体とする国家共同体主義はその意義を失っていくことになるわけである。ただ、皇帝を中心とするローマ帝国の国家共同体主義の再強化も結局その崩壊を押しとどめることが結局は出来なかったということである。同時に、ローマ帝国を一つの国家共同体とする皇帝を中心としたこの国家共同体主義の形成も違った意味をもっていくことになる。すなわち、国家共同体主義の再強化から新しい彼岸的な理念の下での国家共同体主義の再定立である。コンスタンティヌス帝以後のキリスト教徒のローマ皇帝は、皇帝ひとりが公共の中心になっていくかもしれないが、自己を神にしようとはもはやしないであろう。また、中心理念としての国家共同体主義と再定立された国家共同体主義では、その国家共同体主義に求められる強度も違うであろう。再定立された国家共同体主義においては国家共同体としてのローマ帝国が国家共同体として不十分さを残していたとしてもかまわないともいえるわけである。
 また、キリスト教を中心理念とする自己放棄の体系の中で再定立される国家共同体が、まったく伝統的な国家共同体と無縁なものになることもないであろう。キリスト教ローマ帝国においてさえも、その一体性をキリスト教ばかりでなく伝統的なものにも求めようとしたのである。もともとローマ帝国の支配者が他の人々に要求したのは、文化的な画一性、彼らと同じ生活様式や教養を身に着けることだけであったという。ローマ帝国の西部ではラテン語、東部ではギリシャ語を話せる能力が求められた。新しい支配者と伝統的な支配者は古典教養によって結びついていたのである。四世紀は、コンスタンチヌス帝がキリスト教に改宗したことで有名であるが、同時に古代世界への回帰や古い宗教の復活が盛んに行われていた時代でもあり、ディオクレチアヌス帝は古代ローマの復興に情熱を燃やしていたし、ユリアヌス帝は伝統的な異教を復活させることに熱心であった。ピーター・ブラウンによると四世紀にキリスト教徒と異教徒が争っていたのは、どちらが本物の「パイデイア(古典教養)」を身に着けているかということであって、古典教養の必要性を認めていることでは両者は同じであったという。

第二項 ローマ帝国末期の聖性

 ピーター・ブラウンによれば、ローマ帝国末期の変化の特質を考えようとすると、当時の聖性に関する議論以上に深く、それに関係する物はなかった。ピーター・ブラウンで重要なことは、キリスト教がローマ帝国のあらゆるものの対極にあって、それらと対立するものとして捉えられているのではなく、キリスト教をもその中に含む古代末期における聖性についての大きな変化をとりあげていることである。「地中海世界における宗教体験の共通語が、全体として変化してしまったということが感じられるのです。この共通語は地中海の岸辺を洗い、すべての沿岸住民に触れてきましたが、ほとんど気づかれないほどの、ゆっくりした潮の満ち引きのなかで変化したのです。異教徒もキリスト教徒も同様に、別の宗教形態に対する新しい立場を採用するようになっていたのです。この新しい形態の宗教生活においては、人間が超自然との関係で何が達成できるかへの期待感が、すでに五賢帝時代とは微妙に、そして不可逆的に異なったかたちに変化してしまいました。この変化のなかで、キリスト教の教会は、その異教同時代人からとまったく同様に、自らの過去とも切り離されたのです。キリスト教の宗教性の新しい形式によって、ローマ社会におけるキリスト教指導者の新しい地位が認められたのです。」(『古代末期の形成』)とピーター・ブラウンはいう。ローマ帝国末期の変化がキリスト教をも巻き込んだ一つの大きな変化であったことは、この世に絶望し、生きることに意味を見出せなくなった古代末期の知識人を救ったのが新プラトン主義であり、それを引き継いだのがキリスト教であったというピーター・ブラウンの言葉が示しているといえる。彼によればキリスト教も異教的哲学者を排除したわけではなく、アウグスチヌスにとってプロティノスの存在は重要な意味を持っていたし、新プラトン主義的な考え方はキリスト教徒もその例外ではなく、特に古代世界の伝統がさほど強固でなかった西ローマ帝国では、キリスト教徒以外にプロティノスの遺産を継ぐ者はいなかった。

 では、ゆっくりとした変化の中で新しく登場してきた宗教体験の共通語とはどのようなものなのであろうか。ピーター・ブラウンは当時について、「これほど『来世志向』が強いとされる時代はめったにありません。実際、よりきっぱりと『天上世界への志向』が強かった時代であったと言ってよいでしょう。天上と地上との対立、すなわち星たちに近い世界とこの世の鈍重な事物の世界、エプラニオスとエピゲイオスの対立は、この時代の文学につきまとう主題です。」(『古代末期の形成』)と述べている。のちに西欧と呼ばれることになる地域では、一世紀から二世紀にかけてオリエント出身の商人が持ち込んだオリエントの宗教が流行したが、キリスト教もそれ以外のオリエント生まれの宗教も、ピーター・ブラウンによれば「この世」に対する否定的な態度では同じであった。ローマ帝国末期における聖性の変化とは来世と強く結びつく聖性、彼岸性へと向かう聖性への変化なのだといえよう。勿論、聖性そのものが彼岸的なものであるから、これは相対的な意味でいえることであり、神でいえば国家共同体主義における神は王が神にも成れる神であり、それだけ人間的な神、此岸的な性格が強い神だったともいえるわけであり、それに対して人間と隔絶した神はそれだけ彼岸的な性格が強い神といえるわけである。
 死後に訪れる運命の違いも重要問題なっていた。ピーター・ブラウンによれば、キリスト教においても異教においても、死後に「救いを約束された者」と「滅びを運命づけられた者」の違いが決定的となってきたし、これは、伝統となっていた集団主義的な考え方とは大きく違っていたという。人間の二分化という点ではそれは国家共同体主義の否定であり、死後の運命が問題になっているという点では彼岸性が問題になっているわけである。
 彼岸的なものへと向かう傾向は、「大文字で書かれた単数形の神」としての至高神の登場についてもいえる。それまで至高神は伝統的な神々を統べる形で漠然とし存在していたが、至高神の周辺にあって至高神を隠していた神々が姿を消し、「大文字で書かれた単数形の神」として至高神が姿を現してきたという。彼岸的な理念から此岸的な理念に向かうことによって、天空神が姿を隠し、より地上的な神々が現れてきたのだとすれば、人間とも近い伝統的な神々が姿を消し至高神が現れてくるということは、此岸的な理念から彼岸的な理念に逆に向かった動きとみることもできるわけである。ピーター・ブラウンによれば、「大文字で書かれた単数形の神」はグノーシス派を含め「新しい風潮」のもとで必要とされるようになったのである。
 この来世志向、彼岸性は、エジプトの修道士にもいえるかもしれない。エジプトの修道士のアナコレシスとは、この世にかかずらわないことであるが、三世紀のテーマは新しく、ずっと根源的な意味をもって四世紀の修道士たちの心に出現したのであり、ピーター・ブラウンによれば、三世紀の理論と四世紀の実践との決定的な相違を説明するのは、禁欲修業の徹底性であった。しかし、その禁欲修業の真の意味は、禁欲修業者とは自らを「死者」としてしまった人間であり、その死とは社会的死であった。キリスト教徒が伝統的な共同体ではなく、キリスト教団に帰属意識をもったということ自体が、彼岸に住む人間になったということであろう。キリスト教以外のオリエント発生の宗教の信者達も、自分たちの帰属先を都市ではなく信仰集団に求めるようになっていたという。
 ローマ帝国末期の聖性における彼岸性は、人間が受動的になっていったことにもいえる。ピーター・ブラウンによれば、「新しい風潮」は、自分を巨大な力によって生かされていると考えるような、それまで存在しなかった新しい種類の人間を生み出したのであり、三世紀から四世紀にかけてのローマ帝国で活躍した人物は、いずれも「大文字で書かれた単数形の神」であれ、「小文字で書かれた複数形の神々」であれ、自分をその召使と信じて、その指示に従って行動していたという。受動性は悪魔の登場についてもいえる。「罪を犯す」ことのもつ意味が、従来とは違ってきたのであり、「罪を犯す」のは、たんに「判断をまちがえる」からではなく、目に見えない悪魔の力に操られた結果だと考えられるようになったという。受動性は創造の情熱の否定であり、彼岸的な理念と結びついていた。ピーター・ブラウンは、単純に「あの世」に対する関心の強まりということで片づけるのはまちがっており、住んでいる世界が大きく変わろうとしているとき、人間が「大きな存在」に頼ろうとするのは当然のことなのであるとする。しかし、単に大きな変化が問題なのではなく、人々が「大きな存在」に頼ろうとするかどうかは、あるいはどのぐらい強く頼ろうとするかは、その変化の方向性も考えなければならないのではないだろうか。人間が彼岸的な理念に向かうとき、受動的になり、「大きな存在」に頼ろうとするのである。

 来世志向、彼岸性に向かう変化の中で、キリスト教は彼岸的中心理念として創出されていったわけであるが、キリスト教を含んだローマ帝国末期の潮流があり、その潮流の中でキリスト教が中心理念となっていったのだとすれば、あるいはキリスト教以外のものが中心理念として定立された可能性もあったわけである。キリスト教が広まっていくうえで重要な意味をもったのは(とくにギリシャ語圏)、教会の指導者が地域の支配者層とおなじ考えか方や習慣をもつようになったからだともいう。ピーター・ブラウンはユリアヌス帝が長生きしていれば、ローマ帝国の支配層はキリスト教を放棄していたであろうともいい、そうすると、ヨーロッパにおける国家共同体主義の崩壊の後には、キリスト教とは違った形で彼岸的中心理念が創出され、ヨーロッパがキリスト教的中世とは違った景色を見せていたかもしれないわけである。もちろん、民衆にキリスト教が広がることにより、結局ヨーロッパはキリスト教によって色づけられることになったかもしれない。あるいは、中心理念といえるようなものがないままに、漠然と彼岸的な雰囲気が漂う世界が生じていたかもしれない。

第三項 ローマ帝国末期と個人

 ピーター・ブラウンによれば、五賢帝時代を見ると神に対する個人の役割はきわめて抑制されていたことが分かるわかるが、次の世紀になると、個人が突然焦点となるという。例えば、小アジアの豪華な装飾石棺からは死んだ人間の個性は何もわからず、語るのは埋められた人物の洗練された生活様式と古典文化のみであったが、一世代のあいだに肖像画が石棺の上に現れ、三世紀のなかばまでに肖像画が中心の位置に移動していた。国家共同体主義は総ての国家共同体成員を神とする平等性の中で、人々は自己を価値化することができた。そこでは特に個を強調する必要もそれほどなかったといえよう。しかし、調和と対等性と結びついた伝統的な神々への信仰が失われていくなかで、ローマ帝国末期には国家共同体主義の崩壊が決定的な段階にまで進んでいったということが、碑文にみられる古代都市での異教の終末が示しているといえ、ピーター・ブラウンによれば、かつて都市を支配していた集団主義的な考え方が二四〇年以降急激に衰退していったとされるが、そのような国家共同体主義の崩壊の中で個人が焦点になって来たわけである。
 彼が「野心の時代」と名付ける時代は、個人が伝統的共同体の枠を破って飛び出してくる時代であり、均衡と抑制という伝統的共同体によって抑えられていた競争への強い衝動が解き放たれていった時代であった。そして、フィロティミアという言葉は五賢帝時代に帰される愛郷心、尚古趣味、空しさといった感情の背後に潜む衝動を表わすと言うが、それはいつ爆発するか分からない代物で、このフィロティミアによって上層階層のメンバーは社会生活のあらゆるレベルにおいて、騒々しい競争に委ねられていたのだという。愛郷心、尚古趣味、空しさといった感情は国家共同体主義とその崩壊に伴う感情ともいえるし、もしそうなら国家共同体主義の崩壊が個人を表面に浮上させ、競争社会を作り出したということになる。ローマ帝国末期の個人の出現は、単にもともと競争的であった人間が、共同体の重石が外れることによって個人的な野心が前面に浮上してくるといったものではなく、もっと深い意味がそこには在ったと考えるべきであろう。

 ピーター・ブラウンによれば、古代末期の「新しい風潮」のもとで起きた「宗教革命」について考えるとき、まず指摘しておきたいのは、個人の内面世界を重視する考え方が生まれてきたことであり、個人の内面世界は、もはや外部の世界とは無関係に存在するようになっており、それまで繋がっていた内と外の世界が、突然切り離され、個人を取り巻く外の世界が個人にとってよそよそしいものになってしまい、伝統的に大切にされてきたものが、どうでもよいものに変わってしまったのであり、マルクス・アウレリウス帝が書き残したものに、すでにその傾向が窺えるという。「新しい風潮」のもとで書かれた文書には、キリスト教徒によるものにせよ、異教徒によるものにせよ、この「改宗」の結果がよく表れているのであり、彼らにいわせれば、古い社会の束縛を破って「本物の個人」が現れたのである。そしてその「本物の個人」とは、「ヘルメス・トリスメギストス(偉大なヘルメス神)」の信者として「新しく生まれ変わった」者やグノーシス派の「真の知識に目覚めた」者、あるいは洗礼を受けてキリスト教徒に「生まれ変わった」者は、新しい自分が「大文字で書かれた単数形の神」とともにあり、伝統的な神々を信じている周囲の人間とは違っていることを痛感していた個人なのである。個人の内面世界が独自性を主張するには、同時に孤独な個人を支えてくれる神が必要になってきたのであり、それまでの神々が人類全体を一纏めにして面倒をみるのに対して、別個に個人だけを面倒みる神であったという。
 ローマ帝国末期の個人の登場、「本物の個人」の出現は二つのことを分けて考えなければならないであろう。古い理念の崩壊と新しい理念の創出過程については、二つのことがいえた。まず、古い理念の崩壊に関係するのは創造的無としての自我であり、創造的無としての自我にとって古い理念は無価値なものであり幻想であった。すなわち、古い理念の否定には真理性があり、次にその真理性を基に新しい理念を創出しようとする新しい自己放棄者が存在することになる。ピーター・ブラウンは空しさといった感情の背後にフィロティミアを置くが、本当は空しさといった感情の背後にあるのは創造的無としての自我というべきであろう。それまでの理念を無価値とし幻想とする創造的無の中で、それまでの自己放棄者は空しさを感じるのである。そして、古い理念の否定という真理性をバネに新しい理念を創出しようとする人間が、その新しい自己放棄者にとっては「本物の個人」とされるわけである。ピーター・ブラウンによれば、エジプトの隠者達は、本当の自己発見に着手した者とみなされていたというが、自己を死者とした人間が本当の自己を発見した者とはどういうことであろうか。そこにみられるのは、創造の情熱としての自我が再び自己放棄の弁証法的展開の中に繰り込まれていく姿なのではないだろうか。また彼は、「キリスト教は、どんな者でもキリスト教共同体内部に入ると、前より賢くなったと感じさせる手段に長けていました。キリスト教の教師が提供した人間と世界に関する見解は、社会生活上の多くのゴルディオスの結び目を断つものでした。しかも、その一刀両断の作業は象徴的次元で安全に行われたので、よりいっそう確信できるものとなったのです。」(『古代末期の形成』)というが、崩壊した前理念の否定という位置にいる限り真理性をもつわけであり、その真理性によって前より賢くなったと感じさせることもできるであろうし、競争社会が崩壊する国家共同体主義の枠内で生じたことだとすれば、その競争社会のごたごたから自分を切り離すことも可能にするであろう。
 中世から近代への大きな変化のなかで、個人はますますその重みを増したが、人間は逆に神を否定しようとしたのであるから、個人の登場を単に神の性格の変化や伝統的な神と人間の関係の崩壊と結びつけることはできず、中心理念の崩壊の裂け目から個人が芽をだすということであって、しかもその個人が唯一者として育っていくというよりは、結局自己放棄者に留まり続けるということである。自己放棄も創造的無の中では創造への可能性を持つものであった。自己放棄の理念の崩壊の中で個が露出してくるということは、その奥に創造的無としての自我が存在しているということであり、また自己放棄者であることを選択するということは新しい自己放棄の理念の創出に向かっていく動きに続くわけである。

第四項 神の代理人

 古代末期の宗教的変化の中でピーター・ブラウンが特に注目するのは、「神の友」「神の代理人」あるいは「神の人」といった存在の登場である。三世紀末にはプロティノスやポルフェリオスの学派において、また四世紀初頭にはイアンブリコスによって、異教哲学のあいだでもより確かな輪郭をとるようになったし、キリスト教における「神の友」の発展も異教世界において高まりつつあった潮流の一部を形成していた。
 これらの人間たちは、本論的には複雑な性格を持っているといえよう。まず、彼らは国家共同体主義の否定になっている。ピーター・ブラウンは『古代末期の形成』で「帝政期における信仰発展の特徴のひとつとして確信できるのは、信仰が神の人格よりも神の力に向けられたことである。」というアーサー・ダービー・ノックの言葉を引用しながら、紀元二〇〇年から四〇〇年の間に、「神の力」を地上において代表するのは、限られた数の、例外的な人間の代理人たちであるという考え方が、次第に受け入れられるようになっていったという。野心の時代における格差の拡大は、単に世俗的な世界だけでなく聖なる世界においても生じたのである。超自然の力は彼らに個人的に与えられたもので、それは仲間の人間たちにもはっきり知覚できたのであり、キリスト教の教会がこの時期に成長したことの重要性もここにあるという。キリスト教の教会は最初に彼らの偉業がキリスト教共同体のなかで記憶され、語られることになった使徒、次に二世紀から三世紀に掛けての殉教者がおり、それからすでに絶大な権威を有していた三世紀後半の司教達、最後に禁欲修行者を起源とする偉大な聖者たちを、「神の力」を地上に置いて代表する英雄として送り出すことになった。ピーター・ブラウンによれば、「神の代理人」という存在はそれまでの伝統的社会と対立するもので、多くの集団のあいだで、それも長期にわたって、超自然を信じる感情は強く、衝動的ですらあったが、しかし、そうした超自然への信仰は、特別な人間が地上において超自然を代表するなどという主張は排除するか、さもなければ狭い範囲に制限するようなやり方で表現されるのが常だった。それに対して、古代末期に特有の趣を与えるのは、まさにこのような特別の人間の主張なのであり、同類の人間に超自然と結びついた権力を委ねたり、その人間に対する忠誠を要求したりすることを許してしまうような決断をすることは、小さな対面集団から構成された社会にとっては、大変な決意の必要なことで、とりわけその人間の主張が、まだ逆らえないほど明白で強制的な力を持つまでに至っていない場合がそうで、それ故この発展を三世紀に生ぜしめた状況は注意深い分析を要するという。言える事は、もし「神の友」「神の代理人」あるいは「神の人」といったことが限られた人間にのみいえるとすれば、国家共同体主義においては総ての人間が神であったのであるから、それは国家共同体主義の否定となっているということである。もっとも、国家共同体主義においても王は特別な存在で他とは区別される人間であった。しかし、他方では王と他の成員は国家共同体の成員ということでは区別はなく、対等であり同質な存在でもあった。それ故、「神の友」「神の代理人」「神の人」という存在が国家共同体主義の否定になっていたかどうかは、それらの存在と他の人間との間に同質性も想定されていたかどうかが問題になる。その点については、禁欲修行者が世捨て人になって村の外で生活し「死者」と看做されたことは、彼が一般の人と同じ共同体で生活する者であることの否定であり、禁欲修行者と一般人との同質性の否定とみなせるのではないだろうか。王が国家共同体の内部で神であったとすれば、禁欲修行者は農村の秩序の外に出ることで神秘的な力を獲得したと考えられていたのである。
 「神の代理人」のような人達が国家共同体主義の否定であることは、彼等が人々の神との直接な接触、神との接触の容易さや平等性の否定でもあったことからもいえるかもしれない。ピーター・ブラウンによれば、「神の代理人」が登場する以前の社会とは、たとえ発作的であるにせよ、直接的な神の介入が一番強調されるような風土であり、五賢帝時代の上流社会で皇帝と個人的にお目通し願うときとそっくりな、超自然力の神的源泉に接近するには、つとめて形式ばらない態度が大切で、人間と神との境界はきわめて流動的で、その境界領域は開かれており、誰にも神への接近が容易な社会であった。それに対し「神の代理人」の登場により、代理人を通じて間接的にしか神と接触できなくなったのである。また、四世紀の初めまで、エジプトの村落社会では沈黙の宗教戦争が遂行中で、異教徒たちにとって、なお神々は手の届く範囲におり、神々の祝福は定住共同体の正常な社会生活の一部として織り込まれ、神々は神官が呼べばすぐそこにいた。それに対しパコミオスとテーベの修道士たちは、神への接近のしやすさという問題に関していえば、彼らは大いなる拒絶でもって応え、以前の時代のような簡単に来世とこの世を往き来できる親密さは消失したという(『古代末期の形成』)。また伝統的神託は神が人間に自らを知らしめる特別の方法を凝縮していたが、憑依状態や夢で神々が突然出現することに対しては、人間は皆同じく受動的であり、したがって平等であった。国家共同体主義が人々を神とするものであるとすれば、人と神との接触はいわば神と神との接触であり、その接触は直接的で容易で人々に平等に開かれたものであろうし、その関係性は友人同士の親しさといったものであろう。「神の代理人」が人の神との関係性の直接性・容易性・平等性・親密性の否定であるとすれば、国家共同体主義がもたらす人と神との関係性の否定であり、国家共同体主義の否定でもあるといえるわけである。ピーター・ブラウンによれば、五賢帝時代には伝統的神託はその強い集合的連関を維持していたし、神託が価値ありとされたのは、全体としての都市のために、全体としての都市に影響する問題について答えたからであった。「対等性のモデル」や全体としての共同体を強調する態度を物質面で示す好例として、公共の信仰に財産をふんだんに使ったことが挙げられたが、神々は共同体で分かち合うことのできるすべてを代表していたのであり、伝統的な神々への公的崇拝によって、調和と対等性の強い集合的イメージはなお生きていたし、暗黙のうちにせよ、それに代わるものをかたくなに排除していたのである(『古代末期の形成』)。なお、伝統的社会において憑依状態や夢での神との接触において人間が受動的であったのは、人間の能動性の否定、すなわち彼岸性を意味するのではなく、人間が神であるとすれば人間が神と接触するのに特別の努力を必要としない、人間であることがすでに神との接触が保障されているということであるという意味での受動性と考えるべきであろう。
 此岸的理念の時代から彼岸的理念の時代への自己放棄の弁証法的展開をみようとするとき、此岸的理念の時代のほうが神はより身近で直接接近できる存在だったというのは、少し矛盾しているようにも思える。彼岸的理念の時代の方が、神の存在は強調されるであろうし、人間にとって神はより大きな意味を持ち、それだけ身近な存在なのではないだろうか。しかし、国家共同体主義とは結局民衆とは神ということを主張しようとするものであるとすれば、国家共同体主義においてこそ、逆に人間にとって神は身近で直接接近できる存在でなければならないともいえるわけである。それに対し、「神の代理人」を媒介としてしか神と接触できないということは、それだけ人間にとって神は遠い存在となったということであるから、人間と神の一体性も破れるということであり、人間自身からいえばそれは本来の無へと帰るということであり、神ははるか彼方に仰ぎ見るべき存在になっていくと同時に、神の前で人間自身はますますみすぼらしい存在になっていくことを意味するわけである。神とは外化された存在即肯定であったとすれば、彼岸的理念においては人間の存在即肯定性は否定されるのであるから、存在即肯定としての神も人間から遠い存在となっていかなければならないということである。

 「神の友」「神の代理人」「神の人」が国家共同体主義の否定であるとすれば、その根底にあるのは人間と神との断絶であり、国家共同体主義において人間か神であるとすれば、その否定は人間は神ではないということになる。そして彼岸的理念において源初の肯定性が人間において否定されるとすれば、源初の肯定性の外化としての神はあくまでも外化したものとして存在しなければならないわけであった。もっとも、神と人間の断絶といっても、様々な立場でその断絶の度合も違っており、グノーシス派では人間と神との断絶は明確であったし、新プラトン主義よりキリスト教の方が断絶の度合は高かった。時代によってもその断絶性は違っていたし、さらに注目すべきはそれぞれの立場で断絶の方向性が違うことである。ピーター・ブラウンの本を見ると、キリスト教ではより断絶が深まる方向に進んだのに、異教の哲学者では神と人間の関係が融和される方向に進んだように見える。キリスト教では、初期のオイゲネスの温かい楽観主義は、自分が力強く愛情溢れる不可視の存在によって養われているのだという感覚に由来しており、教会に行くキリスト教徒は守護天使によって周囲を守られた建物に入って行き、信徒の悪魔に対する恐れは、天使が現存して信徒が思考を紡ぎ出す監督をしてくれるその確信で和らげられたという。そしてオリゲネスの信徒が霊的進歩を遂げると、天使の階層秩序の掃き清められた偉大な階段を、確実に上っていくことになっていた。しかし、そのような地上生活の大きな希望のことである「天使の生活」という概念は、それ以後のキリスト教禁欲修行者を魅了したものの、はねつけられる考えであった。四世紀末から五世紀初頭にかけてのいくつかのキリスト教神学論争が示すのは、いかに潮流が変化したかであり、オリゲネスは今でははるか以前の霊的機会が平等であった時代に属するように思われ、オリゲネスと西方の対応物であるペラギウスの教説は、一世代のうちに司教と教会聖職者によって断罪されてしまい、これらの断罪者たちは、すべてさまざまな程度で、新しい禁欲の感覚に染まっていたという。ピーター・ブラウンによれば、キリスト教の教会においては、少数者の霊的優越が以前よりもずっと確実でより明白となったが、それは普通の罪深い信者の手に「天上の」力を授けるようなことになる、超自然への容易な接近を拒否することによってなのである。
 一方、異教徒の哲学者においては、ピーター・ブラウンによれば、コンスタンティヌスのキリスト教への改宗に際して、キリスト教徒の教会は、わずか数世代の内に、どれほど迅速に変化してしまったかを見せつけたのに、そのとき異教哲学者のほうはようやく手探りで「神の人」の安定したイメージを探し始めたばかりだった。異教徒において天と地の容易に往き来できる結びつきは、彼らの継承した文明の一体性と連帯感をいくばくか反映していたし、その文明は、彼らによく試されたあの世への接近手段を、大変豊かに伝えてくれていたのであり、したがって、偉大な伝統の危機は、まさに天と地の関係の危機に他ならないと感じられたのである。そして、異教徒たちはこの宇宙に深く埋め込まれていると感じることを、なお予期していたが、キリスト教徒は異教徒の信仰が依拠するその照応の網の目を荒々しく引き裂いてしまったのであり、プロティノスがキリスト教に感化されたグノーシス主義者たちに食ってかかったのもこのためであるという。

 ピーター・ブラウンは異教徒の哲学者に神と人間の断絶に向かう、まだ不十分な姿勢をみるわけであるが、異教徒の哲学者はキリスト教徒の後を追っていたというよりは、キリスト教徒とは逆の方向に向かい出したというべきなのかもしれない。イアンブリコスはポリフュリオスの、神々の力が地上で利用可能なことを拒否する傾向があった厳粛な哲学的超越主義に異議を唱えたという。異教徒の哲学者は自分のことを「ヘレネス(ギリシャ至上主義者)」と呼んでいたが、三世紀末ギリシャにやってきたグノーシス派の考え方を受け入れようとしなかったし、一世代前の知識人はプラトン主義を装ったグノーシス派のペシミズムに惹かれていたが、三世紀末の知識人は物質界を軽視するグノーシス派のペシミズムを拒否したのである。
 ピーター・ブラウンによれば、神との接触の問題について、古代末期の宗教発展についてよく言われるのは、それが自己と身体を区別する考え方が強まることによって特徴づけられるということである。古代末期の人間はギリシャから自己が多様で、多くの層から成りたっているという感覚を受け継いでいたという。魂の多重な階層の一番上には真の魂が存在する。そして、この自己の階層の頂点に古代末期の思想家は目に見えないが、個人的に親交を得ることのできる守護者を置いた。この守護者はその個人が上方に拡大していったものと考えられており、特に傑出した人間は単に強い見えざる守護者を持っていただけでなく、彼とその守護者との親密な関係はそれぞれのアイデンティティを溶かして一つにしてしまいかねないほどであった。この時期の皇帝とのその「守護者」について、サービン・マコーマックは「われわれの扱っているのは、神と人間のあいだに設定された境界を越えることができる、対の状態の存在を見ることを可能とする宗教意識なのです。」と述べているというが、ピーター・ブラウンによれば、古代末期の人間はサービン・マコーマックが指摘したような昔どおりの信条を新しい問題を解くために再編したのであり、提起された新しい問題とは、人格それ自身の構造のなかで神との接触をいかに持つかという問題であり、偉大な人間は偉大な守護ダイモンをもっていたが、これら守護者は彼らにとって、彼ら自身の魂と同じほど個人的なものだった。
 古代末期の異教哲学者は神と人間の連続性を何とか維持しようとしたのだともいえ、プロティノスの新プラトン主義は断絶した神と人間の間に再び架け橋を架けようとする動きと見るべきなのかもしれない。プロティノスは超越した神または唯一者から数段階をへて感覚界へと下降する段階組織をなす宇宙と、自己を叡智界を通って最高の唯一者に再上昇される内的・精神的経験を明白に強調したといわれる。プロティノスにおいて人間は神にも成れる存在と考えられていたともいえるわけである。
 そして、神と人間の断絶に対して、再び神と人間との間に繋がりを持たせようとする努力はキリスト教にも生じてくることになる。ピーター・ブラウンによれば、「ヘレネス」たちにとってグノーシス派はヨーヨーの糸を切ってしまったようなもので、善神と「この世」は関係がなく、人間の体と心もお互いに関係がないことになっていた。それに対して、目に見えるものと見えないものを繋ぎとめること、つまり人間の内面と外の世界を繋ぎとめることによって、自然界も魂にとって意味をもつ存在であるとしたのはプロチノスであった。キリスト教徒もヨーヨーの糸は切れることなく繋がっており、信者はつねに唯一神の存在を意識していた。無限の広がりをもつ底なしの宇宙のなかで、自分の居場所を探し求めた新プラトン主義の哲学者は、目に見える世界と神との繋がりを強調したし、彼らは、神と人間を繋ぐ「鎖」とか、「綱のような絡み合い」「混ざり合い」といった表現を使って、その関係を表現していた。四世紀のローマ帝国では、このような考え方が知識人のあいだで支配的になったが、キリスト教徒もその例外ではなかったという。コンスタンチヌス帝の時代までは、多神教と戦う一神教という側面がキリスト教で強調されていた。殉教者は、信仰のために死を選んだのである。ところが四世紀になってキリスト教徒が古典的な教養を見に身につけるようになると、神と人間の間に仲介者が求められるようになったのである。
 もっともピーター・ブラウンによれば、「ヘレネス」たちのおかげで古代末期の人たちは、自分をとりまく外の世界に対する疎外感を克服することができたのであり、グノーシス派のペシミズムやキリスト教の禁欲主義だけではこの疎外感の克服は不可能であったが、彼らもペシミズムとは無縁であったわけではなく、神秘に満ちた世界も夕陽の輝きのように、やがて消えてなくなるものだと考えていたが、グノーシス派のようにそれが無意味なものだとは考えていなかった。神秘に満ちたこの世界は神からのメッセージであって、伝統的な神話はその証拠だと考えていたのである。

 「神の友」「神の代理人」「神の人」といった存在は、神と人間の中間に位置する存在であり、人間が神であることの否定であると同時に人間と神を仲介する存在にもなり得る立場にあるともいえる。ただ、神とは外化した源初の肯定性であり、従って神と人間の隔絶は人間と源初の肯定性の隔絶であり、彼岸的理念とは源初の肯定性で示される創造的有との隔絶、創造的無の固定化でもあるとすると、彼岸的理念にとって神と人間を仲介する存在は必要ないともいえる。断絶した神と人間の間に仲介者を置かざるを得ないということは、彼岸的理念を求める中でも人間は神に成ることを求めざるを得ないということであり、人間は幻想であると同時に実体的でもあった源初の肯定性=創造的有を求めざるを得ない存在だということを示しているのかもしれない。自我が創造の情熱である以上、そういうことは考えられることであろう。また、神が源初の肯定性の外化であるとすれば、神と人間との間には何らかの繋がりがなければならないということでもあろう。もし神と人間が何の関係もないとすれば、神はもはや源初の肯定性とも何ら関係のない存在となるであろうし、神と人間の間に何の関係性もないとされれば神は人間にとって存在しないも同じことになるであろう。神と人間を結びつける仲介物を求める動きも出て来るということになる。

 ピーター・ブラウンによれば、修道運動とは地中海規模の共通のテーマを地方的条件において、非常に念入りに、また帰結として実現した成果であり、古代末期の形成において、エジプトの修道士はコンスタンティヌス以上の持続的役割を果たしたとされる。そして、エジプトの修道士というキリスト教の新しい英雄と指導者は、天と神々のいなくなった地のあいだに立つことになったという。砂漠の師父たちは、人間を悲惨なかたちでほかの人間に縛りつける絆には最新の注意をはらったが、三世紀の異教哲学者やキリスト教思想家と違って、人間の魂をその身体に縛りつける絆にはあまり関心をはらわなかった。禁欲修行者とは、劇的で、なおかつ容易に理解できる社会的離脱の儀礼を行う者とみなされていたのであり、結果として、地上における「天の」力は、触れることのできない、あの世に対する関係とはあまり結びつけられることはなくなり、逆にこの世に対する明白な禁欲的姿勢と結び付けられるようになった。修道士たちは「地上の」領域で「天上の」力を行使するという主張に含まれる、相矛盾した道から降りてしまったのであり、彼らは「天上の」力を非常に単純に定義してしまったが、それは使われるべきでない力ということであったという。神への接近しやすさという問題に関して言えば、彼らは大いなる拒絶でもって応えたのである。神と人間の断絶に向かっていた傾向が揺り戻しにあったように、「来世志向」「天上世界への志向」に対する、修道士は地上へ再び向かう揺り戻しだったわけである。もっとも、このようなピーター・ブラウンの言葉は、少し割り引いて聞く必要があるであろう。彼によれば、当時の民衆の関心は「最後の審判」で救済が得られるかどうかということであって、民衆のあいだで突然修道士になる者が急増することになったのは、修道士は、その厳しい禁欲生活のおかげで、「最後の審判」の恐ろしい罰が軽減されると考えられていたからであったともいうから、エジプトの修道士の意識に来世がまったく無かったともいえないわけである。

第五項 エジプトの修道士と源初の肯定性

 修道士には「来世志向」もあったが、彼らの意識が地上へ向かう傾向もあったということであろう。では、神や天上と切り離された修道士には何の力ももはや存在しなかったのかといえば、ピーター・ブラウンによれば、観衆が隠者に見出したものも、ほかならぬ隠遁という行動そのもので、それ以外の例外的な超自然力ではなかったというし、禁欲修行者は農村の秩序の外に出ることで神秘的な力を獲得したと考えられていたというから、修道士には神や天上から与えられたものではない力があったわけである。では、その修道士の力の源泉はどこにあるかとといえば、隠遁して農村の外で生活しているという彼らのあり方そのものにあったといえる。では、何故村落共同体の外部がそのような力を与える場となりえるのかといえば、それはその場所が中間的な位置にあるからということになるのではないだろうか。村落共同体からいえばその外部に在る彼岸的な場所であり、天上からいえばあくまでも地上の場所という意味で此岸的な場所であった。修道士は自らを「死者」とした人間であっという意味では彼岸で生きている人間かもしれないが、実際に死ぬわけではなく此岸である地上で生きている存在でもあるという意味でも、両義的・矛盾的存在であった。この彼岸的でありかつ此岸的であるという、その両義性・矛盾性が、源初の肯定性の矛盾性・両極性と結びつき、修道士に力をあたえたということなのではないだろうか。 

 エジプトの修道士と源初の肯定性の結びつきは、エジプトの修道士がその禁欲生活の中で得ようとしたのは、旧約聖書の預言者エレミアが荒野の彷徨で得たような神の啓示であったともいわれるが、「アダムの原初」を追体験しようとしたのだともいわれることからもいえるであろう。ピーター・ブラウンも「修道士が砂漠で『一人座る』決意をしたことで、アダムの失われた単純さに思いめぐらせる、長い思弁的伝統にリアリティが与えられたのです。『アダムの栄光』は修道士の人格において要約されました。」(『古代末期の形成』)と述べている。聖書においてエデンの園は神からアダムとイヴに与えられたものであり、その意味では「天上の」力によって人類に与えられたもとのいえるが、「アダムの原初」を源初の肯定性と考えるなら、エジプトの修道士は地上おいて源初の肯定性を取り戻そうとしたのだとも考えられる。この源初の肯定性の希求は、存在即肯定という点では矛盾を孕んだものである。 存在即肯定の必要十分条件は単に存在することであったが、世俗的なものを捨てただ一人座っているだけの修道士とは、単に存在するだけの存在といえ、それがまたアダムの失われた単純さに結びつくのだとすると、その源初の肯定性とは存在即肯定としての肯定性ともいえる。一方、存在即肯定としての「アダムの原初」が隠遁生活を送る修道士にのみ実現可能だとされるなら、存在即肯定が肯定における平等性と結びついているとすると、限られた人にのみ肯定性を認めることは存在即肯定の否定といえるわけである。ただ、矛盾したものであるからといって、修道士が存在即肯定を求めなかったということにはならないであろう。希求された存在即肯定が過渡期における実体としての存在即肯定であるとすれば、実体としての存在即肯定は過渡期から自立期に移行すると同時に失われ、存在即肯定は幻想としてしか求めざるを得ないのであるからそこに矛盾があるし、矛盾の中で存在即肯定を求めざるを得ない以上、矛盾があるからといって存在即肯定を求めていないということにもならないわけである。

 修道士が彼岸性を志向する潮流にいたことは確かであろう。その人達が「天上の」力を非常に単純にそれは使われるべきでない力と定義し、神の力・超自然的力と人間が完全に分離するなかで神あるいは天上との関係性を断ち、その神と人間の断絶の中で、彼らは彼らの地上の力で「アダムの原初」という形で此岸性と結びつく源初の肯定性を求めたということはどういうことなのであろうか。
 ローマ帝国末期の聖性を巡る議論の中て、神との断絶の中で神との繋がり・融和に向けての揺り戻しがあった。これを源初の肯定性の外化の神という観点から見れば、神と人間との断絶は人間と源初の肯定性の断絶ということになる。神と人間の断絶の中で神との繋がりを維持しようという動きもあったとすれば、人間と源初の肯定性の断絶の中で、源初の肯定性を再び回復しようという動きが出てきても不思議ではないともいえるかもしれない。また、ピーター・ブラウンはプロチティノスが主張したことは、彼を支持した世代が好んだ肖像画で確かめることができ、それは「あの世」を志向するあまり、「この世」を否定してしまうのではなく、むしろ「内面」志向を目指す芸術作品であったというが、修道士も「あの世」を志向するあまり「この世」を否定してしまうのではなく、この世の「個人」に向かった人たちといえるかもしれない。その個人志向はプロチティノス的な内面志向とは違って、プロチティノス的な内面はまだ天上との繋がりを維持したものであったが、修道士の個人はもはや神や天上との繋がりが切断された個人であった。それは地上に独り置かれた人間ともいえる。もはやその人間にとって他の人間も神も存在しなくなり、ただ自分だけが独り存在している人間とはどのような自我なのであろうか。想定される極限の姿は創造の情熱そのもののとしての自我であろう。ただ実際には限定された意味でいえるのであって、他者がまったくその周りから消えることはないであろうし、過去がある以上その意識から神がまったく消えてしまうということもないであろう。いえることは、創造の情熱そのものとしては存在しないかもしれないが、限定された形であれ創造の情熱としての自我的なものが存在するということであり、その創造の情熱としての自我は人間が彼岸的なものを志向しているとしても、その志向性の中でも創造の情熱の充足を求めるであろう。創造の情熱とは現に存在している自我そのものの本質であるから、自己放棄者といってても完全に自我から創造の情熱を切り離すことは出来ないわけである。
 本論的には、まず国家共同体主義の崩壊と彼岸的理念の創出という自己放棄の弁証法的展開という大枠の中で考えることになる。国家共同体主義を崩壊させるのは創造的無としての自我であったが、創造的無を創造の情熱+無とするなら、無の部分が国家共同体主義を崩壊させるといえる。しかし、自我とはあくまでも創造的無としてあるのであるから、無の部分だけを切り離して捉えることはできず、創造の情熱の部分も無視できないということでもある。すなわち、国家共同体主義を崩壊させ新しい彼岸的理念のもとでも中心的なものとなるのは無の部分であるが、彼岸的な理念の創出に向かう中でも創造の情熱の充足ということが無視できないものとしてあるということである。一方、国家共同体主義を崩壊させる創造的無としての自我であるが、創造の情熱にとって唯一者も自己放棄者も両方選択の対象であるから、国家共同体主義を崩壊させた創造的無としての自我が再び自己放棄に向かう可能性はあるわけであり、修道士が国家共同体主義の崩壊から彼岸的理念へと向かう流れの中にいるとすれば、当然自己放棄者ということになる。その自己放棄者としての修道士においては、創造の情熱の充足という部分も自己放棄化されることになるであろうし、源初の肯定性とは幻想であるとともに実体的であり、そしてそのような源初の肯定性が自己放棄的でもあったのであるから、創造の情熱の充足が自己放棄化されるとき、それはまず源初の肯定性に向かうであろう。そのような意味で、エジプトの修道士は「アダムの原初」という形で源初の肯定性を希求したのだといえる。「神の代理人」といわれる人々が神と人間の中間にある存在であったが、さらに修道士の置かれた位置が、天上から見れば地上という此岸的な場所であり、世俗的な共同体から見れば共同体の外の彼岸的な場所であるという両極性・矛盾性を持つもので、その両極性・矛盾性はより強いものであ、それが過渡期の源初の肯定性と重なるものであったということは、彼らを源初の肯定性に向かわせ易い環境にあったということがいえるかもしれない。また、この彼岸的理念へ向かう流れの中での源初の肯定性の希求が、より広くキリスト教徒の中でも見られたのが千年王国論かもしれない。

 ピーター・ブラウンによりば、エジプトの地方的条件とはエジプトの農村を襲った一つの緊張であった。エジプトの村落の住民はもともとは小土地所有者であったが、四世紀には多くの村人が仲間の村人よりも多くの土地を所有するようになっていた。一方、帝国の軍事化は増税という形でエジプトの農民へ跳ね返った。そして、エジプトの村落では税は個人ではなく全体としての村にかけられたのであり、そのため個人が隣人の制限を突破して成長する可能性が開かれていったが、他方では再び互いに向き合うように連れ戻されたのである。その結果、共同生活の緊張と摩擦がかえって非常に苛立つかたちで再度立ち現れてきたという。エジプトの村落社会が通過した連帯感の危機は、農村生活にはつきものの解決されない緊張などではなく、それよりもずっと深刻なものであったのであり、そのようなエジプトの村落の緊張の中で、この世にかかずらわることなく隠遁することは、ピーター・ブラウンによれば、エジプト農民の困難な立場を反映するものであり、解決策の一つだったという。ただ、このエジプトの農村の社会的緊張は、大きく国家共同体主義が崩壊するなかでの連帯性の喪失という中で起こった社会的緊張であり、それ故、農民社会からの離脱に活路を見出した禁欲修行者の意義が単にエジプトの農村社会を超えた意味を持ちえたということであろう。ピーター・ブラウンによれば、帝国の軍事化も孤立して起こった現象ではなく、それは競争への衝動が、一般に広く解き放たれてしまったことの現れだったのであり(『古代末期の形成』)、重税がエジプトの村落社会の軋轢をもたらし、競争への衝動が軍事化と重税をもたらし、「野心の時代」が国家共同体主義の崩壊の結果招来したものであるとすれば、結局エジプトの農村社会の軋轢の増大も国家共同体主義の崩壊と無関係ではなかったともいえるわけである。そして、修道士になることは村落内の軋轢の問題への解決策であり、ピーター・ブラウンは日常生活における些細ともいえる問題こそ重要であるともいうが、エジプトの禁欲修行者がローマ帝国における国家共同体主義の崩壊の中でのより先鋭的な国家共同体主義の否定であると同時に、彼岸性と此岸性を媒介する存在でもあったということは、エジプトの修道士達がキリスト教さらにはローマ帝国に大きな影響を与えることも可能にするものだったわけである。

第六項 中心理念としてのキリスト教

 彼岸的基本理念は、創造的無すなわち創造の情熱+無における創造の情熱の否定であった。創造の情熱の否定についていえば、直接的な創造の情熱の否定、すなわち人間を無目的な存在、あるいはどうでもいい目的しか持たない存在とするか、創造の情熱としての自我とは能動的存在なのであるから、人間における能動性の否定、人間を受動的な存在とするか、創造の情熱において自我は無に永遠に固定化されているわけではないから、無に永遠に固定化するかであった。神との関係でいえば、神とは源初の肯定性の外化であった。そして、源初の肯定性において創造的有は幻想であり実体的でもあったから、特にその実体性を考えるなら、源初の肯定性の外化とは、創造的有は人間世界の外部においてしか成り立たないということであり、人間においては創造的無の固定化ということになる。彼岸的基本理念においては、神は人間とは本質的に異なる存在、神と人間との間にはその本質において超えられない溝があるということになり、人間は神になれないということになる。

 これらのことをキリスト教で見ると何がいえるであろうか。神と人間の隔絶性でいえば、ギリシャの神々が例えば人間との間に子供をもうけるなど、人間と近い関係にあったのに対し、キリスト教の神は人間と隔絶した存在といえる。ピーター・ブラウンによれば、ローマ帝国の異教徒においては神々は手の届く範囲におり、人間と神との境界領域は開かれており、伝統的に神と容易に直接接触できた。それに対して、パコミオスとテーベの修道士たちにおいては、神への接近のしやすさは拒絶されているのであり、以前の時代のような簡単に来世とこの世を往き来できる親密さは消失したのである。キリスト教においては神は人間から超絶した存在であり、人間は神になれないということである。キリスト教において人間は無に永遠に固定化されているといえる。もっとも神と人間の断絶性ではグノーシス派の方がより明確であったし、キリスト教では切断線を人間とイエスの間に引くか、神とイエスの間で引くかで分裂があり、人間とイエスの間に切断線を引く立場のほうが、現実にイエスは人間であったことを考えると神と人間の断絶性は弱いともいえる。
 ただ、キリスト教において神と人間が隔絶しているといっても、自己放棄の体系においては、人間と神が完全に隔絶してしまうことはありえず、どこかで神と人間には関係がなければならないから、キリスト教においても神と人間が完全に分離し、もはやどのような形であれ神と人間が関係を持たないということはありえない。もし神が人間と完全に無関係なら、例えば遠い宇宙の我々に知られていない星が自己放棄の体系において意味を持つことが無いように、神も自己放棄の体系にとって何の意味も持たない存在であろう。神と人間がどこかで繋がっているから、自己放棄の体系の中で神も意味をもってくるのである。旧約聖書の神は、自分に対する人間の態度に敏感に反応する神であった。キリスト教おいても、三位一体でイエスは神の子とされるが、少なくとも神の子は人間に生まれてくることができるわけであり、その意味では神と人間は繋がっている。最後の審判においても、神は人間を裁く存在として人間と関係しているといえるであろうし、神の恩寵を考える点でも、キリスト教において神と人間は完全に断絶しているわけではないといえる。神と人間が断絶しているとすれば、あれほど熱心にキリスト教徒が神に祈ることもないであろう。もっとも、神の子であるイエスが人間として生まれてきたといっても、それは人間イエスが神に成れたということではなく、あくまでも神と同格の神の子イエスが人間として生まれてきたということであって、人間が神に成れるわけではないから、キリスト教ではあくまでも人間は創造的無に固定されていることになる。キリスト教の神は、全能の神であり、全能ということは人間を神と等しい存在にしようと思えば出来るということであるから、キリスト教の神はその力で人間を創造的有にすることを拒絶する神といえるし、キリスト教はそのような神を神として受け入れたのだともいえる。

 救済を考える点で、キリスト教は人間を無目的な存在とはみなしていないといえよう。ただ、キリスト教は典型的かつ代表的な他力救済論の宗教とみなされているから、救済における能動性の否定による創造の情熱の否定はいえるであろう。キリスト教といっても、神の救済にあずかれる人間はあらかじめ神によって決定されており、例えばこの世で善行といった人間の行為ではそれを変えることはできないという予定説もあれば、救いを神の恩寵と人の自由意志の共働であると捉える東方教会のような立場もある。その東方教会も救いにおいて神の働きは人間とは比較にならないほど重要であることを強調しており、やはりその基調は人間の能動性の否定にあるといえるであろう。カトリックは予定説と東方教会の中間に位置するといえるが、どちらにしても、神の恩寵を強調する事には変わりがないから、キリスト教において人間は神の恩寵によって救われる受動的存在とみなせる。また、キリスト教において総ての人間が神から見放され、救済には与れないとされているわけではないから、救済という意味では人類全体が創造的無に固定化されているとはいえないし、その意味で完全に創造的無に固定化されているとはいえないかもしれない。
 その場合、救済の内容も問題になる。救済された人間と神とは共に源初の肯定性状態にあるとみなされるが、人間が神にはなれないということは同じ源初の肯定性でもどこかに違いがあるわけである。救済された人間は、救済されない人間もいるということから、源初の肯定性といっても、それは存在即肯定とはいえないであろう。救済された人間と神が違うとすれば存在即肯定をめぐってということが考えられ、神とは存在即肯定としての源初の肯定性でもあるということになる。ここでは純粋に客観的な存在としての神ではなく、人間の中の神、人間が創出した神を問題にしているのであるから、自己放棄の弁証法的展開の中で、源初の肯定性の外化としての神と此岸における人間の両方に源初の肯定性を認めることは、矛盾を含むことによってしかありえない。もっとも、最後の審判で神に選ばれ救済された人間は、 救済後の努力はまったく想定されていないといえるから、その意味では救済された人間は存在即肯定的性格も含んでいるとはいえるかもしれない。ただ、救済されずに地獄に送り込まれた人間は、その環境のもとでただ苦しみもがくだけで、確かに苦しみもがく主体としては存在しているかもしれないが、その運命を永遠に受け入れるしかない受動的な存在であり、自らの力でその境遇から脱出できるという能動性を最初から否定されてる存在といえることを考えると、救済された人間はただ存在しているだけともいえることは、救済された人間の存在即肯定性を示すというより受動性が示されていると考えるべきであろう。
 キリスト教において、救済される人間は此岸において救済されるのであろうか、それとも彼岸において救済されるのであろうか。最後の審判において、死者は甦らされるのであるから、それは此岸においてなされるのだと考えることも出来るかもしれない。しかし、死者はただ眠りから覚めるだけなのだとすれば、最後の審判が行われる場は、死者と生者が同じ場所にいるということであり、それは死後の世界でもなければこの世でもない世界といえるが、此岸から見ればそれも異次元の世界、一種の彼岸とみなせるであろう。神学的にはどうなっているのか分からないが、一般のキリスト教徒にとって救済された人間は天国に住み、天国は地上とは区別された彼岸的世界と考えられているのではないだろうか。その意味では、救済される人間がいるといっても、それは此岸において創造的有となるわけではないから、此岸的において人間は創造的無に固定されているということになる。最後の審判の場と人間が救済される場が、彼岸であり此岸でもあるという両極性・矛盾性のなかにあるということは、それ自体が源初の肯定性を示しているともいえるであろう。源初の肯定性そのものである神か審判を下すに相応しい場ともいえるわけである。そして、両極性・矛盾性によって示された源初の肯定性が、最後の審判の場は生者の日常世界から見れば一種の彼岸的な場であるから、彼岸的なものと結びつくものとされているわけである。

 キリスト教では神によって間接的に、エデンの園におけるアダムとイヴよって直接的に、源初の肯定性が表象されていると考えられ、原罪も創造的無と結びつく概念といえよう。原罪によるアダムとイヴの楽園からの追放は、創造的有から創造的無への移行を意味するといえる。すなわち、人類が原罪を負っている限り、そして神によってアダムとイヴが楽園から追放された時、それは人類が背負わなければならない運命であったから、原罪という概念自体が創造的無への固定化を意味していたといえる。旧約聖書では、実体的でもあった源初の肯定性の幻想化、それから生じた源初の肯定性の外化としての神の創出という流れが逆転して、神による人類の創造的有性の喪失と創造的無への固定化という話になっているわけである。人間の原罪を強調し、神の前で人間の惨めさを強調する姿勢は、やはりその傾向性のなかで無が固定化されているといっていいであろう。しかし、キリスト教ではイエスが十字架で磔にされることによって、人類の現在は贖罪され、救済の可能性が出てきたわけである。ただ、その救済がこの地上での楽園の復活ではなく、天国でのことであるとすれば、やはり創造的無への固定化ということでは基本的に変わりなかったということになる。また、相変わらず源初の肯定性の外化としての神は存在し、人間と神の隔絶性は強調され、神と人間の同質性は回復されていない。もっともこのような矛盾は、自己放棄は矛盾を孕むことによって可能だとすれば、キリスト教にとっては必ずしも否定的に作用するわけではない。上手く使い分ければいいわけである。また、イエスの贖罪により源初の肯定性が回復されるといっても、それは剥き出しの源初の肯定性の回復であるなら、即座にその幻想性によってその回復は崩壊してしまうから、源初の肯定性の回復といってもどこか曖昧なものとして語られる必要がある。さらに、贖い主イエスという教えは、人々は自己の行為によって罪を贖う必要はなくなってしまったのであるから、人間を受動的な存在とするわけである。
 また無の固定化は、キリスト教においてはその直線的歴史観が無の固定化を意味しているといえる。エリアーデによれば、一年というように時間を区切って時間の反復が起きるということは、始原の清浄無垢な時へと絶えず回帰するということであった。例えば正月を迎えるたびに、人間はその瞬間少なくとも原初の肯定性を回復しているわけである。しかし、そのような時間の円環構造が切断され、時間が直線的になるということは、もはや人間は原初の肯定性に回帰できなくなるということであり、人間は無に固定化されるわけである。時間の円環構造においては、その年と次の年の間こそが源初の肯定性の時間であるが、その円環構造を切断するということは、その年と年の間の中間状態が消滅するということであり、源初の肯定性もまた失われてしまうということになる。

 新しい中心理念は古い中心理念と基本理念の否定という真理性に立脚するものであったが、その古い中心理念の否定は、古い中心理念を構成する中核部分の一部に対する否定でも、結果として古い中心理念そのものの否定となりうる。新しい中心理念、すなわちキリスト教のどういう部分が国家共同体主義のどういう部分の否定になっているかをみなければならないであろう。神との関係の中で国家共同体主義は神=存在即肯定性とし、王を神と同質なものとし(神=王)、国家共同体における王と国家共同体成員の同質性(王=一般成員)から一般成員をも神と同質的なもの(一般成員=神)とし、人間が存在即肯定として原初の肯定性の中に在ることを主張するものであったから、国家共同体主義は神と王と国家共同体という構成要素と、神と王の同質性、国家共同体における王と他の国家共同体成員との同質性という二つの同質性により成立するものであった。それ故、神の否定、王の否定、国家共同体の否定、同質性からいえば神と王の同質性の否定、王と他の国家共同体成員の同質性の否定、その一つでも満たせば国家共同体主義は成立しないことになる。
 キリスト教と神の関係であるが、当然キリスト教において神という存在そのものは否定されていない。問題はその神がどのような神なのかということであるが、キリスト教の神についていえば、神と人間の間には断絶があるのであるから、神と王の同質性を否定する神といえるし、その点でキリスト教は国家共同体主義を否定しているといえる。ただ、キリスト教が国家共同体主義的に機能する神、すなわち神と王の同質性を否定しない神をも同時に容認しているとすれば、キリスト教は必ずしも国家共同体主義を否定しているとはいえなくなるが、キリスト教は一神教であり、異教徒の神を否定していたし、歴史的にもキリスト教が勝利するとともに異教徒の神は表舞台から消えていった。プラトン主義哲学者においても神は一神教的になっていったというが、伝統的神の否定という点では、キリスト教徒はより徹底していたといえる。キリスト教の神は神と王の同質性を拒否する神といえるが、キリスト教の国家共同体主義の否定は実は神とは関係ないところでも行われているのであり、ピーター・ブラウンによれば初期のキリスト教の司教は悪魔が作り上げた国家の崩壊を確信した革命家であったといい、そうすると皇帝と結びつくのはそもそも神ではなく悪魔ともいえるわけである。そして、すでに悪魔はイエスによって制圧されており、キリスト教が普及した本当の理由は、キリスト教が悪魔の敗北を確かなものとしたからであるという。皇帝については、「神のものは神のもとへ、カエサルのものはカエサルのもとへ」というイエスの言葉は、直接皇帝を否定するものではなかったが、イエスにとって皇帝は何の意味もたなかったことが示されているといえる。ただ、その後のキリスト教ではローマ帝国は神の国と対立するサタンの国家とみなされ、皇帝とローマ帝国は直接的否定の対象になっていったわけである。ただ、現実の皇帝は否定されたが、王という存在はキリスト教の千年王国論では再臨するイエスは王とされたのであるから、必ずしも否定的な存在とされなかったといえる。ただ、アッシリアにおいて神が王とされ人間の王は否定されたように、キリスト教千年王国論でも王は否定されなかったが人間の王は否定されているといえよう。
 国家共同体とキリスト教の関係であるが、初期のキリスト教徒は自分たちの信仰共同体を作ったが、それは伝統的な共同体の外に位置するものとして、伝統的な共同体を否定するものとしてあった。ピーター・ブラウンによれば、ほかのローマ都市住民がまだそのネットワークによって彼らのアイデンティティを確立することに満足していたとき、キリスト教徒の名は親族や都市の関係に由来する現世の名前を排除するものであった。三世紀の教会教義によれば、キリスト教徒の隣人は彼の親族である必要はなく、街区の仲間の住民である必要もなければ、彼の同胞、彼の町の人間である必要もなく、彼の隣人とは仲間のキリスト教徒であった。キリスト教徒の信仰共同体は既存の国家共同体を否定するものであったといえる。もっとも、キリスト教共同体の日常で、社会生活の放棄に関わっていたのは、人間と社会のつながりをただ象徴的な次元で修正し、再度方向づける過程であったという以上のものではなかったという。
 現実の国家共同体としてのローマ帝国は否定されるべき対象としてあったが、キリスト教信仰共同体と国家共同体の間には共通性も見られる。国家共同体においてはその成員の同質性がいわれ、その意味で平等であったが、平等性はキリスト教にもいえる。キリスト教は徹底して平等主義を実行しており、「奴隷も自由民もおなじ」なのであり、あまりにも浮世離れしているということで、支配層の不振を買っていたという。さらに、ピーター・ブラウンによればキリスト教がアピールした本当の理由は、信者の奉納金をいったん神に捧げ、そのあとで神の「下賜金」として信者に分配したことで、それは他の宗教にないやり方であった。民衆の富を一旦自分のもとに集め、それを民衆に再分配するということは、本来首長などが行っていたことであり、その意味ではキリスト教の神は王でもあったといえる。さらに、その分配が教会とその教会の聖職者によって行われれば、聖職者が神としての王ではないが、祭司王的な存在になっていく可能性もあるわけである。ピーター・ブラウンによれば、キュプリアヌスにとって、彼の教会は三世紀の生活現実が混じりけなしの熱意でもって受け入れられた理想的な共同体であったが、それはどの末期ローマ皇帝とも同じように、彼の司教職就任が神の判断が示されたものと捉えられた、高度に階層化された共同体であり、自分の指導するキリスト教会は、ほかと違って特別なものであり、キュプリアヌスと彼の教会はこの世に競争者として入ってきたという。キュプリアヌスの教会においては、司教に就任したキュプリアヌスがローマ皇帝と同じ存在だとすれば王ともいえる。あるいは、キュプリアヌスの教会が特別な教会として聖なる信仰共同体であるとすれば、それは神と同一視されるような共同体であり、神=共同体、共同体=成員から成員=神がいえるという意味での国家共同体かもしれないわけである。
 キリスト教信仰共同体に国家共同体に通ずる性格があったとしても、それが国家共同体的意味を持ってくるのはキリスト教信仰共同体がローマ帝国という自己放棄共同体から独立して、独自の自己放棄共同体として自己放棄の体系を構築しようよとする場合かもしれない。キリスト教独自の自己放棄の体系において国家共同体主義も再定立されなけれはならないわけである。ただ、キリスト教があくまでローマ帝国という自己放棄共同体の中で彼岸的中心理念として確立されていく場合は、すでにローマ帝国を国家共同体とする国家共同体主義か存在するのであるから、キリスト教信仰共同体を国家共同体にする必要もないわけである。ピーター・ブラウンによれば、キリスト教徒は洗礼によって自分と自分をとり巻く社会の中に見出せる緊張と変異から、象徴的に自由になれると期待していたのであり、そのような象徴的次元においてであるが、キリスト教はそれまで伝統的「異教」共同体が拠っていた均衡の解体を明白に受容する共同体を提供したし、キリスト教のエートスは、人間に関する、より個人的な見解を生み出し、人間は血縁や隣人関係、地域の紐帯に以前ほど縛られることがなくなった。社会の多くのレベルでの義務的な振る舞いによって表現されてきた伝統的な相互扶助の緊密なネットワークは解体しつあり、貨幣のインフレーションのせいで集団のなかの対等性を強固なものにするよう支払って、自らの安全を確保してきた公共への投資のような保険金を完全に供給するのがむずかしくなり、こうした圧力により、よき隣人関係が次第に緊張したものとなっていた三世紀の地中海都市の条件に対し、キリスト教の信仰共同体は次第に適切なものになっていったという。キリスト教によるローマ帝国の否定が象徴的な次元のものであるとすれば、それは現実のローマ帝国の国家共同体主義を再定立された国家共同体主義とすることも容易だったといえるわけである。

引用・参考文献
 『古代末期の形成』 ピーター・ブラウン
 『古代末期の世界』 ピーター・ブラウン
 『メロヴィング朝』 レジーヌ・ル・ジャン
 『人間の経済』 カール・ポランニー
 『ルネサンスの思想』 ポール・オスカー・クリステラー
 『西ヨーロッパ世界の形成』世界の歴史10 佐藤彰一、池上俊一
 『永遠回帰の神話』 ミルチャ・エリアーデ
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第四節 ビザンツ帝国における国家共同体主義の再定立

第一項 ビザンツ帝国の皇帝

 ローマ帝国末期にはローマ帝国全体に彼岸的なものを求める機運が高まり、それはまた国家共同体主義が崩壊過程に入っていることを示していた。そのような中で、コンスタンティヌスのキリスト教への改宗は、キリスト教が彼岸的な中心理念として創出されていく契機となる事件であった。国家共同体主義との関係でいうと、コンスタンティヌスは自己を神というよりは神の友(代理人)と位置づけていたようである。ピーター・ブラウンによれば、コンスタンティヌスの312年の改宗に伴う幻夢の数々は、一生涯続く超自然との関係のなかでの、束の間の出来事以上のものではなく、「神の友」に相応しく、コンスタンティヌスはそうした心を鼓舞する霊の訪問なら無数に受けていたという。皇帝は神の特別の保護を享受しているという理論は、コンスタンティヌスにとって個人的に体験した事実の表現であり、コンスタンティヌスの宗教政策は自分が「神の人」であるという揺るぎない情熱的信念に由来していたというN・H・Baynes の説を引用しながら、ピーター・ブラウンは、三世紀末の精神風土を考えると、コンスタンティヌスが教会指導者層の完全な承認とともに自ら用いた「神の人」という称号は、最初のキリスト教皇帝にこそふさわしいものだったとする。一方、ピーター・ブラウンによれば、310年にコンスタンティヌスは彼のアポロン神の幻夢を得て、遠征準備を始めたが、そこにおけるコンスタンティヌスとアポロン神との関係は「汝は彼を見、また彼のなかに汝自身を認めた」というものであった。コンスタンティヌスとアポロン神は同一視されているわけであり、王と神の同一視こそ国家共同体主義の基本だったはずのものなのである。本来コンスタンティヌスは中心理念としての国家共同体主義における皇帝であったはずであり、彼の中にキリスト教皇帝への変化がみられるのは、国家共同体の中で総ての人間が神と同一な存在となる国家共同体主義の否定、あるいはもはや機能しなくなった姿であり、コンスタンティヌスは国家共同体主義が皇帝自身においてさえ崩壊し始めていることを示しているし、再創出される国家共同体主義の萌芽もすでにみられるともいえる。

 ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン民族によって早々と滅ぼされてしまった。西ヨーロッパでは改めてゲルマン民族の国家共同体主義とキリスト教の関係が問題になるわけであるが、東ローマ帝国はその後もビザンツ帝国として存続していく。ビザンツ帝国は、内部的な自己放棄の弁証法的展開により、キリスト教を中心理念とする自己放棄の体系を築いた自己放棄共同体としてのローマ帝国が、外部的な要因で攪乱されることなく存続していったものといえるであろう。ビザンツ帝国の皇帝については、皇帝が教皇を兼ねる政教一致の皇帝教皇主義がいわれる。渡辺金一によれば、コンスタンティヌス大帝以来のキリスト教ローマ帝国理論において、そのキリスト教ローマ帝国は全世界を包括し、キリストのいます天上の帝国の不完全な摸像であるところの、そして人類をキリストの再来までまとめあげておくところの地上の帝国である。キリストの代理人であるキリスト教ローマ帝国の支配者は、天上の唯一全能の神に相当した地上の唯一全能の皇帝として、この世の一切の事柄、たんに世俗的な事項だけでなく、精神的な事項に断を下す最終的権限をもち、支配権によって世界を包括すべき政治的使命と、布教によって世界をキリスト教化すべき宗教的使命という二重の使命を持っている。このようなキリスト教ローマ帝国と皇帝理論の下、ビザンツの皇帝は天上の全能者からその神聖な支配権力をサクラメントを通じ、神秘的に移譲された存在であり、神によって加冠された敬虔なる善行者皇帝であり、キリストが聖霊をつかわして聖なる冠を戴冠した者であった。
 すでにキスリト教以前のディオクレティアーヌス帝の時代に、国家の最高権力者が神から直接由来するという観念が広まっていたというが、ローマ帝国においてはオリンポスの最高の神々から直接に血をひいた存在として皇帝が神格化されたのに対し、ピザンツ帝国では皇帝はキリスト教の神と結びついている。また、ビザンツ皇帝は神の代理人ではあるが、神そのものではない。神と人間の区別・乖離という、自己放棄の体系の第四段階の彼岸的理念の下での王(皇帝)であるといえる。しかしそれに付け加えるなら、国家共同体主義における王が神であるとすれば、再定立された国家共同体主義における王にも神性が維持されていなければならないわけであり、ビザンツ皇帝は神ではなく神によって加冠される存在である一方、儀礼の中ではキスリト(神)と二重写しにされる存在でもある。

 専制君主としてのビザンツ皇帝であるが、専制君主的原理と民主主義的原理の均衡状態が崩れ、ビザンツ帝国の場合は専制君主原理の方へ傾いたのだともいえる。王(皇帝)の自立化と強化が生じたわけである。初期のビザンツ帝国において、皇帝は元老院・民衆・軍隊の歓呼という民衆による同意によって即位したことは、民主主義原理の表れともいえるが、帝位が神によって与えられるということが強調される場合、そこで重要なことは神の同意であり、皇帝即位の必要条件であった民衆による同意はその重要性を失っていくともいえる。元老院・民衆・軍隊の歓呼を受けての即位も五、六世紀までで、七世紀以降は在位中の皇帝が後継指名するという共同皇帝戴冠という形式が主になっていく。その分、皇帝の民衆からの自立化がいえるわけである。もっとも、再定立された国家共同体主義が国家共同体主義であるためには、王(皇帝)と一般成員の同質性もなければならない。それ故、かつては競技場で歓呼で皇帝即位に同意していた市民としての「青」「緑」の競馬集団も、やがては儀礼における役職としての「青」「緑」集団として残っていくわけである。アテネでは逆に王が単なる役職になっていくが、ビザンツ帝国は再定立された国家共同体主義であるのに対し、アテネは崩壊しつつある国家共同体主義という違いがある。
 それは、皇帝の立場からの形式的な民衆との同一性ともいえるかもしれないが、皇帝と法との関係の中には、ビザンツ帝国において専制君主的な考えだけがあったわけではなく、皇帝と民衆の同質性的側面もあったことを示しているものもある。ビザンツの皇帝賛美演説などの中で皇帝は神によって加冠された存在であり、法に縛られず法を超越する存在とされるが、それに対して、バシレイオス一世のもと、ローマ法典の改訂新編纂の準備作業として教本の形でまとめられた法律集の一つ『エパナゴゲー』では、「法とは万人に該当する定めであり、賢い人々の思考の産物であり、故意による、および過失による犯罪の処罰であり、市民の社会契約であり、そしてまた神による発見物である」(『中世ローマ帝国』渡辺金一)と規定されており、これとほとんどそっくりの句がアテナーイ民主政の権化デモステネスの『反アリストゲイトン』に見出されるもので、そこでは法の淵源としての皇帝にはなんら言及されず、何よりも決定的なのは、「市民の社会契約」こそが法の本質だとされている点であり、皇帝は既存の法を護り、その維持につとめるのが任務であり、皇帝は既存の法体系に縛られる物だとされているという。
 コンスタンティヌス帝はキリスト教へ改宗すると同時に、司教団を自分の官職の一つと見なし、国家的命令に無条件に従うことを求めた。それは教会の国家化と世俗化をもたらしたといわれるが、それ以降の皇帝の保護の下でキリスト教の興隆もあったわけである。そのような皇帝教皇主義については、皇帝による教会生活への干渉や信仰問題への神学的決定権を奪うといった歴史的経緯の他に、国家共同体主義においてそもそも王(皇帝)は神であったということも考えなければならないであろう。彼岸的理念としてのキリスト教と此岸的理念としての国家共同体主義の対立という視点からいえば、彼岸的理念と結びつく聖職者は此岸的理念と結びつく皇帝の上に立つということでなければならないし、特に全教会の首位に立つローマ教皇にとってはそのような認識は強いものとなるであろう。しかし、再定立された国家共同体主義においても王(皇帝)が神性を失わないのだとすれば、宗教的権威者としても王(皇帝)がもっとも相応しいという考えが出て来ても不思議ではないといえる。中心理念としてのキリスト教と国家共同体主義の対立は、必ずしも聖職者と皇帝との対立ということと同じではない。中心理念としてのキリスト教に求められているのは、神と人間の絶対的乖離とユダヤ教のような民族宗教ではなく、ローマ人をもその中に含めれるような普遍性(ローマ帝国のみが含まれるような普遍性で十分だともいえる)という二点だけだともいえるのである。そこにおける聖職者の役割は二次的なものでしかない。それに対し、キリスト教を中心理念とする自己放棄の体系において、再定立された国家共同体主義は必要不可欠なものであり、それ故皇帝も必要不可欠な存在なのである。そのような必要不可欠な皇帝に求められているものは、神の代理人としてキリストと二重写しにされるようなこともあるとしても、原則的に神とは区別された存在、神は皇帝を超越した存在であるということが確認されていればいいのであり、それさえ確認されれば、皇帝が聖職者の上に立つ存在とされることに問題があるわけではない。

第二項 国家共同体主義の崩壊と再定立

 ビザンツ帝国の皇帝は専制君主的な性格が強かったし、それはキリスト教に対してもいえた。ビザンツ帝国が国家共同体主義の再定立としてあるとすれば、国家共同体主義の崩壊と再定立の間で、そのような専制君主化が生じたといえる。国家共同体主義の崩壊と彼岸的な中心理念の創出の過程について、どのようなことがいえるのであろうか。国家共同体主義の崩壊に対しては、国家共同体主義を再強化しようとする動きが生ずることが考えられる。国家共同体主義における王を考えるなら、王は神であり、また王と一般成員とは同質な存在であった。国家共同体主義の崩壊は国家共同体主義の幻想性そのものが引き起こすことであるから、何よりも国家共同体主義における原初の肯定性の源泉である王が神であるということの幻想性が露わになってくるということであり、国家共同体主義を再強化するにあたっては、王が神であることを再度強調しようという動きが生じるであろう。それに対して、王と一般成員との同質性の崩壊は王と一般成員の差異性が強まることによって生じるが、それは単に国家共同体主義の幻想性に帰因させることが出来ない、より複雑な原因によって生ずる現象といえるかもしれない。単に王が自己の権力の魅力に憑りつかれた結果、王と一般成員の同質性が毀損されるということもありえるわけである。ただ、国家共同体主義の崩壊が引き起こす王が神であることの強化もまた、王と一般成員との差異性を強調することになり、王と一般成員との同質性を崩壊させることに繋がっていく可能性がある。そして、王と一般成員との同質性の崩壊からくる国家共同体主義の崩壊を食い止めようとすると、今度は王権の弱体化に向かうということになる。すなわち、国家共同体主義の崩壊に対して国家共同体主義を再強化しようとする動きは、王と一般成員との間に微妙な力関係を生じさせることになる。王が神であることの再強調は、単に王権の強化として表面に表れてくるかもしれない。その場合は、あるいは王は専制君主となっていくかもしれない。支配が強調される神の下では、その可能性も増大するであろう。そのような専制君主の原理がある一方、一般成員との同質性からいえば、王と一般成員は平等であり、王と一般成員との同質性を取り戻そうとする動きには、民主主義的原理があるといえる。王と一般成員との間の微妙な力関係の両極には専制君主的原理と民主主義的原理があり、国家共同体主義の崩壊過程においては、その両者の間で何とか均衡状態をもたらそうと揺れ動くのだともいえる。あるいは、アテネはこの均衡が破れ、民主主義的なものへ傾いて行った例なのかもしれない。一方、国家共同体主義の崩壊は一般成員を神とするというその目的が弱まるということであるから、王と一般成員の同質性もそれほと求められなくなり、専制君主的原理の方へと傾いていくということも考えられるわけである。あるいは、王と一般成員との間の危機は、結局外部へ向かうかもしれない。それは国家共同体の一体性を強化するとともに、外部の敵との戦いの勝利は国家共同体の威信と共に王の威信の増大をもたらすことでもあるから、国家共同体主義の再強化にとっても合理的な解決策ともいえよう。国家共同体主義の崩壊過程においては国家共同体の弱体化が考えられるのに対して、逆に領土的拡大といった強国化・帝国化が生じることも考えられる。
 また王は、神と結びつくことによって獲得していた聖性と原初の肯定性が弱化していくのに対して、神以外のもので補おうとするかもしれない。その場合、何らかの形で神聖さを帯びた聖物・威信財となるかもしれないし、あるいは単に物質的な豊かさによって威信を高めようとするかもしれない。それは王との同質性による源初の肯定性を求める一般成員にも波及するであろうし、その結果社会における経済的発展が生じるかもしれない。あるいは、王は物質的なものではなく支配そのものの強化によって、自己が神であるということを確認しようとするかもしれない。国家共同体主義の崩壊が国家共同体主義の再強化も引き起こすかもしれないとすれば、外面的な考察からは国家共同体主義の崩壊を見出すことは必ずしも容易なことではないともいえるわけである。彼岸的な中心理念の創出については、それに先立って彼岸的なものへの関心増大ということがあるかもしれない。また、国家共同体主義が自己崩壊していったとしても、それは自動的に彼岸的な中心理念の創出を意味するわけではないから、彼岸的なものへの関心の盛り上がりということはあるかもしれないが、国家共同体主義が崩壊しつつ、新しい彼岸的な中心理念が創出されないままに時間がだらだらと続くということも考えられる。
 では、第四段階の彼岸的な中心理念が創出されたとして、その創出は社会的にどのような変化をもたらすのであろうか。原則的にいえば、関心が彼岸的なものに向かうということは、その関心の方向からそれる此岸的・世俗的な意味での生活に対しては大きな変化をもたらす力とはなりえないはずである。といって、自己放棄の体系のなかで、彼岸的なものと此岸的なものの関係は、対立と統合という形で存在するのであるから、それはまったく分離状態にあるのではなく、彼岸的中心理念が此岸的生活に関与する力、此岸的生活を変化させる力がまったく存在しないということでもない。状況によってはローマ帝国末期のように、司教が都市行政に深くかかわり、教会を中心として社会が再編されるということもありえるわけである。国家共同体主義についていえば、国家共同体主義も再定立されるのであるから、その点での大きな変化は生じないであろう。ただ、再定立されるとはいえ中心理念の地位を失うのであるから、国家共同体主義の弱体化が考えられ、その弱体化の影響は王権にも国家共同体にも及ぶと考えられ、それは複雑に絡み合うであろう。国家共同体主義の再強化と再定立は似ているようにも見えるが、国家共同体主義の再強化においては、あくまでも最終的には一般成員における原初の肯定性の再強化ということになるが、国家共同体主義の再定立においては、国家共同体主義は成員の肯定化というその役割から、中心理念としての地位を失った分解放されるということになる。その結果、王と共同体成員との同質性・平等性はもはやそれほど求められなくなるであろう。王権にとっては共同体による平等規範が弱まるということであり、王権が一定程度国家共同体から解放され、王と共同体成員との分離が深まる分、王の共同体成員からの自立性もそれだけ高まり、王の成員に対する自由度・独立性を強化するかもしれない。その結果、国家共同体主義が崩壊し、王という存在もその存在意義が薄まるにもかかわらず、王権そのものは逆に強大化することもありえる。もっとも、それはまた何らかの事情で王権が弱体化した場合、それを復元する力が弱いということでもある。国家共同体においては人々の国家共同体への紐帯心を弱め、それは国家共同体の分解傾向をもたらすことが考えられる。それもまた王権が強化・自立化することを助長し、一般成員はより弱い立場に追いやられるということになるかもしれない。王の自立性・独立性とは王が自己と神との同一性をのみ追求し、それの庶民への波及を考えないということでもあり、その意味では王は神の専制君主的原理と結びつきやすいともいえる。また、それは王が神であるということへの庶民からの同意が得にくくなるということでもあるから、王は自分が神と同一的存在であるということを、自己自身で自分自身に納得させなければならなくなるともいえるし、もし自分で自分に納得させることが出来れば話はそれで閉じるということにもなる。それに対し、彼岸的中心理念において神が存在しているとすれば、その神は此岸的なものから超絶した存在であるから、彼岸的中心理念からも王と神との分離が図られるであろう。もっとも、神が人間とは隔絶した存在といっても、神と人間が完全に分離し、神が人間にとってまったく無縁な存在となって人間から神が消えてしまったら、自己放棄の弁証法的展開そのものが不可能になってしまう。自己放棄の弁証法的展開の中で自己放棄者であろうとする限り、神と人間が分離しようとするとき、その反作用として絶えず神と人間を結び付けようとする力も働くし、また逆に人間と神を同一視しようとするときには、その反作用として神と人間を分離しようとする力が働くということであろう。王と神とを分離する力が存在するとしても王と神とが完全に分離することもないわけである。ただ、国家共同体主義の神に代る新しい神が登場してくるかもしれないし、あるいは王以外にも新しく神ともみなされる人物が登場してくるかもしれない。それらは新しい中心理念の創出にとって一つの契機となっていくであろう。また国家共同体主義の再定立においても、王は神との同質性が薄れる分を神以外の原初の肯定性と結びつくものによって補強しようとして、聖物や貴重物・威信財あるいは物質的豊かさを求め、その結果、搾取やその為に支配権力を強化し、一般成員との格差をより強調する方向へむかうかもしれない。また、聖物・貴重物・威信財が王に原初の肯定性をもたらすのだとすれば、王はそれらの物質さえ手にすればいいということになり、王は自己とそれらの物質との閉じた空間の中で、自己と原初の肯定性の結びつきを自己納得できるから、その点でも王は自立性・独立性を高めるともいえる。国家共同体が王と貴族のような中間層、そして一般成員よりなっている場合、国家共同体主義の再定立はそれら三者間の分離をももたらすであろう。この分離は貴族層にも自立性・独立性をもたらすことになり、それは王の専制君主化を阻害することになる。

引用・参考文献
『古代末期の形成』 ピーター・ブラウン
『中世ローマ帝国』 渡辺金一
『ビザンツ文明の継承と変容』 井上浩一
『ローマ教皇史』 鈴木宣明
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第五節 西ヨーロッパ中世

第一項 ゲルマン民族

 西ヨーロッパの中世社会のどの時代にも共通にある社会的ムードは終末観であるといわれる。西ヨーロッパの中世も彼岸的理念の時代といえよう。その中世社会において、身分や社会秩序は、総じてキリスト教的倫理により統制され、正当化され、さらに死後の霊の救済を希求する心性は、キリスト教徒としての中世人を様々な行為に駆り立てたとされ、中世西ヨーロッパもキリスト教を中心理念とする彼岸的自己放棄体系として形成されていったといえる。
 ただ、西ローマが東ローマと違うのは、ゲルマンの民族移動という大きな外部要因があることである。ローマ帝国に入り込んだゲルマン人は、当然彼等の自己放棄の体系の中にあったわけで、二つの自己放棄の体系が並立するということになり、ローマ人とゲルマン人が混在すれば、その二つの自己放棄の体系、二つの中心理念の間には、衝突・せめぎ合いが生じることになる。そのことは、自己放棄の弁証法的展開において、新しい中心理念と自己放棄の体系は過去の体系の否定という形で過去に依存している以上、簡単に相手の中心理念・自己放棄の体系に移行できる性格のものではないということからもいえる。さらに、その二つの自己放棄の体系は此岸・彼岸において同じ理念の下にあるのか、異なる理念の下にあるかによっても、衝突・せめぎ合いの様相は違ってくることになる。
 一般にはその対立は力の優位性によって決着すると考えるべきであろう。ゲルマン人は西ローマ帝国を占領したのであるから、力ではゲルマン人が優位に立っていることになる。ただ、ローマ人とゲルマン人に関しては、ローマ帝国の文化的・威信的優位性と圧倒的な人口の優位性という要素も考えなければならない。また、原理的にいえば、二つの自己放棄の体系が同一段階にあるわけではない場合、自己放棄の弁証法的展開からみてさらに進んだ段階にある方は、自分たちの中で一度崩壊したものを、再定立という形ではなく改めて中心理念として受け入れるようになることは、弁証法的展開の流れが逆になるということであるから、そこに困難さがより横たわっているということになる。それに対して、遅れている方が進んでいる方の中心理念を受け入れることは、弁証法的展開を早めるということでしかないから、流れとしては無理があまりないともいえるわけである。この場合も、それぞれの中心理念がまだ若々しい力の段階、あるいはその力がもっとも充実した段階にあるのか、自己崩壊が問題になりだしたり、さらには新しい中心理念の創出が問題になりだしているのかで違ってくるであろう。両者の基本理念が此岸性と彼岸性で対立関係にあり、遅れている方の中心理念がすでに自己崩壊して新しい中心理念の創出も問題になりつつあるなら、新しい中心理念として進んだ方の中心理念を受け入れるということも考えられる。他方、進んだ方の中心理念が自己崩壊しているなら、そこに遅れている方の中心理念を何らかの形で受け入れる余地が出てくるわけである。
 ローマ帝国では国家共同体主義から彼岸的自己放棄の体系に移行していた。しかも、中心理念としてのキリスト教は、まだまだ若さに溢れていたといえる。それに対するゲルマン民族の自己放棄の体系は、自己放棄の弁証法的段階でいえばどの段階にあったのであろうか。ゲルマン諸部族はもともとは自然力をそのまま神と考える多神教を信じ、森や林を神々に捧げたが、王はそれらの神々の子孫であり、神々の後裔として神秘的な呪術力をもつと信ぜられていたという。少なくともゲルマン民族は国家共同体主義を中心理念とする自己放棄の第三段階に達していたとはいえる。では、彼等がローマ帝国に侵入したとき、彼等はまだ第三段階の盛期ともいえる中にいたのか、その国家共同体主義はすでに自己崩壊しつつあったのか、それとも彼等もすでにカトリック以外の信仰を中心理念とする彼等の自己放棄の第四段階に入っていたのであろうか。どちらにしても、ローマ的なカトリック・キリスト教とゲルマン的な中心理念との間で軋轢が生じるわけである。
 ゲルマン民族が国家共同体主義の段階にある場合、キリスト教ローマ側からはゲルマンの国家共同体主義を再定立としての国家共同体主義に転化することがその目標となるであろう。それはゲルマン人に支配されたその王国をローマ帝国化するということであり、そのためには何よりもゲルマン人のキリスト教への改宗、カトリック化が必要ということになる。それは、ゲルマンの王がローマ帝国の皇帝になるということでもあるから、ゲルマンの王にとっても必ずしも悪い話ではないかもしれない。ただ、ゲルマンの王がキリスト教に改宗したからといって、それが直ちにその国家共同体主義が再定立としての国家共同体主義になるわけでもない。確かに、伝統的な神と王の同一ではなく、新しい神と王の同一ということは、それまでの自分たちの国家共同体主義の体系の否定ではあるが、国家共同体主義的構造は残っており、その構造は中心理念的な意味合いを持って存続していくかもしれない。再定立された国家共同体主義に転化するためには、自分を神としていた王が、心からキリスト教に従って、もはや自分を神とするのではなく、自分を単なる人間とし、神と人間の絶対的乖離を受け入れることが必要であろう。
 一方、ゲルマンの国家共同体主義の方では、自分たちの王をローマ人達にも王として認めさせると同時に、ゲルマンの王が帯びていた神性をキリスト教ローマ人達にも認めさせることが目標となる。キリスト教の方でも、ゲルマンの王を王として認めることはあくまでも国家共同体主義の再定立という枠内で受け入れられないことでもなかった。しかし、キリスト教を捨ててゲルマンの王に神性を与えていたゲルマンの神を信仰することは受け入れ難いことであったろう。あるいは、もしゲルマンの王がキリスト教に改宗したうえで王とは神であるということをキリスト教ローマ人に認めさせること、すなわちキリスト教の神がもはや人間とは隔絶した神ではないとさせることも難しいことであったであろう。

 ゲルマン古諸族は、神々の子孫と考えられた王または首領たちの下に血縁性の強い部族集団を形づくっていた。では、ローマ帝国に侵入を開始する当時のゲルマン人たちの社会はどのようなものだったのであろうか。民族移動の始まる四世紀後半までに、ゲルマン世界は大きく変化し、戦士中心の社会に変容を遂げていた。部族民を統率する王権の性格も、血統原理に基づいて選出される祭司職を兼ねる「神聖王」から、卓越した軍隊指揮能力に存立の基盤をおく「軍隊王」へと変化した。そこで王権に確固たる基盤を提供しえたのが出自神話やローマの官職や称号であったとされる。「軍隊王」といっても、神との結びつきがまったく無くなったわけではないわけである。ただ、その神が代わっており、ゲルマン民族は豊穣と平和をつかさどる神ティワズから戦争の神オーディンを崇拝するようになったといい、ゴート人やランゴバルト人など、エルベ川以東の地で紀元一世紀から存在の確認される部族に見いだすことができる出自神話は、オーディンなどの戦争の神々に連なる神統譜であった。このゲルマン民族の変化を国家共同体主義という視点から見れば、それは国家共同主義内での発展と捉えるべきなのであろうか、それとも国家共同体主義の崩壊が引き起こしたものなのかが問題になる。オーディンは第一義的には死の神であり、地下界の支配者であった。そして彼の館ヴァルハラは、天空の輝かしい住まいというより、むしろ墓の象徴のようみに見えるという。このようなどこか陰鬱な神と結びつく王なり首長の下での国家共同体主義を考えると、それは国家共同体主義の落日、自己崩壊を意味しているようにも思える。もっとも、オーディンが戦いの神であるなら、彼が死と結びつくの当然であり、戦いに価値の中心を置く国家共同体主義自体が国家共同体主義の自己崩壊の表れなのかどうかが問題になるともいえるが、オーディン崇拝が最後は神の敗北、この世の終焉と結びついているということは、やはり国家共同体主義の崩壊の中で出現した神なのかもしれない。
 ゲルマン民族の変化は、国家共同体においてもみられる。この間、ゲルマン諸族はタキツスにみえる数十の部族が、民族大移動期にはわずか一〇あまりの部族に統合されていた。この変化をもたらした部族間の争いは、部族の兵制や政治組織を発達させ、王や首領たちのもとには早くから従士の一群があり、彼らは戦争や遠征の主力であった。王や従士を中心とした政治的な組織は、血縁的な組織を国家につくりかえていく力でもあり、おそらくこの従士という戦士集団の成長にともなう王や首領の権力の増大をもとにして部族の統合がおこったものと推察されている。そうすると、それは中央集権的な国家形成に向かう、国家共同体主義の内部での変化だったようにもみえる。しかし、国家共同体という視点からみれば、数十の部族が離散集合するなかで、一〇あまりの部族に統合されたとすれば、それらに新しい部族が成員の同質性がいえる国家共同体だったのかという問題がある。例えば、東ゴート族はスラブ系やスキタイ系の人々も取り込んで形成されたのであり、西ゴート族も多くの小部族を併合して誕生したのである。戦争や移動は新しい部族の団結心を強化するかもしれないが、それが国家共同体的同質化を部族にもたらすまでにはいたっていなかったということもありえよう。「軍隊王」が神性を帯びていたとしても、彼らの部族が国家共同体としての同質性を獲得していなかったとしたら、その国家共同体主義は脆弱なものでしかなかったといえる。そして、オーディン神の性格には国家共同体主義の崩壊を連想させるものがあったわけである。
 もっとも、サクソン族の例などからは、オーディン崇拝が必ずしも国家共同体主義の自己崩壊とは結びついてはいない可能性もある。ミシュレによれば、ゴート族、ランゴバルト族、ブルグンド族の間では、戦闘時に指揮をとる軍事的指導者の権威が優位にあり、すでにタキトゥスがゲルマン人の中に見出していた従士団的精神は、これらの部族の間では絶大な力をもっていた。それに対し、やはりオーディンを信仰するサクソン族は、従士団的精神を当初は知らなかったという。神々の下、そして神々の子供であるアース神族の下ではすべての者は平等である以上、彼らは自分たちの首長が神の名の下に話す時だけしか首長に従わなかった。サクソンという名称自体おそらくアースという名称と同一のものであるという。サクソン族が自らをアース神族とするとき、神との間の乖離はみられないし、神の名の下に話すときだけしか首長に従わなかったというのは、首長が神であったということこそが、彼らにとって重要なことであったということであろう。もっとも国家共同体主義の崩壊といっても部族によってその進行具合は異なるであろうから、サクソン族がオーディン神をとり取り入れたのも、やはり国家共同体主義の崩壊と関係していたのかもしれない。ゲルマン民族にいえることは、まだ自己放棄の第四段階にまでは進んでいなかったということであろう。

 ゲルマン民族の変化については、その過程に大きな影響を与えたのが、ローマ世界との接触だったということも指摘されている。ローマ帝国への侵入以前においても、ゲルマン民族は略奪遠征や交易などの多様な形でローマ世界と接触を続けてきており、その過程でゲルマン部族の内部変化も生じていた。ローマ帝国の兵士になるゲルマン人も多く、それは軍司令官をはじめとする高級軍事官職に就いて、ゲルマン世界では望むべきもない社会的威信と権力を獲得する機会も与えたのであり、ローマ製商品の流入やローマ軍兵士としての経験は、ゲルマン人社会内部での顕著な社会格差や、富と権力をめぐる激しい紛争をもたらすとともに、ローマ的な輝かしい戦士のモデルを提供したとされる。こうして民族移動の始まる四世紀後半までに、ゲルマン社会はローマの影響の下大きく変化し、戦士中心の社会に変容を遂げ、部族民を統率する王権の性格も、「神聖王」から「軍隊王」へと変化したわけである。そして、王権に確固たる基盤を提供しえたのが出自神話の他にローマの官職や称号であったということは、ゲルマン民族の国家共同体主義が自立したものではなく、半ばローマ帝国に依存したものになっていったということがいえる。ゲルマン民族の王たちがその権威をローマ帝国に依拠するようにもなっていったということは、中心理念としてのローマ帝国のキリスト教とゲルマンの国家共同体主義のせめぎ合いにおいて、その点ではキリスト教にとって有利な状況だったともいえる。ローマ帝国の権威を認めるということは、ローマの帝国といまや一体となったキリスト教の権威をも認めざるを得なくなるともいえるからである。
 ゲルマン民族が移動を開始する当時、ゲルマンの部族は一人の始祖に由来する血縁的な種族共同体などではなく、生成と消滅、併合と分裂を絶えずくり返す集団であり、成員個々の主観的な帰属意識に支えられた、多様な出自の者からなる流動性の高い集団であった。国家共同体という視点からみれば、国家共同体主義を支える同質性という点で、多くのゲルマン部族はその基盤を失いつつあったといえるわけである。そういう意味では、彼等がローマ人を抱える形になったとき、それは同質性を問題にすべき対象が一つ加わったにすぎなかったともいえる。ローマ人を加えた一つの国家共同体の形成という方向性も、彼ら自身の社会の方向性から出てくる可能性があったわけである。
 ローマ帝国に侵入したゲルマン諸国は、法律の点を除いては大なり小なりローマ化していったといわれる。その理由の一つは、ゲルマン人のローマ人に対する数的劣勢であり、1.3パーセントから2パーセントぐらいだったとされる。ローマ化していったとはいえ、それが直ちにゲルマン諸族がキリスト教を中心理念とする社会になっていったということではなかった。一方、ローマ帝国に侵入したゲルマン諸族が数的に極めて少数派だったということ、王の権威がローマ帝国に依存する部分も多かったということは、彼らが中心理念としてのキリスト教からの圧力を撥ね退け、ローマ人を含めた国家共同体を形成し、ローマ人たちを再び国家共同体主義へ引き戻すことはきわめて困難な課題だったといえよう。もっともキリスト教ローマにおいても再定立としての国家共同体主義という視点から、ゲルマン人を含めた一つの国家共同体の形成ということは課題であった。この国家共同体の形成において、例えばカトリックのローマ人にとって非カトリックのゲルマン人との結婚が妨げられているなど、ゲルマン人のカトリック化が重要な問題であった。もちろん、キリスト教徒のゲルマン的信仰への改宗でもいいわけであるが、キリスト教徒から見ればその信仰が中心理念としての国家共同体主義と結びついているものなら、それは再び戻れない道であったろうし、ゲルマン人からいってもローマ的なものとしてのキリスト教は自分たちの信仰よりは権威のあるものとして映ったであろう。

第二項 メロヴィング朝における王の聖性と国家共同体性

 西ヨーロッパの中世という場合、ゲルマン人の中でもフランク族を考えればいいということになる。そして、メロヴィング朝こそローマ的中心理念としてのキリスト教とゲルマン的中心理念としての国家共同体主義という二つの中心理念の衝突・せめぎ合いの舞台であったといえる。もっとも、フランク族がローマ帝国の深い影響下にあったことや、人口的に圧倒的に少数派だったことを考えるなら、結局キリスト教を中心理念とするローマ帝国の自己放棄の第四段階の自己放棄体系に呑み込まれても不思議ではない状況下にあったとはいえるであろう。
 レジーヌ・ル・ジャンによれば、メロヴィング朝の王は毎年自由人の一般集会を召集していたが、自由人といってもそれはトゥールのグレゴリウスが王のレウデースと呼ぶ有力者たちであった。しかし、自由人のあいだで貴族の存在を区別していないという。このことは、フランク族においてもイングランドに渡る以前のサクソン族と同様の、王と一般成員の平等性が強い状態にあったと考えられ、クローヴィス以前のフランク族が依然として国家共同体主義を中心理念としていたことを推察させる。同時に、彼等は早くからローマ帝国の影響下にあり、四世紀からローマ帝国の防衛体制に参加し、アルボガストのように最高位の位階にまで進む者もあった。ライン川とソム川の中間のトゥルネではクローヴィスの父のキルデリク王の墓が発見されており、印章に描かれたキルデリックは長髪を垂らして、後期古代のゲルマン人君主の埋葬方法で埋葬されたが、その墓にはローマ帝国の金貨や大部分が地中海起源の物品などの、桁外れに豪華な物品が含まれており、遠隔地との結びつきやローマの影響の甚大さを表しているという。
 フランク族の宗教はアリウス派でもなければ、オーディン崇拝でもなかった。フランク族の王の聖性について、レジーヌ・ル・ジャンは「メロヴィング家の聖性の形態については盛んに書きたてられてきた。というのも、七五一年にカロリング家が聖別式を導入するまで、メロヴィング家の聖性は異教時代から存続する呪術的な聖性でしかなかったとみなす傾向が強かったからである。しかしながら、権力の正統化の諸形態は、当然ながらそれらを想像する社会の表象システムに属していて、メロヴィング家の聖性は聖職者により聖化されたものとは混同されえないし、聖性の呪術的な性格は異教と混同されうるものでもない。聖別を行なう聖職者の仲介のないまま、正統なる王が、彼を選び承認した民と完全に結びついていること、王がもはや本来の職務を果たさなくなったときに、民(すなわちレウデース)が、必要とあらば抹殺によって王を権力から退ける資格をみずからに持ちあわていると考えることができたのは確かである。それゆえ、メロヴィング王の殺害は、むき出しの暴力を表すと言うよりも、王の選出がなお神による選出と同一視されていない表象体系の表現なのである。」(『メロヴィング朝』)という。レジーヌ・ル・ジャンの言葉からは、フランク族の王の聖性は、伝統的なゲルマンの自然神信仰の神々に由来するのかどうかはっきりしないが、一種の神聖王的なものだったと考えられる。王はキリスト教の神により選出されたものであるという考えが、中心理念としてのキリスト教のもとでの再定立された国家共同体主義における考えであるとすれば、メロヴィング朝の初期においては国家共同体主義とキリスト教が中心理念の座をめぐってせめぎ合っていた状態が、王の聖性という点でも現れているわけである。
 ただ、クローヴィスの聖性には問題もあったようである。メロヴィング王家は東ゴート王テオドリックの属するアマル家などとは異なり、古い伝統にさかのぼり、神聖なる血統を自負する王家の系譜に連なる家門ではなかったし、クローヴィスが晩年にフランク族の有力家門に属する小王たちを抹殺した事実はまさしくこの王家の浅さと関連しているとされる。クローヴィスはよりローマ的権威に頼らざるを得ない存在だったともいえる。
 レジーヌ・ル・ジャンは、『フレデガリウス年代記』においてメロヴィング家の名祖となったメロヴェウスの出自が、半人半牛の海獣クイノタウルスとクロディオの妻とから生まれたとされているが、クイノタウルスを古代のミノタウルスのことを指していることは明らかであろうという。また、フランク族の起源をプリアモスに率いられて、陥落した都市を去ったトロイア人の一団としており、これらの『フレデガリウス年代記』の神話は、おそらく六世紀のガリアで、ローマ文化に影響を受けたメロヴィング宮廷に近い集団のあいだで生まれたとされる。また、フランク族はライン川を越えて定着した五世紀初頭に長髪の王を選ぶようになったとされ、クローヴィスの子孫たちの正統性も、長髪と名前によって象徴されていたというが、それは青年期に達した若者たちのために行われる最初の断髪を免れ、その習慣は王冠や王の戴冠式の欠如を示すものであり、異教的で魔術的な聖性の名残と解釈されてきた。しかし、聖書にはダラリに髪を切られたときにサムソンが超自然的な力を失ったというエピソードがあり、聖書的な伝統と関連付けることも可能であり、おそらく長髪の王の制度は、大盾の上に載せる儀式と同じく、ローマ文化を介して伝えられたいくつかの文化的なモデルを統合したものであろうという。レジーヌ・ル・ジャンに従えば、『フレデガリウス年代記』の神話は、メロヴィングの王が自己の神聖さをローマ的なものにも求めようとしたことを示しているのだといえる。ただ、それは必ずしもキリスト教的ではない。海獣クイノタウルスをもちだすことは、キリスト教というより、それ以前の異教としてのローマ・ギリシャ的神性であろうし、トロイア人をもちだすこともキリスト教というより異教的ローマの建国神話に結びつくといえる。王の長髪も、聖書の髪を切られたることによりサムソンが超自然的な力を失ったというエピソードから生じたとしても、そのエピソード自体はキリスト教以前の呪術的要素が濃い。もっとも、ローマ的キリスト教とフランク的国家共同体主義の、中心理念の座をめぐる対立という視点からいえば、キリスト教的かどうかというよりも、それらがローマ的な王権の神格化であるということの方が重要であろう。ローマの異教的な神聖性も、フランク王国のキリスト教的な王権の神聖性への道を切り開くものであろうからである。どちらにしても、メロヴィングの王権がローマ的な権威にも依拠したものであるということは、メロヴィングの王がローマ的なもの、キリスト教を排除できない存在だったといえる。

第三項 クローヴィスのフランク王国建国とキリスト教

 東ゴートの支配、ゴート戦役、ランゴバルトの征服のみられた六世紀は、ローマ人にとって一つの大きい精神的転換の時期だったといわれ、精神史的にみた中世の開始とよんでもよいとされる。数多くのローマ名門の人士が俗世での望みをすて、あるいは教会の門をくぐり、あるいは修道院に入った。 それは彼岸的中心理念としてのキリスト教の影響の下で生じたことであり、ガリアのローマ人についてもいえることであろう。ただ、クローヴィスによるフランク王国の建国前後の、ガリアにおけるキリスト教の浸透具合は、濃淡のあるものであった。ガリアでもローマ化されていた地域の都市にはキスリト教の浸透が深くみられ、ガリア南部では司教座のネットワークがすでに設置され、農村においても六世紀半ばにはキリスト教の刻印がはっきり感じられほどになっていたという。それに対し、北部では司教座組織もそれほどしっかりしていなかったし、六世紀に遡る農村教会跡もいくつか発見されてるいだけであった。キリスト教的ローマといっても、それはガリア全体に言えるわけではなかったわけである。
 481年に即位したクローヴィスは、ほぼ今日のベルギーやその周辺にあたる地方の統一をなしとげた。クローヴィスによるフランク王国の建国はまず当時十いつくかの小支族にわかれていたフランク族を統一し、次にいくつかのゲルマン族を組み込み、最後にガロ=ローマ系をも含むようになったというような段階的なものではなく、それらが混在して起こったものであり、フランク族の統一も晩年に生じたことなのである。このような状況を考えると、クローヴィスの中では、初期の頃からローマ人とフランク族がごちゃまぜになった状態での王国建設という問題意識だったのかもしれない。単純にローマ人をフランク族に隷属させるという話にもならなかったわけである。そのような状態でキリスト教と国家共同体主義の中心理念の座をめぐる戦といっても、フランク側では力で押し切るというわけにはいかなかったし、実際、ローマ帝国におけるキリスト教への弾圧といったような目に見える対立があったわけではなく、それは目に見えない戦いであったといえよう。特に、キリスト教側ではフランクの改宗という形で可視化できたかもしれないが、フランク側ではその戦いを可視化することは殆ど出来なかったのではないだろうか。
 クローヴィスは508年アキテーヌから戻る際、トゥールで東ローマ帝国皇帝アナタシウスからのコンスル職に任ずる書簡を受け取り、緋色のトゥニカとクラミュスを身に着け、王冠をいただき、完全にローマ風の儀式でトゥールの町を行進した。それはフランクの王たちがどれほどローマ文化に惹きつけられたかを示しているとともに、ローマ人に対するクローヴィスの権威の正統性を示すものでもあったといわれる。また、クローヴィスは508年のクリスマスの日にランス司教レミギウスによって洗礼を授けられ、同時に彼の親衛隊の三千人も改宗した。ただ、一神教であるキリスト教は、フランク王が神であることを認めないが、キリスト教へ改宗したクローヴィスが、そのことがどのように自己の神性・聖性と関わるかはっきり意識していたかは疑問である。クローヴィスのキリスト教改宗でいえることは、西ヨーロッパにおいて、ゲルマン人とローマ人の融合を妨げていたのがカトリック信仰をめぐる問題だったとすると、フランク王国において一つの中心理念のもとに社会が形成されるための一つの前提条件が整ったということである。ただ、クローヴィスの改宗はフランク王国の宗教的な統一をただちに実現したわけではなく、彼の長男のテウデリクは異教徒のままにとどまっていた。テウデリクとその息子クロタール一世は、アリウス派も異教も、また危険をもたらさない限り呪術的な慣行も禁止することなく、宗教的多元性を保持していた。異教徒たちがメロヴィング宮廷から消えていったのは、百年後の七世紀の初頭頃といわれる。一方、クローヴィスは東ローマ皇帝よりコンスルの称号を送られ、それを自己の権威づけにすることによって、フランク王国は東ローマ帝国に組み込まれる形でローマ化していった訳であるが、孫のテウデベルドは自分の名前で金貨を鋳造させ、これはローマ帝国では皇帝を無視した行為であり、フランク王国には東ローマ帝国に対する自立性もまた強く見られるわけである。

第四項 フランク王国における国家共同体

 クローヴィス、その息子たち、そして孫たちが、ローマ時代の諸都市に滞在することを選び、そこで皇帝やローマの統治者たちの宮廷を占有することによって、ローマ皇帝の伝統のなかに自らを位置づけようとしたが、一方地中海への志向にもかかわらず、彼らはロワール以北のフランク地方に自らの居住地を確立し、かくしてそのそのときまで南部にあったガリアの政治的重心を北に移動させたといわれる。これは、彼らがローマ人内部での国家共同体主義における王であろうとしたと同時に、フランク族内部での国家共同体主義における王であろうとしたということでもあろう。しかし、彼らがローマ人とフランク族を含めた一つの国家共同体形成を目指したことは、有力者・貴族層においてはフランク族とローマ系の一体化がすすんだことにみられる。ガロ=ローマ系の貴族もガリア南部で勢力を保っており、五世紀には司教職に投資し、また王たちがこれらの地域を支配するために忠臣を送り込んだにもかかわらず、数多くの世俗的官職を保有していた。生まれや公的な政務官職の行使に由来する徳や、富に基礎をおく彼らのローマ的貴族観念とゲルマンのそれとは早くも六世紀から接合し、高尚な国王勤務という観念を発展させるのに寄与した。この観念は、中世初期を通じて、多様な有力者・貴族層の融合を可能にしたとされる。この有力者・貴族層の一体化は、ガリアのローマ人からしても、中心理念としてのキリスト教に対して国家共同体主義の再定立も必要としていたのであるから、フランク王国の支配の下で国家共同体をフランク王国に求めざるを得なかったともいえる。
 フランク族とガロ=ローマ系を一つの国家共同体の成員にしようとする動きは、自由民層においてもみられる。フランク王国は法的にはフランク人とそれ以外の者は区別されており、法的な身分はその個人が属する民族の法によって定められていた。しかし、民族上の出自や王との関係に基準を置く「人命金」の額の違いが示しているように完全に平等ではなかったが、基本的にフランク族とガロ=ローマ系の自由人は、等しく自由人として認められていた。当時の人びとは法的な自由を通じて社会に組み込まれ、すべての自由人は公的な裁判所に属し、結婚し、財産を所有し、譲り渡すことができ、原則として軍役に参加したのである。フランク族であれガロ=ローマ系であれ、自由人として基本的に同じ存在として扱われていたということは、フランク王国が一つの国家共同体として形成されるうえでは重要なことであろう。また、自由人は等しく王の軍隊に参加する義務を課したことは、その軍役を通じて両者の一体性を醸成することにもなったであろう。貧民や有力者に従属する自由人たちは軍役を免除されていたが、祖国が危機に陥った場合には王によって召集されたのであり、彼等も緊急時の軍役を通じてその一体感の輪の中に入ったのである。

第五項 王権とキリスト教の相互利用関係

 ローマ的なものとフランク的なものの軋轢は、彼岸的な中心理念の創出そのものにかかわる問題ではなく、すでに存在している二つの中心理念の争いであったが、ローマ的キスリト教とフランク的国家共同体主義、それぞれが問題を抱えていた。国家共同体主義の方では、フランク王国が多くの支族に分かれていたフランク族、さらにガロ=ローマ系、他のゲルマン部族の集まりであったということは、一つの国家共同体として形成されていなかったということであり、その形成問題があった。これは主にフランク族の国家共同体主義の問題であるが、キリスト教にとっても国家共同体主義の再定立があるのであるから、やはり問題であった。国家共同体主義の問題としてはもう一つ、メロヴィング朝の王の聖性の脆弱性という問題があった。他方、キリスト教の方でも、フランク王国においてキリスト教を中心理念化する以前に、フランク王国全体をキリスト教化する布教の問題があった。それ故、中心理念の座をめぐってキリスト教と国家共同体主義はせめぎ合う関係にある一方、両者はその弱点を補う為に互いに協力しなければならない関係でもあったといえる。キリスト教側では布教のために王の支援が必要であったし、フランク王の方では、自己の神聖性の強化をキリスト教によって行なうばかりでなく、一つの国家共同体とてフランク王国を形成するために、一たびキリスト教を受け入れたなら、フランク王国のキリスト教化は必要なことであったし、国家運営という点でも教会に依存しなければならない状態があった。もっともその協力関係は利益をもたらすばかりでなく、それぞれに問題も生じさせる相互協力であったといえる。王側からいえば、フランク王国がキリスト教化するということは、自己が依拠していた国家共同体主義からキリスト教を中心理念とする自己放棄の体系に移行する恐れがあったし、キリスト教側にとっては、かつてコンスタンティヌス帝改宗以後のローマ帝国でおこったように、王による教会の支配がもたらされるかもしれないし、教会自体が世俗化する恐れがあった。
 七世紀に見られる大量の修道院の建設は、それに伴って広まるキリスト教化の進展を示しており、フランク王国においてキリスト教化の動きが加速化したのは七世紀になってからといわれる。このような修道院建設は王権、司教権力、貴族層の協力した活動の結果でもあったが、決定的な推進力は、当時絶頂期にあったメロヴィング王権にあった。王たちはきわめて頻繁に宣教師らに国庫領を提供したし、司教権力からの免属特権を与えるよう司教たちに働きかけた。クローヴィス二世とバルティルドが開始したこの政策は、新たな基盤に基づいてフランク教会を再編しようとする努力を示しており、こうした基盤はのちにカロリング家によって発展させられることになる。大き役割を果たしたのはモンテ・カシーノの聖ベネディクトの修道院であり、グレゴリー一世のアングロサクソン伝道事業にはベネディクト派修道士が用いられたが、ここに根付いたベネディクト派を中心にヨーロッパの伝道がおこなわれた。それは、キリスト教の普及とローマ教皇権の確立に絶大な役割をもつことになったといわれ、その過程でローマ教皇権がフランク王権に結びついていく。八世紀初頭にはガリア北部においてもキリスト教化はかなり進んでいた。
 フランク王国のキリスト教化といっても、国民全体のその深化ということまで考えればゆっくりしたものであったといえるが、クロタール二世によるフランク王国の再統合、すなわち「王国の第二の創建」は、キリスト教的な聖性のなかにその超自然的な力を基づかせた王家の周りに配置された一つの民、という表象を押しつけるのを可能にしたとされる。クロタール二世のもとで、とりあえずフランク王国は国家共同体の中で王の聖性を等しく認める、信仰面での同質性という土台が形成されたといえるわけである。六世紀には依然として宗教が、異教徒、アリウス派信徒、カトリック信徒、ユダヤ教徒を区別していたが、七世紀のガリアにおいて自己意識を持つ唯一の宗教共同体は、ユダヤ教徒のみとなっていた。

 王による国家運営の面でも、キリスト教はその比重を増していった。五世紀にガリアの都市を統治していた都市参事会は六世紀のあいだに消滅し、王は都市ごとに四世紀のローマ帝国の制度である伯を設置した。六世紀には、伯と司教は都市で権威を分かちあっていたが、七世紀のあいだに伯は司教に都市を譲り渡していったという。七世紀末になるとブルグンディアとプロヴァンスでは、中央権力の弱体化のおかげで、司教たちは統制を受けずに権力を行使することが可能となり、極めて強力な地域的な権力を確立することさえできた。司教座都市においては、司教の権力は宗教の枠を大きくはみ出しており、司教と聖職者集団の存在が、建設活動や職人活動や交易を通じて都市生活の持続性を支えていただけでなく、しばしば司教は経済生活にまで介入していた。このような司教の地位の向上は、同時に世俗的な意味でも司教職が成功者の頂点になっていくということでもあった。都市については王は司教を無視してはその支配力を行使することが難しい状況が出来ていったわけである。その司教は、王国運営において必ずしも王の従順な協力者ではなかった。信者たちの導き手であった司教は、住民の代弁者であり、「税の不当徴収」に対してなどしばしば王に対して住民を護ったのである。また、王の支配の一機構というより、王の機能に対するキリスト教による侵食とでもいえる側面も見られる。古代ローマの国家とエリート集団は、公共建築物の建造や遊戯の提供やパンの分配という形で、自分達の利益の一部を都市に再分配していたが、都市で建物を建造させることができるのは司教だけとなり、教会がキリスト教化の動きに伴って普及する「敬虔なる贈与」という間接的な仕方で、貧民へのあらゆる形態の富の再分配を仲介することになった。このような富の再分配は国家共同体の初期段階に見られたことであったが、それがキリスト教によって行なわれるということは、本来国家共同体主義のもとで王の役割であったことを、フランク王国ではキリスト教がその役割を奪っていったともいえる。それは中心理念の座をめぐるキリスト教と国家共同体主義のせめぎ合いの中で、国家共同体主義はその立場を後退させつつあっことを示しているともいえる。奴隷はまったく権利をもっていなかったが、キリスト教の浸透は結果として急速にキリスト教徒奴隷の身分を改善した。ローマ式の証書による解放や、デナリウス硬貨投げによるような数多くの儀礼を通じて奴隷解放は増加し、荘園制の発展によって奴隷の大部分は世帯を給付され、土地や家や耕作道具などを与えられた。王という存在により差別化された成員を、国家共同体の下で一体性化するために外部の存在が必要だとすれば、奴隷は内なる外部という役割を果たしていたわけであり、その内なる外部が無くなっていくということは、国家共同体内部の平等性が進む一方、国家共同体の一体性が弱まっていくということであるから、その意味でもキリスト教はフランク的中心理念としての国家共同体主義を掘り崩していったことになる。
 司教の権力はその後カール・マルテルによって減じられた。彼は純粋に政治的な目的のために教会の職務や財産を利用したといわれ、教会財産を自分の家臣に与えることことによって、他方で司教職や修道院長職に信頼に足る人物を据えることにより、戦略的な地域を支配することに成功する。しかし一方では、カール・マルテルの宗教政策は、その前任者たちの政策の延長線上に位置づけられるものでもあり、キリスト教と対立しようとするものではなく、彼は司教らの選出を掌握していたが、教皇庁と良好な関係を保ちながら、修道院の建設を奨励し、聖人と聖遺物の崇敬を促進したのである。

 このような王による教会の保護とその支配機構への組み込みは、当然教会の世俗化というものを引き起こした。もっとも、キリスト教聖職者が世俗化し、堕落したといっても、聖職者に世俗の人間とは違った倫理性を求められることには変わりはなかった。特に、都市もローマの伝統も持たない地域で発展したアイルランドのキリスト教は、修道制と禁欲主義の特徴を強く帯びていたし、そのアイルランド的な修道制と禁欲主義は、フランク王国においても強い影響力をもっていたのである。キリスト教信仰からいえば、フランク王国におけるキリスト教の実態は不満足なものだったかもしれない。メロヴィング朝におけるフランク王国住民のキリスト教化は表面的なものにとどまり、キスリト教の教義はしばしばしっかりと理解されないままであったともいわれる。住民は、古くからの信仰とは言わないまでも、迷信や慣行を完全に捨て去ることなしに、キリスト教を受け入れていったのである。聖人の聖遺物に対する崇敬はキリスト教化の進展と限界を示しているともいえ、早くもこの瞬間から、聖遺物崇敬は宗教的でも政治的でもある問題を司教に課したという。しかし、農民層のキリスト教化とキスリト教と呪術の結びつきは、キリスト教教義からは問題かもしれないが、キリスト教の中心理念化という意味では、中心理念としてはともかくその自己放棄の体系においては此岸的なものが含まれていることが重要であり、彼岸的な意味で濃淡があったとしても原則的に障害とはならないであろう。

 国家共同体主義の後退は、七世紀には王たちは都市に滞在するのをやめ、まず郊外、ついで農村の王宮を好んだことからもいえるかもしれない。もし、キリスト教が中心理念となっていくとすると、キリスト教と強く結びついていたのは都市であり、それに対して相対的であるかもしれないが王が郊外や農村に引き下がるということは、再定立された国家共同体主義に対応する行為ともいえるわけである。伯が司教に都市を譲り渡したのも、これはおそらく王に倣ったもので、伯たちは都市の外で集会を開いた。そこには社会の農村化がはっきりと現われているというが、中心理念としての国家共同体主義の崩壊をみるべきであろう。もっとも、彼らは田園に離宮をもっていたが、あくまでも王宮はバリやメッやランスにあったともいわれる。
 レジーヌ・ル・ジャンによれば、アンリ・ピレンヌは古代経済の消滅を七世紀に位置づけたが、交易システムの変容は古代世界から中世世界への移行を表す最も明白な印であり、地中海を中心とし東方との交易を軸とする古代経済は、西洋においては、家内消費のための生産を基本とする自給自足経済に場を譲った。そしてこの断絶をもたらしたのは、ピレンヌが提示した地中海両岸の結びつきを断ち切ったイスラム勢力の前進理由によるものではなく、むしろエリートの需要の全般的な減少であったという。生産力の増大と物質的豊かさが支配者を生じさせたのではなく、王という存在が社会に物質的豊かさを求めさせる刺激となったのだとすれば、王や貴族が都市を捨てて田舎に移り、物質的な欲望を減少させたということは、王や貴族が王や貴族であることにそれだけ意義を見出せなくなったともいえるし、そのこともフランク王国において中心理念としての国家共同体主義の崩壊が生じていることを示しているともいえる。そしてその物質的なものへの欲望が減退することは、キリスト教的禁欲主義に沿うものでもあったから、キリスト教が中心理念の座を得つつあることの証ともいえよう。あるいは、再定立としての国家共同体主義の中では、王権は自己崩壊する国家共同体主義の中で王権を強化するという課題から解放されるのだともいえ、崩壊する王権の権威の強化としての物質的豊かさを追求する必要性も弱まったのだともいえる。
 もっとも、経済と此岸的理念・彼岸的理念の関係には慎重さも必要かもれしない。中世西ヨーロッパでは機械化が進んだが、中世ヨーロッパにおいて労働及び機械・技術的仕事が一つの価値として受容されていったのは、まずベネディクト修道院においての労働と祈りというその生活規範によってもたられたのである。ベネディクト修道僧は毎日の務めをそれぞれ一定の時間に組織化し、さらに労働節約装置としての機械の真の使い方と利点を発見したが、修道院における機械の発明と仕事の機械化は、不必要な労働を避け、瞑想と祈りの時間をより多く得ることが動機となっていたのである。マンフォードによれば、それは歴史の奇妙な逆説の一つであるが、中世ヨーロッパにおいて、技術的仕事を奴隷の呪いとしてではなく、自由な人間の道徳的掛り合いの一部として受け入れ、仕事の過程全体に道徳的価値を与え、それを社会目的との掛り合いで位置づけたのは、超世俗的で超越的な宗教であるキリスト教によってなのである。さらに修道院の機械化された労働の組織化という動きは、一般社会にも影響を与えたのであり、中世の記録の中には、休日が年の半分を占めていたというようなものまであるという。また、中世の同業組合においても仕事は道徳的価値を持つものとされたが、それは修道院から受けついだ考えであり、修道院における合理的労働とそれがもたらす生産力は、整然と秩序立てられた生活の経済的価値を当時の職人や商人の間に確立し、このような規則正しさと節約が、実り多い生活だけでなく、金銭上の成功をも約束するというカルヴァン主義的徳性は、すでに中世において修道院の影響によってみられるのである。一方、ドウソンによれば、イスラム教の神学がカトリック神学よりはるかに科学的思考を敬遠していたにもかかわらず、科学はイスラムの方が進んでいたことからも、中世初期におけるヨーロッパの科学・技術の後進性は、アウグスティヌスのような科学というものを否定する思想家がいたにもかかわらず、カトリック教会や中世文化にその原因を求めるべきものではないという。イスラム文化の先進性は、その西ヨーロッパか素朴な農耕中心的文化であったのに対し、東方は豊かな都市中心的文明を形成していたことによるのである。一方、ヨーロッパ中世における工学・技術の発展はそれが必ずしも都市文明といった経済と結びつけられるともいえるような要因によってのみもたらされるものではないことを示しているともいえる。

第六項 中心理念としてキリスト教が勝利した時期

 フランク王国における中心理念の座をめぐるキリスト教と国家共同体主義の衝突・せめぎ合いがが決着し、キリスト教が勝利した時期を明確にするのは困難であろう。キリスト教が勝利したとしても、敗れた国家共同体主義が歴史の舞台から消え去るわけではなく、それは再定立されるし、あるいはフランク王国の王がキリスト教さえもその支配下においたようにみえる場合でも、例えばビザンツ帝国の皇帝がキリスト教を支配しているように見えてもその中心理念はキリスト教であるように、やはり中心理念はあくまでもキリスト教であるということもあるからである。
 民族大移動後の西ヨーロッパは修道院の活動をとおして、一つのキリスト教共同体へと作り上げられていったとされるが、キリスト教の布教が、教皇と結びつく修道士によってなされたということは、フランク王国に対し教皇がその存在感と影響力を増大させるということである。もともと、聖ペテロの後継者でローマの司教である教皇は、西洋の司教たちに対して倫理面での権威しか有しておらず、司教を任命する権利も罷免する権利も持たなかったし、法を制定することもできなかった。そうした権限は公会議に属していたのであり、公会議はたいてい王の招集で開催された。その枠組みは「分王国」単位であり、全王国規模の開催は稀であった。その公会議も六世紀と七世紀初頭に数多く開催されていたが、七世紀後半には稀になり、668年から689年のルーアン公会議を最後に、743年にカールマンの命令で召集されたレブイィンヌの公会議まで開かれなかった。司教の任命は、貴族、近隣の司教たち、王といった、すべての勢力を巻き込む関心事だったのであり、皇帝の伝統に連なる王の介入は増えてゆき、七世紀には王により司教が指名されるのが普通となった。これはキリスト教に対する王の優越を示しているようにも見える。ただそれが中心理念の座をめぐって国家共同体主義の方が優位にあったことを意味しているのかといえば、そのローマ皇帝モデルによる王の聖職者支配は、ローマ帝国においては再定立された国家共同体主義と一体のものなのであるから、必ずしもフランク王国において国家共同体主義が中心理念となりつつあったということを示しているとはいえないであろう。
 フランク王国の初期におけるガリアにおいては、当時のガリアのキリスト教会は教皇から自立してもいたのであるから、中心理念をめぐってキリスト教と国家共同体主義の間に競合があったとしても、それは教皇とは関係ないところで生じていたといえる。しかし、修道院の活動を通して教皇の権威も高まり、キリスト教が中心理念となるにせよ、国家共同体主義が中心理念になるにせよ、西ヨーロッパのキリスト教の中心に教皇がいることになり、皇帝と教皇を中心とする楕円構造が形成されていったわけである。その楕円構造の中で、自己放棄の体系においては中心理念と再定立された前中心理念は、対立すると同時に相互依存の関係にあるわけであるから、もし国家共同体主義が勝利した場合、キリスト教はどういう位置づけになっていくのかという問題はあるが、歴史的にはキリスト教が勝利したとみなせるので、教皇と皇帝の関係も対立と相互依存の関係にならざるをえないともいえる。

 メロヴィング朝の王の聖性に問題があり、中心理念をめぐるキリスト教と国家共同体主義の間に軋轢・せめぎ合いがあったとしても、その王権がまったく脆弱なものだったということでもなかった。メロヴィング朝の王34名のうち半数近くが成年を迎える前に即位しているが、幼年王による統治がメロヴィング王家による支配の安定を脅かすことはなかったといわれる。それに対して、ランゴバルド族の幼年王の治世が長続きせず、幼年王権が定着しなかった理由は主として三つあり、この部族がきわめて軍事的な性格の強い集団であり、指導者の個人的な資質に重きをおいていたこと、王家に競合しうる有力家門が存在したこと、イタリア定着後も長らくアリウス派にとどまっていて、支配者と被支配者が宗教的・文化的に分裂していたことであるという。フランク以外の多くのゲルマン国家はこれらのうちの一つ以上を備えていた。また、幼年王権の存立にあたって重要であったのが、王の個人的な実力よりも、むしろ王が実質的な支配を行使することなく王国を安定的に統治しうるような政治システムの存在であることを考えれば、早くからガリア社会に同化していたフランク族とその王が、既存の政治秩序に重大な修正を施そうとしなかったことも、メロヴィング王権の支配の安定に寄与したのかもしれないとされる。それに加えて、キリスト教と国家共同体主義の間の軋轢・せめぎ合いが逆にメロヴィング王朝の安定化をもたらしたのかもしれない。その衝突・せめぎ合いの中で、国家共同体主義の方では王に敬意を払うことが重要な意義をもっても、王位を争い、メロヴィング朝の王位を奪うというような余裕はなかったともいえるのである。また、メロヴィング朝の王の聖性が、王の聖性としてはぎりぎりの水準にあったということもその安定につながっていたのかもしれない。メロヴィング朝の王位を奪おうにも、奪った者の聖性がメロヴィングの王より劣るものであったとすれば、奪った者の聖性が王たるものが持たなければならない最低限の水準さえ持っていないということになり、それは王として機能しないということである。王位の簒奪そのものが自己放棄の体系的に無意味な行為となり、王位簒奪への動機を弱めるであろうし、多くの同調者を集めることも難しくするであろう。ただ、メロヴィング朝の王位は安定していたかも知れないが、それは脆弱な均衡の下での安定であったともいえるわけである。
 レジーヌ・ル・ジャンによれば、メロヴィング朝は七世紀初頭に、「王国の第二の創建」とともに終了する、王権を正統化する諸価値の長い変容過程の結果、キリスト教的な主権に到達し、そのとき国王の権威はある平衡点に達したが、七世紀末には貴族層の権力の増大によってこの均衡は崩される。フランク王が自己の聖性を完全にキリスト教に依拠するようになったということは、必ずしもキリスト教が中心理念になったということを意味しないが、キリスト教にとって有利な状況が出来上がったということはいえよう。キリスト教は人間と神の同質性を認めないのであるから、フランク王がキリスト教化するということは自己と神との同質性に自ら楔を打ち込むことになる。また、中心理念としてのキリスト教のもとでの再定立された国家共同体主義を考えた場合、フランク王が異教のままにとどまっていたなら、対立と統合のうちの対立が激しくなりすぎることになってしまうだろうからである。
 キリスト教化には王権ばかりでなく貴族層も協力をした。当初、司教と修道院とのあいだは緊張関係にあったが、貴族という出自の共通性や、家系のつながりによって協力関係が促進され確立されていった。宮宰は六世紀には王家の家令にすぎなかったが、王領地全体の管理を統括するようになり、639年のダンゴベルトの死は、宮宰によって代表される地域的な貴族層の時代の到来を告げるものであり、ダンゴベルトの死後、二人の息子に分割されたそれぞれの王国では、王は王室財産を差配していた宮宰とともに統治しなければならなかった。さらに、七世紀から有力者たちは豊かな土地財産を利用して、真に私的と呼べる軍隊を持つようになり、貴族層が中央権力と地方権力の重要な部分を支配したとき、彼らは弱体化した国王権力を二次的なものにすることとなったという。このような貴族の中で力を持ってきたのがカロリング家であり、クロタール二世による再統一は、実態的にはカロリンガーの先祖である老ピピンなどが先頭に立った貴族の仕事であったといわれる。このような貴族の勢力の増大は、単に彼らが力を蓄えていったというようなことではなく、国家共同体主義の崩壊過程で国王の権威と求心力が失われていったこととも関係していると考えるるべきであろう。カロリング家が、メロヴィングの王を追放して国王となるのは、751年のソアッソンの会議の小ピピンの時である。小ピピンの国王即位にあたって、大司教聖ボニファチウスはサミュエルがダビデを塗油した旧約聖書の故事にならって彼を聖別した。フランク王となった小ピピンは教皇ステファン二世の手でもう一度塗油され、「ローマ人のパトリキウス」という称号を与えられる。小ピピンが王になるためにローマ教皇を利用したのは、「神聖な伝統を破棄するのに、よりいっそう神聖な権威にたよろうとしたのだ。」(『中世ヨーロッパ』世界の歴史3 堀米庸三責任編集)といわれ、塗油の式も、国王がこれを受けることは、彼に聖職者の一面をあたえるもので、こうして国王の地位は、倫理的に絶対化されたとされる。メロヴィング朝において国家共同体主義とキリスト教が中心理念の座をめぐってせめぎ合っていたことを考えるなら、この正統性と聖性をキリスト教に依拠したカロリング朝において、もはや中心理念としての国家共同体主義とキリスト教のせめぎ合いといったことはいえなくなるのではないだろうか。すでにキリスト教が中心理念化し、メロヴィングの王が代表していた中心理念としての国家共同体主義における王権に本質的な変化が生じたことが、王朝交代を可能にしたと考えられるのである。小ピピンの兄弟で共同統治者であったカールマンが、彼の二人の息子をピピンに預け、突然モンテ-カシーノの修道士になってしまうということがあったが、その行動については突然の「宗教的情熱」という理由以外に何も残されていないといい、これは王的な立場の人間まで隠棲に走るほど、キリスト教的心性が深く人々の中で支配力を持ってきていたということであり、カロリング朝への交代前にキリスト教が中心理念になっていたことを窺わせるできごとである。

第七項 西ヨーロッパにおける皇帝と教皇

 ビザンツ帝国においては皇帝教皇主義がいわれるが、ローマ帝国における皇帝と教皇の関係について、「キリスト教の公認以来、ローマ帝国は法王権がその使命を果たすべき世界そのものだった。五世紀の半ば以来、法王はこの世界の公認された霊的指導者であり、皇帝は法王の使命をたすける擁護者だった。この世界では、皇帝が法王を必要とすると同じく法王は皇帝を必要とした。この関係はローマ帝国の分裂、あるいは東ローマでくりかえしあらわれた教義上の紛争にもかかわらず生きつづけたのであって、人々はこれ以外の世界の構図を現実に考えることができなかった。」(『中世ヨーロッパ』 世界の歴史3 堀米庸三責任編集)とされる。その言葉には、中心理念としてのキリスト教と再定立された国家共同体主義の対立と統合のうちの統合的側面が示されているといえよう。一方、教皇と皇帝教皇主義をとるビザンツ皇帝との間で、その優越をめぐる対立が無かったわけではないことは、教皇ゲラシスウ一世(在位492―96)の両剣論によって示されている。彼は、神は教権と世俗統治権という二つの剣を下し給うたが、世俗統治権は教権から発するとして、皇帝に対しローマ教皇権の優位を主張した。中心理念ととてのキリスト教と再定立された国家共同体主義の対立と統合のうち、対立の側面がビザンツ皇帝と教皇の関係にも当然何らかの形で反映されるであろう。
 中世西ヨーロッパは皇帝と教皇を二つの中心とした楕円構造であるといわれる。皇帝側には皇帝を教皇の上に置く皇帝教皇主義の思想があり、教皇側には教皇を皇帝の上に置く思想があった。中心理念の座をめぐる国家共同体主義とキリスト教のせめぎ合いは、中世の人達にとって意識化しにくいものであったろう。それに対して、最上位の位ををめぐる対立は、当時の人々にとっても明確に意識され得るものであった。ただ、その対立は必ずしも中心理念をめぐる国家共同体主義とキリスト教の衝突・せめぎ合いから来るとは限らない。中心理念としてのキリスト教と再定立された国家共同体主義の間の対立においても生じることであった。また、フランク王国において中心理念の座をめぐってキリスト教と国家共同体主義がせめぎ合っていたとしても、それはフランク王と教皇の争いとはならなかったであろう。メロヴィング朝の初期において、ローマ教皇はフランク王国に対してそれほど強い影響力を持っていなかったし、フランク王は教皇に敬意は表していたかもしれないが、それ以上のものではなかったからである。メロヴィング朝、あるいは小ピピンの即位のカロリング朝の初めをとっても、教皇とフランク王は対立するというより相互利用する関係であった。
 カールの皇帝位は教皇によって与えられたが、その必要性はカールよりランゴバルト王国の圧迫に苦しんでいた教皇側にあったといえる。教皇は自分たちの保護者としてのビザンツ皇帝に見切りをつけ、フランク王国に頼ろうとした。ひとたびビザンツ帝国に見切りをつけたということになれば、もうビザンツ皇帝に服従する必要もなくなるし、ビザンツ皇帝からの独立を考えても不思議ではない。カールを皇帝に戴冠するとき、教皇がビザンツ帝国から西ヨーロッパを分離独立させようとしていたことは、いわゆるコンスタンティヌス大帝が教皇にローマ市を含む西ヨーロッパを譲渡し、それらを教皇に委ねたという「コンスタンティン寄進状」に示されている。その寄進状は偽書であったが、その偽造性を示す形式的指標からは教皇ハドリアヌス以前の三人の前任者の時、その文書の法的内容からいえばハドリアヌスの774~8年の間に偽造がなされたことを明白に示しているとされる。774年、カールがローマを訪れた後、教皇文書からはそれまで使われていた皇帝登位年が消え、教皇就位年が使われるようになり、ローマの鋳貨からは皇帝名とその肖像が消えて教皇の肖像が刻印されるようになる。もはやイタリアの教皇領においてビザンツ皇帝は主権者として認められず、教皇がそれに取って代わったわけである。800年のカール大帝のローマ皇帝戴冠は、中心理念をめぐる国家共同体主義とキリスト教のせめぎ合いという視点から捉えられる出来事というよりは、西ローマと東ローマの分離、西ヨーロッパがそれ自身で一つの自己放棄共同体になっていく重要な契機として捉えるべきであろう。
 西欧中世における皇帝と教皇の優劣は何度が逆転している。両者の対立が中心理念をめぐるものであれば、そのようなことは起こり得ないであろう。小ピピンのフランク王即位の時は、フランク王に対して教皇は上位の存在だったといえよう。それ故、小ピピンは教皇によって塗油されることによって、自己の聖性を得ると同時に、自己の王位簒奪を正当化できたのである。774年カールがローマに向かった時も、教皇側からビザンツ皇帝の総督を遇する式次第で迎えられたが、カールは馬から下り、徒歩でサン・ピエトロへ向かい、そこで教皇に出迎えられている。それに対して、800年のカールの皇帝即位の時は、カールに帝冠を戴冠した教皇レオ三世は、かつての皇帝達に対してなされたようにカールに跪拝した。もっとも、それは中世西ヨーロッパで教皇が皇帝の前で行った最初で最後の跪拝であった。そこでは、皇帝であるカールはビザンツ皇帝と同じように教皇の上に立つものとして在るといえ、カール側でもそのことは意識していたようである。カール大帝の時に定められた式次第の「国王賛歌」では、使徒への呼びかけは教皇に係るものとされるのに対して、マリアと天使は国王に係わるものとされ、天使は父に従う者、使徒は子に従う者とされている。カール大帝も皇帝教皇主義的立場に立っていたともいえるが、ビザンツ皇帝と違うのは、ビザンツ皇帝はキリスト教以前から皇帝であったのに対して、カールの皇帝位は教皇から与えられたということである。西ヨーロッパの皇帝位は教皇によって与えられ、教皇なしにフランク王のみで皇帝になることはできなかった以上、皇帝と教皇の関係は流動的なものにならざるを得ないであろう。
 カールのイタリア政策は、父ピピンのイタリア政策が東ローマ皇帝の至上権とランゴバルト王権の容認、法王権に対する恭順という消極的なものだったのに反し、明瞭にイタリイ支配者としての積極性を持っていたが、それより大事なことは、彼は教会政治にも独自の理想をもっており、教皇に対し自分で、世俗権力と教会権力の区分を規定していることであるという。カールは教会にも介入し、自分の権力を及ぼそうとしたわけであるが、しかしそのようなカールの姿は、フランク王国においてキリスト教側は地上における統治という枠組みにおいて、キリスト教的な王が法的=宗教的なそれを含めて三つの機能を一手に集めるよう働きかけ続けていたというから、キリスト教側から見ても彼らが求めてきた王の姿なのである。
 皇帝となったカールの下、西ヨーロッパはビザンツ帝国から離れて独自の自己放棄共同体への道を歩み始めた。しかし、西ヨーロッパは一つのキリスト教共同体にはなったかもしれないが、一つの国家共同体にはならなかった。カールの死後、彼の帝国は息子たちによって三分割されてしまう。三人の王国がほぼ現在のフランス・ドイツ・イタリアにあたっているわけである。このような分裂は、西ヨーロッパにおける再定立された国家共同体主義にとって必然的なものではないが、一つの国家共同体であることが絶対に必要なことでもなかったということであろう。結局、西ヨーロッパは、理念としての西ローマ帝国に発する一つの国家共同体と、諸王国における現実的な国家共同体という、二重の国家共同体を持つことになる。以後の皇帝はドイツとイタリアを領土とするにすぎず、とてもローマ帝国の皇帝とはいえない皇帝であったが、西ヨーロッパにおける自己放棄共同体、自己放棄の弁証法的体系においてはそのような皇帝でも、その機能を果たしていたということであろう。それは個々の王国の王にもいえ、封建貴族が分立していき、王はもはや強力な権力者とは程遠い存在となっていったが、王の役割としてはそれで十分だったともいえるのである。

第八項 カノッサの屈辱とカトリック改革

 オットー大帝は962年に六十数年ぶりにローマで教皇により皇帝に戴冠されるが、この時も教皇は皇帝に従うことを誓い、それに対してオットーはローマ教皇領の安堵と教皇選挙への助力を約束した。もっとも、教皇選挙への助力といっても、それは選出される教皇は皇帝の承認を得なければならないということであった。カール大帝よりさらに教皇をその支配下に置いたといえるオットー大帝の登場は、中心理念をめぐるキリスト教と国家共同体主義のせめぎ合いで、勝利したのは逆に国家共同体主義の方だったという可能性を示しているということはないだろうか。ただ、もし国家共同体主義の勝利ということなら、オットー大帝は自己を神とするということであるから、世俗的な権力者としてだけでなく、聖性においても教皇以上の聖性を帯びていなければならないが、オットー大帝も自己の聖性をキリスト教に依拠しているという点ではカール大帝と同じであり、またあくまでも教皇選挙への助力者という立場にとどまらざるをえなかったということは、教皇を上回る聖性を帯びていたとはいえないであろう。オットー大帝が教皇選挙に強く介入しようとしたのは、彼岸的理念に対して此岸的理念が勝利しようとする理念的な理由からというより、オットー大帝を取り巻く政治的情勢から来るものであった。諸侯に対抗して、教会組織を通じてドイツに支配権を確立するために帝国教会政策をとるオットー大帝は、聖職者の叙任権を握っておくことは必要不可欠なことであり、そのためには教皇さえ彼の管理下に置いておく必要があったのである。

 カール大帝の帝国は長続きせず、それは分裂に向かったわけであるが、その分教皇の権威が高まったというわけでもなかった。皇帝の代わりに、ローマ市貴族が思うままに教皇を操るようになっていき、教皇自身の堕落もその極に達したともいえる。そのような教会の堕落はオットー大帝の後にも生じた。オットー大帝の帝国教会政策は聖職者を自己の支配下におこうというものであったが、他方では教会領や大修道院領の保護に努め、さらに教会領に関税権、市場権、貨幣鋳造権などを与えてその権能を拡大させた。その結果、司教の座は世俗的な意味で魅力的なものになり、聖職者の堕落をもたらしたが、聖職者の堕落はドイツだけの問題ではなかった。聖職売買と聖職者の私婚はローマ教皇庁を含めて西ヨーロッパ全域に見られたものである。そのような聖職者の堕落に対して、クリュニーの改革運動が起こり、広く支持を集める。皇帝ハインリッヒ三世は教皇庁の乱脈を糺し、ローマ教会を完全に支配するためにその改革運動を積極的に支持した。しかし、改革運動が叙任権闘争にまで進むと、皇帝側と教皇側は対立することになる。改革運動が叙任権闘争に結びつくのは、皇帝や王による聖職者叙任が結局聖職者の堕落をもたらす根本原因とされたことによるとも言われる。
 オットー大帝の皇帝戴冠から百年後、教会の自由独立と聖職者叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立は、1076年正月のウォルムス帝国議会における皇帝ハインリッヒ四世による教皇グレゴリー七世の廃位の決議と、それに対するグレゴリー七世によるのハインリッヒ破門で頂点を迎え、1077年、ハインリッヒ四世のカノッサの屈辱で今度は教皇が皇帝を屈服させる。このことをもってキリスト教が国家共同体主義に勝利した時期とはいえないのだろうか。破門を許され息を吹き返したハインリッヒ四世はすぐさま反撃を開始し、グレゴリー七世をローマから追い出す。しかし、カノッサは政治的にはグレゴリーの失策だったが、教皇権にとっては勝利への決定的な第一歩であったとされる。世俗権力の聖職者叙任を排除し、皇帝より教皇を上位の存在とするグレゴリー七世と、皇帝教皇主義をより鮮明にしたハインリッヒ四世の対立は、キリスト教的ローマ皇帝と教皇権とのヨーロッパでの最高権威をめぐる争いといわれ、叙任権そのものは1122年のウォルムス協約で一種の妥協がなったが、「大事なのは、皇帝が指輪と司教杖による叙任権を放棄することによって、カール大帝やオットー大帝以来の神政政治を同時に放棄したことだ。これは政治の原理に関する問題で、ウォルムス協約の妥協ではもう取返しのつかない損失である。」(『中世ヨーロッパ』世界の歴史3 堀米庸三責任編集)とされ、教皇側は教皇権の本質に関わる重要な勝利を勝ち取ったわけである。その後の十三世紀初頭の教皇インノケンティウス三世の時、中世の教会の最盛期を迎えたといわれる。教皇のみ「キリストの代理」として至上権をもち、あらゆる聖職者と俗人に対する直接採決の権威があるとされた。十字軍が組織され、巡礼地への巡礼が盛んになった。キリスト教は十字架の宗教といわれ、十字軍の方に縫いつけられた十字架は、野原にも、途の辻や村の門や広場といった、あらゆるところに見られるようになり、それは人々の心へのキリスト教の教えの浸透と、信徒側の忠誠ぶりを示すものといわれる。人々は教区教会で洗礼を受け、日曜のミサに出席し、結婚式が挙げられ、葬式が行われ、教会の鐘の音が響き渡った。クリュニー修道院やシトー修道院の改革も人々に支持された。
 聖職者叙任権をめぐる対立は、西ヨーロッパにおける最高権威の座をめぐる皇帝と教皇の争いにまで発展し、教皇の勝利で終わったわけであるが、ただ、教皇側は教会の自由と独立を皇帝から勝ち取ったとはいえるかもしれないが、皇帝や王を教皇が自由に選定出来るようになったというわけでもない。その意味では、教皇側の勝利というけれど、単に同等の立場に立ったともいえる。聖性をめぐっては、皇帝の上位に教皇が位置しているともいえるが、それは何もこの度の教皇と皇帝との争いの中で勝ち取ったものではなく、それ以前から教皇は聖性については皇帝の上位にあったといえよう。グレゴリー七世とハインリッヒ四世との争いが、キリスト教信仰の高揚の中で行われたことは確かである。しかし、中心理念をめぐるキリスト教と国家共同体主義の衝突・せめぎ合いにおけるキリスト教の勝利とは、王あるいは皇帝がもはや神ではないことを王や皇帝あるいは国家共同体成員に認めされることであるとすれば、キリスト教はすでに国家共同体主義に勝利していたといえるのである。

 グレゴリー七世とハインリッヒ四世の対立に象徴される教皇と皇帝の対立は、中心理念をめぐるキリスト教と国家共同体主義の衝突・せめぎ合いとは別問題ということになる。キリスト教が中心理念となるということは、自己放棄の体系の中で国家共同体主義と対立する一方で統合もされるのであるから、彼岸的なもののみにとどまることは難しく、そこに此岸的な、国家共同体主義的なものが入り込むことは避けがたいものだった。実際、カトリック教会はローマ帝国の国教となり体制内の宗教となることにより、急速に世俗化したといわれる。また、カロリング朝の成立が中心理念をめぐってのキリスト教とゲルノン的国家共同体主義の戦いにおけるキリスト教の勝利を意味しているとすれば、カロリング朝が分裂するなかで、教皇や聖職者の堕落が見られたということは、ある程度予想されることだともいえる。そう考えると、クリュニーの改革運動や教皇権の勝利や教会の自由といったことは、中心理念をめぐるキリスト教と国家共同体主義のせめぎ合いとしてみるのではなく、キリスト教の勝利以後のキリスト教が、彼岸的中心理念としてその立場を維持するための自己浄化の問題、再強化の問題だったとも考えられるのである。そして、ウォルムスの協約へ経て十字軍として盛り上がったキリスト教信仰の高揚は、自己崩壊し始めたキリスト教を再活性化させようとするなかでの高揚だったとみることができるのではないだろうか。
 クリュニーの改革運動が自己崩壊し始めた中心理念としてのキリスト教の自己再強化の動きだったということは、グレゴリー七世が聖職者叙任権の問題を持ち出すこと自体が、それまでのカトリックを逸脱した行為だったことからもいえるかもしれない。いわばそれは一種の過剰性であり、その過剰性は自己崩壊しだしたキリスト教を再強化しようとすることから生じたとも考えられるのである。新田一郎によれば、グレゴリー七世の立場はカトリック教義そのものの否定であったという。秘蹟論には秘蹟(サクラメント)の効果はそれを施す人によるものであるとする「人効主義」の立場と、サクラメントの力は正に秘蹟そのもののなかにあるのであり、なされる業によるという「事効主義」の立場があるとされる。そして、アウグスティヌスをはじめ正統カトリック側の主張は後者の「事効主義」の考えであり、この秘蹟論は恩寵論、すなわち人間の自由意志に基づく救済論の否定とともに、カトリック教会の最も重要なドグマとなっていたが、グレゴリー七世はカトリック教会の正統教義である事効主義を捨て、あえて人効主義を標榜し、サクラメントの効果は正しく叙任された聖職者によって施される時にはじめて有効であるとしたのである。さらにこのグレゴリウス七世の立場は、キリスト教が国教化されローマ帝国において中心理念化していく以前のキリスト教に帰っていくものでもあったともいえる。
 「人効主義」の立場に立った者に、キリスト教が公認され国教化された当時の北アフリカのドナートゥス派運動がある。ドナートゥス派の最左翼はカトリック側からキルクムケリオーネスと呼ばれたが、キルクムケリーネスはキスリト教ローマ帝国をも神の国と対立する地上の国家、サタンの国家とみなし、世界の終末は近いとの立場に立ちつつ、ローマ帝国と連合したカトリック派を偽りの教会としてこれに対抗した。キルクムケリオーネスを中心とするドナートゥス派のキリスト教史のうえで持つ最大の意義は、公認後のキリスト教の拡大のなかで急速に失われつつあったビューリタニズム、厳格主義を強調し、教会に新たな活力を与える役割を果たしたことのなかに求められるとされる。長い年月を隔ててグレゴリー七世が、中心理念化する以前のドナートゥス派に戻ろうとしたのだとすれば、それは単に中心理念としてのキリスト教が陥らざるを得ない堕落に対するものというより、中心理念としてのキリスト教そのものが自己崩壊しつつあるということへの危機感だったと考えられるのである。
 中心理念としてのキリスト教が自己崩壊を始め出したとすれば、それはキリスト教の彼岸的理念・純粋理念の崩壊であるから、それに対する反作用として再びキリスト教の彼岸的理念・純粋理念を強化しようとする動きが出てくるであろうし、前中心理念の自己崩壊の中で、その否定の真理性をバネに中心理念化していったのであるから、原点に帰ろうとする傾向が出てくるのは当然のことであろう。そして、自己崩壊の最初の兆候を最初に感じるのは、キリスト教の彼岸性・純粋性を日ごろから純粋に求める者であろう。すなわち、聖職者の中にこそ最初の兆候を感じとり、それに対する反作用としてキリスト教信仰の厳格性を求める者が出てくることになる。この最初にキリスト教の自己崩壊を感じとった者とキスリト教の高揚・絶頂期とは交叉し、信仰の高揚の中で厳格化を求める者と自己崩壊に対する反作用として厳格化を追求する者とを区別することは難しい。クリュニー改革が最初は皇帝も支持するものであったのに、やがてはハインリッヒ四世とグレゴリー七世の対立となったのは、キスリト教の高揚の中でクリュニー改革を支持する者と、キリスト教の自己崩壊を敏感に感じ取り、キリスト教の厳格化を追求しだした者の違いが表れたということなのかもしれない。グレゴリー七世の聖職者による聖職者叙任の要求は、カトリックを離れドナートゥス派に近づくものであった。ドナートゥス派はキリスト教の中心理念化とそれに伴う国家共同体主義との統合をも含む自己放棄の体系化を拒否したのだといえるし、グレゴリー七世も同じく、キリスト教を中心理念とする自己放棄の体系を拒否しようとしたのだともいえるわけである。このようなグレゴリー七世の中心理念としてのキスリト教とその自己放棄の体系の拒否ともいいかねないほどのキリスト教信仰の厳格化・純粋化は、逆に中心理念としてのキリスト教が自己崩壊を始めたことに対する、キリスト教の中心理念化の以前に帰って、それがキリスト教の中心理念化へ向かう力を再現したいという、無意識のうちに働いていた反応なのではないだろうか。グレゴリー改革は中心理念としてのキリスト教の自己崩壊の最初の足音なのかもしれない。

 1155年に皇帝に戴冠されたフリードリッヒ一世は、ロタール三世の例に倣って教皇ハドリアヌス四世の馬の鎧を支え、臣下の礼を取ったが、ハドリアヌス四世は1157年の教皇書簡で帝国は教皇の封土であるとまで宣言する。しかしそれは、フリードリッヒ一世の受け入れれるものではなく、教剣と政剣の両剣は直接神により与えられものであり、教皇と皇帝は同等であるという両剣論に立って反撃を開始し、そのことをはっきりと世に示すために自らの帝国を「神聖帝国」と命名する。しかし、このように教皇に対し皇帝権威について自己主張しだしたフリードリッヒ一世であるが、第三回十字軍を起こすなど、未だ中心理念としてのキリスト教の下での皇帝であったことには変わりがなかった。しかし、その孫のフリードリッヒ二世になると、自己の目指す国家体制の権威の根拠をカトリックにではなく古代ローマ帝国の栄光に求めたといわれる。もちろん、自己の権威を古代ローマ帝国に求めるのはいいが、では皇帝の神性をどうするのかという問題が生じるが、それはさておき、このような皇帝がウォルムス協約から百年ほどたった、キリスト教会の最盛期ともいわれる十三世紀初頭に出てくるということが、すでに中心理念としてのキリスト教に自己崩壊の芽が生じていたことを示しているといえよう。

引用・参考文献
 『中世ヨーロッパ』世界の歴史3 堀米庸三責任編集
 『大学で学ぶ西洋史[古代・中世]』 服部良久・南川高志・山辺規子編著
 『西ヨーロッパ世界の形成』世界の歴史10 佐藤彰一、池上俊一
 『北欧神話』 H・R・エリス・デイヴィッドソン
 『フランス史』 ミシュレ
 『メロヴィング朝』 レジーヌ・ル・ジャン
 『機械の神話』 ルイス・マンフォード
 『中世のキリスト教と文化』 クリストファー・ヘンリー・ドウソン
 『カロリング帝国とキリスト教会』 オイゲン・エーヴィヒ
 『神聖ローマ帝国』 菊池良生
 『キリスト教とローマ皇帝』 新田一郎
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