第一節 アナーキズムとスピリチュアリズム (2024年1月23日)
第一項 相互扶助
第二項 自由・自由意思
第三項 自由意思と摂理
第四項 スピリチュアリズムから見たアナーキスト独立
第二節 唯一者とスピリチュアリズムの共通性と違い (2024年1月23日)
第一項 創造の情熱と霊的進化
第二項 創造的無と無明
第三項 霊的進化は神の事柄か人間の事柄か
第四項 自由意志と選択
第三節 唯一者から見たスピリチュアズムの自己放棄性 (2024年1月23日)
第一項 自己放棄を勧めるスピリチュアリズム
第二項 唯一者から見たスピリチュアリズムと神
第三項 全体と個あるいは自我の二分化
第四項 永遠の霊的進化と自己放棄
第四節 スピリチュアリズムの自己放棄性の再検討 (2024年1月23日)
第一項 スピリチュアリズムの超越性とパラドックス性
第二項 人間が神ではないともされていること
第三項 スピリチュアリズムにおける真の自我
第四項 霊的進化の永遠性と人間が神であること
第五項 霊的進化そのものを目的とする霊的進化
第六項 スピリチュアリズムの創造的有性
第七項 スピリチュアリズムにおける全体と個
第五節 スピリチュアリズム自身による超越性とパラドックス性の否定 (2024年1月23日)
第一項 矛盾の否定と伝える側の限界性
第二項 霊的進化と最大有限数性
第六節 スピリチュアリズムにおける自我の外部性 (2024年1月23日)
第一項 自我の外部性
第二項 生命体
第三項 外部性と自己放棄
第七節 矛盾存在としての神 (2024年1月23日)
第一項 永遠の霊的進化と矛盾存在としての神
第二項 完全性と不完全性の統合
第三項 時間における同時存在性と経時性の二面性
第四項 矛盾存在としての神と外部性
第五項 神の矛盾性と螺旋
第八節 自己放棄の弁証法的展開とスピリチュアリズム (2024年1月23日)
第一項 動物から人間への変化と本質的変化
第二項 動物から人間への霊的進化と中間状態
第三項 中間状態における自己放棄
第四項 スピリチュアリズム的にも自己放棄の弁証法的展開が考えられるのか
第五項 今を転換期とするスピリチュアリズム
第一項 相互扶助
アナーキズムは基本理念主義であり、基本理念は幻想であるとしたが、もし死後の世界というものがあるとすれば、相互扶助については別の意味で実体性をもっているかもしれない。スピリチュアリズムで高級霊とされるシルバーバーチによると、スピリチュアリズムの全教説の基調は、「人のために己れを役立てる」という言葉に尽きるのであり、その福音は相互扶助、協調、寛容、思いやりの福音であるという。そして、自分の為すべきことは自分自身の霊性を磨くことであり、それは他人のために自分を役立てることによってのみ成就するものであって、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的に霊性を高める結果になるのであり、他人へ。平和も互助の精神からしか生まれないのであり、すべての人が奉仕的精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行するようになるまでは、平和は訪れないという。スピリチュアリズムによれば、人間あるいは霊の目的とは霊的進化・霊性進化により霊格を向上させることであり、それは他者への奉仕という行為を通じてしかありえないのであるから、相互扶助とは幻想ではなく実体性があるということになる。死後の世界があれば霊界からの通信ということもあり得るであろうし、スピリチュアリズムが依拠する霊界からの通信は実際に霊界からの通信であり、その通信には真実性が含まれている可能性もあるわけである。そして、自分を創造の情熱とする唯一者にとって死後の世界はそれが無いとは言い切れない。相互扶助に実体性があるとすると、相互扶助に立脚するアナーキズムには実体性があり、幻想とはいえなくなるわけである。アナーキズムとスピリチュアリズムは相互扶助を通じて親和性があり、アナーキズムが相互扶助を強調すればするほどその親和性は増すといえる。
第二項 自由・自由意思
アナーキズムとスピリチュアリズムに共通するものとしては、相互扶助の他に自由あるいは自由意志もあげなければならないであろう。アナーキズムにとって自由と相互扶助はその思想の根幹と言っていいものであるが、スピリチュアリズムにおいても他者への奉仕と自由はもっとも重要なものといえる。人間は自由であるのが本来の在るべき姿なのであり、それが生来の神から授かった霊的遺産であって、人間はパンのみで生きているのではなく、物的存在以上のものなのであり、精神と魂とをもつ霊であって、霊は自由の陽光の中で生きるべく意図されているのであり、 霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのである。自由性と自在性はともに魂がけっして失ってはならない大切な条件であり、永遠に束縛することはできないし、王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消していき、人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中に燦然と輝きわたることになり、やがて新しい世界が生まれるが、それは抑え難い霊的衝動の湧出によってもたらされるのである。スピリチュアリズムにとって新しい世界、より良い世界の建設とは、人々が霊的自由、精神的自由、そして身体的自由を見出すであろう世界の建設であり、「その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。」とシルバーバーチはいう。スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうかという質問に、シルバーバーチは「最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。…人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのですと述べている。人類に自由をもたらすために、アナーキズムとスピリチュアリズムは相携えて進むことができるわけである。
ただ、スピリチュアリズムにとってアナーキズムには少し問題があるかもしれない。シルバーバーチは自由には必ず条件が付きものであり、何の拘束もない自由というものはない、「自由な自由」というものは無い、自由の度合いは魂の成長度に呼応するものであり完全な自由というものは得られませんというが、このようなスピリチュアリズムの立場からいえば、自由とは完全な自由でなければならないというバクーニンには過剰性があり、その過剰性には問題があるともいえるからである。ただ、人間における自由の絶対性という点ではアナーキズムとスピリチュアリズムには共通点があるわけである。「私たちは既得の権力というものは国家であろうと教会であろうと、民族であろうと階級であろうと一宗一派であろうと、そのすべてに反抗してまいります。すべての人間に自由を――崇高にして深淵、そして純粋な意味における自由をもたらしてあげたいのです。」とシルバーバーチは言う。ただ、「霊力は暴力という形では表現されません。…皆さんは暴力やテロ行為が生み出す陰惨さに巻き込まれないようにしないといけません。超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげてください。」とも言う。アナーキズムとスピリチュアリズムが車の両輪になって人類の自由の為に進んで行くという可能性もあるわけであるが、ただアナーキストがスピリチュアリズムを拒否するなら、スピリチュアリズムにとってそれはアナーキズムの限界を意味し、すべてはアナーキスト次第ということになる。スピリチュアリズムからいえば、地球上からアナーキストがいなくなっても、自由と相互扶助のアナーキズム社会は実現していくのである。
自由意思については、スピリチュアリズムでは自由意思は自我の霊的進化と密接に関係するものとして語られている。自由意志は神からの授かりものであり、別の言い方をすると人間は根元的には神性を有し、その当然の資格として、自分で選択する自由がそなわっているのであり、自由意思を与えられた自我は自分で自分の生活を律していく責務が生じる。すなわち、人間には自分の行為を決定する自由意志が与えられており、その自由選択の結果として地上あるいは霊界における霊的進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を棄てて行くことになるのである。シルバーバーチによれば決断は自分で下さなければならないのであり、自分の生き方は自分の責任であり、他の人間に責任が負わされることはない。また、高級霊といえども人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできるが、その人間の自由意思による決断に干渉することはできないし、決断はその人間が行うのであって、人間は持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになる。地上へ再生するかどうかもその霊の自由意思にまかされているのであって、地上でどのような境遇に生まれ、どのような人生を歩むのかも再生にあたってその霊の自由意思によって選択されたのである。
第三項 自由意思と摂理
自由意思と対立するものは必然性や法則といったものであろう。スピリチュアリズムではこの自由意思と必然性・法則との関係が単に対立関係にあり、相互に排斥する関係にあるのではないという。スピリチュアリズムにおいても、法則が絶対的に支配しているとされ、人生はすべてが自然法則によって規制されているのであり、自由意志も摂理の中に組み込まれているという。摂理は完全であり、自動的に作用し、誰一人として摂理を避けて通ることはできないし、自由意志でさえ摂理の一環なのである。シルバーバーチは、自由意志の行動は自動的ではないということでしょうかという質問に、「いえ、自動的です。その時点であなたが取る行動は、さまざまな法則の相互作用によって決まります」と答えている。このように摂理・法則が絶対的なものとしてあり、人間の行動は法則によって自動的なものとされる一方、スピリチュアリズムでは自由意思は存在しているともいうわけである。シルバーバーチは「宇宙にはこうしたパラドツクス――一見すると矛盾しているかに思える真実――がいろいろとあります。」と述べており、スピリチュアリズムはパラドツクスとも結びつくわけである。確かに、神が全能なら矛盾も可能なのであるから、シルバーバーチのいうように「これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。」ということもありえるわけである。
必然性・法則と自由意思の絡まった中で、自由意思といっても何らかの制約を常に受けているということであり、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界があるわけである。これはアナーキストの自由意思にもいえることであろう。いくらアナーキストが自由といっても、自分の力だけでは空を飛べないし、何千メートルの海の底に潜っていけないわけである。ただ、「運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」というシルバーバーチの言い方を見ると、スピリチュアリズムにとってこの自由意思が制約を受けるということはもう少し複雑なことなのかもしれない。あるいは、「よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。問題は解釈の仕方にあります。」とも言われるが、それをどのように解釈するかということになる。自由意志の行動はさまざまな法則の相互作用によって決まるというが、その絡み合った法則はその人間の霊格によっても異なるのであり、シルバーバーチによれば、その人間の自由意志を行使できる範囲はその人間がこれまでに到達した進化の程度によって決まるということであり、大霊(神)の一部であり無限の神性を秘めているその神性が発揮されるにつれて、人間はより高い次元の法則の支配を受けるようになるという。法則の相互作用といっても様々な次元の法則が絡まり合っているわけである。その法則は他の次元の法則と矛盾するものではありませんともいう。そして、スピリチュアリズム的に何よりも重要なことは、いくら自由意思が与えられているといっても、その自由意思によって霊性向上、霊的進化を通じて神の「無限の創造活動」、神の計画の地上での実現を一時的に遅らせたり妨害したりすることはできても、阻止することはできないということである。ようするに、人間に自由意思が与えられているといっても、霊性向上・霊的進化を自分から捨て去ることは絶対にできないということであり、この神の計画の実現をもたらすものとして摂理・法則があるということは、自由意思もこの摂理・法則から完全に逃れることはできないし、その意味で自由意思は摂理・法則による制約があり、大きな目で見れば自由意思の行動は自動的ともいえるわけである。シルバーバーチは「霊的に目覚めている魂は進化をさらにというが、人間に自由意志があるといっても、結局霊性向上・霊的進化へ向うように、人間の行動は決まっているともいえるわけである。
第四項 スピリチュアリズムから見たアナーキスト独立
人間は霊であり霊的進化を求める存在であり、霊的進化において他者への奉仕、相互扶助が唯一の霊的進化をもたらす手段であるとするなら、相互扶助に基礎を置くアナーキスト独立共同体は強固な基盤の上に立っているといえる。では、スピリチュアリズムから見てアナーキスト独立という考えそのものには問題がないのであろうか。アナーキスト独立派は分離主義者ということがいえる。それに対してスピリチュアリズムは結合を強調し、一種の全体主義的傾向を持っているのではないだろうか。英国の王室の存続は有益であると思われますかという問いに、シルバーバーチは「そう思います。なぜなら、何であれ国民を一つに結び合わせるものは大切にすべきだからです。世界人類が共存していくための団結の要素を求め、お互いに近づき合うようにならなければいけません。離反・孤立を求めて争うことを私がいけないと言うのはそこに理由があります。魂が一切の捉われを無くすと、世界中の誰とでも調和した一体化を求めるようになるものです。」と答えている。また、「根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。」として、「みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。すなわち世界の人間の全てが霊的につながっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物もいっしょです。」といい、さらに動物だけでなく、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しており、全生命は進む時は共に進み、後戻りする時は共に後戻りするのだという。そして、「生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係がいきわたっております。…宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。」とする。これらの言葉を見ると、そこに流れているのは分離主義を否定する全体主義的な考えともいえるし、このようなスピリチュアリズムの性格からいえばアナーキスト独立といった考えには否定的になるのではないだろうか。
もっとも、実際の霊界はこのようなスピリチュアリズムの主張とは異なる側面も見せている。もし登るも下るもみんな一緒なら、どうして霊界は幾つもの界層に分かれているのであろうか。しかも、基本的に上の界層の霊は下の界層に行くことができるが、下の界層の霊は上級霊に付き添われなければ上の界層に行けないようになっているのである。これではみんな一緒などとはいえないであろう。もっとも、霊界には各界層に分離されているということについては、だからこそ異なる霊的水準にある人間が一つになって一緒に生活することに、地上生活の意義があるのだという。アナーキス独立派は分離独立しようとするかもしれないが、別に孤立化し他者との関係を断とうとするわけではない。アナーキスト独立共同体から出で行こうとする人間が引き止められることはないし、参加しようとする人間が拒否されることもない。霊界よりよほど開放的ともいえるし、ある意味一緒に進もうとしているともいえるのである。もちろん、それぞれが別の方向に向かっているのだとすれば最終的にはバラバラに分離し相互の交流もなくなり、それぞれの道を歩むことになるかもしれない。しかし、その際求めるのは共存である。一緒に進むことにこだわって、結局誰も自分たちが本当に進みたい方向に進めないことになる方がよほど問題であろう。人類は最終的にはみんな同じ方向に向かうのか、それぞれ別の方向に向かうのかという問題であって、同じ方向に向かっているのに分離にこだわって別々の方向に向かおうとすることも問題であるが、別々の方向に向かっているのに同じ方向に進もうとすることも問題だということである。アナーキスト独立派は両方を否定するし、とりあえず別々の方向に向かっているなら、分離してそれぞれの道を進んでみましょうということ以上のことではない。また一緒になって同じ方向に進むかもしれないわけである。ただ、それさえもスピリチュアリズムが否定するとすれば、アナーキスト独立という考えはスピリチュアリズムと対立していることになる。アナーキスト独立共同体においていくら相互扶助を実践しても他方ではスピリチュアリズムと対立する考えに拘っている以上、結局アナーキスト独立共同体内部での霊的進化には限界があり、何時か限界に突き当たるということになるわけである。
霊界と地獄(これも広い意味での霊界すなわち死後の世界の一部であるが、この場合霊界とは霊的自覚を持った霊の世界という意味であり、地獄とはいまだ霊的自覚を持っていない霊たちの世界とでもいえる界層である)を考えてみると、霊界と地獄もはっきりと区別されている。といってまったく断絶しているわけではなく、『ベールの彼方の生活』では大きな橋(といっても幅数十キロメートル)で繋がっているというが、地獄の住民は自由に霊界に行けるわけではない。では霊界と地獄がどうしてあるかといえば、死んだ人間が自分にとって好ましい、自分に合った所に行く結果、地獄と表現されるような界層も出来上がるわけである。そこにあるのは、自由意思で自分の行きたいところに行くということであって、それはアナーキスト独立派が求めている事とと同じであろう。死後の世界に霊界と地獄という分離があるなら、地上にアナーキスト独立共同体という分離があってもスピリチュアリズム的に問題があるとはいえないのではないだろうか。あるいは、死んだら霊界と地獄に分かれるだろう人間が一つの社会で生活することに地上の意味があるのだとすれば、スピリチュアリズム的にアナーキスト独立というような考えは問題があるということになるかもしれない。ただ、地球の霊的波動がより精妙化し、地球が霊的に高まっていけば、結局地上も霊界と地獄のような分離化が進むのではないだろうか。アナーキスト独立共同体が霊界的なものになるか地獄のようなものになるかは分からないが、アナーキスト独立共同体といったものが出来てくるということは地球の霊的進化がそれだけ進んだということの現われかもしれないわけである。もしそうなら、そこにスピリチュアリズム的に問題があるようには思われない。ただ、シルバーバーチは離反・孤立を求めて争うことはいけないというから、アナーキスト独立は認めるとしてもその為に争いや闘争、独立戦争といったものを通じての独立なら、それは認められないということになるのかもしれない。
スピリチュアリズムでも社会の先駆けといわれる人々がいる。シルバーバーチによれば、時に一足跳びに進化するものと後退するものとが出てきて、先駆けと後戻りが常にあるが、天才はその「先駆け」に当たるし、いわゆる霊能者というのも進化のコースの先駆者であるという。この場合先駆けはあくまでも先駆けであって、他を置き去りにして自分だけ抜きん出るということでもないであろう。それらは個人について言われていることであるが、集団についても先駆けともいえる集団がありえるかもしれない。その場合も、それだけではその集団は自分達だけ抜きん出て他を置き去りにするということはいえないはずである。アナーキスト独立共同体の場合あくまでも相互扶助に基盤を置いた社会を作りたいということなのであって、そういう意味ではアナーキスト独立共同体も一種の先駆け社会になる可能性はいえるかもしれないが、アナーキスト独立派からいえば他の人間もそれぞれ自分の好きな社会を作ればいいということであって、別に自分たちが先駆け的存在であると主張しているということでもなく、そこに優劣があるわけではないし、優劣を考える必要もない話である。先駆け社会が別に他を置き去りにして自分だけ抜きん出ようという社会でないとすれば、ましてやアナーキスト独立共同体についてはそうであろう。一緒に進むということは全体主義とは違うのではないだろうか。一緒に進まなければならないからといって、一つの集団になって進まなければならないということではないであろう。幾つもの集団に分かれているが、大きな目で見ればそれらの集団は一緒に進んでいるということもあるかもしれないし、それぞれの集団が他の集団の存在を尊重しているなら、それは一緒に進んでいるともいえるのではないだろうか。もしそうなら、分離主義が否定されるとは必ずしも言えないわけである。問題は、他の集団を認めない全体主義の方にあるであろう。シルバーバーチは「わたしは、何ごとにも寛容で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。」といっているが、アナーキス独立と言う考えは、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげるということではないだろうか。
アナーキズムとスピリチュアリズムには相互扶助と自由という共通性があった。もっともスピリチュアリズムは他者への奉仕と自由意思を強調するだけでなく、神を認め、人間の死後存続を主張し、人間を単なる物質ではなく霊とする。ただ、スピリチュアリズムが神や霊を持ち出すからといって、スピリチュアリズムが相互扶助・他者への奉仕や自由を強調し、それらによって成り立つ社会を求める思想である限り、アナーキズムにとっては別に問題にはならないであろう。進歩主義が科学と結びつき、進歩は科学的真理に基づかなければないとされ、科学が唯物論こそ真理であるとする以上、スピリチュアリズムは進歩主義から見れば問題かもしれないが、アナーキズムは進歩主義ではなく基本理念主義なのである。
では、唯一者とスピリチュアリズムの関係はどうなのであろうか。唯一者にとっても自己の自由はその主体性と関わるもっとも重要なことであった。そして、唯一者的立場はアナーキズムほど唯物論的ではないといえる。自我が物質的存在であるとするなら、創造の情熱の目的あるいは手段は物質的存在としての自我を探求することによって、その内容が明らかにされるのではないだろうか。そうすると、自我とは物質すなわち肉体のことであり、物質的自我すなわち肉体は存在し手掛かりとして与えられているのであるから、すでに創造的無は否定されているともいえる。自己の本質を創造的無とするなら、唯一者は自己を物質的存在とは別の存在と見なさなければならないということにもなるわけである。また、唯一者は一切の固定観念を破壊しようとするが、マイヤーズも「もし一瞬たりとも自己の作った鋳型に固定されることがなければ、絶えず現在という時点において想像し、自己に必要なものを加え、不必要なものを除去する。従って、意識の各中枢に固有の新鮮な想像力を絶えず再認識せよ。この力こそ、たとえその霊的生活のレヴェルがいかに低くとも、人類の未来への希望がある。」と言い、スピリチュアリズムも固定観念の破壊の必要性を言っている。
第一項 創造の情熱と霊的進化
自由意思を重視するという点ではスピリチュアリズムとアナーキズムと同様、スピリチュアリズムと唯一者の間でも共通するといえた。しかし、他者への奉仕、相互扶助という点ではスピリチュアリズムと唯一者との間には違いがある。スピリチュアリズムにとっては他者への奉仕は絶対的な価値を持つものであるが、唯一者にとっては他者への奉仕も創造の情熱の前では無でしかない。他者への奉仕を巡って、スピリチュアリズムと唯一者は対立関係にあるともいえるが、スピリチュアリズムが他者への奉仕を絶対化するのは、それが霊的進化をもたらす唯一の手段とされているからである。では、霊的進化と唯一者との関係はどうなるのであろうか。その場合、スピリチュアリズムにとって霊的進化は自我の目的のことといえ、シルバーバーチは人生はまったく意味が無いのではなく、人生の究極の目的は、地上でも死後においても、霊性を開発することにあるのであって、無意識のうちに完全に近づこうとする魂は、進化を求めてじっとしていられないという。創造の情熱もまた自我の目的のことなのであるから、霊的進化と唯一者との関係を考えるとき、霊的進化は創造の情熱のことだとして考えるということであろう。創造の情熱は自己の奥底から溢れ出てくるようなものであり、抑えようとしても抑えきれないものであり、それ故自己放棄を自己崩壊させてしまうのであるが、シルバーバーチは「人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。それは、抑え難い霊的衝動の湧出によってもたらされます。」といい、スピリチュアリズムもそのような衝動を霊的進化にみている。あるいは、湧き出るような霊的衝動が創造の情熱の根底にあるのかもしれないわけである。
永遠の存在と有限な存在者
ただ、霊的進化は創造の情熱のこととすると、唯一者からみてスピリチュアリズムには問題がある。その一つは、シルバーバーチは「霊としてのあなたは無始無終の存在です。」と言い、「生命は永遠にして無限です。不完全な側面を一つ又一つと取り除きつつ、完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程には終局はないのです。」と言う。シルバーバーチによれば、霊的進化にはもうこれでおしまいという段階はこないのであり、人間とはいつまでも進化し続ける存在とされる。すなわち、人間は永遠に存在し続ける存在ということになるが、それに対してシュティルナーは唯一者を「己れ自身を消尽する移ろい死にゆく創造者」といい、唯一者は何時かはその生が終わる存在とみなされている。そのような限りある生を唯一者は創造の情熱として生きるわけであるが、そのような生をロウソクはやがて燃え尽きることに例えて、「人はいかにして生を利用するのか?ロウソクに火をともしてこれを利用すると同よう、生を消費することによって、だ。」とシュティルナーは表現するわけである。もっとも、唯一者にとって自己が永遠の存在か有限の存在か、というような違いはあまり問題にはならないかもしれない。何故なら、唯一者にとって別に自分が永遠の存在であってもそれはそれでかまわないのであり、ただ創造の情熱として生きるだけだからである。逆に、その死後の存在が永遠に続くことは無限の時間の中では何時か創造の情熱を充足する可能性は高いであろうから、唯一者にとっても好ましいことだともいえる。ただ、唯一者は自己の生が永遠に続くとは断言できないわけであり、終わりがあるならそれはそれでいいわけであって、その生きている間を創造の情熱として生きるだけなわけである。唯一者は死とともにその存在が無くなってしまうという意味では、唯物論的な立場に立っているともいえるが、といって人間を霊とするスピリチュアリズムと必ずしも対立するものではない。唯一者は自我を物質とするが、一方では自我を物質を超えたものとし、自我にとって物質は無とされるのである。唯一者にとって自分が単なる物資ではなく霊であっても別にかまわないのであり、霊である自分が創造の情熱であるというまでのことである。
唯一者にとっていえることは、その存在が有限であろうと無限であろうと、またその間に創造的無状態から脱出できないかもしれないとしても、創造の情熱として生きていくということであった。また、その存在がニーチェ的永劫回帰の中で続くとしても、別にそれが問題になることもない。唯一者が創造的無の中で創造の情熱として生きていくということは瞬間瞬間の選択・決断の中で生きていくということであり、その瞬間が有限の時間の中に在ろうと、無限に続く時間の中に在ろうと、永劫回帰的な繰り返しの時間の中に在ろうと、瞬間を創造の情熱として生きるということからはそこに違いはないからである。永遠の時間の中で同じことを繰り返すのだとしても、瞬間瞬間の決断に全てをかける唯一者にとって、その結果の積み重ねが無の積み重ねであるということが特に意味を持つわけではない。また、創造の情熱がいつか完全に充足されるのだとすれば、やはりその過程が繰り返されるかどうかということはどうでもいいことであろうし、同じように創造の情熱が充足されないのだとすれば、それが一直線的な時間の中であろうと、永遠の時間の中で繰り返されることであろうと同じことであろう。どちらにしても、唯一者としては結果がどうなろうと創造の情熱として生きていくだけのことである。重要なことは、唯一者にとって創造の情熱が充足されない、創造の情熱が無に固定化されているということは未定のことであり、そう主張したり、そのことに取り越し苦労したがる人間は自己放棄者だということである。創造の情熱という観点からいえば、ニーチェは永劫回帰を結局創造の情熱が充足されないままに終わる生の繰り返しとして捉えていたのではないだろうか。確かに、創造の情熱の充足とは自分が神に成ることであり、神とは無限存在だとするなら、永劫回帰のもとでは有限な生を繰り返すのであるから人間は神に成ることはできないし、創造の情熱を充足することも出来ないということになる。しかし、単に永劫回帰を考えるならそれは創造的無から創造の情熱の充足にまで到る過程の繰り返しでもいいし、そうなる可能性も否定できないわけである。その場合、自我は創造の情熱を充足するし、自我がそれ以上のことを求めていないということは、その繰り返しがもたらす何かを求めているいるわけでもないから、結局は創造の情熱の充足で終わる生の繰り返しに否定的な要素はないはずなのである。唯一者はその生が有限であろうと無限であろうと、有限な生の繰り返しであろうと、創造の情熱として生きて行くだけのことである。なお、無限の時間の中で有限な存在が永劫回帰を繰り返すというのは、必ずしも必然ではないであろう。無理数を考えれば、0から9までの数字が有理数のように繰り返すことなく無限に続いていくのである。
霊的進化は絶対的なものか
もう一つの問題は、唯一者において創造の情熱が自我にとって絶対的なものであるように、霊的進化は人間にとって絶対的なものということになるはずであるが、スピリチュアリズムにとって霊的進化は必ずしも絶対的なものとはいえないかもしれないということがある。確かに、シルバーバーチにおいては、「無限の叡智を具えた大霊は相対的な自由意志をもつ存在として人間を創造されました。…今私は“相対的な自由意志”と言う言い方を意図的に使用しました。私が“無限の創造活動”と呼んでいるものを一時的に邪魔したり遅らせたり妨害したりすることはできても、完全に阻止することはできないということです。神の計画の地上での実現を阻止することはできないのです。」といわれ、個霊は永遠の存在であり、その個霊において霊的進化は絶対的なものとされる。生命は静止することがなく、絶えず向上を目指して動いているのである。そして、「あなたはあなたの魂の支配者です。」といい、「人間の魂は、いつまでも牢獄に閉じ込められたままでは承知しません。永遠に暗黒の中で暮らす者はいません。いつかは魂が光明を求めるようになります。」と言う。「みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。」とも言うが、人間が霊的進化を求める存在である以上、そもそも永遠の暗闇を自ら求めることはあり得ないわけであり、「地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。」ということである。また、「いかなる極悪人といえども“存在”そのものを失ってしまうことはありません。神性の火花が衰えて微かに明滅する程度になることはあっても、完全に消滅してしまうことはありません。なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。」とも言う。『ベールの彼方の生活』でも、「悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明な者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにして行く手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならば、そこに不幸が生じる。」が、「もし仮りにその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、その者を一気に押し流すことになろう。が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗し得る者はいない。」と言われる。 もし人間にとって霊的進化が絶対的なものとしてあるなら、当然永遠の存在である個霊は、シルバーバーチのいうように今は霊性に目覚めていないとしても、いつかは霊性に目覚めるということになるであろう。
しかし、霊界通信の中には個霊は霊的進化から離れたとしても、永遠の時間の中でいつかは霊的進化の道に立ち戻り、永遠の霊的進化の道を歩みだすということからは理解できない、ある意味それと反するようなことを述べているものもある。『人間個性を超えて』のマイヤーズの通信に、「魂は創造力の中枢であるが、なかには創造者の心のなかに入りこめないものもある。そうした時は、本霊がこれらの魂が無価値で不滅を達成できないと判断すると、魂の分解消滅を宣告する。…というのも、或るものは中途で挫折するからである。しかし何ものも無駄にはならず何もなくなりはしない。魂は分解されるけれども、その記憶と経験は類魂のなかに維持され、共同体のメンバーのために役立つのである。」とある。モーゼスの『霊訓』にも、「こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。…かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くは知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。すくなくともわれらはそう信ずる。」とある。モーゼスへの通信ではそう信ずるとあって断定的ではないが、マイヤーズの言うように個霊の消滅ということがあるのであろう。
人間にとって霊的進化が絶対的なものでありいつかは霊性に目覚めるなら、また永遠に霊的進化を続けていく存在だとすれば、いくら進化が遅いといっても、無限の時間があるのであるから、何時かはどのように駄目な個霊でも霊的進化に目覚めるのではないだろうか。自由意思によって霊的進化の道から外れることはあっても、それが永遠に続くわけではないし、何時かは霊的進化の道に戻ってくるのなら、ある時点で見切りをつけて消滅させる必要もないということになり、抹消される必要のない個霊が抹消されていくわけである。あるいは賽の目がいくら続いて半の目しか出ていないとしても、次に振る賽の目では丁の目が出る可能性があるように、自由意思によって悪の選択を続けていたとしても、それは次の選択でも悪を選択するということにはならないわけである。個霊の抹消ということが行われているとすれば、それはスピリチュアリズムにおいて、霊的進化というものが自我あるいは個霊にとって絶対的なものではないということになるであろう。もし霊的進化が自我にとって絶対的なものでないないとすれば、霊的進化を創造の情熱に結びつけることには問題があるということになるわけである。
スピリチュアリズムの個霊の存続に関する矛盾
スピリチュアリズム内部の、個霊の存続に関する矛盾をどう考えればいいのであろうか。その食い違いは、シルバーバーチとマイヤーズの霊性進化、霊格の違いからくるとはいえないであろう。マイヤーズは「私は自分の書くことに特別の権威があるなどと主張しようとは思わない。」と言い、続けて「私は自分自身のささやかな経験と知識に照らして、魂が旅する際の地上との関りについて述べたつもりである。」とも述べているから、この個霊の抹消ということもマイヤーズが死後経験したことの知識と考えられるのである。マイヤーズの通信は、彼が死んでからそんなに経たないときに送られてきたものであるのに対し、シルバーバーチは三千年前に地上を去ったと自ら述べている。その死後の経験の差は大きいと言わざるを得なが、この場合は実際に抹消されていく個霊がいることを一度でも経験しているかどうかであるから、個霊の抹消という滅多に生じないことをマイヤーズはたまたま経験したということなら、それには死後の経験の多さも関係ないといえよう。マイヤーズは特殊な例を述べ、シルバーバーチは一般論を述べているとも考えられるが、例外があるということは霊的進化が個霊にとって絶対的なものではないということになり、霊的進化は創造の情熱のことではないということになる。そして、霊的進化が創造の情熱のことではないとすれば、唯一者から見ればスピリチュアリズムは目的でもないものを目的と見なす自己放棄の思想ということになるであろう。
もっとも、人間の本質は変わるものだとしているのであるから、創造の情熱についてもそれほど絶対性はいえないともいえる。そういう意味ではスピリチュアリズムにおける霊的進化の方が創造の情熱より絶対的なものともいえるわけである。そして、唯一者から見ればスピリチュアリズムは自己放棄の思想ということになるかもしれなが、スピリチュアリズムから見れば自己放棄の思想としてスピリチュアリズムを否定する唯一者は霊的進化の道から外れた存在であり、もしその立場に拘り、その立場を捨てない限り、最終的にはその存在を抹消すべき存在ということになるかもれしないわけである。それに対して、唯一者としてはその存在を抹消される個我が存在することは受け容れることができるとしても、一方では霊的進化の絶対性と個我の永遠性を言いながら、他方では抹消する個我も存在するというスピリチュアリズムを受け入れることはできないし、唯一者の立場をあくまでも維持するということになる。
シルバーバーチとマイヤーズの対立は霊的進化の永遠性についてもいえる。シルバーバーチによれば霊とは無始無終であり霊的進化は永遠に続くとされるが、マイヤーズは「宇宙には初めがある。ということはつまり終りもあるであろう。永遠の霊――すべてのわれわれの中枢ないし霊魂を含む――の光が全く退き、宇宙に生命を吹き込むことをやめ、夜が帳を下ろし光を包むとき、終わりが訪れる。かくして宇宙は沈滞し無力になるのをいかんともし難い。」と言い、宇宙に始めと終わりがあるとすれば霊的進化にも終わりがあるということであろう。霊としては始めはないが、神によって創造された宇宙には始めがあるということはありえる。しかし、もし人間が神の被造物であるとすれば、人間は被造物としての宇宙を離れて存在できないのではないだろうか。宇宙に終わりがあるということは人間にも終わりがあるということであり、人間の霊的進化にも終わりがあるということになる。
第二項 創造的無と無明
創造の情熱とは霊的進化のことだとして、では創造的無と同じようなことが霊的進化にもいえるのであろうか。シルバーバーチは地上界は実に永い間、暗黒に包まれてまいりましたといい、一種名状しがたい暗闇に包まれている地上、厚く包み込むモヤと霧の中で、冷ややかで陰うつでじめじめとして味けない暗い地上世界、と地上世界を表現している。そして人類について、無明ゆえに地上人類は神の摂理にしたがった生き方をしておらず、暗黒と絶望の道を選択しておりますといい、人類がいかに永いあいだ道を失ってきたがご存知でしょうか、悲しいかな、あまりにも多くの人々が、暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂をひきづりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からず迷い続けておりますという。霊的進化においても、地上の人間は無明という、一種の創造的無状態にあるともいえるわけである。
ところで、「地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と、シルバーバーチは人間は今度の地上生活においてなすべき目的をもって再生してくるという。しかし、ひとたび地上に誕生するとその目的を思い出すことができない。それは「実際に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ない」からであり、そして、死により「肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。」と言う。シルバーバーチによれば、人間は本来は霊的存在で、それが肉体に宿っているが、今この地上においてすでに霊なのであり、それが自我を発揮しているのであるが、物質界に生きている人間は感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められており、本当の生命の何たるかを理解することができないし、「五感に束縛されているかぎり、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能」なのである。霊的進化が人間の目的といっても、霊的なものを人間が認識できないとすれば、それは一種の創造的無状態にあるといえ、スピリチュアリズム的な無明状態、創造的無状態は肉体という物質が霊である我々に作り出しているわけであり、物質が人間と霊との間に立ち込める霧であり、物質という霧が外からのそして内からの光を妨げる遮蔽物なわけである。そして、「人間は肉体と精神と霊とから構成されております。これを本当の意味での“三位一体”といいます。三者が一体となっており、一つが三者によって成り立っているわけです。」ともシルバーバーチは言うが、霊・精神・肉体が合体しているのではなく一体化したものとしての自我、霊・精神・肉体を統合した全的単一体としての自我は、物質の持つ無明性、物質がもたらす霧からまったく切り離されることはないであろう。一方、「その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。」と言い、シルバーバーチは肉体を持った人間でもその状態から脱出できるともいう。自我とは霊・精神・肉体が一体化したものであるとするなら、肉体と切り離せないということは霊とも切り離せないわけである。ただ、基本的には地上の肉体を持った人間は無明状態、創造的無として存在しているといえるであろう。自我が肉体と精神と霊の統一体とすれば、肉体だけを見ても創造の情熱とは何か、どうすれば創造の情熱を充足できるのかは分からないということになるであろうし、そういう意味では肉体が見えるといっても自我は創造的無としてあるということになるし、自我とは肉体ではない何かということになる。
さらに、物質が作り出す霧ということでは、我々は今最も深い霧の中にいるともいえる。『ホワイト・イーグル霊言集』でホワイト・イーグルは、「人は神からほとばしり出た火花、無意識のまま、内に神性を宿して神から出た火花」であるが、「その火花は幾多の目に見えぬ生命の境域を、現在の人間になるまで下降しました――下降につぐ下降、魂は次第に鈍重な衣を身にまといつつ、とうとう最後に、見たことも聞いたこともない重い衣を身に付けてしまいました――それは肉体、そして彼をとりまく物的環境、こうして彼は地面に頭を低く垂れてしまったのです。地球の実質そのものも、波長を下げながら、凝固しつづけ、今や人間の魂や霊と共に、地球そのものも下降の輪の底に到達してしまったのです。地球には現在、成長した魂もあり、再び上昇過程に向かっていますが、多数は依然として、下降物質化の過程を辿っています。」といい、この物質に向かっての下降につぐ下降という局面においては、流れは霊的なものから離れる方向に向かっているのであり、その意味では人間は創造的無状態へ向かい、そしてその底までたどり着いてしまっているわけである。
人間は確かに人の為に何かをすることはあるし、そのことによって地上生活中に霊的進化を遂げているかもしれないが、地上の自我を主体的にみれば、そのことが霊的進化をもたらしていることも気付かず、地上という無明の世界で暗中模索している存在でしかないともいえる。地上の自我を主体的存在としてみようとするかぎり、創造的無とでもしかいえない状態にあるといえないだろうか。主体性を意識性と言い換えるなら、このような考えはよりスピリチュアリズムによって支持されるであろう。シルバーバーチによれば、人間というのは自我意識を表現している存在といってよく、意識がすべてで、意識そのものが「個」としての存在であり、個としての存在は意識のことである。意識のあるところには必ず個としての霊が存在し、個としての霊が存在するところには必ず意識が存在する。このように自我は意識とされながら、地上の人間は、人間の目的は霊的進化であり、そのためには他者への奉仕が重要であるということは、しっかりと意識化されているわけではない。確かに他人の為に己を捨てるといった行為は聖人の徳目とされてきたが、しかし、そのことを一人ひとりの人間がしっかりと自分の問題として意識していたかといえば疑問であり、大多数の人間においては、他人よりは自分というのが正直なところであろう。
スピリチュアリズムにおいては自覚が芽生えるまでは暗闇の中にるのであり、自覚のないところに光明は射し込めないということが直面する根本的な問題とされるが、自我は自己の霊性に目覚めたときから、本当の霊的進化に乗り出すのである。その時、神や霊界への確信が生じるのであり、その確信は失われることはないという。そうすると、この数百年で多くの人間が神や死後世界を信じなくなったということは、それ以前に人類が神や死後の世界を信じていたといっても、それは霊的自覚に基づいていたわけではないということになる。このことは、これまでの人間が霊的自覚という面からみれば無にも等しい存在だったということを示している。地上生活における苦や悲しみが霊的進化をもたらすといっても、これまでの数限りなくあった苦や悲しみは、地上に本当の霊的自覚をもたらすほどのものではなかったわけである。その意味では、人類は地上の無明の中で生きてきたといえる。シルバーバーチは「神は、内部にその神性の一部を宿らせたはずの我が子が無知の暗闇の中で暮らし、影と靄の中を歩み、生きる目的も方その分からず、得心のいく答えはないと思いつつ問いつづけるようには意図されておりません。真に欲する者には存分に分け与えてあげられる無限の知識の宝庫が用意されておりますが、それは本人の魂の成長と努力と進化と発展を条件としてあたえられます。」といっているが、裏を返せばそれだけ生きる目的も方角も分からず彷徨っている人間が多いということであろう。「あなたも私たちと同じ視野に立って地上世界をご覧になることです。そうした無数の人たちが、いずこへ向うべきかも分からぬまま、疑念と不安を抱きつつ狼狽し、途方に暮れた生活を送っております。暗中模索と挫折のくり返しです。」とも述べている。
創造的無と無明には違いもある。創造的無について、何かを求めているがそれが何か曖昧模糊として、何を求めているか具体的にわかっていないし、それを具体的に分かろうとしても、どうしたらいいかそれも分からないという状態であるとした。何かを求めているという意味で目的があるということであり、目的が曖昧模糊としている以上、手段も曖昧模糊としているということになる。そのような創造的無を作り出す状態としては二つの状態が考えられた。一つは目的もその手段も、さらにいえば目的を知る手段さえ目の前には無いということでり、もう一つは目的・手段は現に存在しているが、それが目的であり手段であることが分からない状態であった。前者の考えが目の前に見える道が目的に通じていないのに対して、後者の場合は目的に通じているのであるが、目的も見えないし、目の前の道が目的に通じているのも見えな状態のままに、さ迷っている状態ともいえる。スピリチュアリズムにおける無明とは後者のことといえよう。スピリチュアリズムでは二つの創造的無状態のうちのどちらかであるかが分かっているということになる。しかし創造的無においては、この二つの創造的無状態のどちらなのかは、目的も手段も分かっていなのであるから、創造的無状態にある限りはわからないことである。もっとも、無明とは後者の意味でのことであるというのは、霊界の高級霊が無明について語る場合についていえることである。従ってそれはスピリチュアリズムにおける無明ということにもなるが、それに対して唯一者にとっての創造的無という場合、目的が何なのか分からない、その目的が何なのかを知る手段も分からないということではあるが、目的があるという立場には立っているわけである。しかし、地上で実際に無明状態にいる人間にとっては、スピリチュアリズム的な創造的無状態でも唯一者的創造的無状態でもなく、人間とは目的を持つ存在かどうかさえも分からないという状態にあるのではないだろうか。すなわち、唯一者的に見るなら、地上で無明状態にある人間はそれだけで一種の自己放棄状態にあるのだということになる。なお、唯一者的創造的無からスピリチュアリズム的無明を見れば、二つの創造的無状態のどちらなのかは、創造的無である限り分からないはずなのに、創造的無とはそのうちの一方の状態としているのであるから、それもまた一種の自己放棄なのだといえよう。
スピリチュアリズムにおいては物質の中で生きることが創造的無であるとしたが、マイヤーズによればその他にも創造的無状態があるようである。『不滅への道』でマイヤーズは「大精神が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらの殆どすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。」と言う。そして、実在の目的は「精神は物質の段階的で多様な変化の中で進化する」という一句に集約されるのであり、精神は物質への顕現を通して進歩し、拡大する宇宙の中で無限にその力を増大し、それによって実在についての真の観念を獲得するとされる。マイヤーズの言葉からいえば、創造的無・霊的無ともいえる状態は物質の中の霊にあるのでなく、物質へと下降する以前の霊の状態こそ創造的無・霊的無ともいえる。物質の中では逆に創造的無・霊的無の状態ではないともいえるわけである。ただ、マイヤーズも「仏教徒は宇宙は現実のものではないと主張している。…宇宙の根本を非現実であるとする考え方は、彼の前方にある魂の道筋が一部だけしか見えていない時に浮かぶ考えである。更にいえば、形態とはこの道中にあって、魂に道路絵図を示すものである。それ故、宇宙が非現実的なものだとする仏教徒の説はある意味では正しいのである。」ともいっており、物質の持つ力が道路地図のようなものであって道路そのものではなく、その意味では幻想・幻影とまでは言えないものの、非実体的なものであるとする。また、物質とは無縁の霊がすべて創造的無・霊的無状態にあるかといえば、シルバーチバーチ霊によれば、一度も物質の中に誕生することなく霊的に進化する霊も存在し、しかも高級霊になっているということなので、必ずしもそうではない。
第三項 霊的進化は神の事柄か人間の事柄か
唯一者にとって創造の情熱の充足は自分の事柄であって神の事柄ではなかった。では、スピリチュアリズにおいて霊的進化は人間の事柄なのであろうか、それとも神の事柄なのであろうか。
人間の事柄としての霊的進化
「私はかつて一度たりとも神が光と善のみに宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。」とシルバーバーチは言う。善にも悪にも神が宿るとされる場合の神と、霊的進化の目標としての神とは区別されなければならないのかもしれない。自由意思によって善を選択するということはその人間に霊的進化をもたらし、悪を選択した場合には霊的進化の道から外れ、選択にはそれ相応の結果がもたらされるとされる。神の許では善悪に区別はないが、霊的進化においては善悪に区別があるということになり、霊的進化の目標としての神は善と結びついているといえよう。善にも悪にも神が宿るのだとすれば、神と霊的進化は一応区別されなければならないということになる。従って、善と悪とに神が宿るということは、霊的進化そのものにおいては意味を持たないということになるし、このことは霊的進化とは神に成ること、あるいは神に近づくことを目指しているのではないということかもしれない。その意味では神に成る必要もないわけである。もっとも、霊的進化も神の中にある、あるいは神によって作り出されたわけであり、神の摂理の複雑性を考えたら神と霊的進化は単純には切り離せかもしれないが、神の完全性からは神において霊的進化の必要性は出て来ないといえる。
善にも悪にも神が宿り、しかも善を選択するか悪を選択をするかで霊的進化に違いが出て来るとすれば、自由意思によって善悪が選択される時、善悪はその人間の自由意思にとってどのようなものなのかという問題もある。その状態を考えたとき、創造的無とスピリチュアリズムにおける自由意思はより近づいたものになるといえるかもしれない。シルバーバーチは善と悪とは一つのコインの表と裏のようなもので、これを両極性というと言う。また、 光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素ですとも言う。そうすると、善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものという場合のコインとは神のことといえる。善にも悪にも神が宿るのであるからそういうことになるであろう。そしてシルバーバーチは「光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。」とも言うが、神は善と悪の双方に宿ると言った後に、「私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。」と続けているから、この言い方からも宇宙が神によって創造されたとするなら、善と悪を生む力とは神ということになるであろう。
ところで、「光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。」といった後、シルバーバーチは「その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意思にかかわる問題です。」と続ける。即ち、善悪は神が生み、善は霊的進化に向い悪は向わないものとしてあるが、そのどちらを選ぶかは人間の自由意志にかかわるということであって神にかかわる問題ではなということであり、個人の自由意思にかかわるということは、霊的進化はあくまでも人間に、個人にかかわる事柄だということになるであろう。シュテイルナー的な言い方でいえば、霊的進化は神の事柄ではなく人間の事柄ということになる。人間にとっては霊的進化は目的かもしれないが、神にとっては目的でも何でもないということである。神自身にとってはどうでもいい事であっても、その被造物にとっては大事な事であるというような被造物を神は造ることは出来るであろう。
霊的進化が神の事柄ではなく人間自身の事柄であるとして、自由意思と創造的無の関係はどのようなものになるのであろうか。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置が組み込まれているともいわれ、そうするとスピリチュアリズムにおいて自我は創造的無として存在しているわけでないということになる。それでも霊的に間違った道に行くのは、各自に自由意志が与えられているからであり、自由意思と創造的無の関係が問題になるわけである。スピリチュアリズムにおいては人間は霊的進化を目的とする存在であり、善は霊的進化をもたらし悪はもたらさなかった。しかし自由意思においては、善は霊的進化をもたらし悪はもたらさないということが無視されているといえる。これは、自由意思においては霊的進化に対して善と悪が無化されているということである。スピリチュアリズムにおける自由意思と創造的無は同じような構造を持っているといえる。もっとも、これについては創造的無の方に曖昧さがあるともいえる。最初に創造的無を考えた時は、求めている何かを目的というとすれば、目的も目的を達成する手段も、さらにいえば目的を知る手段さえ目の前には無いということであった。逆に言えば、もしそれらが目の前に在ればそのようなものとして分かるであろうということであった。目的も目の前に無いし、目の前の道はどれも目的に通じていないから、創造的無としてさ迷わざるをえないのである。その次に創造的無として考えたことは、目的・手段は現に存在しているが、それが目的であり手段であることが分からない状態も創造的無として考えられるのではないかということであった。自分と自分が求めているものの間に、いわば透明の霧のようなものが立ち込めていて、見えているんだけど見えない状態、創造の情熱にとっては無明の世界にいるような状態といえる。スピリチュアリズムでは自我の中に絶対に誤ることのない判定装置が組み込まれている一方、自由意思においてはその判定装置がまったく機能していないともいえる。すなわち、自分の判定装置では正しい選択がわかっているのであるが自由意思ではその判断が機能しないということは、スピリチュアリズムにおける自由意思と創造的無が同じ構造であるという場合、後者の状態の創造的無と同じ構造といえるわけである。
神の創造の大業と霊的進化
霊的進化は神の事柄ではなく人間の事柄としたが、霊的進化は神の創造の大業とも結びつけられている。オーエンの『ベールの彼方の生活』で「父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。」といわれ、善は霊的進化をもたらし悪はもたらさないだけでなく、悪を選択することは苦痛をもたらすことでもあるわけである。そして、その意味することは人間は霊的進化を通じて神の創造の大業に参加するということである。シルバーバーチによれば、魂が進化すれば進化するほど宇宙をより美しく、完成させていくことができるのである。霊的進化が神の創造の大業に参加することであるとすれば、神としては自由意思といってもその選択の結果が創造の大業の完成へと集約されていくものとして人間に与えるであろう。そして、霊的進化が神の創造の大業と結びつくなら、霊的進化とは神の事柄ということになるのではないだろうか。もっとも、神が完全なら、神の創造の大業といっても、それは神にとってある意味どうでもいいものだともいえる。神にとって必要不可欠なものとはいえないであろう。神にとって創造の大業は目的でも何でもないが、そのような神にとってそれが完成するかどうかはどうでもいい創造の大業への参加は人間にとって目的ということになる。その意味では、神の創造の大業への参加といっても、あくまでもそれは人間にとって意味のあることであり、人間の事柄に属することなわけである。シルバーバーチは「要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです。」と言っているが、あくまでも人間が不可欠な存在なのは宇宙という枠組みの中での話であり、その宇宙が完全な神にとって不可欠な存在ではないであろうし、宇宙の霊的進化も不可欠なものではないであろう。霊的進化と自由意思による選択においては人間が問題になっており、自由意思から霊的進化を見る限り、霊的進化は神の事柄ではなく人間の事柄だといえる。
神による宇宙の創造が、神による計画と、神がロボットとしてではなく主体性を持った存在として創造した被造物による、その計画の実現という二重構造になっていることが問題になっているともいえる。被造物が自らの力で神の計画を実現するということは、潜在的に神の計画とその実現力を内包しているということであろう。しかし、実際の行動においては必ずしも神の計画の実現に有益な行動をとるとは限らないわけである。勿論、それは神の計画の中に組み込まれていることであり、霊的に進化して行けばいくほど、自由意志と神の計画の実現との乖離は少なくなっていく。そして、ある時点から自由意志という視点から見ても、もう人間は創造的無とはいえない状態になっていくのかもしれない。
第四項 自由意志と選択
唯一者にとっては創造的無においてすべてが創造への可能性持ってしまうが故に、総てのものへの選択の自由がなければならなかった。スピリチュアリズムにおいても、霊的進化を目的としている人間が霊的進化に結びつくことを選ぶか、逆に霊的進化を阻害することを選ぶかは各人の自由意志に任されている。スピリチュアリズムの自由意思においても創造的無においても選択・決断ということがあり、そしてスピリチュアリズムにおいて各人の自由意思は絶対的に尊重されなければならないものとしてある。シルバーバーチによれば、自由意志に干渉することは許されないのであり、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することが出来るにすぎない。その絶対性は人間の本質としての創造の情熱が創造的無において絶対的自由を求めることに通じるものがあるといえよう。創造的無における自由とスピリチュアリズムにおける自由意思には似たところがあるといえる。違いがあるとすれば、唯一者が完全な自由を求めるのは創造の情熱としてあるからではなく、あくまでも創造的無状態にある限りにおいてであるともいえるが、スピリチュアリズムにおいては霊的進化に終わりはなく、永遠に人間は自由意思を持つのである。
自由意思と創造的無が同じ構造であるといっても、自由意思の選択は創造的無における選択と全く同じかといえばそうともいえない。シルバーバーチは、「魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。」というが、同時に霊的進化とともに「本当の価値の識別力が身につきます。その識別力が正しく働くようになります。選択の優先順位がきちんと決められるようになります。何がもっとも大切であるかが分かるようになります。」、「一つだけ秘密のカギをお教えしましょう。叡智が増えれば増えるほど選択の余地は少なくなるということです。増えた叡智があなたの果たすべき役割を迷うことなく的確に指示します。われわれはみずからの意志でこの道を志願した以上は、使命が達成されるまで頑張らねばなりません。あなた方はこの道をみずから選択なさったのです。ですから他に選択の余地はないことになります。」と言う。霊的進化とともに自由意思の幅は拡がるが、一方では霊的進化に結びつく選択がより多くされて行くようになるというわけである。自由意思といっても、それは霊的進化に向かうように出来ているのであり、ここまでは唯一者が完全な自由を求めるのは創造的無においてであるということ、すなわち創造的有状態になれば選択の自由は必要なくなるということに通じるものがあるともいえる。 しかし、スピリチュアリズムにおける自由意志はそこに留まるのではなく、シルバーバーチによれば「これまでの成長の度合いによってこれから先の成長の度合いが決まります。もっともその成長を遅らせることはできますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。その一つ一つが自動的に働くからです。自由意志によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。」と言い、「霊的に目覚めている魂は進化をさらに促進する方向を(たとえ過酷なコースであっても)選択するものです。」と言われる。シルバーバーチによれば、自由意思というけれどそれは自動的なものでもあるわけである。この自動性においてスピリチュアリズムにおける自由意思による選択は創造的無における選択とは違うことになる。自由意思といっても、スピリチュアリズムにおいては二重性をもっているのであり、自由意思には自動性があるが、しかしその時その時の選択は、あくまでも自由意思によって行われるのである。この自由意思における自動性は、創造的無としての唯一者には受け入れがたいものということになるが、人間がその霊性を進化させればさせるほど、自由意思で善を選ぶことが多くなるということであるから、霊性が進化すればするほど各人による各人の統治というアナーキーがより実効性を持ってくるということでもあろう。
第一項 自己放棄を勧めるスピリチュアリズム
唯一者とスピリチュアリズムには共通する点もあったが、唯一者からスピリチュアリズムを見ると自己放棄の思想ではないかという疑いも生じてくる。スピリチュアリズムも個霊としての自我を認めるのであるが、唯一者が自己にこだわり、自己放棄を否定する生き方をしようとするのに対して、スピリチュアリズムは自分を捨て、自己を無にするような生き方を勧めるのである。ホワイト・イーグルは「天国に至る道は唯一つ、心で、愛で、神との一体化で、その外にありません。つまり、神は心の静寂の中に在り給うからです。神を激しく求める者は、内に熱と力を産み、やがて、神と一つになるためには、自分のすべてを捨てねばならぬ、そういう気持ちになるでしょう。」と言い、「人々が悩んでいる問題の回答は、すべて神の心の中にあります。人がもし思いっきって自己を捨て、神の心に触れるなら、たちどころにその解答を握ることになるでしょう。」と言う。シルバーバーチも「霊的進化はもっとも成就しがたいものです。一歩一歩の向上が鍛錬と努力と献身と自己滅却と忠誠心によってようやく克ち得られるものだからです。」、「自分を無にして霊の力に委ねるのです。」と言い、「愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わず、全てのものを愛することができることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。」と言う。そこに見られる自己を捨てること、自己を滅却することを勧めるスピリチュアリズムは自己放棄の思想なのではないだろうか。スピリチュアリズムで最初に引っかかったのがこのスピリチュアリズムの自己放棄性であった。
もっとも、スピリチュアリズムがまったく自分というものを無視しているかといえばそうではない。シルバーバーチは「霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく…本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。」、「スピリチュアリズムの全目的は、人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるよう導いてあげることです。」と言い、スピリチュアリズムにおいても重要なのは真の自我、真の自分だとする。そして、真の自我とは霊的存在だということであり、「それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということ」になり、「霊が目を覚まして真の自分を知ったとき、すなわち霊的意識が目覚めたとき、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかということに得心がいきます。」と言う。
では、スピリチュアリズムにおいても真の自我、真の自分が重要なのに、何故自己を捨てることを勧めるのであろうか。シルバーバーチによれば、「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」ということであり、「我欲を棄てて他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることに」なるからである。スピリュアリズムが自己を滅却するような生き方を勧めるのは、それが自己の霊的進化に結びつくからであり、その意味では自分の為ともいえる。ホワイト・イーグルは「人は常に自己自身です。即ち人間は個性的生命を与えられているからです。それにも拘らず、貴方が我を捨てることを知り、神との一体化を承認する時、至福があります。」と言い、シルバーバーチも「霊的な仕事に携わる人たち、己れの霊的才能を真理探究のために捧げる霊媒は、自己を滅却することによって実は自分が救われていることを知ることでしょう。なぜならその人たちは人間はかくあるべきという摂理に則った行為をしているからです。それは取り引きだの報酬だのといった類のものではなく、多くを与えるものほど多くを授かるという因果律の働きの結果に他なりません。」、「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」と言い、「それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかも知れません。愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。」とも言う。
ホワイト・イーグルは「物質欲望にこだわらないという意味で『我を捨てる』ことが必要です」といっているが、スピリチュアリズムが自分を捨てることを求めているのは、偽りの自分を自分とすることによる自己放棄を否定しているのかもしれない。ただ、「人類はみずから目覚め、真の自我を見出していかねばならない」いうようなシルバーバーチの言い方は、唯一者的には問題ということになる。シュティルナー的にいえば、真の自我を見出すも見出さないも、自我として存在しているのであり、真の自我を見出さなければならないという言い方自体が自己放棄的なわけである。それに対して、「聖書に、己れを忘れる者ほど己れを見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。」とシルバーバーチは言っているが、シルバーバーチ的から見ればシュティルナー的唯一者は自我というものを本当には分かっていないということになる。
スピリチュアリズムにおいて無私が強調されるのはそれが自己の霊的進化を進めるからであるが、霊的進化にとって他者への奉仕、他者の役に立つことをするということが唯一の方法でもあった。他者への奉仕、他者の役に立つということは、力を自分から外にへと向けることだともいえ、そこに唯一者のような自己にこだわるような姿勢を持ち出すことは、一瞬であれ自分から他者に向かう力の流れに対し、逆に自分に向かう力を作り出すとになり、それが他者への奉仕、他者の役に立つことを妨げる作用をするということなのかもしれない。そういう意味では、他者への奉仕、他者の役に立つことを心掛けるという条件は付くが、唯一者より自己放棄者の方が好ましいということにもなるかもしれない。自己の力が他者に役立つということで外へ向かえば向かうほど自分にとって利益をもたらすとすれば、自己を強調することは逆に自分の不利益になっているわけである。シルバーバーチは、「私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主なる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出してくる魂の欲求です。最高の愛には一かけらの利己性もありません。」と言うが、外に向かう流れとは、スピリチュアリズムによれば内から湧き出してくる愛であり、また自己内部に存在する霊・神性の光であるといえよう。霊性のかけらもない体に包まれた神の分霊である内部の神性は、体に阻まれてその光を僅かしか外部に発光することはできない。霊性の開発とともに、その外部に発光する光を強めていくのであるが、自己に向かう意識の流れは、その外に向かう光を自己内部に引き戻す働きをするとも考えられる。
もっとも、唯一者であることが必ずしも自己内部に向かう流れだけとは限らない。確かに、「諸子自身を求め、エゴイストとなり、諸子の各おのが一の全能の自我となるのだ。」としても、他方では「エゴイストはただ己れ自身を発展させようとするのみであって、人類の理念だの、神の企てだの、摂理の意図だのを発展させようとするものではない」、「エゴイストはいかなる使命も、識らず、……ただ己れを生き尽くすだけ」なのであり、「途方もなく巨大なへだたりが、この二つの見解をへだてている。旧見解では、私は私自身に向かうものであるのだが、新見解では、私は私自身から発するものであるのだ。」とシュテイルナーは言う。唯一者では明確に外の対象に向かうわけではないが、すくなくとも自分自身から溢れ出していく流れが強調されているのである。しかし、自我を強調することそのことが、スピリチュアリズム的には自分自身から発することを妨げているということになる。もちろん、唯一者も他者への奉仕が創造の情熱の充足をもたらすなら、そのことは決して否定しないし、積極的に行われなければならないことになる。ただ、この無私の奉仕の自己利益性は、シルバーバーチによれば、それが「人間はかくあるべきという摂理に則った行為」だからであり、「取り引きだの報酬だのといった類のものではなく、多くを与える者ほど多くを授かるという因果律の働きの結果」にすぎない。それに対して、唯一者にとってそれはもはや他者の為、他者への奉仕といったものではなく、単純に自己のエゴイズム的行為にすぎないというのがシュテイルナーの立場である。唯一者にとって重要なことはお互いが完全に分離することであるが、そういう観点から奉仕をみるとき、「何びとももはや他者にたいし何ものをも――贈与する必要がないという点で一致したときのみはじめて、われわれは、お互いに必ずや手が切れるようになる」ことが重要であり、お互いが完全に分離しているとき、そこに生じるのは取り引きであり、支払いに対する代価としての報酬ということになる。すなわち、「そのときにはまさに、不具者や病人や老人が飢えや困苦のためにわれわれと縁がきれないことにたいして、われわれ自身が彼にたいししかる代価を支払うというところまで、われわれは行けるようになるのだ。というのは、もし彼らが生きることをわれわれが望むのであれば、われわれのこの意志の実現を、われわれが――金を払って買うのは、また当然であるからだ。私は『金で買う』といっているのであって、従ってそれは決して惨めな『施し』を意味するわけではない。彼らの生命はまさに、働けない人びともまた有する彼らの所有であるのだ。彼らがその生命をわれわれの手から奪い去らないようにと、(たとえどんな理由からにもせよ)われわれが望むのだとしたら、われわれはただ買うことによってのみ、その意志を果たしうるのだ。」というわけである。その場合、代価を払って買うものとは創造の情熱の充足ということになるであろう。しかし、シュテイルナーはあれこれ言っているが、創造的無の状態にある唯一者においては、あくまでもそれは単に一つの選択として決断した以上の意味があるわけではない。それに対して、シルバーバーチ的にいえばそれは単なる創造的無における選択ではなく、創造の情熱の充足をもたらすものなわけである。問題は、単なる創造的無における選択であるとしても、他者の役に立つ行為は、スピリチュアリズム的にみて霊的進化をもたらすものなのかどうなのかということであろう。結局その行為の根底にあるのは強度に強調された利己主義であり、利己主義が前面に出た行為である以上は霊的進化にとって何の役にも立っていないということになるのかもしれない。
第二項 唯一者から見たスピリチュアリズムと神
もし神が実在するとすれば、そのことが唯一者にどのような意味を持ってくるのであろうか。シュティルナーの議論にとっては、神が実際に実在するかどうかはたいした問題とはなりえない。シュティルナーが問題にしているのは自己と神との関係であり、その際、神が実在しようとしまいとそれはどうでもよいことであって、問題は神が自己の外部の存在とされており、すなわち神が実在すればそれは自分の外部存在となるであろうし、神が人間の作り出したものであるとすればそれは自分の外部存在として作り出されているということであって、自分がその外部にあるとされる神とどう関わるかが問題なのである。といっても、神が自己の外部に在ることからだけで両者が対立するわけではない。例えば、両者が全く交わらない関係にあるなら、そこに対立も生じないであろう。問題は、神が自分に対し服従を求め、さらには自分の方もその要求を受け入れ、自分で自分自身を否定する場合であり、さらには神がそのような要求をしなくても、自ら神に対して自己否定する場合である。シュティルナーは『唯一者とその所有』で、「畏敬、『聖なる畏怖』は…人が自分の外の何ものかを、より強く、より大きく、より正当で、より良い等々とみなす、つまり、人が何か疎遠なものの力を……承認し、それに身を譲り、それに囚えられ、拘束されること、を意味する。ここに『キリスト教的美徳』の全亡霊軍が徘徊する」のであり、「恐れられたものは、一つの内的な力となって、自我はもはやそれを脱れられない。私はそれを敬い、それに捉われ、それに親しみ従属する。私がそれに捧げる尊敬によって、私は完全にその力に入り、もはや解放されようと試みることさえしない。かくて、私は信仰のすべての力をあげてそれにすがりつく、私は信仰するのだ。私と恐れられたものとは、一体となる。私が生きるのではなく、尊敬が私の中に生きるのだ!なぜかなれば、精神、この無限なるものは、いかなる終焉をも認めないからだ。かくて精神は不変定常となる。精神は死滅を恐れる。精神は自らの主イエスをはなれられない、くらまされたその目にはもはや有限なるものの偉大さは映らない。恐れられたものは、かくて尊崇へと祭りあげられて、もはや手をふれることも叶わなくなる。畏敬は永遠化され、尊崇されたものは神格化される。『人間は宗教的たるべし』、確立されるのはこのことだ。」と言うが、彼によれば神と王とは「尊厳」のうちにその本来的本質をもち、これに対して「私は宗教的関係に立つ」というとき、従属とは「宗教的関係」を指すに等しいのであり、その時人は自己放棄者となるわけである。
そしてピリチュアリズムにおける自我と神の関係は唯一者から見て自己放棄的なところがある。我々が神の摂理に従うのは、神の摂理と調和するとき良い結果が得られ、摂理に反する生き方をしたとき悪い結果が生じるからであり、神を崇拝し賛美するのは、そのような摂理の働きとその完全性に神の愛と無限の叡智を感じるからであり、またそのことがより高い波長に意識を合わせることになり、より自己の霊性を高めることになるからとスピリチュアリズムは言う。確かに、神の無限の愛と完璧な叡智のもとに我々は創造されたとすれば、その深い配慮というものを知れば知るほど神への敬愛の念が湧いてくるのは自然なことである。しかし、その神への敬愛が、尊敬にとどまっていればいいが、崇拝の念へと変わリ、神への拝跪をもたらすとすれば問題である。神と自己との関係を「神とその僕」と表現したり、「私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがりいたします。」といった心情が高級霊の通信にもみられるということは、シュティルナー的にいえばスピリチュアリズムもまた、「神なるものの前にあって、人は、あらゆる力の感情と勇気を失なう。人はこれに対し、無力・謙抑なる態度をとる。だが、それ自体によって神聖なるものはなく、ただ、私の聖化宣言によって、自らの言葉、自らの判断、自らの拝跪、つまりは私の――良心によって、それは神聖となるのだ。」という自己放棄からくる神の神聖化から逃れられていないということになる。では、我々はなぜ神を拝跪するのか。シュティルナーに言わせれば、「個人的関心事を主張し、これを四六時中秤にかけるその人びとのエゴイズムが、なおくりかえし坊主的もしくは教師的、つまりは理想の関心事に屈服するということが、なぜおこるか。すべてを要求し、完全に自己を貫徹しうるためには、彼らの人格は彼ら自身にとって余に小さく、余に無意味にみえるからであり、事実またそのとおりであるからだ。」ということであり、神への拝跪を要求する者は、それ故、シュティルナー的には人間を取るに足らない存在とみなそうとしているのだということになるであろう。シルバーバーチは、どの霊もみな神の道具にすぎず、「こうした仕事を通じて私たちが皆さんにお教えしなければならない任務の一つは、私たち自身は実に取るに足らぬ存在であることを認識していただくことです。」というが、シュティルナーにいわせれば、取るに足らない存在としての自分、そのような自分が自分自身にとっては自分の全てであり、それ以外の自分は存在しないのであるから、どのように取るに足らない存在であろうと、そのような自分として生きていくしかないのであり、そのような生が自分の生の全てであるとすれば、いくら取るに足らない存在であっても自分の生を生きる自分を卑下する必要もないのである。大袈裟にいえば、「くらまされた目には、もはや有限なるものの偉大さは映らない」ということになる。余に小さく、余に無意味にみえ、事実またそのとおりである自我が、また「有限なるものの偉大さ」としてあることが唯一者ということなのである。唯一者とは創造的無の中であくまでも創造の情熱として生きようとする主体的存在なのである。確かに人間は神によって造られ、神の掌の上で生きているだけのちっぽけな存在かもしれない。しかし、それが現実の人間の姿だとしても、唯一者はその在るがままの生を生きればいいのであって、神に対する自己の小ささを自分に言い聞かせる必要もなければ、そのことを問題にする必要もないのである。シュテイルナー的にいえば神が人間を造ったとしても、それはあくまでも神の自己自身の問題であって、被造物としての人間の問題ではない。神に造られようとあるいはそうではないにせよ、自分が自分として存在してるということが重要なのである。その自分が神に対してどんなにちっぽけな存在あろうと、それは唯一者にとってどうでもいいことであり、唯一者はただ自分を生きるだけである。あるいは、そのような唯一者とは神が人間に自由意思を与えたことからいえるのかもしれないが、それもまた唯一者は唯一者として生きるというまでのことである。
もっとも、スピリチュアリズムは人間を取るに足らない存在とするわけであるが、そのことを必ずしも否定的に捉えているわけでもない。「自分がこの宇宙に繰り広げられつつある神の経綸の中では、極微な存在である(無価値にも等しい)ことを知らなければならない。」とマイヤーズも言うが、「自分が矮小な存在にすぎないという認識は、むしろ彼を他人との自然な交わりに導くことによって幸福をもたらすし、そのことによって一瞬でも自我を忘れ、本当に必要な時に他人との生き生きとした共感を持つことができるようになる。」とも言うのである。ただ、同時に自分を神の僕とすることが唯一者から見れば問題なわけである。
一方、シュテイルナーによれば神も人間もエゴイストに他ならない。シュティルナーによれば自己放棄者が神に対するとき、「何ごとであれ、私の事柄でないものがあろうか!まずは善なる事、つづいて神の事、…そしてその他百千の事ども。ただし私の事柄だけは、私の事柄でありえない。」という。では神はどうなのであろうか。「では見よう、そのためにわれわれが働き、われわれを捧げうちこむべしとされる彼らの事どもと、彼らがどうかかわっているか、を。諸子は、神についての多数の奥儀を告知して、数千年の長きにわたって『神性の深みを探り』、その心を見きわめた。ゆえに諸子はもちろんわれわれにいえるだろう、それに仕えるべくわれわれが召されている『神の事柄』を神自身がどうみそなわしているか、を。」、「では神の事柄とは何か。神がわれわれに求めるのと同様にして、神も疎遠な事柄をわが事としているのか、真理や愛の事柄を神の事としているのか。この誤解は諸子を怒らせ、諸子はわれわれに教えをたれる。すなわち、神の事柄とはもちろん真理と愛の事柄ではあるがしかし、それらの事柄は決して神に疎遠なこととよばれるべきではない、けだし、神はまさに御自ら真理であり愛であるからだ、と。」、「神はただ神の事柄だけをみそなわされるとしても、だが神はすべてのすべてであらせられるからには、すべてがまた神の事柄でもあるのだ!われらはしかるに、われらすべてのすべてではないのだ、われらの事柄はまことに小さく卑しいのだ、であればこそ、われらは『より高次の事柄に仕え』ねばならぬのだ。――なるほど、それではっきりした、神はもっぱら自分のことだけにかまけ、自分だけにかかずらい、自分のことだけを考え、自分しか眼中にない、とうわけだ。…神は、より高次の何ものかに仕えることもなく、ただ自分だけの満足をはかる。神の事柄とは、一の――純粋にエゴイストの事柄ではないか。」、「諸子は、このみごとな例からしても、エゴイストであるのが最良であることを学びとろうとはおもわぬか。私としては、これに一つの教訓をえて、あれら大いなるエゴイストどもにこのうえなお己れをすてて仕えるよりは、自らエゴイストであろうと思う。神は、人類は、自らの事柄を無の上に据え、自ら以上の何ものの上にも据えはしなかった。ゆえに、私も同じく、私の事柄を私自らの上に据えよう、神と同じく他のすべてを無とする私のうえに、私のすべてである私の上に、唯一者である私の上に。」とシュティルナーは言う。神は唯一者と同じようにエゴイストなわけである。中途半端に分離するから対立が生じるのであり、完全に分離すれば対立など生じないというのがシュティルナーの考えであるが、シュティナーは神との完全な分離を求めているのだといえよう。唯一者にとって神との関係は、神は神であり、自分は自分ということである。神にとって神自身の事柄だけが重要なように、自分にとっては自分の事柄だけが重要なのであり、従ってもし神に目的があるとすればそれは神の目的であって自分の目的ではないということである。あるいは、神の目的が自分の目的でもあることがあるかもしれないが、それは自分が神に従属しているからそうなのではなく、あくまでもそれは主体としての自分の目的としてその目的はあるということである。
スピリチュアリズムも人間を神の僕扱いをする一方、人間は神であるとまったく逆の主張もする。シルバーバーチは「神からの遺産を受けついだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。」と言っているが、「神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。」という言葉を素直に聞けば、人間は神ということになるであろう。人間は神なのか神の一部なのか曖昧さがあるが、「神は人間のすべてに内在しております。」という言い方もしており、人間が神の一部でありかつ神が人間に内在しているということは、人間は神ということになるであろう。実際、シルバーバーチは我々は「完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言できるようでなければなりません――自分は神なのだ。」とも言っている。スピリチュアリズムは人間を神の僕と言ったり、人間は神であると逆のことを言ったりしているわけであるが、人間を神の僕とする思想が唯一者から見れば自己放棄の思想であるように、人間を神とすることも自分は自分であり神は神とする唯一者からは自己放棄ということになるであろう。本論的にも、国家共同体主義に見られるように人間を神と看做すことは自己放棄であった。
第三項 全体と個あるいは自我の二分化
全体の中での個の消滅
スピリチュアリズムには全体と個との関係における自己放棄もある。スピリチュアリズムにおいて霊的進化の主体ということを考えたとき、個霊あるいは魂の他に類魂というものがある。マイヤーズからの通信によれば、抹消させられた魂は分解され、そのうちの有用な部分だけ類魂に吸収されるというのであった。そうすると、霊的進化の主体は個々の個霊あるいは魂すなわち自我にあるのではなく、その自我の上の類魂にあるということになり、神の愛と抹消される自我の矛盾は、霊的進化の主体を個我に置くのではなく、その個我が属する類魂におくことによって解決されている。類魂と個霊の関係でいえば、霊的進化の主体を個霊ではなく類魂に置くことは、類魂の中に個霊を消滅させることであり、唯一者的には自己放棄であろう。
シルバーバーチは「われわれは見せかけは独立した存在ですが、霊的には一大統一体を構成する部分的存在です。」と言い、そこに見られる、真に存在するのは全体であり、自我に見せかけの独立性しか認めようせず、自我は存在しないという考えもまた全体の中に自我を消滅させていることになり、同じように自己放棄的であろう。また、モーゼスの『霊訓』に「生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的『動』の世界と超越的『静』の世界である。今なお『動』の世界であり(汝らの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えし事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれわれにとって、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去のすべてを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅する、と。」とある。「宇宙の一切の秘密の中に寂滅する」とは宇宙の中に自我は消滅してしまうということであろう。仏教の無我が縁起と結びついているように、部分同士が相互依存している統一的全体の中で、あるいは全体の中で自我が存在しないという考えだけが自己放棄ではなく、神であれ宇宙であれその中でやがて自我は消滅していく、あるいはその中への自我の消滅を願うことも自己放棄であろう。
また、人類は動物や樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しており、生命は一つであり、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能とされ、それはスピリチュアリズムの分離主義を否定する全体主義的な性格を示しているのではないかとしたが、それはある意味我々は全体に従属し、全体のために存在しているにすぎないとも言っているとも考えることができる。全体の為の個というスピリチュアリズムの考えは、「単なる一つの部分・社会の部分と見なされることは、個体には耐えられない。というのも、個体はそれより以上であるからだ。この者の唯一性は、かかる限定された解釈を却けるのだ。」とするシュティルナーに言わせれば、自己放棄の思想ということになる。
自我の二分化
「ゆえに君は、個人的なるものを精神的なるものより優位におくゆえに、また、人が何らかの理念のために行為するのを見たいと願うところで自分にかまけているがゆえに、エゴイストをさげすむ。諸子と異なるところは、君が精神を中点とするのに対して彼は自己を中点とすること、あるいは、君が自らの自我を二分して、君の『本来の』自我・精神を爾余の価値なき部分の支配者に祭りあげるのに対し、彼がかかる二分を知らず、精神と物質の利害関係を自らの好むがままに等しく追究すること、にある。」 とシュティルナーは言う。シュテイルナーによれば、精神と肉体、あるいは本来の自我とその他の自我というような自我の二分化は自己放棄的ということになる。そうすると、「肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎない」と言い、「自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。」と言って、肉体と霊を区別したり、真の自我を発見しなければならないというスピリチュアリズは自我を二分化しているのであり、自己放棄なわけである。また我々の内部に神が宿っており人間の目的はその隠れている内部の神を顕現していくことだともシルバーバーチは言うが、それもまた唯一者から見れば自我の二分化ということになるであろう。
シュティルナーが「精神と物質の利害関係を自らの好むがままに等しく追究する」と言うとき、それは自我を二つの部分に二分化することを否定しているといえる。またその否定は、創造的無においては精神的なものも物質的なものもどちらも創造の情熱の充足への可能性を持ってしまうということを言っていると解釈できる。また、霊的進化についても唯一者からすれば創造的無の中での創造の情熱の充足への可能性以上の意味はないわけである。
第四項 永遠の霊的進化と自己放棄
創造的無である自我を創造的有とすることも創造的無に固定することも共に自己放棄であったが、スピリチュアリズムが人間を神とすることは自我を創造的有としているわけである。しかし、人間が神であるなら人間は何故霊的進化をしなければならないのであろうか。シルバーバーチは霊的進化の目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神であり、人間も自分を完成しなくてはならないといい、魂の内部には完全性の種子を秘めており、人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しづつ近づいて行くことであり、それが霊的進化ということになるが、人間が神であるなら霊的進化は必要ないことである。スピリチュアリズムの主張する霊的進化にはスピリチュアリズム自身から見ても問題があるということになるが、モーゼスの『霊訓』では霊的進化には終わりがあり、それは自我が宇宙の一切の秘密の中に寂滅するということであった。それに対し、シルバーバーチは「進化の道程は永遠であり、終わりがないからです。完全というものは絶対に達成されません。」とも言い、その目的である完全性の成就をいつまでたっても成就できないであり、霊的進化はそもそも終わりが無いのだという。シルバーバーチによれば、完全性を成就しているのは大霊のみである。
シルバーバーチによれば霊的進化とは永遠に続く過程なわけであるが、この永遠の霊的進化で問題になるのは、スピリチュアリズムでいう霊的進化が創造の情熱のことだとすると、霊的進化が永遠に続いて終わりがなく、また人間が完全な存在にはならない、即ち霊的進化によって神になれるわけではないということは、目的が成就されることはないし、創造の情熱が充足されることはないと言っていることになる。それは一種の創造的無への固定化なのではないだろうか。創造的無だからといって自我はその創造の情熱の充足の可能性まで否定されているわけではないし、人間が創造的無としてあるということは、人間は創造の情熱を充足できるかもしれないし出来ないかもしれないということであって、創造の情熱を充足できないと主張することは自己放棄なわけである。この終りのない永遠の霊的進化とは創造的無の一種の固定化であり、その主張は自己放棄ということにもなる。モーゼスの『霊訓』のように霊的進化に終わりがありそれは自我が消滅することだとしても、あるいはシルバーバーチのように霊的進化に終わりがないとしても、どちらにしてもスピリチュアリズムが自己放棄的であることには変わりはないわけである。
第一項 スピリチュアリズムの超越性とパラドックス性
もし人間が神であるなら、唯一者的には自己放棄であっても、神は自己放棄といった問題を超越しているのであるから、神である人間にとってはそのことには何の問題もないであろう。あるいは人間が神の一部であり、その神の一部である人間が神を目指して霊的進化をしたとしても、部分は全体に成れないのであるから、霊的進化によって神には成れないことはそれが神の一部としての人間の在り方であって、唯一者的には自己放棄であるとしても、やはりそこに問題があるわけではないし、自己放棄ではないともいえるわけである。問題は、人間が神あるいは神の一部かどうかということであるが、唯一者にはスピリチュアリズムのいうように霊が存在しているかどうか分からないのであるから、霊が言うことが事実かどうか分からないということである。分からない以上、スピリチュアリズムのいうことは正しいかもしれないわけであり、スピリチュアリズムの言っていることが正しいか間違っているか唯一者には分からないということは、スピリチュアリズムは唯一者を超越しているのだといえる。スピリチュアリズムの自己放棄性については逆説性があり、己れを忘れる者ほど己れを見出すという聖書の言葉を引用してシルバーバーチはそれは個的存在の神秘を説いているというが、スピリチュアリズムのいう神秘性も唯一者には分からない世界であり、唯一者を超越した世界といえる。スピリチュアリズムの超越性を考えたとき、スピリチュアリズムに自己放棄性があったとしても、それが否定されるべきものかそうではないのか唯一者には分からないということであり、唯一者における自己放棄性の問題が無意味化されてしまうわけである。
またそれとは別に、シルバーバーチは宇宙にはパラドックスがあるというが、そうするとスピリチュアリズムの主張には二面性あるいは矛盾性があるということになり、スピリチュアリズムに自己放棄性を持たせるスピリチュアリズムの見解には、それと反対の見解もスピリチュアリズムには在るかもしれないわけである。そうすると、その反対の見解はスピリチュアリズムの自己放棄性の否定をしていることにもなり、単純にスピリチュアリズムの自己放棄性をいえなくなる。もっとも、そのスピリチュアリズムの自己放棄性を否定するその見解が、別の意味で自己放棄的であるかもしれないし、この問題は複雑でもあり、個々のスピリチュアリズムの自己放棄性を見ていく必要がある。例えば、モーゼスの『霊訓』の霊的進化に終わりがあるという説とシルバーバーチの霊的進化には終わりが無いという説も、スピリチュアリズムの二面性・矛盾性が現れているといえる。スピリチュアリズムの立場で考えるなら、シルバーバーチはモーゼスの『霊訓』からスピリチュアリズムの自己放棄性が導き出せることを否定しているわけである。一方モーゼスの『霊訓』はシルバーバーチからスピリチュアリズムの自己放棄性が導き出せることを否定していることになる。唯一者から見れば、どちらにせよシルバーバーチの霊的進化には完成がないという説も、モーゼスの『霊訓』における霊的進化には完成があるがそれは自我の終わりでもあるという説も、自己放棄的であることには変わりはないことになるが、しかしそれはあくまでも唯一者の立場からの話であって、スピリチュアリズムの立場からはスピリチュアリズムにはスピリチュアリズムの自己放棄性を否定する側面もあるということになる。
唯一者には霊のことは分からないといっても、例えば霊的進化は無限に続くというようなことを霊が言ったとしたら、無限について地上の人間も論理的に何か言うことができるかもしれない。ただ、霊が存在するとか、死後の世界があるとか、霊的進化とかについては論理的に何かいうことができないし、分からないということになる。一応霊の存在は認めるにしても、それが本当に霊からの通信なのか、ということも考慮しなければならない。唯物論的な立場からは、当然霊界や霊といったものが存在しないのであるから、人間が霊を騙ってそのようなことを主張しているということになるが、シルバーバーチなどによると霊界通信といわれるものの中には人間の潜在意識を述べているものもあるし、また時には霊媒の潜在意識を吐き出させることが交霊会には必要なこともあるという。
霊界が主張する霊が存在することの証明
シルバーバーチは「死後の存続という事実はまともな理性をもつ者ならかならず得心するだけの証拠が揃っております。」と言い、スピリチュアリズム側では死後の存在、霊の存在は証明されたというような言い方もされる。しかし、その証明が具体的にどのようなものなのかは述べられることはない。多くの人間にとって、霊界のいう証明は証明とはいえないともいえる。このシルバーバーチの言葉は、シルバーバーチが交霊会の出席者を対象に語っていることに留意すべきであろう。「霊の威力についてはこれまで数々の証拠をお見せしてきました。私たちと歩みを共にしてこられた方には、霊力がどれだけのことを為しうるかをよくご存知のはずです。」と言っているし、訳者によればインペレータ霊団と同じように、シルバーバーチ霊団も高等な思想を説く前に霊の威力を見せつけるための手段として、物理的心霊現象を演出して見せていたという。 その証明は一般の人達に向けての証明ではなく、交霊会の出席者に対する証明なわけであり、シルバーバーチによれば交霊会そのものが参加者にとって霊の存在を充分納得させるものとしてあるということである。では、もし交霊会に出席していた人たちにとって霊の存在は十分証明されたということであれば、我々も霊の存在を認めるべきなのであろうか。
交霊会は入れ替わりはあるものの、数年、あるいは数十年、その交霊会に出席している常連たちを中心に、時おりゲストが呼ばれるという形式で行われたようである。そこでは、物理現象が引き起こされ、単純とも言えるスピリチュアリズムの教えが毎回繰り返される。ゲストにとってそれは新鮮な話であり、時には大きな感動を与えたようであるが、聞きなれたはずの常連の出席者にとっても毎回興味が尽きない話であったようである。ある日の交霊会の様子について、霊媒モーリス・バーバネルの夫人シルビア・バーバネルが「その日の出席者は六人だった。ロンドンのアパートの一室で小さなテーブルを囲んで座り、全員が両手をそのテーブルの上にか軽く置いた。そしてスピリチュアリスト用に作られた、霊力のすばらしさをたたえる讃美歌を歌っているうちにテーブルが動きはじめる。そこでシルバーバーチ霊団の各メンバーがかわるがわるそのテーブルをうごかすことによって挨拶した。もっともこれはだれであるかが明確に分かるのは二人だけで、それ以外は挨拶の仕方にこれといった特徴はないのであるが、霊団を構成しているのが複数の男性のインディアンと英国人、二人のかつての国教会の牧師、著名なジャーナリスト一人、アラブ人が一人、ドイツ人の化学者が一人、中国人が一人、英国人の女性が二人であることは分かっている。その全員がテーブルによる挨拶を終わるころには、そろそろ霊媒のモーリス・バーバネルの入神の用意が整う。トランスは段階的に行われる。軽いトランスの段階でシルバーバーチが“主の祈り”を述べ、出席者との間で挨拶程度の会話を交わす。その間によくシルバーバーチは、霊媒をもっと深くトランスさせたいのでもう少し待ってほしい、と述べることがある。いよいよ望みどおりのトランス状態になるとシルバーバーチはまず祈りの言葉をのべ、それが速記されていく。」と記している。最後に霊媒がいつものモーリス・バーバネルに戻り、一杯の水を飲みほしてそれで会が終わりとなるが、毎回似たようなことが繰り返されていたという。物理現象でいえば、それが霊によって引き起こされたのでなければ出席者が引き起こしていたということになる。それもゲストではなく常連の出席者が仕掛けたものと考えるべきであろう。しかし、自分達で引き起こしておいて自分達で驚くといったお遊びや、ゲストを驚かせるためにそのような現象を演出するということを飽きもせず何十年も繰り返すだろうか。その常連の出席者の中にはハンネ・スワッハーといった辛辣さで知られ、イギリスの新聞社街であるフリード街の法王と言われた人物も含まれているのであり、ハンネ・スワッハーがそのような余興を飽きもせず繰り返していたということは考えにくいことといえよう。ゲストの中には空港で婚約者を見送った数秒後に飛行機が爆発炎上し、婚約者を失ったという映画女優いる。彼女はその悲劇の事故から間もなくハンネ・スワッハーの本を読み、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされ、スワッハーを訪ねてできればシルバーバーチという霊の話を直接聞きたいとお願いした。その要請をスワッハーから聞いたシルバーバーチは快く承諾し、事故からまだそんなに日にちもたっていない交霊会での彼女とシルバーバーチのやり取りが公開されているが、そのような悲しい経験をしている人間を笑いものにして楽しむためにゲストに呼んでいた、そのような人の心も顧みない人達だったのであろうか。私的なことなので公開されることはなかったが、シルバーバーチはそれらの出席者の私的な相談にも乗っていたようなので、もしそうなら自分達で仕掛けた霊に自分たちが相談するということを何十年も繰り返していたことになる。ダウィンとともに進化論を唱えたウォーレスはスピリチュアリズムにのめり込み、交霊会で自分が体験したことに対して事実は頑固であると言ったといわれるが、シルバーバーチも「“事実なのですからどうしょうもありません。立証されたのです”と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。」と述べている。シルバーバーチの交霊会の常連出席者にとって物理的に説明できない物理現象が生じ、それが霊によって引き起こされていることは頑固な事実だったのかもしれないわけである。もし、出席者の確信を疑わしいものとするなら、その疑いにはその疑いを裏付けるもの、できれば霊が存在しないという確かな証明がなければならないであろう。あるいは交霊会で起こったことを物理的にも説明できるかもしれない。しかし、単に物理的にも説明できるということでは霊の存在の否定の証明にはならない。物理的にしか生じないということも証明できなければならないわけである。言えることは、霊が存在しないことを証明できていないし、証明できていない以上、霊が言っているとされることは実際に霊が言っているのかもしれないし、もし霊が存在するとすれば霊は唯一者を超越した存在であろうし、その存在を否定できない以上スピリチュアリズムはそれについて自己放棄であると言う事の出来ない、ある意味唯一者を超越した思想ということになるであろう。
第二項 人間が神ではないともされていること
人間が神であるとは創造的無の否定であり自己放棄であったが、シルバーバーチは人間は神であるという一方、「霊的生命の無辺性を完全に説き明かせる言語は存在しません。ただ単に、人間は霊である、但し大霊は人間ではない、という表現しかできません。大霊とは全存在の究極の始源です。」と人間は神ではないとも言っている。そうすると、スピリチュアリズムは人間を神とするから自己放棄の思想であるとは簡単にいえないことになる。
人間を神であり、神ではないというスピリチュアリズムの矛盾をどう捉えればいいのであろうか。神とは源初の肯定性の外化であるという本論の立場からいえば、スピリチュアリズムは人間を神とすることによって此岸的理念の思想であり、人間を神ではないとすることにおいては彼岸的理念の思想ということになる。そうすると人間を神と言い神ではないと言っても、どちらにしても自己放棄には変わりがないということにもなるわけである。しかしスピリチュアリズムのいうように霊の世界があるとすれば、唯一者には霊界が在るかどうかわからないのであるから、スピリチュアリズムは唯一者を超えた思想ということにもなるし、スピリチュアリズムは此岸的理念や彼岸的理念というものを超えた思想であり、自己放棄を超えた思想ということなのかもしれない。
人間と神の関係について、「あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。」とシルバーバーチは自我が神の一部と言っているが、部分は全体ではないのであるから、神を全体のことだとすればその一部分である人間は神ではないということになる。しかし、神の一部分であるなら人間は神であるという言い方もできるであろう。ただ、人間が単なる神の一部分ではなく、霊的進化によって神に成ろうとする一部分であるとするなら、そして部分は部分でしかないとするなら、結局は霊的進化によって全体すなわち神に成ることは出来ないということにもなるが、しかしそれが人間の在り方である以上そこには何も問題はないし、それは自己放棄的ではないということであった。
ただ、神の部分という場合、二つの場合を分けて考えなければならないであろう。神を集合と考えた場合、それは要素が集まったものであり、またそれらの幾つかの要素で部分集合をつくることができる。数学では要素も一つの部分集合とされるが、ここでは部分集合はその集合の幾つかの要素によって作られる集合と考え、要素と部分集合を区別する。そうすると、要素の場合は神にとって必要不可欠な部分といえるが、部分集合の場合は必要不可欠な部分とはいえない。神がその内部にあるもの使って造ったのが人間だとすれば、人間は神の部分集合ということになる。神が神の外部にあるものも使って人間を造ったなら人間は神に対して自立性を持つといえるが、人間が神の内部にあり、神の一部であるとしても、神にとって必要不可欠な存在ではないということも、逆に人間は神に対して一種の自立性を持っているともいえるのではないだろうか。神にとって、自身によって作られたものが無くなっても神であることに変わりがないのであるから、ある意味神にとって有っても無くても関係ない存在ともいえるし、例えば人間が自分自身でその存在を消したとしても、神はどうでもいいことかもしれないし、人間が自己を消し去るかどうかを人間自身に任せるかもしれないわけである。少なくとも、霊的進化については人間が神の内部存在であり神の一部であるとしても、自由意思を与えられ、主体性というものが認められた、あるいは賦与された存在といえる。そうすると、その霊的進化において主体性を与えられあくまでも神に成ることを目指す人間にとって、神を目指しながら神に成れないということは自己放棄的な意味を持ってくるということもありえるわけである。
第三項 スピリチュアリズムにおける真の自我
スピリチュアリズムは真の自我の発見を求めるものであった。そして、本来の自我とその他の自我内部の無価値な部分、自我と真の自我、自我とその内部の神といった自我の二分化は自己放棄であるとした。しかし、スピリチュアリズムが真の自我の発見というときの真の自我とは、真の自我という言い方が誤解を生むのであって、その謂わんとするところを考えると、それは必ずしも自己放棄とはいえないかもしれない。
シルバーバーチによれば本当の自分を見出すことが人生の究極の目的であり、本当の自分を見出すとは霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解するということであり、それが真の自我を見出すということであった。すなわち、真の自我を発見するとは自分を霊的に新生させることであった。シルバーバーチは「真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。」という。そうすると、真の自我とは無明状態から脱却して真理の下で霊的進化の道を自覚的に歩みだした自我の状態のことで、真の自我を発見するとは自我が無明から脱却することだともいえるわけである。真の自我とはいわば創造的無から創造的有になった自我ともいえる。創造的無から創造的有に成ることは自己放棄ではない。創造的無として在るのに創造的有を主張するから自己放棄になるのである。確かに、スピリチュアリズムにおいても人間は無明の中にいるし、その無明の中の人間が自分を創造的有と主張するなら自己放棄ということになるが、高級霊が言う分には自己放棄とはいえないわけであるし、高級霊が真の自我を発見しなければならないと言っても、自己放棄にはならないともいえる。
第四項 霊的進化の永遠性と人間が神であること
霊的進化に終わりがありその時には自我は消滅してしまうというモーゼスの『霊訓』の主張も、霊的進化に終わりがないというシルバーバーチの主張も自己放棄的であるとしたが、ただそれはシルバーバーチの場合は霊的進化に終わりがないということが自己放棄的であるのに対して、モーゼスの『霊訓』では霊的進化が自我が消滅してしまうことを目的としているということが自己放棄的であるということであって、霊的進化に終わりがあるかないかという対立については、モーゼスの『霊訓』は終わりのない霊的進化を否定しており、その意味でそれはスピリチュアリズムには終わりのない霊的進化による自己放棄を否定している側面もあるということになる。
それとは別に、人間が神であるなら神を目指す霊的進化は必要ないし、霊的進化というものを考えても永遠に神に成れないということはすでに神なのであるからあり得ないともいえるから、その点でも永遠に続く霊的進化という無への固定化による自己放棄をスピリチュアリズム自身が否定しているわけである。
もっとも、人間が神であるとする場合、どういう意味で言っているのかが問題になるであろう。シルバーバーチは、「あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その違いは種類でも本質でもなく顕現の度合いにすぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向かっての努力を限りなく続けるわけです。したがって大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。」という。また、「大霊が所有しているものはすべて、本性の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです。」と言う。そうすると、人間が神であるとはその本質が神と同じであるということを言っていることになる。ただ、神性の本質の違いはないかもしれないが、その神性の発達程度の違いはあるわけであり、人間は神であるといっても神そのものではないということである。そうするとスピリチュアリズムが人間は神であるといってもそれが直ちに自己放棄になるわけではないことになる。ただ、霊的進化によって神になるとは、神性の発達程度が神と同じになることであり、そして同じになることはないとするなら、それは無への固定化ということになり、自己放棄ということになる。
第五項 霊的進化そのものを目的とする霊的進化
霊的進化については、霊的進化が神に成ることを目的としているというよりは、霊的進化そのものが目的であるような言い方もスピリチュアリズムにはある。『ベールの彼方の生活』では、「吾々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものはしつこく構わず、現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取り組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進して行くということである。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬわけではない。『究極的絶対者』の存在と本質及びその条件等の問題をなおざりにしているわけではないが、今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩恵が待ち受けてくれているに相違ないことを確信するが故に、そうした所詮理解し得ないことは理解し得ないこととして措き、そこに不満を覚えないというまでである。完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来についてしつこく求めることはしないということである。」と言う。シルバーバーチも「永遠も無数の小さな体験の総計から成り立つのです。一つの体験、一つの行為、一つの言葉、一つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠をつくるのです。」と言い、「その日一日、その場の一時間、今の一分・一秒を大切に生きることです。明日のことを思い患うことなく、今という時に最善を尽くすのです。」と言う。確かに霊的進化の目的は神に成ることであり、無限に続く霊的進化においてはその目的は成就されないが、そのことはいったん脇に置いて、その日その日の霊的進化に自分を集中させるべきだといっているわけである。神に成ることを目指しながら神には成れないということが一旦脇に置かれるということは、スピリチュアリズムにおける霊的進化が無限に続くものとして無への固定化であり自己放棄であるということもいったん脇に置かれるということでもあり、そうするとスピリチュアリズムが脇に置いていることをことさら取り上げて、スピリチュアリズムが自己放棄の思想だと問題にすることは過剰な反応をしているだけともいえるわけである。
神の計画の説明
人間の目的が神に成ることではなく、神を目指した霊的進化そのものにあるとすれば、神が終りのない無限の霊的進化という計画を立てたことの説明にもなる。神を目指した霊的進化が目的ということは、逆に言えばその目的の為には神に成ってはいけないということでもある。そして、無限に続く霊的進化は神に成れないということであるから、神に成ってはいけないという霊的進化の条件に合致するわけである。
進化の積み重ねと一歩の進化
一歩一歩の霊的進化、その日その日の霊的進化に集中すべきという考えをさらに進めれば、霊的進化の目的は進化を続けられる限り続けることであり、必ずしも無限に続けることではないということにもなるのではないだろうか。あるいは、霊的進化の目的は一歩の進化であって、永遠の霊的進化といってもそれは単にその一歩の進化の積み重ねでしかないということになるかもしれない。シルバーバーチにとって無限に続く霊的進化は信仰の問題であった。しかし、一歩一歩霊的進化をすること、日々の霊的進化を目的とするなら、そのような信仰は不必要だし、またそのような信仰が無くてもスピリチュアズムは成立するのではないだろうか。唯一者から見ればそのようなスピリチュアリズムは人間を無に固定化する自己放棄を逃れているという意味で唯一者と対立するものとはならないであろう。霊的進化そのものが目的の場合、霊的進化が神を目指し神に成ることを目的としているとするから終りのない霊的進化は自己放棄になるわけであり、神に成ることを目指す霊的進化そのものが目的であったら神に成ることを目指して霊的進化をしていればいいのであるから、その霊的進化に終わりが無くてもそれが自己放棄ということにはならないであろう。神に成ることを目的とする場合は霊的進化はその手段ということになって我々は神に成らなければならないが、霊的進化そのものが目的なら必ずしも神に成らなくてもいいのであり、神を目指して霊的進化をすればいいだけであって、日々あるいは一歩一歩霊的に進化していればいいわけである。
シルバーバーチは「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、…その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。…地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。」と言う。このような言い方も、スピリチュアリズムにおいては霊性進化が目的であると受け取れるような言い方であろう。日々の霊的進化に最善を尽くしていればそれ以上のものは要求されないということは、別に神に成る必要もないということにもなり、ある意味霊的進化が人間の目的ともいっているわけである。
シルバーバーチはそれを達観として語っているわけであり、それをもって霊的進化を目的としているとまではいえないかもしれないが、別のところではより積極的な意味を与えている。進化に終りがなければ魂の安らぎと平安が永遠に得られないではないかという質問にたいして、シルバーバーチは「安らぎは内面から出てくるものです。外部からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発しさえすれば、泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。」と答えているし、「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです。」と日々霊的進化することこそ幸福なのだとも言っている。それ故、「もうこれでおしまいという限界がない――どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。」と言うことにもなるわけである。また、「向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的をもたせることになります。」と日々の霊的進化が人間の目的のようにも言っている。
霊的進化の目的が進化を続けられる限り続けることと、霊的進化の目的が一歩の進化であることは違う。霊的進化の目的が一歩の進化であるなら一歩進化すれば目的は達成されるのであるから、進化を重ねることは必要ないわけである。また、霊的進化が神に近づくことであるとすると、それは一歩の進化でもそれは神に近づいたことであるから目的は達成されたということになるが、神に近づき続けるということが目的の場合は、無限に神に近づき続けなければならないということになる。ただその場合の無限の霊的進化は神に成ることが目的ではなく近づき続けることが目的なのであるから、無への固定化ではない。また、無限に続く霊的進化の中で一歩の霊的進化は無限に小さい霊的進化ということにもなるが、その一歩の霊的進化が無ければ次の霊的進化もないのであるから、その一歩の霊的進化に目的の成就が掛かっているともいえるわけである。
第六項 スピリチュアリズムの創造的有性
様々な創造的有性
神を目指す霊的進化そのものが目的なら、終わりのない霊的進化が自己放棄とはならないとしたが、別の観点からはそのことにも問題がある。一つは、その場合霊的進化を創造の情熱と結びけられるのかということであり、もし霊的進化が創造の情熱と結びつけることが出来ないなら、スピリチュアリズムにとって霊的進化は一番重要なことなのであるからスピリチュアリズムは人間の本質としての創造の情熱を認めないということであり、そのこと自体が自己放棄的ということになるであろう。もし、それが創造の情熱と結びけることが出来るとするなら、一歩の霊的進化、日々の霊的進化が霊的進化である以上、人間は創造的有状態にあるということになる。そうすると、スピリチュアリズムは創造的無の否定として自己放棄的ということになる。また、人間を神とすること以外でもスピリチュアリズムは人間を創造的有状態にあるとすることになる。人間が神であるということについても、神そのものでないとしてもその本性は神であり神性を宿しているとすれば、神性という形で創造の情熱を充足する手段を人間は持っているいるということで、やはり創造的有状態にあると主張していることになるのではないだろうか。
スピリチュアリズムには我々が実際に霊的に進歩している存在としているところがある。シルバーバーチは宇宙は常に進化しているともいう。宇宙が常に霊的に進化しているなら、宇宙の一員である人間も絶えず霊的に進化しているということになる。また、霊的進化をもたらすのが他者への奉仕、他者の役に立つ行為なのであるとすれば、これまでの人間には他者の為に何かするといことは繰り返し数多くあったであろうから、その度ごとに小さな進化かもしれないが、人間は霊的進化を続けてきたのである。マイヤーズからの通信によれば、現実の地上生活を送るあいだは五官の喜びを軽侮すべきではなく、何故ならこうした種類ないし状態の生活を経験するためにこそ地上に生まれてきたからであるとされる。花々や野原、山や海の美をめでるべきであり、大都会の美、動き呼吸するすべての生き物の美しさを観賞すべきであり、絵画や音楽に喜びを見出し、流麗なことばの美に心と魂を奮わせるなら、その人は罪深いどころか霊的力を増大させているという。シルバーバーチも、「神の顕現であるところの大自然が与えてくれる活力と能力を存分に活用して人生を謳歌なされるがよろしい。ふんだんに与えられる大自然の恵みを遠慮なく享受し、完成へ向けて進化し続ける永遠の壮観の中にその造化の神が顕し給う美を満喫なさるがよろしい。」と言う。ここに述べられていることは、スピリチュアリズム的にみても人間が喜びとするものは幻想ではなく、そのままに価値があることであり、それは多くの人々にとって日常的な生活の一部とされているものである。人間自身が肯定的なものとしていることが、スピリチュアリズム的にも肯定的なものとされるのであり、スピリチュアリズムが肯定するものを人間も肯定してきたのであり、その意味でもスピリチュアリズム的には人間は創造的有状態にあるのであって創造的無状態にはないといえる。
創造的無の固定観念化
唯一者からスピリチュアリズムをみると、創造的無として在るのに創造的有とすることは自己放棄であっった。一方、スピリチュアリズムから唯一者をみると、創造的無を主張する唯一者は無明の中で生きている人間の一人ということになり、無明の中で生きるということは自己放棄ではない。創造的無の中で生きるのが自己放棄ではないのと同じである。唯一者にとって唯一者は当然自己放棄者ではないが、スピリチュアリズムからみても唯一者は自己放棄者ではないということになるわけである。ただ、唯一者がスピリチュアリズムを自己放棄とすることは、創造的無を固定観念化しているということかもしれない。もしそうなら、創造的無を固定観念化するとは創造的無に固定化することだともいえるから、それは自己放棄ということにもなる。
人間は創造的無ではなく創造的有として存在しているというスピリチュアリズムの主張を唯一者はどう考えればいいのであろうか。例えば、シルバーバーチは「もしも人生に理想とすべきもの、気持を駆り立てるもの、魂を鼓舞するものがなかったら、もしも目標とすべき頂上が無かったら、もしも自分の最善のものを注ぎ込みたくなるものが前途に無かったら、人生はまったく意味が無くなります。」と言う。すなわち、シルバーバーチは人間が創造的有状態になければ、その人生は意味がなくなるというわけである。確かに創造的有状態にある人生には意味があるであろう。逆に言えば、創造的有状態ではない人生には意味がないということになるのかもしれない。ただ、唯一者に言わせれば意味が無くなるかどうかは自我にとってどうでもいいことであり、唯一者は創造的無の中で創造の情熱として生きるだけだということになるが、シルバーバーチの言うことにも一理あるとするなら、実は我々は創造的有状態にあるのだという主張を、創造的無と言う立場から頭から自己放棄であるとすることは、逆に創造的無を固定観念化しているかもしれないわけである。
実際に人間が神であったり創造的有状態にあっるとするなら、スピリチュアリズムから見て唯一者とは創造的有として在るのに創造的無として自分を感じてしまう存在ということになり、スピリチュアリズム的にいえば無明の中にいる人間の一人ということになる。もちろん唯一者としては自分が無明の中にいるということは否定しないであろう。ただ同時に、自分が創造的有状態にあるとすることも否定するわけである。その場合、スピリチュアリズムかみらみれば、本当は創造的有状態にあるのだけど、自分を創造的無と感じているから、自分を創造的有とすることは自己放棄だと唯一者は主張していることになる。しかし、人間は神であるとするスピリチュアリズムの立場からは、そのような主張を唯一者がすることはどうでもいい事柄に属することであろう。実際に自分は神であり創造の情熱を完全に充足しているなら、自分は創造の情熱を充足していないと感じることやそう主張することは、すでに創造の情熱は充足されているのであるからどうでもいいことである。すでに創造の情熱は実際に充足されているのであるから、充足されていないと思いたいなら勝手に思っていればいいのであって、そのことが自己の創造的有状態に何か影響を与えるわけではないし、何らかの力としてあるわけではない。創造の情熱を充足してはいないが、充足しつつある場合はどうなのであろうか。その場合も、いくら唯一者が創造的無状態を主張しても他者への奉仕が霊的進化をもたらすことには変わりはないわけである。ただ、他者への奉仕に何の意味も認めないということは、積極的に他者の為になることをしようということにはならないであろうから、その点では問題がある態度ということになる。ただ、それは唯一者だけでなく無明の中にいる人間にいえることであろう。
第七項 スピリチュアリズムにおける全体と個
全体の中への個の消滅の否定と個の集まりとしての全体
個と全体との関係において、シルバーバーチには個によって形成される全体という考えもみられる。「“個”が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの“個”が貧欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです」と言い、全体はあくまで個の集合であり、個の主体性が強調されている。個の集まりが全体であるなら、全体が個の上に位置するとはいえないであろう。主体的自我について、「霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人によって与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまでも自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。」と自我の自立性・主体性を強調している。そして、「私はかって地上で何年も生活し、こちらへ来てからも何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し、大小あらゆる出来事を支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。その結果しみじみと思い知らされることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟ると言うことは最後はみんな一人でやらなければならない」ことだといい、「霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら、後の者のために道標を残していくことだからです。」とも言う。 そこには、他者との関係を超越した唯一者的な主体としての自我が強調されているともいえる。
また、シルバーバーチは「霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません。」と言い、自我の独立を見せかけとしながらも、自我が全体の中に消滅していくということは否定しているし、最後は神の霊の中に没入して個性を失ってしまうのではないかという質問に、「究極はニルバーナ(涅槃)の達成ではありません。霊的進化はひとえにインディビジュアリティの限りない開発です。個性を失っていくのではありません。反対に増していくのです。神性の発現に伴って潜在的資質が発達し、知識が増え、性格が強化されていきます。…その結果として自我を失ってしまうことはありません。ますます自我を見出していくのです。」神や宇宙への寂滅の中で個霊が自己を失うことも否定している。
モーゼスの『霊訓』とシルバーバーチは霊的進化に終わりがあるのか無いのか、神への寂滅があるのか無いのか、という点で対立しているわけであるが、これもまたスピリチュアリズムの矛盾性の一つなのかもしれない。もっとも、シルバーバーチは霊的進化の究極において自我が全体に融合して行くことを否定しているわけでもない。進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね、という問いに、「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが。」と答えているが、そうすると霊的進化は永遠だから自我が全体の中に消滅することはないが、その霊的進化そのものは全体への自我の消滅を目指しているということにもなる。霊的進化は進化による全体への自我の消滅を目指しているが、進化そのものが自我という存在をより強固にしていくという矛盾を抱えているということなのかもしれない。
個の霊的進化は全体の中で可能であり意味を持つ
シルバーバーチによれば、霊的進化の結果神や宇宙へ自我が消滅するのではなく、自我が自我としてますます輝いていくのである。そして、自我が全体の一部、神の一部であるからこそ、大いなる神の計画に組み込まれ、霊が自分を通して働き、雄大なる宇宙機構に光輝を加えることになり、「一人ひとりが何らかの価値をもち、宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができる」ことになるのだという。「心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終ってはいけません。こんどはそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです、それが神の摂理です。」とも言う。あくまでも、相互に結び合った全体の中に在ることによって、自我は霊的に進化していくことができるわけである。「私がこうして個の霊媒を使用するように、私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けすることに集中していると、時として私自身の存在が無くなってしまったような、そんな感じがすることがあります。」ともいうが、これは道具となることを自己の主体的選択として選択した場合でも、道具すなわち一種の霊媒という性質上、自分を殺して道具に成り切る方が、道具としての役目をより果たせるであろうから、必ずしも自己放棄的ともいえないわけである。これは個霊と全体との関係に通じるものがある。他者の役に立つということが自己の霊的進化をもたらし、もし他者と協力すればより他者の役に立つことになるのだすれば、他者との協力はあたかも自分と協力し合う相手が一体化したように見える時のほうがより効果的になるであろう。その意味で、個は他者との一体化を目指しているともいえるわけである。自分の霊的進化は自分でしなければならない、そしてその進化した分を他者と分かち合うことによってさらに霊的に進化する、ただその他者と分かち合うということはあくまでも自分の主体的行為としてなされなければならない、そういう意味で霊的進化の主体はあくまでも個霊であるが、全体の中あるいは神の一部でこそ個霊は霊的進化をしなければならない存在となるのであり、それが人間の在り方であるとすれば、一つの生命共同体の中で人間は完全に独立することは出来ず、全体に従属し、全体のために存在しているしても、そのことをもって自己放棄をいうことは出来ないということである。
スピリチュアリズム自身の自我の二分化の否定
唯一者にとって自己放棄者は自我を二分化するかもしれないが、一方では自己放棄が創造の情熱の充足の可能性として選択されているということでは、自己放棄者もまた単に在るがままの自我として存在しているのだともいえる。そして、それに対して唯一者は創造の情熱の自我を持ち出し、自己放棄者の自我を二分化し、自己放棄者の中の真の自我である創造の情熱が自己放棄を崩壊させるというわけである。自己放棄者からいえば唯一者こそが自己放棄者に対し、その内部の創造の情熱という真の自我を持ち出して自我を二分化しているのだということになるかもしれない。しかし、唯一者からいえば自己放棄が放棄される自我と放棄する自我によって成立する以上、自己放棄者が自我を二分化することは必然的ともいえるわけであり、唯一者が自己放棄者の自我を二分化しているわけではなく、そのうちの放棄される自我が創造の情熱としての自我であり、創造の情熱こそ人間の本質であることを指摘しているにすぎない。
そうだとすると、スピリチュアリズムの自我の二分化は唯一者的にみれば自己放棄ということになるが、唯一者自身が人間を唯一者と自己放棄者に二分化し、自己放棄者に対して創造の情熱といった真の自我を持ち出したしてもそれが自己放棄ではないように、高級霊が無明の中に生きる自我を二分化して真の自我として霊としての自我を持ち出すからといって、それが自己放棄とも言えなくなるのではないだろうか。無明の中で実際に霊的進化をしていることに気が付かない無明の中の人間にとって、人間は霊的進化をしているということを主張することは自己放棄かもしれないが、スピリチュアリズム的にいえばそのような見解は無明の中に生きる人間の転倒した意識ということになる。
スピリチュアリズムは自我を二分化かするようなことを言う一方、自我が統一された一つのものであるような言い方もする。霊と肉体が区別され、肉体は霊の衣服とされる一方、シルバーバーチによれば人間は肉体と精神と霊とから構成され、一つが三者によって成り立っている「三位一体」であった。三位一体について「一つは今述べた霊、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次に、その霊が精神を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって、肉体を支配します。この三者が融合し、互いに影響し合い、どれ一つ欠けても、あなたの地上での存在はなくなります。」という。「霊というのは、精神と肉体から切り離して“これが霊です”といってお見せできる性質のものではありません。同じことが精神についても肉体についても言えます。三者は切り離すことができないのです。」ともいう。地上にあっては、自我とは肉体と精神と霊とが一つに融合した統一体ともいえるわけであり、その考えからいえば自我の二分化といった考えはスピリチュアリズム自身が否定しているともいえる。シルバーバーチによれば、重要なことは霊と身体、あるいは霊と精神と身体の調和であり、それらのバランスが取れた生き方ができた時、この世にありながら俗世に染まない生き方ができることになるという。
スピリチュアリズムにおける全体と部分の統一
マイヤーズは「私とは一個の王国のようなもので、更に言えば王国の一構成員のようなものなのである。」という。これは大きな王国の中にある小さな王国という意味なのかもれしないが、スピリチュアリズムにおいては個霊も類魂も「わたし」とされている。これは、自我が個霊と類魂に二分化されているともいえるが、個霊と類魂は統合されて一つになっておりそれが自我ともいえる。個霊そして類魂それぞれが私なのであるが、といって二人の私がいるわけではないと言っているといえよう。この場合、類魂は個霊の集まりでもあるから、個霊の集まりである類魂も一つの主体的存在であり、類魂の一部分である個霊も主体であり、さらにはそれは別々の主体としてあるのではなく一つの主体であるということである。部分は部分、全体は全体として、部分と全体の関係があるのではなく、といって部分でも全体でもない第三の存在があるわけでもなく、部分は全体であり、全体は部分であるということになる。個霊と類魂は区別されたものとしてありながら、他方では同じものとされていることになり、そこにあるのは一つの自我ということになる。個霊と類魂の自我の二分化は、その二分化された自我がまた一つの自我に帰っていくということであり、単純に自己放棄的ともいえないわけである。また、神は一即多かつ多即一といわれるが、類魂が主体である個霊の単なる集まりではなく、その統一体であり一つの主体であるということは、類魂も一即多かつ多即一ということができる。
一つの意識体の個々の部分というのはどういうものかという質問に、シルバーバーチは「これは説明の難しい問題です。あなた方には“生きている”ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識をもって生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。」と答えている。個我と類魂の関係は地上の人間の理解を超えた在り方をしているようである。その意味でも、個霊と類魂を「わたし」とすることは自我の二分化で自己放棄であるとは簡単にいえないわけである。
自我が存在しないなら、自我をの二分化することも出来ない
自我とは個霊のことであるとするなら、唯一者にとって自我が実体的なものであるように個霊も実体的なものということになる。しかし、スピリチュアリズムは「われわれは見せかけは独立した存在です」ということで、必ずしも個霊に実体性を認めているわけではない。そうすると、個霊そのものの存在を認めていないともいえるから、スピリチュアリズムは存在しない自我を二分化することは出来ないし、スピリチュアリズムが自我を二分化するということもいえないわけである。スピリチュアリズムが自我を二分化していないとすれば、その意味で自己放棄的とはいえなくなる。最も個霊の存在を認めないという意味では、それは唯一者的立場に立てば自己放棄ということになるが、それは自我の二分化による自己放棄ではないわけである。さらにいえば、神の被造物というけれどスピリチュアリズム的には個霊は神の被造物でさえないのかもしれない。マイヤーズによれば、「一つの星に魂が生まれるのに関しては、火焔界の類魂が関与するといってもよい。」とされ、個霊は類魂の被造物というべきかもしれないし、そのことは個霊にとって霊的進化が絶対的なものではないということにつながるのかもしれない。 それに対し、本霊・中心霊は神の被造物というより、神そのものの部分なのである。
第一項 矛盾の否定と伝える側の限界性
唯一者から見れば自己放棄と言えることも、スピリチュアリズム的な視点を考慮すると必ずしも自己放棄とはいえなかった。それは、自己放棄を勧めることについては自己放棄することが霊的進化をもたらすというスピリチュアリズムの逆説性であり、自己放棄の根拠としたことがスピリチュアリズム自身によって否定されているスピリチュアリズムの二面性・矛盾性であり、霊的な世界は唯一者には分からないというスピリチュアリズムの超越性であった。
超越性ついては、例えば自己放棄が人間の在り方であるならそれは自己放棄ではないということであったが、これは自己放棄が人間の在り方というスピリチュアリズムの主張に対し唯一者が反論できないのは、スピリチュアリズムが唯一者を超えているという、スピリチュアリズムの超越性からきているからということになる。また、「“霊”と“魂”の違いについて教えていただけませんか。」という問いに、シルバーバーチは「これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明するための用語を見つけなければならないので厄介なのです。魂と霊の違いがその好例です。」と答えているが、スピリチュアリズムは言語を超えたものを相手にしているのだという超越性もある。スピリチュアリズムの矛盾性はこの言語を超えたものを言語化しようとするところから生じているのかもしれないわけである。また、同じ問題を違った側面から扱っている結果自己放棄的にも自己放棄的ではないようにも見えるということは、スピリチュアリズムが自己放棄といったものを超越してしていることを意味しているということかもしれない。
スピリチュアリズムの二面性・矛盾性からくるスピリチュアリズムの自己放棄性の否定であるが、「これまで、さまざまな事情のもとでさまざまな視点からお答えしてきましたので、中には一見すると矛盾するかに思えるものがあるかも知れません。しかしそれは、同じ問題を違った側面から扱っているからであることを理解してください。」ともシルバーバーチは語っている。そうすると、スピリチュアリズムは自己の二面性はともかく矛盾性は否定しているわけであり、スピリチュアリズムの矛盾性によって、自己放棄的に見えることも必ずしも自己放棄とはいえない場合があるということは、スピリチュアリズム自身が矛盾性を否定するのであるから、そうともいえないということになる。ある事柄ついてスピリチュアリズムは自己放棄的とされたものがスピリチュアリズムの矛盾性により必ずしも自己放棄的ではないとされたものが、再び自己放棄的とされる場合もあるということになるわけである。
スピリチュアリズムの超越性については、その超越性をそのまま認めていいのかという疑問もある。スピリチュアリズムの唯一者に対する超越性であるが、それは霊界通信が超越性を主張しているからスピリチュアリズムは唯一者を超越しているのだということである。しかし、霊界通信を伝えてくる霊自身が自己の限界性を語っているとすれば、スピリチュアリズムは唯一者を超越しているというその主張自体もそのまま受け取るというわけにはいかなくなるのではないだろうか。シルバーバーチは「私は人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説を取っている者ではありません。」と言った後、「いつも言っている通り、私は究極のことは何もしりません。始まりのことも知りませんし終わりのことも知りません。」と、自分自身の限界も語っている。シルバーバーチは自分でも分かっていないことを伝える場合もあるわけであり、そうするとスピリチュアリズムの主張が確実な主張かどうか曖昧になっていくことになるし、スピリチュアリズムの唯一者への超越性も必ずしも言えなくなるわけである。また、矛盾に見えることも矛盾ではないと言った後に続けて、「それからもう一つ、このわたしが絶対に間違ったことは申しませんとは言っていないことも忘れないでください。」ともシルバーバーチは付け加えている。そうすると、スピリチュアリズムの唯一者への超越性の中には、間違った主張もあるかもしれないわけであり、スピリチュアリズムの超越性からくるスピリチュアリズムの自己放棄性の否定も成り立たない場合が考えられるわけである。
シルバーバーチの疑問
さらに、自分でも疑問を感じながら伝えているものもある。例えば霊的進化が永遠に続いて終わりがないということについては、シルバーバーチ自身が必ずしも納得していないという。あなたご自身にとって何か重大でしかも解答が得られずにいる難問をおもちですかという問いに、シルバーバーチは「解答が得られずにいる問題で重大なものといえるものはありません。ただ、私はよく進化は永遠に続く――どこまで行ってもこれでおしまいということはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうおしまいのない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります。」と答えている。また、それは神それ自身が完全でないということではないでしょうかという関連質問に、「私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを輪郭だけは理解しております。私はその細部のすべてに通暁しているなどとはとても断言できません。だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心でもって補いなさいと申し上げているのです。神と同じく完全というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。現在の段階まで来てみてもなお私は、もしかりに完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」と答えている。ただ、シルバーバーチはそれは自分にとって重要な問題でないとするのであるが、霊的進化が自我にとって本質的なものであればあるほど、霊的進化が永遠に続くもので終わりがなく、完成することがないとすれば、それは自己放棄と結びつくのであるから、唯一者にとってはそれは重大な問題ということになる。シルバーバーチ自身にとってそれが重大な問題でないのは、「私も摂理のすみずみまで見届けることはできません。まだまだすべてを理解できる段階まで進化していないからです。理解できるのはほんの僅かです。しかし、私に明かされたその僅かな一部だけでも、神の摂理が完全なる愛によって計画されていることを得心するには十分です。私は自分にこう言い聞かせているのです。――今の自分に理解できない部分もきっと同じ完全なる愛によって管理されているに相違いない。もしそうでなかったら、宇宙の存在は無意味となり不合理な存在となってしまう。もしこれまで自分が見てきたものが完全なる愛の証であるならば、もしこれまでに自分が理解できずにいるものも又、完全なる愛の証であるに違いない、と。」という心境からくるようである。
シルバーバーチ自身が納得していない終わりのない霊的進化ということを、スピリチュアリズムの超越性を持ち出してそれが自我の在り方であり、従ってそれは自己放棄ではないということができるであろうか。もっとも、シルバーバーチはさらに上の高級霊から教えられたことをそのまま伝えているのであるから、そのより高級な霊の存在について唯一者は分からないのであるから、その意味ではスピリチュアリズムの超越性はいえるのかもしれない。また、終りのない霊的進化を言っているからといって、自分自身では納得していないというシルバーバーチは自己放棄者とはいえないのかもしれない。
第二項 霊的進化と最大有限数性
終りのない霊的進化については論理的に考えることもできる。シルバーバーチは究極のことは何も知らないし、始まりのことも終わりのことも知らないといいながら、「私に言わせれば“存在”には“いつから”ということはなく“いつまで”ということもなく、いつまでも存在し続けます。」と続けるのであるが、単純に考えると、究極のことは知らないのにどうしていつまでも存在し続けますということがどうして言うことが出来るのかということになる。確かに、過去へは無限に遡ることができ、未来も無限に続くなら、始まりも終わりも無いし、従って始まりのことも知らないし終わりのことも知らないということになるであろう。しかし、究極のことは知りませんということは、無限かどうかも知らないということなのではないだろうか。そうすると、「いつまでも存在し続けます」ということもいえなくなるわけである。そうすると、霊的進化が無限に続くということは、シルバーバーチ自身には分からないということになる。それにもかかわらず、シルバーバーチが霊的進化は無限に続くと言うとすれば、それはシルバーバーチは「どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。」ともいうが、信仰によって補っているということになるのかもしれない。しかし、信仰によって補うといっても、信仰は確認ではないし、そして確認ということを考えると無限には矛盾があった。無限を主張することは、終わりが無いのに終わりが無いことを確認したということであり、終わりが無いのにどうしてそれを確認できるのかという矛盾である。シルバーバーチが霊的進化には終わりが無く、無限に続くということを知ったのは、より高級な霊からそう聞かされたからかもれしないが、そのシルバーバーチより高級な霊も、無限の持つ矛盾を突破できないであろうし、結局シルバーバーチと同じように終りのことは知らないということになるのではないだろうか。
また、確認ということでは、無限の他に最大有限数性の問題もある。最大有限数性においては確かに終わりがあるのであるが、しかしそのことを確認できないのである。無限と最大有限数性の違いは、もし無限に終わりが無いとすれば我々は神に成れないということであるが、最大有限数性においては我々は神に成っていないかもしれないが、神になっている可能性もあるということである。そして、無限と最大有限数でいえば、我々が霊的進化を無限に続けていく前に、最大有限数性という壁にぶち当たるはずである。すなわち、現実に霊的進化をしている人間、霊的進化の中でただ霊的進化をしている人間には、その霊的進化の終りは分からないし、それはまた終わりが分からない以上、その人間には終わりがあるか分からないということにもなる。シルバーバーチは霊的進化に終わりがあっても、自分の能力では終わりがあるかどうか分からないというのであるが、霊的進化が最大有限数的なものであるとすれば、原理的に終わりがあっても終わりがあるかどうか分からないということである。そして、無限に続く霊的進化も最大有限数的霊的進化も、霊的進化が続く限りは続くということには変わりがないのであるから、スピリチュアリズムにとって霊的進化は無限に続くものではなく、最大有限数性的なものであってもかまわないのではないだろうか。違いは、無限に続く霊的進化では我々は目的を成就することはないし、神にも成れないということで自己放棄ということになるが、最大有限数的霊的進化では我々はそのことが分からないだけで、目的を成就することもありえるし、神自身も最大有限数性であるなら神にも成れる可能性もあるということであるから、無限の霊的進化が持つ無の固定化という自己放棄性は最大有限数的霊的進化には無いわけである。
第一項 自我の外部性
唯一者において自我は神の外部存在であり、神は神、自分は自分、という意味で自分と神とは対等な存在であった。それに対してスピリチュアリズムでは我々は神の一部であり内部存在とされているが、スピリチュアリズムにおいても自我の神に対する外部性といったことはまったくいえないのであろうか。スピリチュアリズムでは人間と神の違いは神性の発達程度の違いであり、神性の本質の違いではないとされたが、人間には大霊の神性の全てが潜在的に含まれており、神は完全だとおっしゃいましたがわれわれ人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんかという質問に、「そうではありません。あなた方は完全性を具えた種子を宿しているということです。」と答えている。そうすると、発達程度の違いがあるということは、神も人間も完全性を具えた種子を宿しており、その種子の成長の度合が違うということになる。神は成長し切っており、人間は成長の途中にあるわけである。この場合、人間が神自身であるとするなら、人間の種子と神の種子はまったく同じ一つの種子ということになる。そして、人間と神の発達程度とはその種子の発達程度ということになるが、一つの種子しかないのであるから人間と神の発達程度に違いが出ようがないであろう。人間と神に発達程度の違いがあるということは、両者の種子は完全性を具えた種子という種子の性質では同じであるが、存在としては別々の種子ということになる。人間と神は別々の種子を持つ、それぞれが別の霊的進化の主体であり、その意味で人間は神の外部存在ということになる。人間が神の一部である場合は、神の部分部分も種子を持つということは考えられるが、その種子がその部分としての完全性を具えたものであるかもしれないが、神の完全性という意味での完全性を具える必要はないであろう。また、神の完全性を具えた種子とはそれらの種子の総和のことなのかもしれないが、どちらにしても神がその種子を成長させ切って完全な存在になっているのだとすれば、部分部分の種子も成長し切っているということになり、人間が神の一部なら人間の種子が成長の途中ということはあり得ないわけである。
あるいは、人間の三位一体性について、「一つは今述べた霊、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。」とも言われていた。それからいえば、我々が宿す完全性の種子とは霊のことかもしれないわけであり、この場合の霊とは人間が神の分霊とされる場合の分霊のことということになり、その分霊が完全性を具えた種子ということになる。その場合、神は分霊の単なる総和ともいえないし、神の種子とは我々の種子の総和ではないということになれば、神の種子が成長し切っているということと我々の種子が成長し切っているということは切り離して考えることもできるわけである。ただ、その場合は神は我々の総和を超越した存在ということになり、神と我々の間には超越性という神と我々を隔てる壁があり、その壁の外部に存在する神は我々の外部存在といもいえるし、逆にいえば我々は神の外部存在ともいえるわけである。
もつとも別の所では魂の内部に完全性の種子が秘められていると語られていた。しかし、魂は内部にあるとか外部にあるとかは言えないということでもあったから、魂の内部に完全性の種子が秘められているとしても、そのだけでは我々の内部に完全性の種子が存在しているということにはならないかもしれないわけである。我々が内部に完全性の種子を宿しているかどうか分からないとすれば、我々が神の外部存在かどうかも明確ではないということになる。ただそれは、我々は神の外部存在ではないかもしれないが、外部存在かもしれないということでもある。一方、大霊は我々の内部と外部に存在するともされた。そうすると、人間は神の内部と外部に存在するということでもあり、スピリチュアリズム的にも人間には神の外部性といった性格があることになる。ただ、同時に内部存在でもあるということで、ここにもスピリチュアリズムの矛盾性が表れているわけである。
では自我が神の内部存在であり外部存在でもあるということはどういうことであろうか。シルバーバーチは我々は神の僕であると言うが、僕は主人の家族ではないしその意味では外部の人間である。ただ、広い意味ではその主人に仕えているということでその家の内部の人間ともいえる。ただ、シルバーバーチは我々は神であるともいっているのであるから、我々が神の内部存在であり外部存在でもあるということで、我々が神の僕にすぎないといっているわけではないであろう。我々は神に対し主体的存在であると言っていることになる。我々が神の内部存在であり外部存在でもあるということは、我々は神の一部であるかもしれないが、同時に神に対して主体的存在でもあるということであろう。唯一者的にいえば我々の主体性は我々の神に対する外部性に結びついているわけであるが、我々が僕的な意味での内部存在ではないとすると、では我々が神の内部存在というとき、我々はどのように存在しているのであろうか。
シルバーバーチによれば「霊としてのあなたは無始無終の存在です。」ということであったが、この言葉にもよく分からないものがある。霊としてのあなたということは、霊ではない自分もいるということになるであろう。シルバーバーチは、霊について「霊はすべての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。」と言っている。そうすると、我々は霊を基本的素材として形成されたものということになるであろう。その場合、霊を素材として形成された部分が霊としての自分とはいえない。何故なら、霊がすべての存在物を形成する基本的素材ということは、我々を形成する他の素材もまた霊を基本素材として形成されたものということになり、結局我々は霊のみを素材として形成されたともいえるからである。そうすると、霊としての自分と霊ではない自分を区別するものは素材の違いとはいえなくなる。素材の違いではないとすると、霊は素材とされているのであるから、残るのは素材と形成物の違いということになるであろう。霊としての自分とは素材としての自分であり、霊ではない自分とは形成物としての自分ということになる。霊が無始無終なら霊としての自分も無始無終ということになるが、しかし形成物である霊でない自分は無始無終とは限らないわけである。正確にいえば、シルバーバーチは霊的進化に終りは無いというのであるから無終ではあるが、無始とはかぎらないわけである。また、主体としての自我を考えるなら、素材としての霊が霊的進化の主体であるなら、霊的進化において形成物としての自分は不必要な存在となるから、結局霊としての自分しか存在しないということになってしまい、主体としての自分は素材としての自分、霊としての自分ではなく、霊を素材として形成された、形成物である霊ではない自分ということになるであろう。
シルバーバーチは「その霊があなた方のいう神であり、私のいう大霊なのです。」と言う。神は霊ということになり、我々の内部の神とは霊のことということになる。そうすると霊を素材とすることに違和感が出でくる。神はあくまでも創造主であって、形成物の素材ではないであろう。もっとも、霊が神の一部、あるいは神の内部存在ということであれば、神がその一部分である霊を素材として被造物を創造するということは考えられることである。自分の主体性が神の外部性と結びつくということは、その場合の神の外部存在としての自分とは霊ではない自分のことであり、そうすると神の内部存在としての自分とは霊としての自分ということになる。
第二項 生命体
シルバーバーチは「霊としてのあなたは無始無終の存在です。」と言った後「なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するものそのものだからです。」と続けており、霊が生命であるから霊は無始無終なのだと言う。また、「生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。」、「実を言えば霊こそ生命であり、また生命こそ霊なのです。」、「大霊とは生命であり、生命とは大霊です。」と、神と霊と生命が一つのもの、あるいは一体のものとしており、神が我々の内部に存在するという言い方は神秘的な感じがするが、我々の内部に生命があると言われれば、それは当り前のこととも思える。
生命という言葉とは別に、シルバーバーチは生命体という言葉も使う。「霊の一部、つまり神の一部が物質に宿り、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために体験を積みます。」と言い、「人類がこの地上に誕生するはるかはるか以前から摂理というものが働いております。その摂理のもとに、宇宙の大霊が一つの目的をもって行動を開始し、地球上にその大霊の神性を帯びた無数の生命体を用意しました。それぞれが大霊の造化の目的へ向けての役割を担っていたのです。」と言う。神の目的である霊的進化の実行主体は物質に宿った霊である生命体ということになるわけである。そして、生命については「生命は円運動です。始まりも終りもありません。」と無始無終とするが、生命体については神が行動を開始し、用意したというのであるから、始まりがあることになるのではないだろうか。また、シルバーバーチは「個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。」と個体は明確に始まりがあると言い、「受胎作用は精子と卵子が合体して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以後は永遠に個性を具えた存在を維持します。」と、意識を持った個体の始まりについてより具体的に述べている。あるいは、意識を持った個性の始まりが物質と結びついているということは、物質界においては個体性、自我が強調されやすいということなのかもしれないし、そこから唯一者のような過剰ともいえる自我の強調が生じるということにもなるのかもしれない。
生命体と個体の関係であるが、生命体の一部である人間が個体という在り方をしているということであろう。霊的進化の主体としての自我は生命体であり個体ということになる。そして、生命体あるいは個体が始まりを持つということは、自我とは霊としての自分ではないということになる。
一方、生命体は物質に宿った霊の一部ということであるが、この物質が身体ということであろう。身体については、単に肉体に止まらず、幽体、霊体、神体などと言われるものも含まれると考えられる。スピリチュアリズムでは霊的進化に従って、より精妙な波動の身体である幽体、霊体、神体を纏っていくとされる。単に肉体に宿った霊の一部が生命体というのではなく、これらの身体に宿った霊の一部が生命体と考えるべきであろう。身体について、シルバーバーチは「肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです。」といい、単なる衣でしかない肉体は霊的進化の主体的存在とはいえず、それは他の身体についてもいえるであろうから、そうすると身体を衣とする霊、この場合は分霊こそ主体的存在ということになる。身体は霊と区別されているのであるから、霊即ち神の外部存在ということになるであろう。では、神の外部存在としての自分とは身体のことだということなのであろうか。そうすると、これまでの神の外部存在としての自分が霊的進化の主体的存在であったということと矛盾することになる。
神とその外部存在を考えたとき、外部存在に神と共通するものがあったからといってそれが外部存在であることには変わりはないであろう。そういう意味では、神の一部である分霊と外部存在である身体が結びついて一つになった場合、それもまた神の外部存在ということになる。結局、外部存在が霊的進化の主体的存在であるというのは、そのような意味での外部存在について言っているということなのであろう。外部存在としての自我が霊的進化の主体的存在であるとすれば、この外部存在としての自我とは身体を纏った、身体と一体化した霊すなわち生命体としての自我ということになる。それ故、「人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在以上のものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。」ということになる。
ただ、それでも総てが明確になるということでもない。それは、二つのことで問題になる。一つは、スピリチュアリズムは霊的進化を人間の目的とするわけであるが、同時に人間が肉体ではなく霊であることが強調される。身体と霊との統一体としての人間では肉体と霊を差別する必要はないはずなのである。もう一つの問題は、第一の問題と同じことにもなるのであるが、霊がすべてのものの基本素材であるとするなら身体も霊を基本素材として出来ているということになり、身体と霊を区別するのは形成物と素材の区別であり、そうすると身体と霊との統一体といってもその統一体が霊性進化の主体であるとすれば、結局それは形成物である身体のことになるということである。
もっとも、素材である霊の性質が身体に反映され、その反映されたものこそ霊的進化であるとするなら、人間は肉体ではなく霊であるという言い方もできることになる。素材の性質が形成物に反映されるということもあるであろう。宇宙が神の反映であり、神が宇宙組織となって顕現しているのだとするなら、そういうことになる。そして、形成物にとってその素材の霊が神の重要な性質を反映しているものだとするなら、大袈裟に形成物において霊は神であるという言い方も出来るし、形成物に反映された素材の霊の性質が形成物にとって決定的に重要なら、形成物は霊であるという言い方も出来ないわけではないということにもなるし、その場合は形成物は神であるということにもなるわけである。
ただそうすると、分霊とは神の一部分ということになるであろうが、その分霊は単なる霊の一部分ではなく霊全体に成ろうとする一部分、神に成ろうとする一部分ということになる。しかし、全体の部分は部分として存在していればいいはずで、全体に成る必要はないはずである。考えられることの一つは、分霊としての我々が完全性を求めるのは、親から切り離された子供が親を求めるように完全性を求めるということなのかもしれないということである。その場合、切り離された分霊とは霊に対してある意味外部性を持っているともいえることになる。あるいは、神が一にして多、多にして一という存在であるとすれば、部分はまた全体でもあるということかもしれない。そうすると、身体と結びついた神の一部分である分霊は、本来なら部分はまた全体であるのに単なる部分とされることになり、全体でもあるという本来の姿を取り戻そうとするのかもしれないし、それが神に成ろうとする霊的進化ということなのかもしれない。ただ、そうすると部分は全体でもあったのであるから、霊的進化によって我々は神に成ってもいいはずであるが、どうして神に成れないのかという問題は残る。
部分が全体でもあるということは、全体でもあるということは神に成れるということでもあるが、一方では部分は部分としてあるということであり、それは神に成れないということもなければならない。すなわち、神であり神ではない状態に成るということである。神に成りかつ神に成れないという状態に一番近い状態が霊的進化が無限に続くということなのかもしれない。すなわち、限りなく神に近づくという状態は、ある意味神であり神でない状態ともいえるであろう。無限小で考えれば、それはゼロではない。といってある特定の有限数を考えればそれより小さい数が存在するということであるから、特定の有限数でもない。ゼロを神とすれば、ある有限な数は神ではない。ということは、ある特定の数ではないということは神ではないのではないということになる。すなわち、神ということになる。一方、ゼロでないとは神ではないということであるから、結局ゼロではなく特定の有限数でもないということは、神でありかつ神ではないということになる。
では、霊的進化により我々は神に成りかつ神に成れないとということに対してて、敢えて我々は神に成れるのか成れないのか、どちらなのかを端的に問うたばあい、答えは神に成れるということなるのであろうか、神に成れないということになるのであろうか。ゼロを神に例える無限小の話からいえば、ゼロに成れないのであるから神に成れないということになる。
分霊の外部性は「霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人であり、肉体はその主人に仕える僕です。」と言うシルバーバーチの言葉にも表れているかもしれない。ここでいう霊は、「霊も肉体も」という言い方からも「霊が主人であり、肉体はその主人に仕える僕」という言い方らかも、霊そのものというより神の分霊のことだといえる。我々は神の分霊とされ、その神の分霊が神の僕とされるということは、神が神を僕などとは看做さないであろうし、全体としての神がその一部分を一部分だからといって自分の僕などとは看做さないであろうから、分霊と身体が結合した生命体あるいは個体が神の外部存在なのではなく、分霊そのものが神の外部的存在ということになる。分霊としての我々がすでに神の内部存在であり且つ神の外部存在でもあるわけである。
神へ回帰した時にわれわれの個的存在がなくなるという考えに対して、シルバーバーチは霊的進化は限りなく個性を増幅していくことであり、個性が消えていくのではなく増していくと言っていたが、「究極のことをこう表現してもよいでしょうか。つまり、最後は大いなる意識(神)の海に埋没してしまうのではなく、その海の深さが個性の中に吸収されていく、ということです。」という発言に、「いいですね。なかなかいい表現だと思います。」と答えている。いえることは、霊的進化により神に近づけば近づくほど、シルバーバーチは個体というより個性という言い方を好んでいるようであるが、個体はどこまでいっても神とは区別された神の外部存在であり、ますます個性が強化されていくということは外部存在性が強まっていくということである。すなわち、我々はますます主体的存在となっていくということである。
第三項 外部性と自己放棄
スピリチュアリズムでは人間は神であり神ではなかったが、同じように人間とは神であり神に成れない存在なのかもしれない。永遠の霊的進化はそのうちの神に成れないということを間接的に表現しているということのなのかしれない。そうすると、霊的進化が神を目指しながら神に成れないからといって、それは人間の在り方なのであるから自己放棄と結びつけることも出来ないわけである。
ただ、人間が神を目指しながら神に成れないというスピリチュアリズムの主張のみを取り出して考えるとすると、人間が神の内部存在なのか外部存在なのかでその意味合いがちがってくるであろう。内部存在の場合、部分は全体に成れないのであるから人間が神に成れなくても当然ということにもなる。神に成れなくてもそれは自己放棄とは結びつかないわけである。しかし、人間が神の外部存在であるとするなら、唯一者的には人間は神に成れない――この場合は神に成るとは神と同等の存在に成るということであるが――と固定化されているわけでもなかったが、外部存在には部分は全体に成れないという論理が成立しないのであるから、スピリチュアリズム的にも神に成れないと固定されているわけではないということになる。ということは、人間が神に成れないとすることは神に成れないと固定しているわけであるから、神に成れないということが自己放棄ということにならないのは、外部存在の場合は当然のこととはいえないであろう。
霊的進化の主体としての人間は神とは別の種子を持つ存在として、神とは独立の存在であり、神の外部存在であるなら、神に成れないということが人間の在り方であり自己放棄ではないとは言い切れないわけであるが、シルバーバーチはわれわれが独立した存在であるのは見せかけであると言っていた。そして見せかけの主体としての自我を二分化したからといって自己放棄にはならないのではないかとしたが、同様に見せかけの存在である自我を永遠の霊的進化をする存在としたからといってそれが自己放棄ということにはならないわけである。しかし、そもそもスピリチュアリズムは人間を問題にし、人間の霊的進化を問題にするところから出発しているのではないだろうか。人間の主体性は見せかけとするなら、スピリチュアリズムの意義がそもそもなくなってしまうであろう。スピリチュアリズムがスピリチュアリズムに意義があると主張する限り、スピリチュアリズムは人間に主体性を認めなければならない。同じように、人間が神の外部存在であるのは見せかけとするわけにはいかないであろう。
神が完全なら創造の大業といっても神にとっては所詮遊びでしかないということにもなるが、神の創造活動に参加し、その一翼を担って霊的進化の道を歩むことは、それが完全に到るかどうかは別にして、そのこと自体が人間にとっては存在の本質的目的ということはありえる。すなわち、それが人間の存在の在り方だとすると、そのことをもって自己放棄などとは言えないことになるが、しかしそうだとすると、霊的進化によって神の創造活動の一翼を担うことが人間にとっての在り方であり、自分の在り方として存在している人間が、自分を神の僕などと卑下する必要もないのではないだろうか。創造の大業の道具、一つの部品として人間が神によって創造されたのだとしても、人間にとってもはや霊的進化は神の事柄ではなく自分の事柄なのであり、神は神、人間は人間なのである。それを自分を神の僕などと言うことは、自己放棄者のやることであろう。ただ自己放棄ということでいえば、創造の大業が神にとっても自己の本質に関わることであり、その創造の大業にかかわるものとして人間が創造されたとするなら、神の事柄は人間にとっても自分の事柄ということも出来るかもしれないし、その場合は自分を神の僕とみなしても、それは単に自分が神の一部分であるということを意味しているだけともいえ、自分を神の僕と規定することも必ずしも自己放棄とはいえないかもいれない。そして、部分は部分であって全体になる必要はないのだとすれば、神の一部分としての人間が神になる必要もないし、霊的進化を自分の目的としたとしても、それは神に成ることではないともいえるわけである。すなわち、人間の目的は霊的進化を通じて神に成ることではなく、神を目指した霊的進化そのものにあるということになる。
第一項 永遠の霊的進化と矛盾存在としての神
スピリチュアリズムでは人間は神であるという一方、人間は神ではないあるいは霊的進化は無限に続き我々は神には成れないとされた。どうしてスピリチュアリズムは人間は神であり神でないというような正反対のことを主張するのであろうか。また人間が神であるなら、神は人間であろう。そうすると、人間は霊的進化を目的する存在であり、神は人間であるとすると神は霊的進化を目的とする存在ということになる。また、神は神ではなく、神は神であり神に成れない存在ということにもなる。勿論、霊的進化によって神に成れないということは、単にそれは霊的進化によって神に成れないというだけで他の方法では神に成れるということかもしれないし、元々から神である人間にとってそれはそのことが即人間が神であるということの否定になるわけではない。ただその場合も、人間が神であるなら、何故神を目指して無限の霊的進化をしなければならないのかという問題は残る。
人間を神と看做すことは自己放棄とされたが、それは神でないのに神とするから自己放棄ということになるのであって、人間は神であり神ではないとすれば、人間は神でもあるのだから人間を神とすることをもって自己放棄とはいえないであろう。その場合人間は矛盾存在ということになるが、人間が神であるがゆえに霊的進化をしなければいけないということ、さらにその霊的進化は神を目指すが神にはなれないものともなりえることは、神を矛盾存在とすることによって導き出すことができるかもしれない。もしそうなら、人間が神でない場合は霊的進化が神を目指しながら神に成れないということが自己放棄ということになるわけであるが、神が矛盾存在であるということは、神ではない人間が神を目指して霊的進化をしなければならないこと、さらに神を目指しながら霊的進化によって神に成れないということは人間の在り方ということになり、そのことをもって自己放棄ということにはならないであろう。
神の目的としての霊的進化の矛盾性
シルバーバーチによれば、神の宇宙創造には神の計画、あるいは目的があり、人間もその神の計画に組み込まれている。すなわち、人間は神の永遠の創造活動の中の不可欠の存在なのであり、自分の努力、自分の行為、自分の生活がそうした永遠の創造過程になにがしかの貢献をし、雄大なる宇宙的機構に光輝を加えることになるのだという。その為に人間は霊的進化を目指さなければならないし、霊的進化の目標は完全性であり神とされる。そして、その霊的進化は無限に続くわけであり、シルバーバーチも神が終りのない霊的進化という計画を立てたことに納得できないものがあるとするわけである。ところで、この神の目的あるいは計画と結びつくのが霊的進化であり、その霊的進化が神を目指すということには矛盾がある。神はすでに神であるのに、神が何故改めてその計画・目的に神になることを目標とする霊的進化を組み込まなければならないのかということである。神は矛盾存在であり、霊的進化には矛盾が潜んでいるということがいえるかもしれない。
矛盾存在としての神の可能性
神が完全な存在であるとすれば、霊的進化あるいは神の創造活動はそれが神を完全にするわけではなく、神にとって本質的な目的とはいえないであろう。そもそも完全な存在である神に目的というものは必要ではなく、目的などというものはないといえるし、神の創造の大業といっても、それはいわば神の遊びということになる。しかし、創造の大業すなわち霊的進化が遊びではなく神の本質と関わるとすれば、どのようなことが考えられるであろうか。神を完全な存在とするからその創造の大業も単なる遊びになってしまうのである。では、神とは完全でありかつ不完全な存在であるとした場合はどうであろうか。
完全でありかつ不完全な神とは矛盾した神ということになるが、しかしそのような矛盾としての神の存在が否定さるかといえば必ずしもそうではないであろう。全能の神とは、どのような盾をも貫き通す矛とどんな矛でも貫き通すことができない盾が同時に存在できるという矛盾状態を作り出せる神としたが、全能の神である限り、そして全能でない神は神ではないとすれば、神とは矛盾を含む存在といえる。あるいは、全能の神を否定する話として、神は全能なのだから自分が持ち上げられない石を作り出すことができるであろう、しかし全能なら神はその石を持ち上げることができるはずである、これは矛盾であるから全能の神は存在しないというものがある。しかし、神が矛盾した存在とすれば、全能の神から矛盾が導き出されたとしても、全能の神の否定ということにはならないであろう。神は単なる全能ではなく神は全能であり全能ではないから、すべての石を持ち上げられるし、自分が持ちあげられない石を作ることも出来るわけである。神自身が矛盾した存在、矛盾しているにもかかわらず存在し得る存在なのかもしれない。
神が矛盾存在だとするなら、全能でありかつ全能でない神が存在できるように、完全であり不完全な神という神の存在も考えられるわけである。もっとも、神が不完全であるということはどういうことなのであろうか。完全という状態は一つかもしれないが、不完全という状態は様々な状態がある。神の不完全性とはそのうちのどのような状態なのであろうか。いえることは、おそらく神がそれら総ての不完全状態を含んてはいないだろうということである。完全性が欠けたものがないということなら、不完全性においては欠けたものがなければならないということであり、神が不完全というとき、不完全な神においては総ての不完全状態の内に欠けたものがあるだろうということにもなるからである。その欠けた不完全状態がどのようなものなのか分からないが、神の不完全状態がどのようなものが分からない以上、我々は「神は完全であり不完全である」ということで議論を進めなければならないといえる。総ての不完全状態を列挙しないで議論を進めるなら、そのような議論で進めるしかないであろう。あるいは、神が矛盾した存在であるとは、シルバーバーチは神を地上の言語で説明することは無理であるというが、あえて言語化すれば「完全でありかつ不完全」といった矛盾した言語によって表現されるということなのかもしれない。
神を全能とすると矛盾が生じた。それで神を矛盾存在とすることを考えたわけである。全能でない神は神なのかという別問題はあるが、では神を全能としなければ矛盾はしないのであろうか。石の例では、神の全能性は石を持ち上げる能力と石を造る能力について問題にされた。神が全能であるなら、自分で持ち上げることが出来ない石を造れるだろうということから、石を持ち上げるという点での全能性が否定されたわけである。そこでは、石を持ち上げるという点での全能性と石を造るという点での全能性が両立しないということが示され、神が全能であるとは総ての点で全能であるということであろうから、神の全能性が否定されたわけである。そこで石を持ち上げる能力における全能性とは、総ての石を持ち上げることができるということであった。では、石を造るということにおける全能性とはどのようなものであろうか。その場合の全能性とは自分で持ち上げることができる石も持ち上げられない石も造れるということであろう。
そうすると、石を持ち上げる能力において全能ではないということは、持ち上げられない石もあるということであろう。さらに神は全能ではないとしても、少なくとも神である以上人間並みかそれ以上の能力はあるということであろうから、神が全能ではないということは持ち上げられる石もあれば、持ち上げられない石もあるということになる。一方、石を造る能力において全能ではないということは、自分で持ち上げることが出来る石も持ち上げられない石も造れるということの否定ということになり、全能ではないということは持ち上げられる石しか造れないか、持ち上げられない石しか造れないかである。あるいは石そのものを造れないということも考えられるが、この場合は問題が少しずれてくる。石そのものを造れないということは、現実に在る石は神が造ったものではないし、神とは関係なく存在しているということになり、この場合はそもそも石を持ち上げる能力と石を造る能力の関係そのものが存在しないわけで、そこで問題になるのは単に石を持ち上げられるか持ち上げられないかという、神の石を持ち上げる能力だけであり、石を持ち上げる能力と石を造る能力の間に矛盾があるかどうかという問題も生じない。あるいは、石そのものを造ることが出来るかどうかという能力の問題に対し、ここでは神に石を造る能力を認めた上で、どのような石を造れるかという能力を問題にしているのだともいえる。
総ての石が神によって造られたとしよう。そうすると、石を造る能力において神が全能ではないということは、総ての石が神によって持ち上げられる石か、持ち上げられない石のどちらかということになる。この場合、全能でない神には持ち上げれる石も持ち上げられない石もなければならないのであるから、どちらにしても石を持ち上げる能力において神は全能ではないということと矛盾することになる。神が全能ではないとしても、矛盾が生じる場合があるわけである。
神が全能ではないという場合、石を持ち上げる能力においても石を造る能力においても全能でない場合もあるが、どちらかは全能であるがもう一つは全能ではないという場合も、神は全能ではないといえよう。石を持ち上げる能力において全能ではあるが、石を造る能力において全能ではないという場合、もし神の作った石が全て神の持ち上げれる石であった場合にはそこに矛盾は生じないが、持ち上げられない石しか造れなかった場合には矛盾か生じる。石を持ち上げる能力において全能ではないが、石を造る能力において全能の場合は、神は持ち上げれる石もあれば持ち上げられない石もあり、また神の作った石には神が持ち上げられる石もあれば持ち上げられない石もあるから、そこには矛盾は生じない。
石を持ち上げる能力おいても石を造る能力においても全能ではない場合、そこに矛盾が生じないようにするためには、必要条件として神が造ったものではない石が存在しなければならないであろう。この場合、宇宙の総ては神によって創造された被造物であるという創造神は否定されるわけであるが、神は全能ではないのであるから創造神でなくてもいいともいえる。また、神以外の石を造れる存在に対し石を造らせない能力で神が全能とは、総ての石を造れる存在に石を造らせないことが出来るということであるとすれば、その点で神が全能でないなら神が造ったものではない石が存在するということになり、その能力をも含めて神が全能ではないとするならそこに矛盾は存在しないということになる。では、スピリチュアリズムの神が矛盾した存在ではないとした場合、総ての石を持ち上げれるという点では全能であるが持ち上げられる石しか造れないという意味では全能ではない神なのか、石を造るという点では全能であるが石を持ち上げるという点では全能ではない神なのか、総ての石を持ち上げることが出来るわけでもないし、総ての石を造り出したわけではない神なのか、どの神なのであろうか。
スピリチュアリズムにおける無限存在としての神
完全性は永遠に達成できないというシルバーバーチに、「完全を目指しての絶え間ない努力の連続であるとおっしゃるのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。」という質問がなされた。また、質問者の二重性の原理について「ところで、あなたは“二重性”という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。」とシルバーバーチが問い返したことに対して、質問者は「対照性の原理のことです」と答え、それに対してシルバーバーチは「私のいう“両極性”のことですね。」と確認している。質問者の「完全性が二重性の一面」というのは、神は矛盾存在ではないかと言い直すことが出来よう。完全性が二重性の一面ならもう一つの一面は不完全性ということになる。神は矛盾存在として二重性を持ち、その二重性とは完全であり不完全であるということであり、神は不完全でもあるから完全を目指すということにもなる。それに対してシルバーバーチは改めて「“完全”というものは、その本質ゆえに達成できません。“これが完全です”という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。完全とは無限に続く過程です。」と答えている。「完全とは無限に続く過程です」ということは、完全とは不完全のことですと言っているわけである。あるいは、無限に続く過程を不完全とするなら、不完全でありながら完全ですと言っていることになる。質問者のように神が完全性と不完全性という二重存在、即ち神は完全でありかつ不完全であるとしても、シルバーバーチのように神の完全とは不完全であり、不完全でありながら完全であるとしても、神が矛盾存在ということになるわけである。
質問者は二重性という言葉を二重の意味で使っているともいえる。質問者は二重性の原理を超えたところの別の意識の界層ないし状態も問題にしているのであり、それは完全性と不完全性という矛盾における矛盾する二つの要素という意味での二重性とは別に、神とは霊的進化の矛盾性を超えた存在ではないのかとシルバーバーチに問うているわけであり、矛盾とその超越という二重性も問題にしているといえる。それに対して、「完全とは無限に続く過程です。」とシルバーバーチが言うとき、即ち完全とは不完全であり、不完全でありながら完全であると言うとき、矛盾を超えた神というものを否定して、神は矛盾そのものであると言っているのではないだろうか。
シルバーバーチは神は善と悪の双方に宿るという言い方をしていたが、ここで問題にされているのは善と悪であり、その善と悪に神が宿るということは、善悪を超越した存在である神は善にも悪にも宿るともいえるといった間接的なことではなく、もっと直接的なことであり、この場合、神が善と悪の双方に宿るという言い方は神が善悪を超越した存在ではなく、善と悪という矛盾そのもののの中に神が存在しているということ、神とは善でもあり悪でもある矛盾存在と言っているといえるのである。このことからも、シルバーバーチが神を矛盾した存在と捉えていることは必ずしも否定されないであろう。それに対して、マイヤーズは神は善でもなければ悪でもないというが、必ずしもマイヤーズとシルバーバーチが異なることを言っているとは言い切れない。神が善でありかつ悪であるということは、神が善である、すなわち善そのものであるということとは異なるし、同様のことは悪についても言えるから、神は善でも悪でもないということにもなるわけである。あるいは、マイヤーズは神は善悪を超越した存在だと言い、シルバーバーチは神は善悪を離れて存在していない、すなわち善悪を超越した存在ではないと言っているとすれば、そこに矛盾があるともいえるが、神が矛盾そのものとしての矛盾した存在であれば、別にその矛盾が何か問題になるわけではないともいえるわけである。
第二項 完全性と不完全性の統合
神を完全性と不完全性という矛盾を超越した存在としてではなく、完全でありかつ完全ではないという矛盾存在として考えるなら、その完全性と不完全性、完全な側面と不完全な側面を、完全な神と不完全な神として表現するなら、完全な神と不完全な神を分離することはできず、神はあくまでも完全な神と不完全な神が重なって一つの神として存在しているということでもある。そして、この統合の中で完全な神と不完全な神が相互浸透していると考えることも出来る。すなわち、不完全性の中に完全性があり、完全性の中に不完全性があるということであり、それらを含めた完全性と不完全性が重なって一つになったのが神とも考えることができる。
不完全の中の完全性と霊的進化
完全性と不完全性が重なって一つになった神とは、不完全な神の中に完全な神が入り込み、完全な神の中に不完全な神が入り込んでくるということであるとすると、不完全な神の中の完全な神の要素とは、不完全な神は完全ではなく、といって不完全な神と完全な神は完全に分離してもいないとすれば、不完全な神の中の完全な神とは不完全な神の中での一つの目標とでもいうことになるのではないだろうか。不完全な神とは完全を目指す神だとすれば、そこに完全な神の要素があり、また完全な神と不完全な神がまったくの分離状態にもないということができる。神を完全でありかつ不完全とすると、そこに完全な神を目指す霊的進化という要素も出て来るわけである。これは、神を創造神というような言葉で示される能動的存在として考えると、その能動性が霊的進化という形で現れるということかもしれない。そして、完全を求める不完全な神が完全になるとすれば、そこには不完全性が無くなり、神は完全であると同時に不完全な存在ではなく、単に完全な存在ということになってしまうだろうから、完全な神を目標として霊的進化は完全を目指すが、完全には到達しない、すなわちな完全な神にはならないし、なる必要もないといえるわけである。完全であり不完全である神における不完全性とは、完全を求めながら完全は得られないという不完全性ということになり、終りの無い霊的進化とはその不完全性のことともいえるわけである。
創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうかという問いに、「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。」とシルバーバーチが答えたのを受けての、ということは大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうかという再質問に、シルバーバーチは「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているいるからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです。」と答えているが、「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。」という顕現している部分とは、不完全な神における霊的進化の諸段階の事なのかもしれない。
神の視点からいえば、不完全な神の中での霊的進化が完全を目指す終りの無いものであったとしても、それは創造的無への固定化ではないであろう。神はすでに完全でもあるからである。自己放棄ということでいえば、終りの無い霊的進化だからといって、それは自己放棄に繋がらないということである。また不完全な神という視点で考えても、終りの無い霊的進化は自己放棄には繋がらないであろう。不完全な神にとっては不完全であるということが自己なのであるから、霊的進化に終わりが無いとしても、それは自分自身の在り方であって、自分が自分として在る以上自己放棄ということにはならないわけである。
完全性の中の不完全性
では、完全な神の中の不完全性についてはどういうことが考えられるであろうか。完全な神の中の不完全な神の要素もその中にさらに完全な神の要素を含むという入れ子状態にあるとすれば、完全な神の中の不完全性もまた完全性を指向するとみなせる。ただ、それは不完全な神における完全性への指向とは異なるものがなければならないであろうし、それが完全性の中の完全性指向ということであるから、不完全な神における完全性指向が完全性に到達できないものであったのに対して、完全な神の中の完全性指向は完全性に到達できるものでなけばならない。すなわち、完全であり完全ではない矛盾存在としての神における不完全性は完全性指向、すなわち霊的進化として顕れるということであり、その霊的進化は神の不完全な側面、不完全な神においては完成を目指しながら完成に至らない霊的進化としてあり、完全性の側面、完全な神においては完成を目指し完成に至るものとしてあるということである。
そして神の完全性の側面、完全な神においては、霊的進化は完全性の中での完全性指向、すなわち最初から完全な中での霊的進化であるから、完全に到達できるというだけでなく到達しているということになる。完全な神の中での霊的進化は指向と到達が同時に存在する同時存在的な霊的進化である。
不完全性における霊的進化と経時性
では不完全な神における霊的進化もまた同時存在的なものなのであろうか。完全を指向し、完全に近づくものとしての霊的進化は段階性を持つものでなければならないであろう。完全な神における段階性は経時的なものではなく同時存在的なものだったわけである。それは総ての段階が書かれた一枚の紙のようなものともいえるし、あるいは完全な神がその諸段階を経て最初の完全な神になるのであるから一つの円上にある諸段階であり、霊的進化が同時存在的とはその円上の諸段階を動くのではなくその円自身が回転するようなものかもしれない。もしその円しかないならその円の回転は何も回転していないともいえるわけである。
完全な神の諸段階と不完全な神の諸段階について考えてみる。不完全な神における諸段階は、完全な神に組み込まれた不完全な神の諸段階でもあるのであるから、完全な神の諸段階と不完全な神の諸段階の違いは、完全な神には不完全な神の諸段階に完全になるという段階が付け加えられただけということになる。言える事は、完全な神における霊的進化には神に成るという段階があり、不完全な神における霊的進化にはその段階がないということである。神に成るという段階があり且つ最初から完全な神であるということが完全な神における霊的進化を同時存在的なものにするのだとすると、不完全な神における霊的進化はその両方とも欠けているから同時存在的ではないということになる。完全な神における諸段階が同時存在的なのであれば、それから神に成るという段階を取り除いた諸段階も同時存在的ということになるのではないかとも考えられるが、完全な神において諸段階が同時存在的なのは最初から完全な神でもあるからであり、不完全な神にはその条件が欠けるから、不完全な神における諸段階は同時存在的ではないということになるわけである。諸段階が同時に存在していないとするなら、それは諸段階が別々の時間に存在していることであろう。そして、その諸段階が完全に向かう順序で並べられてもいるとすれば、不完全な神における霊的進化は経時的ということになる。
「完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。」とシルバーバーチは言う。この不完全性も完全の種子を宿しており、完全は不完全から生まれるという言葉は、完全な神における霊的進化の諸段階と不完全な神における霊的進化の諸段階は完全になるという段階を除いては同じものであり、不完全な神における霊的進化の諸段階は完全性に向かっているものであり、完全な神の霊的進化の諸段階はその霊的進化が完全な段階にまで達しているということを言っているのではないだろうか。不完全な神における霊的進化の諸段階は完全を目指しているのであるから、不完全も完全の種子を宿しているともいえるし、完全な神における完全とは不完全な神の霊的進化の諸段階を経て完全になるということでもあるとすれば、完全は不完全から生まれるということにもなる。完全は完全から生まれるのではないということは、完全な神における完全性は単に最初からある完全性だけではないということを強調する言葉と理解できる。
神が矛盾存在であるように、我々も神の内に在りかつ神の外に在るという矛盾した存在としてあるということになるかもしれない。その場合も人間には神の外部的側面があり、その外部的側面が神に対して自立しているということである。不変であり不変ではないという矛盾存在としての神における霊的進化は同時存在的でありかつ経時的なものであり、人間の霊的進化とは神の不完全な側面、不完全な神の経時的霊的進化が顕現したものであるとすれば、神の外部存在である霊的進化の主体としての自我とはあくまでも不完全な神においていえることということになる。また我々が神の内に在りかつ神の外に在るように、不完全な神は完全な神の内に在りかつ神の外に在るということなのかもしれない。不完全な神とはその完全な神に成るという段階のみが欠けた霊的進化の諸段階のことであり、その諸段階は完全な神にも存在しているとすると、不完全な神は完全な神に内包されているともいえる。一方、矛盾存在としての神とは完全な神であり且つ不完全な神であるとすると、不完全な神は完全な神に対置される、完全な神から自立した存在であり、外部的存在ということになり、不完全な神は完全な神の内部存在であり且つ外部存在ということになる。また、不完全な神、すなわちその霊的進化の諸段階が完全な神の内部にも存在しているということは、完全な神の内部でも我々の霊的進化の総ては生じているともいえるわけである。
第三項 時間における同時存在性と経時性の二面性】
矛盾存在としての神における霊的進化とは同時存在的でありかつ経時的であるという二面性を持つものといえるが、この同時存在性・経時性という二面性はスピリチュアリズムにおける時間についてもいえる。
時間について、シルバーバーチは「私たちの世界の太陽は昇ったり沈んだりしませんから、夜と昼の区別はありません。従ってそれを基準にした時間はありませんが、事物が発生し進行するに要する時間はあります。」と地上の時間と霊界の時間を区別したうえで、何らかの変化が生じる時、つまり出来ごとの発生する順序はある種の時間が必要だが、その計り方は物的なものではないわけですね、という質問に「あなたがおしゃっているのは時間ではありません。時間の経過の計り方です。それは地上とは大いに異なります。」と答えており、単に霊界と地上の時間の計り方の違いだけではなく、時間と時間の経過の計り方とを別のものとして区別している。シルバーバーチの言葉でいうと、霊界では事物が発生し進行するその順序そのもの、霊的進化でいえば霊性の高まり、霊格の高まりという変化そのものが時間の経過であり、時間の計り方といえるわけである。では、時間の計り方とは区別される「時間」とはどのようなものなのであろうか。
時間についてシルバーバーチは「時間は永遠の現在です。過去でも未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転しつづける一個の円だと思ってください。今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところをあなたは過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。」と説明し、時間とは過去でも未来でもなく永遠の現在であり、一個の円のようなものであると言う。この場合の円とは、経時的なものではなく存在的なものであろう。最もその円も回転しているといい、その回転とは何を意味するのかという問題があるが、時間の流れである経時的時間と存在的時間が区別され、その二重性の中で霊的進化が捉えられているわけである。
シルバーバーチは、「大霊は無限です。ですから創造の過程も永遠に続きます。不完全から完全へ、未熟から成熟へ向けて、無数の進化の階梯を通りながら千変万化の表現の中を進化していきます。それには時間というものはありません。初めもなく終りもありません。無限だからです。」ともいう。では、時間すなわち円の中で霊的進化が辿る経過はどのようになっているのであろうか。円のある点を次々と触ることによって経時的霊的進化の流れがあるのであるから、霊的進化が辿る諸段階が円の中では同時的・存在的に在るということになる。このスピリチュアリズムにおける流れていく時間と存在的・非経時的な時間、経時的に神へと向かう諸段階と同時存在的な諸段階、この二重性は矛盾存在としての神の完全性指向、すなわち不完全な神の中における霊的進化と完全な神の中での霊的進化の、霊的進化の二重性に対応しているともいえる。
第四項 矛盾存在としての神と外部性
内なる外部性と霊
あるいは、矛盾存在としての神はその内部に外部性を秘めた存在であり、その内なる外部性が霊なのかもしれない。そして、その霊が神の創造の大業によって外化したのが被造物ということなのかもしれない。霊はすべての存在物を形成する基本的素材であったが、神の内部の外部性が霊であり、その外化が神による被造物の創造であり、すべての存在物が神によって創造されたとすると、ある意味霊はすべての存在物の基本的素材ともいえるわけである。シルバーバーチは「霊も肉体も大霊の僕」と言うが、神の内なる外部性としての霊は神の僕ではないか、あるいは僕という部分もあるとしてもそのことを敢えて言う必要もないであろうが、それが外化したとき霊は神の僕あるいは僕であることが強調されることになるのだともいえる。また、神の内なる外部性としての霊とは、神の不完全な側面のことかもしれない。そうすると、霊自身が霊的進化の契機を持っていることになり、それが外化した時には「地上界、霊界、宇宙のあらゆる世界におけるエネルギー、原動力、駆動力はその霊なのです。」ということにもなるであろう。また、神の内なる同時存在的な霊的進化が霊の外化とともに経時的な霊的進化になると考えると、経時的な霊的進化の中に自分が存在しているということは、同時存在的な霊的進化の中にも自分が存在しているということであり、そのような自分が「霊としてのあなた」であるとすれば、無始無終の存在ということにもなる。もっともこの場合、神は内なる外部性をどうして外化したのかという問題は残る。
摂理の外部性
シルバーバーチは「目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。」と言う一方、「私にとって神とは永遠不変にして全智全能の摂理としての宇宙の大霊です。」という言い方もする。後者の言い方からすれば、神とは摂理であるということにもなるが、私たちが忠誠を捧げるのは「宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です」とも言っており、それからいえば摂理とは例えば神の属性のようなものであって摂理が神そのものであるともいえなくなり、神は摂理であるという言い方は、摂理が神であるということではなく、摂理が神であるとも言えるぐらい重要なものだということであろう。シルバーバーチは「神は完全なる公正です。神の叡智は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。」という言い方もしている。その言葉からいえば、我々には神は摂理として顕れ、我々は摂理を通して神を知るわけである。
摂理とは神が考案したものであり、それは考案することによって存在することになった、始まりのあるものということになる。すなわち、摂理は神と密接不可分、必要不可欠なものとしての神の一部分、神の内なるものなのではなく、その意味では神と切り離すことも可能なものとして神の外部的存在ということになるわけである。しかしその外部的存在としての摂理が、なぜ神と並ぶほど重要なのかといえば、我々にとって一番重要な霊的進化が摂理によってもたらされ、摂理の支配下にあるからである。「進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです。」といわれ、シルバーバーチによると摂理が霊的進化をもたらすのであり、「宇宙の大霊が無限の愛と叡智をもって摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。それは一歩一歩の進化という形で働く」のであって、霊的進化は摂理の支配下にあるのである。もっとも、摂理が霊的進化をもたらすというのは少し違うのかもしれない。神とは摂理であるとか、摂理が霊的進化をもたらすという言い方は、摂理と神や霊的進化との微妙な関係を表現しているとみるべきであろう。
あるいは摂理とは矛盾としての神における霊的進化の諸段階そのもののことなのかもしれない。その諸段階は神へと向かうものであり、不完全な神においては神にはなれないが完全な神においては神にまで到達するものである。もしそうなら、摂理とは神によって考案されたものではなく神の在り方そのものともいえるし、始まりのないものともいうことになる。
「摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。」、「宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。」といわれ、ある意味神さえも摂理の内にあるともいえる。では、神さえも摂理の内に在るということはどういうことなのであろうか。神における霊的進化は段階的なものであり、その段階性は経時的であるとともに同時存在的なものでもあるとすれば、同時存在的なものであることによってその段階的過程は確定されたものとしてあるし、確定されたものである以上、神はその霊的進化の道から外れることは出来ないともいえる。その霊的進化の過程あるいは道そのものが摂理だとすれば、摂理が神における霊的進化の在り方であり、神は摂理の枠を外れることは出来ないともいえるわけである。また、「摂理は完全であり、自動的に作用します。誰一人として摂理を避けて通ることはできません。自由意志でさえ摂理の一環なのです。」と言われ、「あなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。その一つ一つが自動的に働くからです。」ということは、我々の霊的進化とは神の霊的進化の外化、この場合は不完全な神の霊的進化の外化ということなのではないだろうか。それ故、摂理は霊的進化をもたらし、さらにその霊的進化を支配することによって、自由意思があるにもかかわらず結局は霊的進化がその目標である神に自動的に向かうことになるわけである。
神の内なる霊的進化が完全性へと向かうものだとすると、その霊的進化の仕掛けには不完全な神、神の不完全な側面に浸入・浸透してきた完全な神、神の完全性が関わっているということであろう。不完全な神、神の不完全な側面だけでは、霊的進化が完全性へ向かうための完全性が欠如しているのであるから、当然その霊的進化が完全性へ向かうものとするには不十分だろうからである。神の内なる霊的進化の外化が摂理だとすると、摂理には神の完全性、神の不完全な側面への完全性の浸透も含まれており、神の内なる霊的進化には神の完全性が反映されているわけであり、摂理は完全であり、その完全な摂理によって神の叡智の完全性がいえるということにもなる。神が完全でありかつ完全ではないという矛盾存在であり、神の不完全性の中に完全性が入りこんでくるとすれば、神の完全な心である完璧な摂理とは、不完全性の中の神の完全性ということになり、霊的進化を摂理が支配しているとすれば、霊的進化は完全性へと必然的に向って行くわけである。ただ、霊的進化が神の完全性に向うものであっても、それが終りのない進化であることによって、霊的進化が神の完全性を実現することはないし、不完全なままに永遠の霊的進化を続けるということにもなる。
ただ、自由意思も最終的には摂理に還元されるものだとしても、自由意思を行使する存在にとって自由意思があるということは、その限りにおいてその存在には主体性があるということもできる。また、霊的進化は矛盾存在としての神そのものの在り方であるとしても、その矛盾存在としての神の中には完全な神として霊的進化を無意味なもの、単なる遊びとする要素もあるのであり、それに対して被造物にとっては霊的進化こそすべてであるとすれば、被造物にとって霊的進化は自己存在にとって決定的に重要なものであり、その意味で霊的進化において被造物こそその主体であるともいえるのではないだろうか。
摂理と神における外化の必要性
摂理が神内部の霊的進化の反映だとすると、我々にとって他者への奉仕が霊的進化をもたらすということは、神にとってもそうだということになり、神にとっても他者は必要だということになる。しかし、神しか存在しないとすれば、その他者は何処にいるのであろうか。神は他者、神ではない存在を創り出す必要があったといえる。あるいは、我々内部の霊性・神性が汲めども尽きぬ光や愛となって外へ外へと溢れ出すものだとすれば、神の光や愛もまたそのような外へ向かうものということであろう。神はその内部に外へと向かおうとする何らかの流れあるいは力を持っていたのである。しかし、神のみが存在するのだとすれば、神は自己の外部をもたないことになり、その外に向かおうとする流れあるいは力はその行き場がないことになる。そうすると神は自分自身でその外部を造るしかないともいえる。そのようにして神の外部として造られた神の被造物が宇宙であり、我々なのかもしれない。もしそうだとすると、神の被造物はあくまでも神が自己の外部を必要とするから創造されたのであり、我々は神の外部として止まらなければならず、被造物の神との合一はありえないということになるわけである。神の愛と叡智が我々を霊的進化を通じて神に向かう存在として創造したとしても、神は我々被造物を終りのない霊的進化をし続けるものとして創造するしかなかったし、我々はその霊的進化を永遠に続けざるをえないわけである。
神の内部における霊的進化が他者への奉仕という神の外部に向かうものとしてどうしてあるのであろうか。矛盾存在としての神を考えると、神には外部は無いしかつ神の外部は存在する、ということもいえるかもしれない。そのような神においては、その霊的進化が何らかの外部性と関わるものとしてあるということはありえるであろうし、他者への奉仕がその外部性との関りということになるかもしれない。あるいは、神は神であり神ではないということなのかもしれない。そうすると、その神ではないという部分は神の外部ということになるが、神は神であり神ではないということはその外部もまた神であるともいえる。神でない部分そのものが神であり神ではないということでもあるが、どちらにしてもそこには神ではないという部分があり、そこに外部性が出てくるわけである。そしてその外部性はまた神ということになり、結局神の霊的進化において外部に向うということは、神に向かうということになるわけである。
第五項 神の矛盾性と螺旋
シルバーバーチは神を地上の言語で説明することは無理であると言い、続けてそれは創造の本質に関わることであり、「神とは完全な心――初めも終りもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。真っ暗だったところへある日突然光が射し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終りもありません。」と述べる。時間としての円に触れていくものは何かといえば、それは我々であり、生命ということであろう。生命の運動とは霊的進化であり、生命の運動が円運動ということは生命の霊的進化が円運動ということになる。霊的進化の経時性と同時存在性の二重性は円運動と存在(図形)としての円の二重性ともいえるわけである。生命の円運動についてさらにシルバーバーチは「この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。」ともいい、生命の運動とは螺旋運動でもある。この場合、霊的進化を質的なものとするなら、絶え間なく増幅していく円運動とは量的な二次元的なものともいえ、生命の霊的進化がその両方が合わさったものとすれば、霊的進化とは三次元的なものであり、神へと向う霊的進化は末広がりの逆円錐的な螺旋運動ということになる。
自己放棄の弁証法的展開というものはスピリチュアリズムにおいても成立するのであろうか。本論では人間の目的という単純で、しかも無視できないところから出発している。人間は何かを求めているのであり、それを創造の情熱という言葉で表現した。そして、人間は何かを求めているがそれが何か分からない状態にあるのであり、それを創造的無という言葉で表現した。もっとも、創造の情熱、創造的無ということ自体が一つの仮説でしかないが、それは根源的な問題についての仮説といえるであろうし、単純な仮説ともいえるわけである。自己放棄の弁証法的展開はその単純な仮説である創造的無ということとを根底においているものの、創造的無から必然的に導き出されるものではなく、それ自体がシュテイルナーの歴史観に啓発されたものであり、自分なりのに発展させた人間の歴史に対する一つの見方、歴史観における一つの仮説にすぎない。
人間にはある決定的な目的があるということでは本論とスピリチュアリズムでは一致している。ただ、スピリチュアリズムでは人間の目的は霊的進化であるとより明確化されている。もっとも、霊的進化に対して地上の人間が無明の中に生きているともされているのであり、そうすると創造の情熱とは霊的進化のことであり、創造的無とは無明の中にいる人間のことであると看做すことも可能であり、その範囲で創造的無を自我の本質とする本論の立場とスピリチュアリズムは一致しているともいえるわけである。ただ、そのことをもって自己放棄の弁証法的展開というものはスピリチュアリズムにおいても考えられるというとにはならないし、何よりもスピリチュアリズムにおいても過渡期的なものが考えられるかどうかが問題になる。そして、過渡期的なものが考えられる為には、スピリチュアリズムにおいても人間に本質の変化のような変化がいえなければならない。
第一項 動物から人間への変化と本質的変化
シルバーバーチによる動物と人間の違い
シルバーバーチは人類による最大の発見は何だと思われますかという問に、「私の考えでは、人類による最大の発見は人間が動物とは違うこと(霊長類であること)を知ったこと、自我意識というものがあることを知ったこと、霊性を自覚したこと、お粗末とはいえ身のまわりの現象について知る能力があることを知ったことです。それが他のすべての発見へとつながったからです。いま“霊性を自覚したこと”と言いましたが、その意味は、人間が肉体以上の存在であること、物質を超えた存在であること、やがて朽ちはてて、土に帰っていく物質的容器とは違う存在であることを知ったということです。私はこれが何よりも大きな発見であると思います。」と答えており、人間と動物には大きな違いがあるという。人類による最大の発見というのであるから、その違いとは質的な違いといってもいいような違いといえるかもしれない。ただここで括弧霊長類とあるが、おそらくそれは編集者が付け加えたものでシルバーバーチ自身の言葉ではないであろう。何故なら、シルバーバーチが言っていることは人間と動物の違いであって、人間と他のサル類を含めた霊長類と動物の違いではないと理解すべきだからである。シルバーバーチによれば「チンパンジーは霊的進化の視点から見れば落第生とでもいえる存在であり、犬や猫の方が霊的に進化した存在であるという。
では、この質的違いは本質的違いといえるのであろうか。シルバーバーチは私たちの使命は霊的使命なのですと言った後、「人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。」と続けている。ここで「人間は動物ではなく一人ひとりが神である」ということは、人間が動物と違うということが人間が神であるということと結びつけられているということであり、これは人間と動物には何か決定的な違いがあるということを示しているのではないだろうか。もっともそのすぐ後では「同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っている」と動物にも人間と同じ神性が宿っているとされるのであるが、しかしそうであるとしても、人間と動物の違いが人間が神であるということと結びつけて語られていることも事実であり、動物と人間には同じ神性が宿っているとされる中で、人間と動物の区別として改めて人間が神であるということが強調されているともいえ、そこに神が持ち出されていることから動物と人間にはある種の本質的な違いとでもいえるものが在るということを示しているともいえる。
一方、「あなた方人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物に枝分かれし、どの段階で人間に枝分かれするかは、誰にも断定はできません。」ともシルバーバーチは言う。人間の霊性と動物の霊性の違いは程度の差であり、本質的違いはないというわけである。しかし程度の差ということでは、神と人間のあいだでも、その神性に本質的違いはなく、発達程度の違いがあるだけと言われた。しかし、神と人間には越えがたい決定的な違いがあるのではないだろうか。同じように、程度の違いしかないといわれる人間と動物の間にも、本質的な違いがあるかもしれないわけである。
霊的進化における人間と動物の違いは、人間が個霊として霊的進化の主体であるのに対して、動物は類魂が霊的進化の主体であるということであろう。シルバーバーチは「動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。」といい、霊的進化を目指しているということでは人間も動物も同じであるが、その霊的進化の主体としての在り方が人間と動物では違うわけであり、この違いも本質的な違いといえるのではないだろうか。霊的進化の様相は多次元的で、神を目指す一本の霊的進化、それを全体的な霊的進化という言葉で表すと、全体的な霊的進化という次元では人間と動物の違いは程度の違いということになるが、その下位の次元では人間的な霊的進化と動物的な霊的進化があり、その二つの霊的進化には質的な違いがあり、その異なる霊的進化の中で霊的進化をしている人間と動物には本質的ともいえる違いがあるということもありえるわけである。
人間と動物の間には本質的な違いともいえる違いがあり、その違いに注目したとき、そこに自己放棄の弁証法的展開が生じる可能性もあるのではないだろうか。とくに、潜在している霊性において人間と動物の間には本質的な差がないとされていることは、逆に人間と動物の表面に出ている部分においては本質的な違いを認めることができるということかもしれない。そうすると、その表面の部分において自己放棄の弁証法的展開が生じる可能性もあるわけである。
動物から人間への霊的進化
人間と動物にはスピリチュアリズム的にも本質的な違いがあるとしても、両者の間に過渡期的なものが在るためには動物から人間へと霊的に進化したということがなければならない。シルバーバーチによれば、霊としての我々は無始無終の存在であるが、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになるということであり、精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まり、それ以後は永遠に個性を具えた存在を維持するということであった。そして「そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」、「新しい霊――はじめて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」という。動物の類魂の中の最も進化した類魂が永遠の個性をもった人間になるというのであるから、動物から人間へという霊的進化が考えられるわけである。猿より犬の方が霊的に進化しているということに関して「人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。」といっているから、人間は猿から人間に進化したのであり、その進化の過程で猿とは本質的に違うともいえる霊的進化もしたのである。
動物は個性を有する段階に達していなというのであるから、動物は類魂として霊的進化をしているのに対して人間は個霊として霊的進化をしており、個霊としての人間にとって霊的進化とは永遠に続くものということになるが、類魂としての動物にとって霊的進化とは人間段階に達するまでのものであり、その意味では人間的な霊的進化とは神を目指す霊的進化であり、動物的な霊的進化は人間を目指す霊的進化といえる。動物から人間に成り、人間に成って神を目指す霊的進化をするとすれば、動物的な霊的進化も最終的には神を目指す霊的進化ともいえるが、それは動物から人間に成ることによってであり、動物の霊的進化そのものは人間を目標とする霊的進化ともいえるわけである。その二つの霊的進化には本質的な違いがあるといえる。
共通性から考える
人間と動物に共通するものがある場合、その共通性が両者の本質的な違いというものを否定するということはないのであろうか。人間と動物の違いとして人間は個霊であり動物は類魂としたが、確かに個霊と類魂ではそこに本質的な違いがあるともいえるかもしれない。ただ、人間は個霊であると同時に類魂でもあるのである。この類魂でもあるということが個霊と類魂の違いとしての人間と動物の本質的違いという溝を埋めてしまうということはないのだろうか。
この場合、自我を一つに纏まった全体、全的単一体として考えるならその本質もそのような全的単一性がいえるであろう。そうすると、人間の本質とは個霊と類魂が一つとなった全的単一体ということになる。そして、その全的単一体としての本質の中では個霊と類魂は一体となっていて類魂だけを取り出すことは出来ないし、したがってその類魂部分と動物の類魂に共通性を見ることそのこと自体が無意味なこととなるわけである。ただ、人間を個霊であり類魂であるというとき、そこでは個霊と類魂が全的単一体をなしているとは言えないであろう。あくまでも個霊としての私がいて、もう一人の類魂としての私もいるのであり、その二つの私は一人の私なのである。それは、個霊と類魂が全的単一体をなしているということとは異なる。もっとも、類魂もまた私ということは霊界においていえることであり、地上での人間を考えると、地上における人間では類魂としての私という意識は消えてしまい個的存在として自分を意識するわけであり、それが地上における人間の在り方であるとすれば、単純に人間は個的存在であり動物は類魂ということになり、地上では共通性としての類魂は無視できるといえる。
しかし、スピリチュアリズム的に人間と動物を考えるとき、単に地上を問題にするわけにはいかない。何故なら、受精卵に霊の分子が融合し、その瞬間から永遠に個性を具えた存在となるということは、地上において個霊としての人間に成るということであるが、しかしそれは同度に人間に成る前の動物の類魂は霊界にいるということになり、地上の事だけを考えるわけにはいかないのである。そして、霊界を含めて人間と動物を考えると類魂の共通性を問題にできるということになるが、その場合、人間における類魂と動物の類魂とは同じ類魂なのかという問題がある。
この問題は、霊的進化と密接に関係している。何故なら、動物の霊的進化が人間を目指しているという場合、その場合の動物とは類魂としての動物だったわけである。それに対して、人間の霊的進化が神を目指すというとき、その時の人間は個霊であると同時に類魂としての私でもあった。このことからいえば、類魂である動物は人間を目指し、人間の類魂は神を目指すということで、人間と動物の類魂には共通性がないともいえるわけである。あるいは、類魂である動物も間接的には神を目指しているといえるかもしれないが、それでも間接的と直接的という違いがあり、その点では共通性がないといえよう。
ただ、マイヤーズによれば、類魂は一つの中心霊・本霊の下にあるのであり、本霊は生命と心の光によってそれの所属する植物、樹木、花、昆虫、魚、獣、人間など、進化の様々な状態にある生物を養っているとされた。そうすると、中心霊・本霊の下にある動物の類魂が人間に成るとした場合、当然その人間は同じ中心霊・本霊の下にあることになるであろう。そうすると、同じ類魂に属するという意味で共通性を持つのではないだろうか。ただ、この場合も人間が類魂でもあるという場合の類魂と、動物は類魂であるという場合の類魂には違いがあるともいえる。人間が類魂でもあるという場合の類魂とは、一つの中心霊・本霊の下にある類魂そのものの事であるといえる。そして人間はその類魂に吸収されてしまうことはないし、当然その類魂が人間に吸収されてしまうこともない。しかし、動物の類魂の中の最も進化した類魂が人間になるということは、動物の一つの類魂、あるいは幾つかの類魂が集まって一人の人間になっていくということであろう。それは、動物が類魂であるという場合の類魂とは、人間の中に消滅してしまう、あるいは人間に吸収されてしまう類魂ということになり、それは動物が属する類魂に吸収されてしまう類魂ということにもなるわけである。
また、シルバーバーチによれば、動物の場合は同じ動物に何回も生まれるのではなく、それぞれ一度ずつ生まれ、類魂全体のために体験を持ち帰るのであり、種属全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しているとされた。そうすると、動物は種族全体の類魂にも属している類魂なわけであるが、人間に種属全体としての類魂があるのかということもある。もし、人間には種族全体としての類魂がないとすれば、その意味でも人間の類魂と動物の類魂は区別されるべきものとしてあることになる。
自己放棄の弁証法的展開を考えるなら、それは地上においていえることなのであり、その意味で地上の人間だけを考えればいいといえる。そうすると、地上の人間に顕現しているのは個霊・個我の部分であり類魂の部分は潜在化しているともいえ、地上の人間だけを考えれば人間とは個霊であるといえるし、類魂である動物との間に本質的な違いを見ることもができる。類魂もまた私ということはあくまでも潜在的にいえることであり、間接的には地上の人間に影響を与えているかもしれないが、直接的なことではないということである。
人間における無明と霊的有としての動物
人間と動物における霊的進化には、人間は無明の中に在り霊的無としてあるのに、動物は霊的有といえるような状態にあるともいえる。霊的進化との関係で個霊と類魂を見ると、無明という言葉は類魂には相応しくないのではないだろうか。人間には個我が有り、動物には無いということは、人間には自我意識が有るが動物には無いということになる。また、シルバーバーチが人間と動物には大きな違いが在ると述べた個所で霊性の自覚も指摘しているが、無明の中での人間においては霊性の自覚はないのであるから、霊性の自覚は人間と動物の違いとはいえないが、自我意識については無明の中の人間にもあるといえるであろう。そして、自我意識についての違いは自由意思をめぐる違いと考えることができる。この場合の自由意思とは、シルバーバーチによれば「そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇がちがいます。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。」、「動物と人間とは、その属する範疇が違うのです。人間には正しい選択をする責任が与えられているという点において、“自由意志”の行使が許されているということです。」ということで、正しい選択をするかしないかという、霊的選択における自由意思である。人間には自由意志の中で正しい選択をする責任が負わされており、そこにおいて動物の霊と人間の霊とでは範疇が違うということになるわけである。動物に自由意思が無いのに対して人間にはあるわけである。犬が猿を霊的に追い越したことについて、シルバーバーチは「長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が後れたのです。それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種属が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。」と行った後に、猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか、という問いに「それは違います。自由意志は個的存在のもんだいですが、動物の場合は類魂全体としてのもんだいだからです。」と答えているが、自由意志があるかどうかという問題は個的存在か類魂的存在かという違いでもあるといえる。
自由意志があるから人間は正しい選択をする責任が負わされ、動物には自由意志がないのだとすれば、動物は正しい選択をすることを迫られることはないということであり、無明にあるということは正しい選択をするかどうかを絶えず迫られていることだとすれば、動物は無明状態にはないということになる。ということは、動物はその生存中にその置かれた立場に見合った霊的進化を成し遂げている存在なのだともいえないだろうか。「動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされている」とシルバーバーチは言うが、本能によって大部分が動かされているにもかかわらず、動物は動物なりに霊的進化をしているのである。猿ではその霊的進化は歩みを止めたといわれるぐらいゆっくりしたものであり、犬は急速に進化したという違いはあるが、動物は彼らなりの霊的進化をしているわけであり、それは動物として生きているというそのことが、そのままその霊的進化に繋がっているといった方がいいのではないだろうか。動物と人間でいえば、無明の中で生きる人間は霊的無あるいは創造的無状態にあるのに対して、動物は霊的有あるいは創造的有状態にあるともいえる。
人間の類魂についても類魂自体が無明の中で霊的進化しているというよりは、無明の中での経験を持ち帰って共有化されるという類魂では、その無明の中で個々の個霊がしたであろう霊的進化かそのまま表現されている存在なのではないだろうか。すなわち、無明というのは地上での個霊(あるいは地上的な影響のもとに未だある霊界の個霊)に当てはまる状態なのであり、そうすると霊界に戻った個霊には無明という言葉は当てはまらないわけである。
無明の中で人間は選択し、その選択に当っては自由意思があるわけであるが、自由意思が無明を作りだすわけでもない。「魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。」ということなのであるから、もし自由意思が無明を作りだすなら、魂が霊的にに進化すればするほど無明の闇も深くなるということなってしまうことになるからである。
人間と動物における霊的進化には、人間は無明の中に在り霊的無としてあるのに、動物は霊的有とでもいえる状態にあるともいえた。この違いの中で人間における霊的進化と動物における霊的進化は同じものといえるのであろうか。同じものとすれば、動物から人間への霊的進化は霊的有から霊的無への進化ということになる。創造の情熱でいえば、創造的有である動物からから創造的無である人間に進化したということになる。この場合、創造的無から創造的有への進化なら分かるが、創造的有であったものが創造的無になるということは考えづらいであろう。それよりは、動物はあたかも創造的有状態にあるように見えるけれど、人間における霊的進化を創造の情熱とするなら、動物は創造の情熱として存在しているわけではなく、似ているけれど別のものとして存在していると考えるべきなのではないだろうか。ここでも、動物と人間は霊的進化を目指しているといつても、その霊的進化はまったく同じものではなく、そこに違いもあると考えるべきということになる。
霊的無と霊的有それ自体が本質的な違いともいえる。創造的無と創造的有を考えると、そこでは創造の情熱が共通しているが、しかし創造の情熱がその充足を求めている以上、その創造の情熱が充足されるかされないかは天と地ほどの違いがあり、それは決定的な違いともいえ、創造的無と創造的有には本質的な違いがあるといえる。さらにいえば、その目的が同じものか違うものかに関係なく、目的を実現している状態と実現していない状態では天と地ほどの違いがあり、本質的な違いがあるということである。同じように、霊的無と霊的有には本質的な違いがあるといえるのではないだろうか。特にスピリチュアリズムでは、動物と区別された人間が神とされたとき、しかも無明状態にある人間が神とされたとき、神である人間が無明とされるわけであり、その矛盾は霊的進化という共通性の中で人間が霊的無状態であり動物が霊的有状態であるということでは収まらないことであろう。もし人間にも動物にも霊的進化ということをいうなら、その霊的進化そのものの違いということにもなるわけである。
第二項 動物から人間への霊的進化と中間状態
動物から人間へと霊的進化したとして、その霊的進化の中でスピリチュアリズム的に過渡的な時期が考えられるのであろうか。『ベールの彼方の生活』に「各界の中間には一種の境界域があり、そこで融合し合ってひと続きになっている。従ってそこを通過する者は何の不安もない。しかし、互いに接する二つの界にはそれぞれ明確な特徴がある。そしてその境界域はどっちつかずの中間地帯というわけではなく、両界の特質が渾然と融合し合っている。」とある。シルバーバーチも「永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いが重なり合い融合し合っております。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです。」という。霊的進化には前後が重なり合った状態があるとすれば、そのような中間状態は動物から人間への進化においても存在するのではないだろうか。本論の過渡期と違うのは、過渡期は地上的なものであったが、スピリチュアリズム的な中間状態には霊界的なものと地上的なものとがあることである。
霊界における個人的中間状態
シルバーバーチによれば精子と卵子が合体した受精卵と動物の類魂の中の最も進化した類魂が融合し、物質の世界での顕現を開始するときが、意識の始まりであり、永遠に個性を具えた存在、即ち人間の始まりであった。その人間の始まりを考えると、人間は地上において人間に成るのだということになる。そうすると、動物から人間になる中間状態とは地上に誕生する以前になければならないということになり、それは霊界での状態ということになる。その後も人間は何度も地上に再生してくる場合があるわけであるが、その場合も、霊は妊娠中のどの時期に宿るのでしょうかという質問に、「異議を唱える方が多いと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供した時、その時が地上生活の出発点であると申し上げます」と答えており、その都度精子と卵子が合体した瞬間に地上での生活を始めるわけである。
あるいは、中間状態は霊界と地上の中間、霊界でもあり地上的でもある境界にあるというべきなのかもしれないが、地上から見るとそのような状態も広義の霊界に含まれるであろう。中間状態については、中間状態と自立期の間の断絶の他に、霊界にある中間状態と地上という、霊界と地上という断絶が重なるということになる。では、その二重の断絶性の中で中間状態には地上の人間に対する影響力があるのだろうかという問題が生じる。あるいは、霊界から地上に影響を与えることが出来るとしても、地上の人間は霊的ないものを意識することができないのであるから、その影響が地上の人間において何らかの形をとることは出来ないのではないだろうか。ただスピリチュアリズム的には、ホワイト・イーグルは「人類は下降過程の間に、幾多の意識の世界を経て来ています。その間、今日では夢想だに出来ない美と調和の状態で住んでいたことがあります。アトランティス大陸や古代物語の起源はそこにあります。その頃の人間の媒体は軽く精妙で、魂もまたエデンの園にあるように、清らかで喜びに満ちていました。人々は幼児のように神と交わり、天国の記憶をまだ残していました。初め人間は聖の聖なる処、即ち、愛と知と力の子宮より生まれました。その頃の人間の魂は、汚れなく純潔そのものでした。しかし、現在の人間は、自己の弱さを克服し、物質を克服し、最後にすべての物を克服することを運命として担っています。これが地上に生を享けたことの意味です。」と言い、この場合の下降過程とは物質へと向かう下降過程と考えられるが、その中間段階の中での美と調和の状態がアトランティス大陸や古代物語の起源としてあるなら、霊界における中間状態が地上の人間に何らかの影響力を持つことが出来るということはいえるのではないだろうか。ただ、その影響が間接的なものだということは、中間状態が地上において自己放棄の弁証法的展開をもたらすだけの力を持つのかという問題は残る。
地上における社会的中間状態
霊界における中間状態とは一人一人の人間が人間に成るときに起こることであり、今でも動物的類魂から新しく人間として生まれてきた人間に起きていることであって、人類史のある時期に起きたことではない。ただ、人類史のある時期に中間状態ともいえる状態があったことが考えられるのであり、それはまた地上における中間状態であった。
現在においては、最初に人間として生まれてくる場合も人間である両親の子として生まれてくるわけであるが、初期には当然ながら動物の両親の子として生まれてくるわけであり、人間と動物が一つの社会で混在していたといえる。動物の親から動物の子が生まれる、動物の親から人間が子として生まれる、人間の親から人間の子が生まれるという三つの移行時期が考えられ、そのうちの 動物の親から人間が子として生まれる という状態は、動物から人間への変化の中間状態ともいえるわけである。細かに言えば、動物と人間の親から子が生まれるということもありえるわけであるが、それも中間状態に含まれるといえる。動物の親とその子が人間である場合の親子関係を考えると、子に対する動物の親による刷り込み、子の親への同化ということが考えられ、また霊的には類魂であるが肉体的には個体である動物と霊的にも個霊である人間としての個体という、個体どうしが混在した社会の中で人間としての子は育ち、生活するわけである。その結果、無明の中にいながら、一方では動物性が意味をもってくるということになり、その状態は自身の霊界における中間状態の地上における再現とも言え、さらに霊界の中間状態が間接的であれ地上に影響をあたえるとすると、その二つの中間状態が地上において重なるわけである。そうすると、地上の中間状態には自己放棄の弁証法的展開をもたらすだけの力があるかもしれないことになる。
その地上の中間状態は人間である子が増えて行けば社会的なものとなっていくであろうし、人間の親から人間の子が生まれる場合も、その人間の親が動物性を刷り込まれ、また動物の親に同化しているとすれば、その親の動物性がその子にも影響するということで、人間の親と人間の子という場合にも中間状態が再生産されていくことになるから、その再生産は縮小再生産かもしれないが、人間の親から人間の子が生まれるという段階になっても、その社会的中間段階は最初の頃には維持されるともいえる。スピリチュアリズム的な地上の中間期は動物の親から生まれる人間の割合が増えた時期から人間の親からしか生まれなくなった初期の頃、即ち人間の親がまだ刷り込まれた動物性の影響から脱していない頃までといえよう。
第三項 中間状態における自己放棄
人間の霊的進化の中で人間と動物の間に大きな違いか生じてきたわけであり、それは本質的な違いともいえるし、スピリチュアリズムではその間に過渡期とでもいえる中間状態が在ったと考えられる。中間状態においては前本質ともいえる動物は新しい本質において無とされるのではなく、新しい本質にとっても意味があるし、新しい本質によって否定することができないという意味で、それは肯定的な意味を持つ。一種の源初の肯定性がいえるわけである。中間状態については霊界におけるものと地上におけるものとが考えられたが、このことは両方の中間状態においていえることである。
一方、地上における中間状態を考えると、地上においては人間は無明状態に在るともいえるわけである。霊的進化を創造の情熱と看做すなら、無明状態は創造的無ということになる。そうすると、スピリチュアリズム的な地上の中間状態にも、中間状態における動物の肯定性が創造的無と等置される無明状態と重ねられることから生じる自己放棄があるとも考えられる。
では、霊界における中間状態についてはどうなのであろうか。問題は、その場合においても無明状態というものがいえるかどうかということである。無明状態というのが物質と結びつくことによって引き起こされるのだとすると、霊界における中間状態に無明という状態はないことになる。ただ、受精卵という物質と結びつくことによって初めて人間に成るのだとすると、霊界における中間状態は地上的なものではないが、果たして全く物質性と関係ないといえるのだろうか。死んだ後に地縛霊となって地上をさ迷う霊がいるという。その霊は肉体という物質を纏っているわけではないが、物質世界にいるともいえるわけである。同じように霊界における中間状態においても、それは地上における状態ではないが物質性もまたいえるかもしれないわけである。地上で受精卵と結びつく前の中間状態なのであるから、そこは霊界と地上との中間状態と見るべきだともいえる。霊界の中間状態においても何らかの物質性がいえるとすれば、やはり何らかの形で無明状態もいえるのではないだろうか。そうすると、霊界における中間状態にも自己放棄性が存在するということになる。
中間状態における自己放棄の二重性
中間状態においては動物性と人間性の並立からくる肯定性があった。しかし、中間状態における動物性と人間性の並立は、動物性と人間性は分離し無関係というわけではない。動物と人間という二つの存在があるということではなく、一つの存在の中で動物性と人間性が並立しているわけである。一方、動物的な霊的進化と人間的な霊的進化を一つの大きな意味での霊的進化の流れで見ると、動物は動物の霊的進化の中で進化し、人間は人間の霊的進化の中で進化しているわけであり、共に霊的有として存在しているといえる。ただ、人間から見れば動物は霊的進化において遅れている存在として否定的な存在でもあるわけである。そうすると、霊的進化において動物が人間において何らかの形で肯定されるということがあった場合、否定的なものが肯定されるということで、動物を肯定する人間には一種の自己放棄性があるということになるであろう。中間状態においては、動物性と人間性が並立する中で動物性が一種の肯定性を帯びることになった。それを無明としての人間と重ねればそこに自己放棄がいえるわけであるが、その肯定性を霊的進化の大きな流れの中での人間による動物の否定と重ねても、そこに自己放棄性があるということでもあり、中間状態における自己放棄は二重の意味で自己放棄ということになる。
もしスピリチュアリズム的にも自己放棄の弁証法的展開ということがあったとすれば、此岸的理念とは動物性の肯定ともいえるから、やはりそこでも大きな霊的進化の中での動物の否定に対しての動物の肯定性ということからくる自己放棄性がいえ、自己放棄の二重性が維持されるわけである。彼岸的理念についていえば、それは人間の肯定性の彼岸化であり、人間を霊的進化において否定的に見るということである。それに対して、大きな霊的進化においては動物は人間によって否定されるかもれしないが、人間自身は肯定されているわけであるから、肯定的な存在であるのが彼岸的理念においては否定的存在とされるということでそこにも自己放棄性があることになり、彼岸的理念においても自己放棄の二重性がいえることになる。
ところで、中間状態における自己放棄を、本来霊的進化の主体としての自分の中で動物と人間として並存しているはずなのに、その本来一体である動物と人間を動物は動物、人間は人間として分離することでもあると考えれば、動物は動物としては霊的有として肯定的に存在していたのであるから、動物の肯定性は並立から来る実体性と分離からくる実体性の二重に実体的ともいえる。
第四項 スピリチュアリズム的にも自己放棄の弁証法的展開が考えられるのか
中間状態に自己放棄という側面があるとして、その先にさらに自己放棄の弁証法的展開ということがスピリチュアリズム的にも考えられるのであろうか。過渡期における源初の肯定性とは幻想であると同時に実体的でもあり、単なる幻想ではなかった。それ故その自己崩壊ということもないわけであるが、その代わり過渡期から自立期への移行があり、自立になって何らかの形で源初の肯定性というものが残っているとしたら、それは此岸的な源初の肯定性であり、単なる幻想ということにもなるわけである。幻想である以上、当然自立期にまで存続していた源初の肯定性は自己崩壊し、その先には源初の肯定性そのものの消滅があるということになる。一方、此岸的理念から彼岸的理念への自己放棄の弁証法的展開一般を考えたとき、まず創造的有を主張する此岸的理念があり、それが幻想であることから此岸的理念の自己崩壊が生じ、それは此岸的創造的有の否定に真理性を与えるということであった。そして源初の肯定性の彼岸化は此岸的創造的有の否定であり、それ故真理性を持ち、その真理性をバネにして彼岸的理念が創出されるということであり、それはまた源初の肯定性が彼岸化されるということであった。ここには思考展開に飛躍があり、即ち此岸的創造的有の否定は直接源初の肯定性の彼岸化に結びつくわけではないが、現実を見れば此岸的なことが強調されている時代から彼岸的なものへと関心が移る時代への変化があることから、あるいはそのような変化があるようにも見えることから、真理性をバネにして彼岸的理念が創出されるとされるわけである。もっとも、此岸的な時代から彼岸的な時代へという変化があったように見えるのは、あくまでも最初にシュテイルナー的歴史観があってそう見えるのではないかという問題点はあるが、宗教が前面に出てくるような時代があることも否定できないのではないだろうか。
スピリチュアリズム的要素を加えて考える
スピリチュアリズムにおける自己放棄の弁証法的展開を考えるとは、前述した自己放棄の弁証法的展開をスピリチュアリズム的要素を加えて考えるということになる。本論とスピリチュアリズムで違う点は、本論では過渡期が本質から本質への過渡期と考えても、前本質の親から創造的無としての子が生まれる社会的過渡期を考えても、どちらも地上的なものであるのに対して、スピリチュアリズム的な中間状態では、動物の親から人間の子が生まれるという社会的中間状態は地上的なものであるが、動物と人間という本質の違いからくる中間状態は霊界的なものだということである。また、中間状態においては、動物の霊的進化と人間の霊的進化の次元、社会あるいは霊的進化の主体の中での動物と人間の並立における動物の肯定性に無明としての人間を重ねることからくる自己放棄と、動物の肯定に全体的・大きな霊的進化の次元での人間による動物の否定を重ねる自己放棄という自己放棄の二重性ということがあり、またスピリチュアリズムでは神の実在性もある。
霊界の中間状態と地上との関係
自己放棄の弁証法的展開があるとすれば、それは地上において生じることであり、社会の中で生じることであった。また自己放棄の弁証法的展開においては此岸性と彼岸性というものが重要であり、源初の肯定性とは此岸的なものであった。そうすると、スピリチュアリズム的中間状態が地上的なものであるばかりでなく霊界的なものでもあり、彼岸的なものであるということがどういうことを引き起こすのかということが問題になる。
まず、源初の肯定性とは此岸的なものであるのに、霊界における中間状態における源初の肯定性は地上から見れば彼岸的なものということがある。ただ、地上における中間状態もあるのであるから、この地上の中間状態の此岸的な源初の肯定性がスピリチュアリズム的な自己放棄の弁証法的展開の出発点ということになる。この場合、霊界における源初の肯定性の地上への影響力を考えるなら、まずいえることはそれが間接的なものであるということであろう。また、霊界における中間状態は初めて動物の類魂から永遠の個我としての人間になる、その人間の個人的なものといえるから、霊界からの影響力はその個人に対するものということになる。ただ、そのような個人が多ければそれは社会性を帯びることにもなるであろう。そして、現在においても初めて人間として生まれてくる人間が少なからずいるということは、その社会的影響力は現在においても無視できない力としてあるといえる。シルバーバーチは、地上へ誕生してくる者の中での「新しい霊」と「古い霊」との割合はどれくらいでしょうか、という質問に、「そういうご質問にはおよその数字すら出すことは不可能です。ですが、多分、ほぼ同じくらいの割合ではないでしょうか。」と答えているが、現在においても霊界の中間状態の影響は無視できないものとしてあることになる。
中間状態から自立期への移行における断絶問題の緩和
過渡期から自立期への移行には、過渡期という特殊状況において源初の肯定性がいえるのであって、その過渡期の特殊性が消滅した自立期では源初の肯定性そのものが消滅してしまうという断絶問題があった。この断絶問題は、スピリチュアリズム的中間状態から自立期への移行の場合は緩和される。動物の親から生まれる人間の数は減少するかもしれないが直ぐには無くならないであろうし、動物の影響を受けた人間の親から生まれる人間も徐々に減っていくということであろう。動物性の影響がゆっりと薄れそれに従って無明の中の人間というものが強まっていくのであり、中間状態と自立期の境界は曖昧さがあり、自立期に持ち込まれる源初の肯定性ということも考えられるのである。それは地上における中間状態から自立への移行にいえることであるが、霊界の中間状態の影響を考えるなら、自立期になっても動物から人間に成ってくる人間はいるわけであり、霊界の中間状態とそこにおける源初の肯定性は自立期になっても存在し、地上に間接的ではあれ影響力を持つとすれば、そこからも自立期になっても源初の肯定性は何らかの形で保持される可能性があるわけである。ただ、霊界の中間状態における源初の肯定性は霊界においては幻想であり実体的でもあったが、地上への影響力となると、地上ではその源初の肯定性が間接化されたものとしてあるということになり、実体的でもあるということが間接化されるということはそれ自体が一種の幻想化ともいえる。
源初の肯定性を外化に向ける力と引き戻す力
本論的には自立期になって源初の肯定性が外化されることにより自己放棄の弁証法的展開の第二段階が始まるわけであるが、スピリチュアリズム的にも自己放棄の弁証法的展開がいえるなら、源初の肯定性の外化ということがいえなければならない。この事に関して、そもそもスピリチュアリズムでは源初の肯定性は霊界における中間状態においては最初から地上の外部に存在していた。また、本論では源初の肯定性の外化したものが神であったが、スピリチュアリズムでは最初から神は人間を僕とする存在として人間の外部的存在としても実在していた。この実在している神は、霊的進化を創造の情熱とするなら神とは創造の情熱が完全に充足された状態にあるということであり、また神はその存在そのものが創造の情熱の完全充足状態であるとすれば、神は存在即肯定状態にあるということであり、神とは源初の肯定性であるともいえる。そして、スピリチュアリズムにおいては神は人間の外部と内部に神が存在するとされたが、内部の神とは神の分霊でありミニチュアとしての神であって、神が完全な存在であり霊的進化が完全性を目指すということは、完全な神とは人間の外部存在ということであった。源初の肯定性は神として地上の人間の外部に存在していると言ってもいいわけであり、実体的な源初の肯定性として外部に存在しているわけである。さらにいえば、もう一人の自分である類魂もまた霊界にその基盤があり、類魂としての自分が霊的有としてあるということも実体的な創造的有が彼岸にあるということになる。また、大きな霊的進化における人間の霊的有性、自己肯定性も地上の無明の中の人間から見れば彼岸性を帯びているといえるであろう。この外部における実体としての源初の肯定性の存在は、地上の源初の肯定性に対して、それを外部へと引き寄せる力となるであろう。源初の肯定性の外化ということが起こるとすれば、スピリチュアリズムはより起こり易い環境といえるわけである。
自己放棄の弁証法的展開では外化した源初の肯定性は再び此岸化されなければならないが、源初の肯定性が外化することの容易性は、逆に外化した源初の肯定性を此岸化することには困難性が伴うということでもある。その困難性の中で外化した源初の肯定性を再び此岸化するということは、何らかの源初の肯定性を地上へ引き戻そうといる力がなければならないということになるが、地上的な源初の肯定性を外化しようとする力の根源に実体としての源初の肯定性が外部に存在していたということであるとすれば、彼岸にある源初の肯定性を此岸に引き戻そうとする力の根底にあるのは、地上における人間はあくまでも地上において霊的進化しようとしているということであろう。源初の肯定性が地上における霊的有状態であるとしたら、地上において霊的進化をしようとすれば源初の肯定性も地上的なものでなければならないわけであり、もしそれが外化していたらそれを此岸化しなければならないわけである。
スピリチュアリズム的には源初の肯定性を彼岸化しようとする力とそれを此岸に取り戻そうとする力があることになり、その二つの力が綱引きをして行ったり来たりすれば、そこに自己放棄の弁証法的展開と似たような動きが生じることになる。その動きが自己放棄の弁証法的展開となるためには、まずその二つの力が引き起こすことが自己放棄的なものでなければならないであろう。外化については、それは地上の霊的無(創造的無)への固定化ということになり、それ自体が自己放棄であった。一方、源初の肯定性を彼岸から此岸へと引き戻す力であるが、その場合の源初の肯定性とは彼岸においては源初の肯定性は実体的なものでもあつたのであるから、当然実体的な源初の肯定性ということになる。すなわち、地上において引き戻された源初の肯定性は実体的なものとされるということであり、それは幻想でしかないものが実体的なものとされるのであるからそこに生じるのは自己放棄ということになる。
また、外化していた源初の肯定性とは元々外部に存在していた源初の肯定性ではなく、地上の源初の肯定性が外化したものということになるし、外化した源初の肯定性が神と結びつくとき、その神は実在としての神だけではなく、人間が作り出した神でもなければならないということになり、外化した源初の肯定性が再此岸化することに神が関係する場合、その神とは人間が作り出した神ということにもなる。
否定の真理性のバネ
二つの力が自己放棄を引き起こすとして、その交互の動きがそのまま自己放棄の弁証法的展開になるわけではない。その動きが自己放棄の弁証法的展開になるためには、否定の真理性のバネも必要となるが、スピリチュアリズムの場合この否定の真理性のバネはどうなるのであろうか。
スピリチュアリズムにおける源初の肯定性の外化は地上における源初の肯定性の否定であり、その否定は無明の中では地上の源初の肯定性は幻想であるということを意味しているということでは真理性を持つ。一方、源初の肯定性の外化の固定化は、創造の情熱の充足は彼岸でしかありえないということであり、スピリチュアリズム的には霊的進化は霊界でしかありえないということである。それに対して、地上の人間にとって無明状態とは霊界と切り離されて存在しているということであり、地上しか存在しないということである。すなわち、無明状態においては霊的進化は地上でしかありえないとみなされているということである。それ故、地上における霊的進化を取り戻さなければならないし、その為には源初の肯定性の外化の固定化を否定しなければならないということで、その意味で外化の固定化を否定することは真理性を持つ。しかし、真理性を持つからといって、地上の源初の肯定性の否定や外化の固定化の否定が積極的になされなければならないということでもない。それらの否定がなされる動機が必用である。
それらの否定がなされる為には、少なくとも無明の中でも人間は霊的進化を求める存在だとしなければならないであろう。その点に関して、無明のことを創造的無と看做してきたわけであるが、無明と創造的無では少し違うところもあるように思う。創造的無は創造の情熱がまずあって、その創造の情熱にとって無としてある、すなわち何かを求めているということがまずあって、それが何かどうすればそれが分かるのかということであったが、無明状態とはそもそもまず霊的進化があるとはいえないのではないだろうか。すなわち、何かを求めているがそれが分からないという状態ではなくて、そもそも何かを求めているのか何も求めていないのかということから分からないという状態なのではないだろうか。無明状態にある人間はそもそも霊的進化といったことに無関心であるし、何か根本的なものを真剣に求めているということに曖昧な状態のような気がするのである。本論的にはそのような状態は創造的無と自己放棄が結びついたとき生じるかもしれない状態ともいえるが、無明状態においては無明状態にあるだけでそのような状態が生じるかもしれないのである。そのことに関しては、無明状態においては人間は目的を持つかもしれないし持たないかもしれないという状態であり、必ずしも人間は霊的進化を求めている存在ではないということについては、人間が目的を持たないということは総てがどうでもいいことになって、目的を持つということに集約されてしまうとも考えることができ、無明状態においても結局人間は目的を持つとして処理してもいいともいえる。ただ、基本的には無明状態においても人間は霊的進化を求める存在として集約されるとしても、無明状態における人間が目的を持っていることについての曖昧性を無視することもできないかもしれない。
ただ無明について別の見方をすれば、それはいわば自我が創造の情熱であるかどうかを曖昧にする状態ということであるから、創造の情熱としての自我から見ればそのような状態そのものが自己放棄的ということになる。同じように、人間を霊的進化をしなければならない存在とする立場から見れば無明という状態そのものが自己放棄的ということになり、創造的無という状態そのものは自己放棄とは無関係であるのに対して、無明は無明自体が自己放棄と結びついていることにもなる。そうすると、創造的無そのものは自己放棄と結びつかないが無明は結びつくということは、無明状態の方がより自己放棄を求めることでもあるともいえる。
源初の肯定性の否定や源初の肯定性の外化の固定化の否定を求める動機としては、それらの否定が必用なのは自己放棄の為であるから、結局自己放棄を求めているからということであろう。では、何故自己放棄を求めるのかということであるが、本論的には創造的無の中で自己放棄の選択も創造の情熱の充足の可能性をもつということであり、その意味で自己放棄を求めているのだともいえるし、それは合理的な選択でもあった。無明状態においても人間を霊的進化を求める存在とみなすなら、スピリチュアリズムにおいてもそのことはいえるわけである。ただ、無明状態における目的についての曖昧性を加味しなければならないとすれば、本論的な自己放棄の持つ積極的な意味合いも曖昧になるし、そのことをもって自己放棄を求める積極的な動機とはならないかもしれない。しかし、その点は無明自体が自己放棄と結びついておりそれが自己放棄を求めることに繋がっているとすれば、そのことで埋め合わせが出来ているともいえる。
自己放棄を求めるということは過渡期とは自己放棄の状態でもあるということからくる一種の惰性ともいえるが、同じようなことが無明状態の人間にもいえるであろう。このことは、過渡期とは同時に実体的でもある源初の肯定性の状態であり、過渡期において自己放棄と実体的でもある源初の肯定性が結びついていることから、源初の肯定性すなわち創造の情熱の充足を求める事が同時に自己放棄を求めることになってしまうとも解釈できる。ただ、そう解釈すると自己放棄は創造の情熱の肯定と結びつくが、創造の情熱の否定とは結びつかないということになってしまう。また、自立期になっても源初の肯定性の外化などということは起こらないということになる。本論的に過渡期から自立期になって源初の肯定性の外化ということが起こるということには何か理由があるということになり、その理由とは、繰り返しになるが自己放棄も創造的無の中では創造の情熱の充足への可能性を持つということが何らかの形で作用しているということであろう。
少なくとも自己放棄は過渡期において既にあったわけであり、それが自立期になっても源初の肯定性が保持されているとすれば、同時に自己放棄ということも保持されている可能性はあるわけである。そして、過渡期から自立期になった状態で可能な自己放棄とは、今や幻想となった自己を創造的有とすることによる自己放棄ではなく、すなわち創造的無における無の否定ではなく、創造的無における創造の情熱の否定による自己放棄ということになるわけである。その際、創造の情熱の否定は、創造の情熱そのものの否定か創造的無の固定化による間接的な創造の情熱の否定のどちらかの方法ということになる。
どちらにしてもそれは自我が創造的有状態にあることの否定であるから、源初の肯定性を保持しようとする力とぶつかり合うことになる。その場合、創造の情熱の否定はそのまま創造的有を無意味化することであり、そこにあるのはどのような状態であれ創造的有状態の無存在ということにもなっていくから、その対立に妥協点はないということになる。それに対して、創造的無の固定化は源初の肯定性の外化により、もはや此岸的ではないがとにかく源初の肯定性の保持と自己放棄とを両立させることが出来るわけである。そして、それは源初の肯定性の実体性の否定という真理を利用する事も、源初の肯定性が保持されている以上出来るわけである。さらにいえば、外化によって保持される源初の肯定性とは、幻想であり実体的な源初の肯定性のうちの実体性がより前面に出た源初の肯定性ということになるであろう。何故なら、それが此岸における創造的無の固定化、即ち此岸においては創造の情熱は充足されないということであるということは、彼岸と此岸は正反対の状態とすれば、逆に彼岸では創造の情熱が充足されたものでなければならないということであり、また此岸における源初の肯定性が幻想であるとすれば彼岸における源初の肯定性は実体的なものでなければならないということになるからである。さらに源初の肯定性の保持とは実体としての源初の肯定性の保持でなければ意味がないともいえるから、その意味でも彼岸において源初の肯定性が保持されるとすれば、その源初の肯定性は実体的なものとしての源初の肯定性ということになる。
一方、スピリチュアリズムではそこに霊界における中間状態や実体的な源初の肯定性とも看做される神の実在性があって、源初の肯定性が外化するかもしれない力がさらに働いているわけである。
過渡期における自己放棄とは無の否定であって創造の情熱の否定ではないということについては、もう少し考えてみる必要がある。本質としての創造的無と前本質は、本質ということに関して基本的には相互排除的であり、それ故それぞれが別の本質となっているといえる。ただ、過渡期においては相互に排除ができず並存しているわけである。それは、相互容認であり、いわば相手が本質であるということを肯定しているといえる。ただ、基本的に相互排除的であるということは、過渡期においても潜在的には相互排除的であるということであろう。すなわち、潜在的には相手が本質であることを否定しているわけである。前本質による創造的無の否定は創造の情熱と無の両方に掛かるといえるが、そのうちの無の否定は創造の情熱にとって前本質が無ではないという源初の肯定性に対応するものであり、源初の肯定性に繋がっているといえる。すなわち、無の否定としての自己放棄ということにもなるわけである。一方、創造の情熱の否定も創造の情熱から見れば創造の情熱の否定として自己放棄ということにもなる。ただ、無の否定としての自己放棄は並存性の相互肯定性からくる源初の肯定性が持つ自己放棄性と重なるのに対して、創造の情熱の否定としての自己放棄性は過渡期における潜在的な創造の情熱と前本質の相互排除性に重なり、潜在的な自己放棄性ともいえる。無の否定としての自己放棄は此岸性と結びつき、創造の情熱の否定としての自己放棄は彼岸性と結びついていたわけであるが、源初の肯定性の外化はこの潜在的な自己放棄性が顕現することともいえる。だた、そう言う為にはこの潜在的自己放棄が何らかの形で自立期になっても存続している必要があるわけであるが、源初の肯定性が単なる幻想としてであれ自立期になっても存続しているとするなら、この潜在的な自己放棄も存続している可能性があるわけである。これは、スピリチュアリズムにおいても前本質を動物性、創造の情熱を人間的霊的進化、創造的無を霊的無に置き換えれば、そのまま成り立つ。ただこの場合も、源初の肯定性が単なる幻想としてであれ自立期になっても存続している可能性は、自立期になっても霊界における中間状態の影響や神の実在性の影響を考えればスピリチュアリズムの方が高いであろう。
自立期になって源初の肯定性の外化が自己放棄を求めることから生じるとすれば、スピリチュアリズムの方がより自己放棄を求めているともいえるかもしれなかった。一方、最初の源初の肯定性の外化が起こった状態に否定の真理性のバネが考えられるとすると、スピリチュアリズムでは源初の肯定性の外化は起こり易いかもしれないが、同時にスピリチュアリズムでは霊界の中間状態の影響で自立期になっても源初の肯定性が何らかの形で保持されるということは、その幻想化も緩慢に進むということであろう。否定という過程もそれだけ緩慢なものということになるし、それは否定の真理のバネの力を弱めるということにもなるであろう。そして、この最初の否定の真理のバネの力が弱いということは、後々の否定の真理のバネの力もそれだけ弱いということにもなるでもあろう。スピリチュアリズムでは自己放棄をより強く求めるとも考えられ、それは否定ということを強めるが、一方では否定の真理のバネの力は弱いということになるが、どちらにしてもスピリチュアリズム的にも自己放棄の弁証法的発展というものがある可能性はいえるであろう。ただ、それがどのぐらいの力強いものであるかは分からないということになる。
第五項 今を転換期とするスピリチュアリズム
スピリチュアリズムでは人類は現在別の意味でも中間状態にあるともいえる。オーエンの『ベールの彼方の生活』によれば、人類の発達は下流へ、外部へ、物質へと向かっていたとされるが、幾世紀も前から神界ともいえる階層で一つの大事業が計画され、その計画に沿って、物質へ向かっていた輪をうまく転がして谷でぶじに下りきり、今度は峰に向けて勢いよく上昇させるに足るだけの弾みをつけることを目的として、霊界から地上への働きかけが強化され、それがようやく地球において姿を現すようになったのが十九世紀の中頃という。そして、今の地球は霊から物質へと向かっていた流れが物質から霊への流れへと反転する折り返し点にあり、今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、その旋回が原因であるという。さらに、その大事業は地球だけに向けられたものではなく、宇宙規模のものであり、顕幽にまたがる宇宙そのものが外部へ向けてのコース、霊から物質へ向かっていたが、それも最も外側の地点までたどり着き、その標識を今まさに折り返しつつあるところだという。おそらく、宇宙規模の旋回は宇宙的時間の問題であり、数世紀前から計画されたものというのは、宇宙的大事業の中の一環としての地球規模のものということであろう。地球が宇宙で下から二番目と言われているということは、宇宙的大事業もそろそろ終わりに近づいたということなのかもしれない。また、物質的なものから霊的なものへの旋回の時代だからこそ、乗り物が急に旋回したとき大きく外に傾くように、これまでの創造的無という状態をより強く感じるのかもしれない。
霊界から地上への働きかけが地球において姿を現すようになったのが十九世紀の中頃というから、1848年のフォックス家の事件がその始まりということなのであろう。それ以前の散発的な働きかけとは違って継続的なものであるというから、十九世紀中頃以後の人類はより明確な形で物質的への下降から霊的なものへと上昇する転換点にあるともいえるわけである。シルバーバーチも「あなた方は新しい時代に入りつつあります。人類の新しい時代の夜明けです。」といい、「かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。」という。ただ、新しい時代に入りつつある、物質から霊への流れの中間状態にあるといっても、シルバーバーチにおいてさえ知りえない領域に変化が進行しつつあるということは、その変化の中でも人間はまだまだ無明の中にいるということであり、今は中間状態の初期ということであろう。本論で創造的無という場合、それはいつか創造的有状態に移行する可能性を認めるものであり、創造的無から創造的有への過渡期、それは創造的有なのだけど依然として自分のことを創造的無として感じている、意識しているという段階が考えられるのが、まだまだ無明から霊性に目覚めた状態には程遠い、無明の中での中間状態として現在があるということになるのかもしれない。
創造的無から創造的有に向かう過渡期においては創造的無でありかつ創造的有ということになるから、創造的無から見れば創造的有は自己放棄であり、創造的有から見ても創造的無は自己放棄ということになる。すなわち、自己放棄性が前面に出てきやすい時代ともいえるかもしれない。それも、完全な創造的有状態になれば創造的無という考えは何の意味もなくなるし、自己放棄にも何の意味もなくなるであろう。単に、創造的有として存在することになるわけである。ただ、創造的有に向かう過渡期に生きるということは、自己放棄性が前面に出てきやすいということで、創造の情熱と自己放棄、唯一者と自己放棄者の間を揺れ動くということなのかもしれない。また、創造的無でありかつ創造的有ということからは創造的無と創造的有の間を揺れ動くということなのかもしれないし、唯一者とスピリチュアリズムの間を揺れ動くということなのかもしれない。
引用・参考文献
『シルバー・バーチの霊訓1~12』 潮文社 近藤千雄訳
『シルバーバーチ 愛の摂理』 トニー・オーツセン編
『シルバーバーチ 愛の絆』 トニー・オーツセン編
『シルバーバーチ 愛の力』 トニー・オーツセン編
『古代霊シルバーバーチ新たなる啓示』 トニー・オーツセン編
『古代霊シルバーバーチ最後の啓示』 トニー・オーツセン編
『古代霊シルバーバーチ不滅の真理』 トニー・オーツセン編
『ベールの彼方の生活』 G・W・オーエン
『人間個性を超えて』 ジェラルディーン・カミンズ
『不滅への道』 ジェラルディーン・カミンズ
『霊訓』 ステイントン・モーゼス
『ホワイト・イーグル霊言集』 グレース・クック
『唯一者とその所有』 マックス・シュティルナー
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