第一節 自己放棄の第二段階の中心理念 (2021年3月14日)
第一項 第二段階の中心理念としての神第二節 考古学的に見た第二段階の時期 (2021年3月14日)
第一項 クロマニヨン人第三節 自立期における源初の肯定性の問題点 (2021年3月14日)
第一項 過渡期から自立期への移行が持つ問題
第一項 第二段階の中心理念としての神
過渡期である限り、創造的有としての源初の肯定性は幻想的であると同時に幻想であるのでもなく、実体的でもあるから、その実体性に注目するなら、過渡期においては自我は肯定的なものとしてあり、過渡期における自己放棄の基本理念は此岸的なものといえる。また、その此岸的基本理念・自我の肯定性は創造的有の実体性によってその自己崩壊が押し止められているといえよう。それ故、自己放棄の弁証法的展開が始まるのは自立期になってからといえる。過渡期における自己放棄の基本理念が此岸的なものであるとするなら、自立期になって生じる自己放棄の第二段階の基本理念は彼岸的なものということになる。では、自己放棄の第二段階の中心理念はどのようなものだったのだろうか。シュティルナーは彼岸的なものとしてキリスト教を問題にしていたが、神あるいは霊的存在、超自然的な存在は未開社会においてもみられる。未開社会の自己放棄の段階がどのようなものであれ、自己放棄の弁証法的体系の構造からいって、前段階の諸中心理念は再定立されているはずであるから、神的存在・超自然的存在は古い自己放棄の段階の中心理念と結びついているとも考えられる。さらに、未開社会でも単純な社会である狩猟採集民の社会としてブッシュマン社会をみてみても、彼岸的な中心理念と関係しそうなものとしては、神的存在・超自然的存在しかない。そのことから、第二段階の中心理念は神的存在・超自然的な存在なものを核とするということがいえるのではないだろうか。
第二項 神を自己放棄の構造からみる
自己放棄の第二段階の中心理念が神的存在・超自然的存在を核とするとして、それは自己放棄の基本構造からみて、どういうことなのであろうか。基本理念的にいえば彼岸的で自己否定的なものであり、源初の肯定性すなわち自我が創造的有として在ることの否定であり、創造的無=創造の情熱+無の否定でいえば、無の否定ではなく創造の情熱の否定ということになる。創造の情熱の否定としては、無の固定化、主体的能動性・主体的受動性のどちらかの否定かあるいは両方の否定が考えられた。能動性・受動性との関係でいえば、直接的な存在即肯定は能動性・受動性を超えているともいえ、過渡期においては直接的な存在即肯定であるから、この場合は存在即肯定の否定は主体的能動性+主体的受動性という全体としての創造の情熱そのものの否定ということになっていくであろう。受動的というより能動的といえるといった、相対的にみた能動性・受動性の関係を問題にするほど自己放棄の弁証法的体系が複雑化していないことからもそのことはいえる。そうすると、主体的能動性+主体的受動性としての創造の情熱の否定は無の固定化でもあるから、ここで考える創造の情熱の否定は無の固定化として考えることができる。
神的存在・超自然的な存在が人間と別次元の存在であり、その超越的性格からいって彼岸的存在ということはいうことができるであろう。では、神的存在・超自然的な存在がどのようにして創造の情熱の否定、この場合は無の固定化に結びつくのであろうか。もちろん、自己放棄の体系においては、中心理念は創出されるものであり、第二段階の中心理念そのものが自己放棄の基本構造から論理的に導き出されるものではない。自己放棄の基本構造から考えるといっても、そこから第二段階の中心理念を必然的に導き出すのではなく、その中心理念の創出の材料となるようなものを考えるということである。
第二段階における無への固定化を考えると、まず無そのものがどのように対象化され表現されていたのかという問題がある。過渡期においては、創造的無であり創造的無であるのでもない、創造的有は幻想であるとともに幻想でもなく実体的であった。それは幻想的な創造的有と実体的な創造的有があるということではなく、一つの創造的有が幻想であり実体的でもあるということであるから、そのような状態では創造的有を幻想化する創造的無だけを取り出して、それを対象化するということは困難であろう。その意味では、自立期になって創造的無は対象化される可能性が出てくるといえるが、自立期の創造的無においては、その無の中で確かに人間は創造的無であり否定的な存在であるが、創造の情熱としての自我は、その無の中でただ創造への可能性を求め続けるだけで、無を意識することはないともいえる。結局、創造的無の対象化は創造的無という人間の本質の中ではなく、自己放棄を求める中で可能ということになるのかもしれない。自立期になって創造的無の状態になるといっても、自動的に無が対象化されるということではなく、創造的無の対象化は自己放棄への希求、自己放棄の弁証法的展開のなかで行われると考えるべきであろう。無の固定化という観点からいえば、自己放棄を求める中で無の対象化とその固定化が起こり、無の固定化の中で自己放棄が起こるという、一種の鶏が先か卵が先かという議論にもなるわけであるが、過渡期において既に自己放棄がいえるということが、自立期においても自己放棄を求められ、その希求の中で無の対象化とその固定化が生じるということ、創造的無の対象化とその固定化が同時に行われるということを可能にしていると考えられる。
また、無を対象化しようとすれば、それは創造の情熱に対する無なのであるから、創造の情熱も何らかの形で対象化されていなければならないだろう。中心理念の創出ということからいえば、創造の情熱の否定も問題だったのであるから、その意味でも否定の対象として創造の情熱が対象化されなければならないともいえる。この場合、創造の情熱はどのような形で対象化されるのであろうか。直接的に創造の情熱を否定するということ、すなわち創造の情熱そのものが存在しないということは、人間にとって総てをどうでもいいこととすることであるとすると、そのことを意識化することは自立期になったからといって、なかなか難しいことではないだろうか。例えば前自立期の人間がブッシュマンのように狩猟採集の生活を送っていたとすると、男が狩猟に出かけたとき獲物を獲られるかどうかはどうでもいいことではないだろうし、それは前自立期ばかりでなく新しい自立期になった段階の人間にもいえるであろう。前自立期には前自立期なりの関心事があったはずであり、それが生活と密着したものであるとすると、そのような関心を超えたところですべてがどうでもいいということを意識化することは、自立期になったからといってすぐにできることではないと考えられるのである。自己放棄の弁証法的展開という点からいえば、第二段階は第一段階、すなわち過渡期の中心理念の否定をバネにするのであるから、第一段階の中心理念、すなわち源初の肯定性の否定が問題であり、創造の情熱の否定そのものが第一義的なものとはならない。直接的な創造の情熱の否定であれ、無への固定化による創造の情熱の否定であれ、自立期になったからといって、直ちに中心理念が創出されるとは考えるべきではないであろう。中心理念が何らかの形を現すのは、自立期になってからそれなりに時間が必要だといえる。
創造の情熱の否定の仕方としては、①人間の主体性の否定、②無への固定、が考えられ、さらに人間の主体性の否定は主体的能動性あるいは主体的受動性のどちらかあるいはその両方の否定が考えられた。無への固定は、人間が否定的存在であるということであり、その状態の変更の可能性を人間に認めないのであるから、人間に自己を肯定化する能力を認めていないということになる。その意味でそれは人間の能動性の否定ともいえる。ただ、能動性の否定が無への固定化を意味するとしても、人間を受動的存在とする場合は、それは能動性の否定にはなるが、単にそれだけでは無への固定を意味するとは限らない。例えば、神によって人間が創造的有の状態になるということも考えられるのである。受動的主体のみの自我という立場が無の永遠の固定化と区別されるためには、自我にいつかは目的の充足を可能にするだろう、何ものかが必要ということになる。それは、人間を超越した存在でなければならない。何故なら、それは人間の行動とは一切無関係に、その充足を与えるものでなければならないからである。それはまた、決定論的に動いているものではない。何故なら、そうすると、自我はいずれは充足が約束されている、すなわちまったくの創造的無とはいえなくなるか、あるいは決して充足することのない、無として永遠に固定化されているということになってしまうからである。すなわち、まったくの偶然か、あるいはある種の主体的存在の意志によって充足が与えられるとされなければならない。その主張は、能動的主体性と受動的主体性が一体になった存在が、人間の外に想定され、その存在に対して人間が関係するという形式のなかでより補強されるであろう。主体的能動性と主体的受動性の両方の否定は、それ故人間の能動性の否定と同時に人間の外部に在って人間を創造的有状態に出来る存在の否定ということになる。
創造的無が対象化され、人間が創造的無に固定化されるということは、創造の情熱が対象化されているということであり、当然その対象化され表現された創造の情熱における創造的有も考えなければならない。その創造的有も何からの対象化がなされているとすれば、創造的無の固定化ということは、対象化された創造的有が人間から切り離され、その遊離状態が固定化されるということでもある。その場合、人間から切り離された創造的有は、どこへ行くのであろうか。もちろん人間を離れて創造的有があるわけではないし、人間と完全に切り離された存在では人間にとってそれは存在しないも同然ということになるから、あくまでもそれは人間の意識のなかにおいて切り離されるということであり、直接あるいは間接的に、人間と切り離された存在として意識化され、対象化されるということである。その切り離された対象は、創造的有の外化したもの、源初の肯定性の外化したものといえる。さらに、創造的有がそれだけで存在しええないから、それは人間以外の何ものかと結びついているであろう。実際には、自己放棄の弁証法的展開の中で、人間とは異なる存在と創造的有が結び付けられるというよりは、創造的有・源初の肯定性の外化という形でその異質な存在が創出されるということである。創造的有の外化という形で創造的有が対象化されるなら、それは創造の情熱の対象化であり、またその外化された創造的有と人間の関係性の中で無が表現され、対象化されるということである。人間は創造的無に結び付けられ、その人間の外に存在する人間と異質な存在は創造的有と結び付けられるのであるから、その人間の外に在る存在は、人間より価値あるいは力のある存在、優位な存在であろう。そして、その違いが固定化されるということは、その存在は人間を超越した、人間には手の届かない存在ということになる。フォイエルバッハは神は人間の本質の外化したものだと言ったが、神的存在・超自然的存在は過渡期から自立期へという変化の中で、自己放棄の弁証法的展開の第二段階の創出過程で、過渡期における幻想ではない創造的有、実体的でもある源初の肯定性の外化として創出されたと考えるべきであろう。
過渡期における創造の情熱にとっての源初の肯定性とでもいえるものは、前本質の肯定するものの肯定、前本質の判断を超えた前本質そのものの肯定、存在即肯定の三つの肯定性が重なった三重の肯定性としてあり、この三つの肯定性が重なり合って在るということであったが、源初の肯定性の外化である神的存在・超自然的存在は源初の肯定性の三つの側面のうちの存在即肯定性と強く結びついているように思える。また、源初の肯定性の外化は前本質的世界の外化でもあろう。特に前本質における判断の外化は、前本質と結びつく価値・規範・道徳というものがあったとすれば、それらも外化するということであり、人間に対しそれらが外なる力として働くということである。良心とは源初の肯定性における前本質の肯定するものの肯定、否定するものの否定ということであり、それは外化された前本質の判断と同じものということになる。前本質的価値・規範・道徳がどのようなものなのかは、進化論や生物学、類人猿や狩猟採集民などの研究から再構成できるかもしれない。一方、前自立期における人間の在り方がきわめて動物に近いものであるとすれは、その本質は直接的にその動物的存在形態に現れてるとも考えられ、その動物的存在形態そのものが有ともいえるわけである。もっとも、それは静的に捉えるのか動的に捉えるのかで違いがある。動的とは前本質期においてどのような方向性を持っていたのかを考えることであり、その方向性の持つ力を考えることである。また、存在即肯定の外化が重要になるのは、その肯定が全的肯定であり神の絶対性と結びつくと同時に、そこにおいては存在のみが問題になっていることから、存在の外化ということで彼岸性が導き出されるからである。存在即肯定の外化はその肯定が此岸ではなく彼岸に存在せざるをえなくなる。
神的存在・超自然的存在という観念を持つだけでは、たとえそれが源初の肯定性の外化だったとしても、自己放棄をもたらすとはいえない。単に人間から源初の肯定性が失われたということを示しているにすぎないからである。シュティルナー的には神への拝跪が自己放棄をもたらすということになるが、神的存在・超自然的存在と人間との関係の在り方が自己放棄をもたらすわけである。自己放棄をもたらすには二つの方法、すなわち二種類の、神と人間との関係があるように思われる。一つは、神と人間を別な存在としたうえで、その固有な性質を実体としての創造的有とする神と、その固有な性質を創造的無とする人間を対置させ、その違いを絶対的なもので変更不可能なものとすることで、人間を創造的無に固定する方法である。この場合、神は実体的でも単なる幻想でも、創造的有とみなされればいいのかもしれない。人間が神に劣る存在として神と区別され、神になれないとすれば、それは人間が創造的有とはなりえないということであり、創造的無に固定されることになるからである。
第三項 源初の肯定性の再定立
自己放棄の体系においては、前中心理念も再定立されなければならなかった。第二段階における前中心理念は源初の肯定性=創造的有であったから、自立期における創造的有=源初の肯定性の対象化と前中心理念の再定立は密接な関係があったとも考えられる。また、源初の肯定性は過渡期と密接不可分であった。そうすると、過渡期が再定立されなければならないということになる。もっとも過渡期そのものは既に過ぎ去っていて失われているから、疑似的なものということになる。過渡期とは二つの極の中間状態にあるということでもあるから、再定立される過渡期とはある種の中間状態ということになる。此岸と彼岸でいえば、此岸と彼岸の中間状態が創出されるということになる。そして、その中間状態は過渡期の再定立であるから、同時に源初の肯定性に結びつき、源初の肯定性=創造的有の再定立であり、創造的有の対象化でるといえる。未開民族に見られるように、年の終わりと年の初めの中間点は、始源の時の再現であり、始源の時の肯定状態の再現である。また、空間的にいえばそれは俗なる場所と聖なる場所の二分化である。その場合、俗なる場所と聖なる場所の中間状態と見なされる区域はどのような場所なのかということであるが、ブッシュマンのグイやガナでいえば、男の成人式が聖なる空間で行われるとすれば、初潮儀礼を迎えた女が籠る小屋ということになるのかもしれない。少女の小屋はキャンプ付近に作られるのである。
一方、二つの理念は対立するわけであるが、統合もされていなければならない。この統合という側面も中間状態ともいえる。この場合、源初の肯定性の外化そのものが源初の肯定性の再定立ということになるかもしれない。崩壊した後も前理念的なものが残っているとすれば、それは前理念の再定立とは無関係ではないであろうから、これは当然のことともいえるであろう。理論的には外化と中間状態の関係はすっきりしたものではないということであり、したがって第二段階の中心理念の定立と前中心理念の再定立が実際にどのように展開されたかも曖昧さが残るということである。
自我=創造の情熱+無でいえば、無の否定は有であるから、第二段階は創造の情熱の否定ということになるが、これを彼岸性・外化と結びつけるなら、彼岸性・外化とは創造の情熱の外化とも考えることができる。神的存在・超自然的存在が措定されていくということは、もはや人間ではない、人間とは区別された神的存在・超自然的存在と外化した源初の肯定性=存在即肯定が結びつくということであり、それは完全に人間と源初の肯定性=存在即肯定の結びつきが切断されているということでもある。一方、外化とは源初の肯定性・存在即肯定が完全に消滅するわけではなく、自己の外部かもしれないが、宇宙あるいは世界内部にはそれが保持されるということでもある。そして、宇宙や世界に保持されているが故に、人間に源初の肯定性・存在即肯定が再付与されえるわけである。しかし、人間の外部にある源初の肯定性は幻想としての源初の肯定性でしかない。その幻想でしかない外部の源初の肯定性によって付与される人間の源初の肯定性は二重の幻想ともいえるわけである。
また、創造の情熱を能動性と結びつけるなら、それは能動性の外化でもある。此岸にも人間は存在するのであるから、主体的能動性と主体的受動性でいえば、此岸に割り当てられるのは主体的受動性ということになる。神でいえば能動的なのは神であり、人間は受動的ということである。これは、もし第二段階において人間に何らかの肯定性が結びつくとしても、それは神によって人間に与えられたものということになる。そして源初の肯定性が再定立されるのだとすれば、人間にも何らかの肯定性が結びつかなければならないわけである。『聖書』では神によって人間の肯定的な状態が与えられ、また神によってそれが奪われる。過渡期における源初の肯定性・存在即肯定を考えるなら、その肯定性は人間の能動性によってもたらされたものではないから、その点からも神の存在を考えたとき、神によって人間の肯定性がもたらされるという神話が出来ても当然であろう。また、自立期になって源初の肯定性が失われるのであるから、神によって人間の肯定性が奪われるという神話も当然ありえる。もっとも肯定性の喪失に関しては、神によって奪われるだけでなく、人間の肯定的状態の時代が神的存在・超自然的存在との何らかの関係の変化の結果失われてしまったということも考えられるし、その関係の変化は人間の行動によって生じたとすることもできる。『聖書』では人間が楽園から追われる原因を作ったのは人間の方であった。神によって人間が肯定的な存在となるということは、自我の主体的能動性の否定であると同時に、神的存在・超自然的存在という外部の力によって人間が存在即肯定の状態になるということであるから、確かに人間は肯定的な存在になるかもしれないが、それは存在即肯定の否定にもなっている。また、人間が神的存在・超自然的存在によって肯定的存在にされるということは、神的存在・超自然的存在は能動的存在ということになり、能動的存在である神的存在・超自然的存在に対し人間は受動的存在というであったが、逆にいえば、もしその神的存在・超自然的存在が人間を受動的存在にするものであれば、人間の能動的主体性を主張することはそのような神的存在・超自然的存在の否定につながっていくともいえるわけであり、新しい此岸的中心理念になっていく可能性があるわけである。
第四項 実体的源初の肯定性の希求
自立期において、源初の肯定性・存在即肯定の外化という現象がみられるとすると、それは自己放棄の希求というより、失われた過渡期における源初の肯定性・存在即肯定を回復したいという希求の現れの可能性もある。過渡期における源初の肯定性が実体的でもあったことから、自立期になって源初の肯定性の喪失という状況に置かれたとき、単純に考えればそれが実体的でもあった分、源初の肯定性を回復したいという希求が生じても不思議ではないように思える。そうすると、自立期に生ずる源初の肯定性の幻影は、自己放棄の弁証法的展開がもたらしたというより、源初の肯定性を回復したいという希求が作り出したものかもしれない。もっとも、源初の肯定性の回復希求が生み出す源初の肯定性の幻影は、それが実体的なものと看做されるかぎりにおいて自己放棄をも生じさせるから、自己放棄の弁証法的展開の基層には、失われた源初の肯定性・存在即肯定の実体性への希求があるのかもしれない。しかし、唯一者の立場からいえば源初の肯定性の回復希求は創造の情熱そのものではないし、それは自己放棄が作り出したものということにならざるをえない。自己放棄の弁証法的展開のなかで自己放棄への希求があるだけである。
どちらにしても、自己放棄者からいえば、それは実体としての源初の肯定性の希求ということになる。しかし、源初の肯定性の回復希求は、創造の情熱そのものではないから、創造の情熱からみればこのような回復欲求は過剰であり、創造の情熱によって崩壊させられていくであろう。創造の情熱も当然創造すなわち創造的有を求めるわけであるが、それはまったくの主体的なものであり、今の自分のみから発するものであり、過去のある状態を回復しようというよな、現在の自分以外の時間的要素など存在しないのである。源初の肯定性の回復希求は創造への選択として当然ありえるが、その希求を維持しようとすれば、自己放棄に依拠していかざるを得ないであろう。すなわち、自己放棄の弁証法的展開とそれを支える弁証法的構造が前面に出てこざるをえなくなるわけである。
外化がまた自己放棄の第二段階、彼岸的自己放棄の段階であるとすれば、彼岸的理念から此岸的理念の段階を創出しようとする力はまた、自己に源初の肯定性=存在即肯定の実体性を直接的に取り戻そうとする欲求でもあるといえる。ただ、これは自立期以降の此岸的・内世界的段階においては、中心理念によって肯定性がもたらされるということであるから、存在即肯定、肯定の無条件性ということを否定しているわけであり、基本理念と中心理念との間には克服できない矛盾があるということである。
自己放棄の弁証法的展開がその発展につれてもたらすものとして、個がしだいに前面に出てくるということがあるかもしれない。創出された理念が理念として通用するためには、それが社会で広く認められなければならないかもしれないが、理念の崩壊をもたらすのは自我であり、自己放棄の弁証法的展開をもたらす根本は自己放棄を求める自我であるとするなら、自己放棄の弁証法的展開のなかでその自己放棄を求める自我は重畳的に重なって行くことになり、自我という要素がそれだけ大きくなっていくだろうからである。さらに自己放棄の弁証法的展開が源初の肯定性=存在即肯定の実体性への希求とも絡み合っているとすれば、そこから個という要素を切り離すことはできないであろう。
引用・参考文献
『カラハリ狩猟採集民』田中二郎編 「砂漠の水――ブッシュマンの儀礼と生命観」今村薫
(頁先頭)
第一項 クロマニヨン人
自立期はいつ頃から始まったのであろうか。本論の理論は二つの自立期とその間の過渡期という構造から展開しているから、自立期の時期は問題ではないともいえるのであるが、源初の肯定性が存在即肯定であるとともに前本質の肯定、前本質が肯定するものの肯定でもあり、さらに古い中心理念が自己放棄の弁証法的展開において再定立されていくということから、自己放棄の弁証法的展開を具体的に考えようとすると、前本質期がどういう状態であったのかが問題になるし、その意味で自立期がいつ頃から始まったかも問題になる。
洞窟芸術
自立期が始まった時期については、自己放棄の第二段階の中心理念の核に神的存在・超自然的存在があるとすると、そのような存在が考古学的資料でいつ頃から見られるかを考えればいいことになる。神や超自然的存在と結びつくかもしれないものとして、後期旧石器時代の洞窟絵画などに、呪術師としばしばいわれる像がある。2万年前のフランスのラスコー洞窟には、矢らしいものが刺さって傷ついたバイソンの像が描かれており、旧石器時代人の狩猟をうかがわせる最古の岩絵の一つとされているが、バイソンの前に描かれた人物像を当時のシャーマンとみなし、狩猟の成就を祈願する儀式の場面と解釈する研究者もいる。洞窟絵画に描かれている半人半獣像も呪術師と解釈され、後期旧石器時代後期マドレーヌ文化のレ・トロワ・フレール遺跡の、一つは鹿の角をつけ鹿の毛皮を着て、野馬のような尾をつけて踊っている、もう一つは野牛の角をつけ笛を吹いて立っている、この二つの絵も呪術師と考えられており、呪術的思惟がはたらいていたことは疑えないといわれる。ただ、呪術師は人間であって、神でもなければ超自然的存在でもないし、呪術そのものも、呪具のようなものを使うことはあるが、人間のある種の能力の使用ともみなせるので、神的存在や超自然的存在と結びつくとは限らない。そこに見るべきものは、日常性の延長であり、前本質との連続性かもしれないわけである。ただ、動物にはそのような行動はみられないから、単純に前本質の日常性の延長・本質との連続性を見ることは間違いかもしれないわけである。
チェコスロバキアのドルニ・ベストニッツェで発見された二万五〇〇〇年前の集落跡は、五軒の家屋からなっているが、そのうちのとくに注目される三軒のうちの一番広いものは、おそらく共同家屋で、もう一軒は大型の炉の周辺から一万点以上の石器が発見されており、石器を作る作業場だったことは明らかとされる。残る一軒は半地下式になっていて、中央にある炉の中から、動物の頭や脚を形どった泥像が二〇〇個以上も出てきて、その泥像は、頭や脚のあちこちに傷がついているところから、狩猟呪術と関係があるのではないか考えられ、儀式の際に使用される祭場だったのではないかとされる。ドルニ・ベストニッツェでは呪術空間は生活空間と区別され、それ独自の存在空間を形成しているともいえるわけであり、クロマニヨン人たちの呪術が、生活空間との区別性の上に存在していたともいえる。それは、クロマニヨン人たちの呪術が彼岸性と結びついたものとして在ったことをしめしているのではないだろうか。洞窟壁画も洞窟の奥や、時には到達するのに困難性が伴う場所に描かれていることも多いことをみると、洞窟壁画も彼岸性と結びついているとも考えることができる。
呪術が神的存在や超自然的存在と結びついているのは、特にシャーマンなどの場合であろう。デヴィット・ルイス=ウィリアムズは後期旧石器時代の呪術師像ではなく、洞窟絵画などにしばしば見られる幾何学的な図形に注目し、洞窟絵画そのものがシャーマンによって描かれたのではないかと考えている。実験室などでの意識変容状態にある被験者が、内在光学現象と彼がいう現象で見る、点・網目・ジクザク・入れ子状の懸垂曲線・蛇行する線などをふくむ幾何学的図形と、後期旧石器時代芸術に見られる抽象的な幾何学的図形とがよく似ており、後期旧石器時代芸術の幾何学的図形はシャーマンの意識変容状態と関係するのではないかと考えるのである。さらに彼は、やはり人間の神経システムによって生理学的に生み出される、彼が「強度に満ちた意識の軌道」と呼ぶ意識変容状態の推移を考える。その最後のステージ3に入ると、イメージに際立った変化があらわれ、このとき多くの人々が、自分のまわりをとりかこみ、深みへと引きずり込むようにみえる旋回する渦や回転するトンネルを経験し、外部からの情報をしだいに排除するようになり、被験者はますます自閉的になっていく。彼らは幾何学的なイメージと図像的なイメージとを混ぜあわせ、図像イメージは記憶に由来し、しばしば強力な感情的経験に結びつけられ、被験者たちはイメージは実際に見えたとおりのものだと断言する。人々が動物になるように感じたり、身の毛もよだつような、あるいは気が昂ぶるような何かへの変身を経験したりするように感じるのは、この最終段階においてである。トゥカーノ族やアマゾン盆地のほかの民族の間で長年調査をおこなったジェラルド・ライヘル=ドルマトフも、トゥカーノの人々が見て描いたものと、実験室での科学研究によって独自に確立された内在光学現象との間の並行関係を示したという。トゥカーノ族によって認識される第二の段階では、人間・動物・奇妙な怪物などの認識可能な姿かたちが知覚される。彼らが見るものは「ヤヘの蛇」、すなわち百獣を制し狩人のために解き放つ動物の主であり、太陽の父であり、アナコンダの娘であり、その他もろもろの神話上の存在である。ウィリアムズによればトゥカーノ族の第二の段階が、ステージ3に相当する。ヨーロッパにおいて、中世には意識変容状態は重視され、近代には無視されるようになる。このことが、彼岸的なものを重視する社会において意識変容状態も重視されるということを意味するとすれば、後期旧石器時代の洞窟の幾何学的図形は、当時の社会が彼岸的なものが重視される社会だったということを示しているともいえる。
ウイリィアムズによれば、洞窟内に立ち入ることは、後期旧石器時代の人々にとっては、霊的世界の一部に入り込むことであった。幻影的、ないし霊的な世界は、描かれたイメージや彫刻されたイメージとともにこうして物質性を与えられ、そして宇宙論的に厳密に位置づけられる。それは人々の考えや心のなかだけに存在する何かではなく、霊的な地下世界はそこにあり、触知可能で物質的なものであった。洞窟の岩壁は洞窟内に立ち入った者たちと階層的宇宙の最下層の一つとを隔てて生きた膜のごときものであって、イメージは、岩壁に描かれるというよりは、むしろ描き手と霊界の間に存在した生体膜から解放され、またはそれを通して誘い出されたものであり、この膜の背後には、精霊動物と精霊それ自体の住まう領域があり、洞窟内の通路と部屋はまさしくこの領域の奥深くへと通じていたのである。ウィリアムズに従うなら、後期旧石器時代の呪術師の像ばかりでなく洞窟絵画全体、さらにはそれらが描かれた洞窟そのものが霊界・彼岸的世界と結びついてしたし、アマゾンの原住民のように神的観念も持っていたかも知れないわけである。後期旧石器時代のクロマニヨン人たちは自己放棄の第二段階にいたかもしれないし、あるいは、彼らにおいて霊界と物質性が不可分に結びついていたとすれば、彼らがより抽象的な神概念に向かう途中であったとも考えられるが、逆に後期旧石器時代がすでに自己放棄の第二段階の自己崩壊期、彼岸的な理念から此岸的な理念の創出へと向かう時期だったことを意味しているとも考えられる。どちらにしても、後期旧石器時代のシャーマニズムが霊界と結びついているなら、すでに新しい自立期に入っていることを示しているといえる。ただ、トゥカーノ族の第二段階の強度の活動は、最終段階の、もっと静謐なヴィジョンへと道を譲ることになるというから、トゥカーノ族の根底にあるのは存在即肯定への希求なのかもしれない。
ウィリアムズの主張に対して、ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーは否定的である。ペッツィンガーはヨーロッパ全体368ヶ所の洞窟に残された氷河期の記号をデータベース化する中で、ウィリアムズが意識変容(トランス)状態の中で神経系作用が内視するとする7つの図形を分析し、シャーマン説に合致しそうな有望な遺跡が年代と場所の離れた三ヶ所だけで、その他3、4種類の候補の記号と手形がある遺跡がもう9ヶ所では、氷河期ヨーロッパでシャーマニズムが実践されていたことの十分な裏づけにはならないし、そのうえジクザグと渦巻きがほとんど見られないこと、候補記号が遺跡内の同じ場所にまとまっていないことを考えると、明確な結論を導くことはできないという。ただ、だからといってヨーロッパにいた初期の人類がスピリチュアルな信仰をもっていなかったということにはならず、彼らの住居から出土する象徴的な品や、壁画に描かれたイメージから、そうした信仰はおそらくあっただろうと、ほとんどの学者と同じように彼女も考えている。彼女のデータペースによれば、ヨーロッパ氷河期の洞窟に見られる全記号の三分の二が最も初期の遺跡で用いられており、記号がこれほど早い時期に広範囲に普及していたことは、記号の始まりは現代精神が芽生たとされる、五万年前から四万年前の「創造の爆発」より以前のことと考えられるという。
ある種の動物と記号がそれぞれ男と女を表わすという、旧石器時代の洞窟芸術に対するルロワ?グーランの解釈も、男女という相反する二極性が強調されているという意味では、その洞窟芸術が自己放棄の第二段階以降のものであることを示しているといえる。
埋葬跡と死後の世界
死後の世界もまた彼岸的なものである。そのことから、埋葬遺跡に死後の世界と結びつくものがあったとすれば、人類が新しい自立期に入った時期を示しているといえるかもしれない。後期旧石器時代のクロマニヨン人の埋葬遺跡からは、彼らが死後の世界を考えていた可能性が窺える。その墓には装身具を副葬した例が多い。装身具のほか、故人が生前使っていたと思われる石器などの道具や食物も副葬されている。死者に食物など必要ないから、それらの副葬品は死者の死後の生活を考えてのことと思われる。中東スフール洞窟やカフゼー洞窟からは、約10万年前のムスティエ文化の特徴であるルヴァロワ石器とともに出てきたクロマニョンの祖先達がみつかっている。その埋葬跡に人類の最初の宗教性が見出せるとフレデリック・ルノワールは言い、また「この埋葬跡でも、また世界の各地でも、遺体は胎児のように縮こまった姿勢で埋葬されているが、これは、死が新たな出生と見なされていたことを物語っている。人類の進化に伴なって、徐々に手の込んだ装飾品が、遺体の脇に埋葬されるようになる。死後の大旅行の装備なのだろうか。それとも戻ってきて生存者に災いをもたらすことがないように、との厚いもてなしなのだろうか。どちらなのかは断定できないし、どちらであっても問題はないが、両者とも、死後も魂が存続すると信じられていたことの確かな証である。」(『人類の宗教の歴史』フレデリック・ルノワール)という。
旧石器時代の埋葬跡が死後の世界に結びつくとして、副葬品として装身具のほか、故人が生前使っていたと思われる石器などの道具や食物も副葬されているということは、死後の世界も現生と同じ世界と考えていたということであろう。現世の人間にとって、死者は死後の世界におい、現世と同じように生きている、その意味では現生と同じような存在なわけである。死者には赤色オーカーをふりかけてあることが多い。赤は血の色であり、生命の色であるとも言われるから、死者を生きた存在と見なすための仕掛けとも考えられる。
クロマニヨン人が死後の世界を考えるようになったことは、創造の情熱が生存という枠を超えたものであることと対応しているようにも見える。生存をも無化する創造的無としての自我、創造的無としての自我は生存を超えた存在であり、もはや単に生存するだけの存在ではない。生存すなわち現生を超えた存在として、より拡大された世界、現生だけでなく死後の生活を含む世界に向かう契機をもっているといえよう。そして、創造の情熱は生存的なものを単に拒否するわけではなく、生存をも創造への可能性として含むのであり、しかも生存している自我でもあるから、一方では死後の世界においても現生と同じ生活をすると考えられても不思議ではないわけである。
死者そのものにとっては石器や食物は不必要なものである。死後の世界を考えていなとすれば、死後の生活もないのであるから、余計にそれらは不必要なものである。しかし、石器や食物という不必要なものが添えられていたということも事実である。そして、それら副葬品を添えられることによって、死者は生きている状態であると同時に死んでいる状態という両義的な存在ということになる。それは源初の肯定性に結びつく状態ともいえよう。さらにいえば死後の世界が源初の肯定性の外化になりえる契機になるともいえる。クロマニヨン人が死者に赤色オーカーをふりかけるのは、死者の甦りを祈る呪術的な意味があったとも考えられている。その反面、死体の上に石のおもしや大きな動物骨をおいたり足を縛ったり、あたかも死の世界から生の世界にもどるのを防ごうとする意図の読みとれるものもある。。死者に対する相反する感情があったということになるが、これも死者が両義的な源初の肯定性と結びつく存在だったことに関係するのかもしれない。死者という存在そのものが、死んではいるが体として横たわっているわけであり、現世とあの世との中間にいる存在ともいえるし、生きて存在している状態と無存在になった状態の境に存在しているともいえるわけである。
前本質の過剰性
クマニヨンロ人が死後の世界を考えて石器や食物を副葬したとすれば、埋葬者あるいは埋葬者の死後の生活にさえそれらが必要とされるということは、石器や食物といった生活必需品の価値の拡大・過剰性であり、死後にも生存するということは生存の拡大、生存の過剰性ともいえるであろう。あるいは単に目の前の死者への愛着でそれらを添えたにせよ、それはそれらの物をもはや必要としない死者に添えられるのであり、それもまたも石器や食物の価値の拡大・過剰性といえるであろう。
過渡期において、前自立期の本質と新しい自立期の本質である創造的無は並立しており、そのことから創造的無という立場からいえば前本質は無であるが、一方前本質は本質として在る以上、創造の情熱に対して無力な存在としてあるわけではなく、その意味で前本質は無ではなく有、創造的有ということであった。すなわち、前本質は実体的に創造的有であるということになるが、さらにその創造的有としての前本質を改めて創造的無という立場から見れば、その創造的有は幻想であり、幻想を実体的なものしているということは自己放棄ということであった。では、過渡期において前本質が実体的に創造的有ということを、前本質からみればどういうことになるのであろうか。自立期における創造的無が前本質に反するようなものをもたらすかもしれないのに対して、創造的有として前本質があるということは、創造の情熱が前本質に反するようなことはないということであり、創造の情熱と前本質が重なり一体化して在るということである。それは前本質は前自立期の本質であり、同時に前自立期の本質を超えたものということになり、過渡期において前本質は、一種の過剰な前自立期の本質ということにもなる。その過剰性は過渡期において改めて創造的無によって幻想化された前本質についてもいえるであろう。幻想化される前本質とは過剰性を帯びた前本質なのである。それが実体的であれ幻想であれ、創造的有という属性が加えられた前本質は、本来の前自立期の本質から見れば過剰性を帯びているといえるわけである。ただ、過渡期においてはその過剰性は潜在的なものに留まるであろう。前本質は創造の情熱にとっても創造的有であり、それは実体的なものでもあったのだから、過渡期における生活において、前自立期的な生活を人間はおくるであろうし、その生活に前本質の過剰性が何らかの形で現れることもないであろう。
では、新しい自立期になってこの前本質の過剰性はどうなるのかということであるが、創造的無の中で前本質がその本質性を解体されていくなら、過剰な前本質も解体されていくだけであろう。しかし、自己放棄の弁証法的展開の中で、前本質は解体され痕跡さえ留めなくなるというわけではない。前本質は外化され、また再定立されるのである。では、新しい自立期になって過渡期における前本質の過剰性はどうなるのであろうか。過渡期においてその過剰性が潜在的なものであったとするなら、新しい自立期になれば何らかの形で、過剰性が表面に現れてくるかもしれない。過剰性が表面に現れてくるということは、前本質とその存在の在り方の膨張・拡大現象が生じてくるということであろう。例えば、源初の肯定性の外化が生じるとすれば、それは前本質の外化であり、死後の世界が前本質の外化である以上、死後の生活はまた前本質期の生活でなければならない。
前本質が生存と結びついていたなら、生存の外化ともいえるわけである。生存の外化といっても、現実には人間は生きているのであるから、それは生存の拡大ということになり、それは生きている現生から、さらに別の世界への連続的拡大ということになるであろう。旧石器時代の埋葬跡の副葬品が死後の世界においても生存活動する人間というものを示しているとすれば、過剰な前本質が単にこの世で生存活動をしているばかりでなく、死後の世界とそこでも生存活動をしている人間という観念を作り出したともいえるのである。あるいは必ずしも死後の世界という観念を旧石器時代人は持っていなかったかもしれないが、死者に石器や食物を副葬するということは、死者にはもはやそれらは必要ないものなのであるから、必要ない者にそのようなものを副葬するのは過剰な行動であり、前本質の過剰性がそのような行為を行わせたとも考えられるわけである。あるいはそのような過剰な前本質がもたらした死者への過剰な反応が、さらに死後の世界というような観念を作り出すことになっていったのかもしれない。自立期になって過渡期の前本質の過剰性が顕在化し、旧石器時代の埋葬跡から生存をめぐる過剰性が認められるとすれば、逆にそのことは前本質が生存と密接な関係があったということを示しているといえるのではないだろうか。
自立期への移行とともに、源初の肯定性の実体的は失われる。その実体性喪失の中で、幻想としてであれ、直接的に自我を肯定性と結びつけることは出来なくなるであろう。しかし、死後に生きる自分に対してならば、肯定性を維持できるかもしれないし、死後の肯定性を実体的とみなすことも可能かもしれない。いわば、失われた肯定性は死後の世界において甦るわけである。発想を逆転させれば、死後も人間は現世と同じ生活をしているということは、現世の生活は単なる現世以上のものとなる。すなわち、死後も人間は現世と同じ生活をしているということは、現世の生活は死後の生活と同じということになり、死後の世界が過渡期の甦りであり、源初の肯定性の世界であるとすれば、現世の生活もまた源初の肯定性を帯びるということになるわけである。自立期において現世が死後の世界の肯定性によって肯定化される存在でしかない、すなわち現世の肯定性は死後の世界の肯定性に依存せざるを得ないとすれば、埋葬あるいは死後の世界は、幻想であれ生きている人間を再び肯定的な存在にするための装置・媒介物になっているのだといえる。これは自己放棄の弁証法的展開の第二段階における、源初の肯定性の再定立にも関わる問題かもしれない。
一方、死後の世界の肯定性は現世との連続性の中で獲得されたものであり、その現世は実体としての源初の肯定性を喪失した存在である。死後の世界の肯定性は、現世から切り離され、自立化する形で維持されていかなければならない。すなわち、現世と来世の関係が、現世→来世→現世というように往復的なものだったのが、来世→現世という一方通行的なものに形成されていかなければならない。このような方向性のなかで、死後の世界の肯定性を基に神のような観念が作られていったのであろう。源初の肯定性の外化したものが神であるといった場合、そこには一つの飛躍があり、神が源初の肯定性と結びつくためには、媒介物が必要であった。
後期旧石器時代には、住居跡から離れて存在する墓地がまだなかったようで、死者は住居の近く、同じ洞穴の床下などに葬られていた。その意味では、ドルニ・ベストニッツェで発見された集落跡の呪術小屋と同じ性格を持っていたと考えられる。違いは、呪術においては、クロマニヨン人は集落内の区別された場所に呪術空間を持つと同時に、生活空間から離れた洞窟のような場所にも呪術空間を持っていたのに対して、墓地が生活空間から切り離されるようになるのはずっと後の時代だということである。墓地という概念は、生者の世界が死後の世界と区切られた一定の範囲内にあるという思想と裏表をなすものだという考えもあるが、クロマニヨン人の場合、住居と墓地が同じ場所にあるということは、生者と死者は区別されていると同時に、生活者としては連続的なものとして区別されていなかったということにもなる。
死後の世界の自立化が神の創出に結びついたとするなら、死後世界の自立化が住居と墓地の分離に必ずしもつながらないだろうということがいえる。彼岸性を神が担うようになるとすれば、死後世界はその分彼岸性を担わなくてもいいということになるから、住居と墓地を分離して墓地=死後世界の彼岸性を強調する必要もその分ないわけである。それよりも、墓地は現生と死後世界の連続性という側面を担っていたかもしれない。その連続性の中で現世にも肯定性がもたらされるからである。もしそうなら、住居と墓地が分けられるようになるのは、自己放棄の第三段階と関係するということになる。第三段階においては此岸性が強調されるわけであるが、住居と墓地を区分けするということは、住居が意味する此岸性を強調するために、相対的に墓地の彼岸性が強調されなければならなくなるともいえるわけである。
あるいは、失われた源初の肯定性への希求が、死後の世界というような装置を作り出したのかもしれない。ただ、源初の肯定性への希求が存在即肯定への希求でもあるとすると、そのような装置を必要とすること自体が矛盾なわけである。あるいは、そのような矛盾をも超えさせるほど源初の肯定性への憧憬・希求が強かったということなのかもしれない。
装飾品
旧石器時代の遺跡からは生存とは直接関係ない物も出土しており、そのようなのとして装飾品や装身具がある。古いものではイスラエルにあるカフゼー洞窟とスフール洞窟から、それぞれ9万2000年前と、少なくとも10万年前のものが見つかっている。これらは直接生存に必要なものとはいえない。それに対し生存・現世を超えた世界として新しい自立期の世界があるとすれば、これら装飾品も死後の世界と同じような意味をもつていたのかもしれない。男性も女性と同様に身を飾っていたようで、グラヴット文化では男は女と同じぐらい装身具をつけて埋葬されているし、スペイン国境近くの南フランスの遺跡ラ・パルマ・グランデでは、男性(二体)の方が一体の女性よりもたくさんの飾りをつけていた。このことから、装飾品が男女といった性別とは関係ない、自我そのものと関係していたものだということがいえる。
約二万九〇〇〇年前のロシアのスンギール遺跡で、一万三〇〇〇個ものビーズが出土しており、そのうち三〇〇〇個は成年男性の墓から出ており、一万個は等分ずつ、共同墓地に並んで埋葬された二人の男女の子供の死体とともに出土した。発見されたときビーズは鎖状に並んでいおり、皮製の服に縫い付けられていたと考えられている。服そのものは生存にとって必要なものだったといえるが、防寒具や肌を護る目的と言う意味からは、衣服に装身具をつけることは意味がないであろう。装身具が衣服に付けられているということは、衣服が一種の過剰性を帯びるということであり、さらに装身具自体を、過剰な衣服とみなせるのではないだろうか。身体彩色も身体を装飾するという意味では同じであり、それは装飾品を付けた衣服を身に纏うのと同じ意味を持っていたのかもしれない。もし装飾品を付けた衣服や装飾品そのものや身体彩色が過剰な衣服とすれば、それも前本質の過剰性の顕在化、と結びついていたかもしれないし、そうすると埋葬ばかりでなく装飾品からも、人類は少なくとも十万年前には新しい自立期に入っていたということにもなるわけである。さらにいえば、衣服は体の外にあるものであるが、生存に必要なものということでは体の一部ともいえ、その体の一部としての衣服が装飾されるということは衣服の過剰性であり生存の過剰性ともいえるが、外部にあるという側面と結びつければそれは源初の肯定性の外化ということにもなる。その源初の肯定性の外化である装飾品を付けた衣服や装飾品を身に着けるということは、それを身に着けた人間は外化された人間であり、逆にいえば装飾品は人間に源初の肯定性をもたらすものという意味をもっていたということになる。それは源初の肯定性の再定立ともいえよう。あるいは衣服の体の一部であり外にある物という衣服の両義性が過渡期の対極性と結び付き、衣服に源初の肯定性を帯びさせるとともに、それが装飾されることによって過剰性を帯び、過渡期の源初の肯定性の外化という意味を持ってくるともいえる。
自我の拡大
装飾品や装飾された衣服に対して、身体彩色は、衣服や装飾品に比べより身体に密着しているので、身体の一部でその外部にあるものといった両義的な言い方は相応しくないともいえる。身体彩色については自我の拡大として解釈できるかもしれない。身体彩色された体もその人間の体であるが、彩色されている分その体は一種の拡大された体ともいえる。さらにいえば、それは自我の拡大という意味を持っていたのではないだろうか。死後の世界を考えるようになるということも、自我の拡大といえる。経験的には現生と死後の世界は区別されるものであり、死後の世界を考えるということは、生者として生きる自我と死者として生きる自我の二つの自我を考えることだともいえるが、しかし、両方の世界を生きるのは一つの自我でもある。人間が単に現世を生きるだけではなく、死後も生きているのだとすると、そのように死後も生き続ける人間とは、単に現世を生きる人間より拡大された生を生きているということであり、死後の世界をも生きる自我には自我の拡大が見られるともいえよう。あるいは、これは自我の拡大があって人間に死後の世界という観念が生じてきたのかもしれない。
死後の世界の出現を新しい自立期と結びつけるための自我の拡大についてであるが、二つの自我の拡大を考えてみたい。一つは既に述べたように、現世と死後の世界を生きるひとつの自我ということであり、その自我の拡大を生存という枠を超えた創造の情熱に結び付けるものである。ただこの場合は、前本質が生存の枠内にある、さらにいえば生存=現世が前本質と強い結びつきがあるということでなけばならないであろう。もしそうでなければ、前本質期にすでに死後の世界という観念が生じていた可能性があるからである。逆に生存=現世が前本質と強い結びつきがあるとすれば、過渡期においては前本質は実体としても創造的有であったのであるから、創造的無としての自我も前本質に拘束され、その枠内を超えることはないであろうから、死後の世界という観念が生じるのは新しい自立期になってからといえる。
もう一つの自我の拡大は、過渡期の自我についていえることである。単に自我の拡大ということでは、それを創造の情熱に直接求めること、すなわち創造の情熱としての自我がそのまま拡大された自我であるとすることは適切ではないであろう。創造の情熱としての自我は、あくまでも創造の情熱としての自我として在り、それを超えた拡大された自我として在るわけではないからである。それに対して、過渡期におていは前本質と創造的無という二つ本質が併存していたが、それは前本質としての自我と創造的無としての自我が存在しているともいえる。一方、過渡期においても自我はただ自我として存在しているともいえる。その前本質としての自我と創造的無としての自我を統一した自我は、前本質としての自我、創造的無としての自我から見た場合、拡大された自我としてあるといえよう。ただ、この過渡期の拡大された自我が、もし前本質が生存と密接不可分なら、死後の世界という観念を生み出すことはないであろう。過渡期の自我は前本質としての自我と創造的無としての自我を離れて存在していないのであるから、過渡期における創造の情熱としての自我が前本質の実体性に拘束される以上、過渡期の拡大された自我も生存=現世の枠内から出ることはないからである。結局、過渡期において自我の拡大ということがいえたとしても、その自我の拡大が死後の世界という観念を生み出すのは自立期になってからということになってしまうわけである。過渡期には潜在的な自我や生存の拡大があり、自立期になってそれが死後の世界や装飾品や身体装飾として顕在化するといえる。過渡期においては自我の拡大が起こった。その自我の拡大に対し、新しい自立期においては自我の縮小が起こるであろう。何故なら、過渡期における自我の拡大とは前本質と創造的無の並立としての自我であるとすれば、新しい自立期における自我は単なる創造的無を本質とする自我だからである。すなわち、新しい自立期になると、過渡期の拡大した自我の中に新しい自立期の自我からはみ出した部分が出てくるということである。このはみ出した部分が、死後の世界や装飾品や身体装飾として現れ出てくるのだともいえる。そうすると、現世と死後の世界を生きる自我や身体彩色した自我や装飾品を付けた衣服を着ている自我は過度期の拡大された自我であり、新しい自立期の自我をはみ出した自我であり、それは源初の肯定性の外化の契機になっていくであろう。
道具の過剰性と自立化
装飾された衣服と同じようなことが道具にもみられる。マドレーヌ文化の特色は、石器に代わって骨角器が使われるようになったことであるが、銛の推進器にはしばしば動物像が美しく線刻されたり彫刻されており、尖頭器にも飾りがつけられ、一種の美術的価値を持つようになっている。単なる狩猟用の道具なら、そのような彫刻は必要ないであろうから、これらの事例も、道具が単なる生存のための手段以上の意味を持ってきたことを示しているといえる。装飾された衣服とそれ自身を身に着ける装飾品を考えると、装飾された衣服は衣服としての機能を持つが、単なる装飾品は直接的機能として生存に関して何の役にも立たないという違いがあるが、石器には衣服でありながら生存にはまったく役に立ちそうにない衣服とでもいえるものがある。例えば、生存のための道具の延長線上にありながら、実用的には無意味なものとして、フランスのヴォルグ遺跡で見つかった、クロマニヨン人のソリュートレ文化に属する非実用的な石槍がある。総数一四個、厚さ9㎜、23センチから最も長いもので35センチの石槍で、あまりに精巧で肉薄なために、一時は新石器時代のものではないかともいわれたこともあったという。その後ロージュリ・オート遺跡でも同型品が発見され、ソリュートレ文化のものであることが確認された。しかし、あまりにも薄くて、しかも美しい作品なので、おそらく実用品ではなく、特別な用途のために作られたものだろう、ということに説の一致をみたという。やはりソリュートレ文化の「月桂樹葉尖頭器」とよばれる葉形石器も、三五センチにも達する長いものがあり、全体の形が美しいばかりでなく、裏表両面にほどこした打彫のあとも整然としていて、火打石の打製石器として、これほど美しいものは世界中で他に類がないといっても過言ではないといわれる。月桂樹葉尖頭器の大きいものも薄く(長さ三五センチに対して厚さ二センチ)、槍先につけても投げでもしたらすぐ折れてしまうような代物である。ヴォルグ遺跡の非実用的な石槍や月桂樹葉尖頭器は、儀式用、あるいはただ見せびらかすための道具ではなかったかといわれるが、ヴォルグ遺跡の非実用的な石槍は、道具そのものの非実用性にまで進んでしまったわけであり、そこにも過剰性がみられる。その精巧で美しい非実用的な石槍は、石槍製作そのものが目的意識的に追求された結果かもしれない。もともと石器は生存活動と密着していたものだったことを考えるなら、ヴォルグ遺跡の石槍のように生存道具と遊離した在り方は、生存のための手段としての石器から、石器がそれ自身として求められる一種の自立化ともいえる。
自己放棄の弁証法的展開からその道具製作の自立化を考えるなら、それは前本質と源初の肯定性の外化と関係していることにもなる。衣服が体の外にあって、体の一部であるとすれば、道具も同じようなものといえる。この場合、衣服や石器が体の外にありながら体の延長としての機能を持つものであり、体の延長としての衣服や石器という側面は個体の生存と特に結びついているといえる。衣服や石器が体の外にありながら体の延長でもあるという、この衣服や石器の二面性を考えると、その二極性・対極性が石器に源初の肯定的との結びつきを与えたとすれば、源初の肯定性が外化するとき、体の外部にあるという側面と外化が結びつき、それは体の延長=生存道具という側面に対する石器の自立化をもたらしたと考えられるのである。体の延長としての石器が、生存のための道具という範囲から逸脱できないとすれば、体の外に在るものとしての石器は、生存という枠を越えて、石器の源初の肯定性的要素を追求するということになり、それが石器製作の自立化として、石器製作そのものを目的とするような行動をもたらし、ヴォルグの石槍のような美的すぎて実用的ではない石器が生み出されたということではないだろうか。装飾された衣服も、衣服の自立化といえる。見せびらかしや儀式用、あるいは社会的なシンボルとして使用されたとしても、それが源初の肯定性と結びつくものだったからこそ、それらの用途に二次的に使用されたとも考えられるのである。あるいは、儀式が何らかの形で外化された源初の肯定性と結びついているのだとするなら、儀式のための道具にも源初の肯定性が求められ、それが源初の肯定性の外化とも結びついて、生存を離れた石器製作そのものを目的とするような自立化を生じさせたということもかもしれない。どちらにしても、源初の肯定性の外化は石器・道具あるいは衣服の自立化としても現れ、自立化した石器・道具あるいは衣服・装飾品は源初の肯定性と結びついているということであろう。
道具の使用は人間だけにみられるものではない。チンパンジーの道具使用は良く知られているが、ラッコのような哺乳類、鳥 、昆虫、魚類などにもみられ、霊長類も含め、これら系統的にもかけ離れた分類群で道具使用が進化した理由として、これまで報告されている道具使用行動の多くは道具なしでは利用が難しい食物を効率よく入手することを可能にする機能を持っており、道具使用によってもたらされる採食上の利益が、道具使用の進化の必要条件であった可能性が高いとされる。それらの道具製作は生存活動と結びついているわけであるし、人類祖先の道具製作にも同じことがいえるであろう。リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガーによれば、剥片と石核がクラスター状に蓄積されてるいのが世界最古とされる考古学遺跡の特徴であり、最初の道具製作者であるオルドワンの人たちは、彼らが石器を作るときは刃を鋭くすることに気をとられ、剥片を作る際、ほとんど何の苦もなく石核の形をきちんと整えることもできたが、石核の最終的な形には無頓着だったし、また、石核石器は、おもに骨を叩き割って骨髄を取り出すために用いられ、その目的にとって、形はほとんど重要でなかった。しかし、次のアシュール期では、しばしば石核石器が意図的に、細心の注意を払って形作られていて、石核石器の形が重要なのは明白であったという。ただ、アシュール文化は、いったん始まると意外なほど保守的で、およそ一六五万年前に始まってから二五万年前頃に終わるまでほとんと変化がなかった。もっとも、見たところほとんど変化がなかったといっても、いくつかの重要な点で、アシュール一括遺物ははじめと終わりでみるとはっきりと異なっているといい、初期アシュールの握斧はずっとぶ厚いうえ、仕上げが徹底しておらず、左右対称でもないのに対して、後期アシュールの握斧は同じく粗雑なものもあるが、多くはかなり薄手で仕上げもきちんと施されていて、平面でみただけでなく、縁を前にして立体としてみても、相当左右対称であった。。クラークとピゴットによれば、原人段階のオルドワイⅡ~Ⅳにおいて石器の推移をみると、握斧は機能的進歩と共に、優美さ・滑らかさ・取り扱うときの心地よさが加えられてきており、作者としての誇りが完全な物を作ろうとする意志を人類に与え、握斧の改良は単に機能的考慮ばかりでなく、美的感覚も作用していると思え、もつとも立派に作られたものは大多数の多分合理的に作られたものよりも美しいという。また、みごとな出来映えで使う気がおこらならなかったか、少なくとも誇らしげに見せびらかすのが目的だったと考えたくなる、使用した跡の少しもないものがあるという。ヴォルグ遺跡の精巧で美しい石槍へ向かう道は、すでにアシュール期の石器に始まっているともいえるわけであるが、あくまでも生存道具としての石器製作という目的の範囲内でのことであった。道具の進化の過剰性として精巧で美しくはあるが、非実用的なヴォルグ遺跡の石器があるわけである。
前本質の内容が生存的なものとするとき、このような石器製作の美的なものに向かう方向性も含めての生存が前本質というべきではないだろうか。この場合、石器の進化にみられるような一定の傾向性という要素、石器の機能性と結びついた美的要素、という二つの要素に分解できる。前自立期において美的な要素を伴う石器の進化があったとすれば、それは前本質期の持つ要素として源初の肯定性の内容の一部となっていったといえよう。その意味で、美しく形の整ったものへと向かう石器の進化の延長線上に出現しながら、非実利的で超生存適応的石器であるヴォルグ遺跡の非実用的な石槍は、源初の肯定性の外化とも関係するものとして、人類が新しい自立期に入ったことを示しているとも考えられるのである。
第二項 ネアンデルタール人
最古の埋葬遺跡は中東の約10万年前のスフール洞窟やカフゼー洞窟といわれているが、それは初期ホモ・サピエンスの遺跡といわれている。それらの洞窟からはムスティエ文化の特徴であるルヴァロワ石器が出てきており、体を右向きに手足を折りまげて横たわる男の側に、すでに握斧とたくさんの動物の骨が埋められていた(『5万年前に人類に何が起きたのか?』)。40万年前のスペインのアタプエル遺跡からは、数十体分の人骨が集積されて見つかり、そこに特殊な石材で非常にきれいにつくられたハンドアックスが一点だけ投げ込まれていたという。特殊な石材で非常にきれいにつくられた石器ということには特別な意識が感じられるが、それが数十体分の人骨に対して一点しか出てこないということは、それらの遺体と石器に結びつきがあったとしてもそれは強い結びつきではなかったともいえるし、その石器をもって40万年前にすでに死後世界という観念があったとはいえないであろう(『現代思想』2016年5月号「プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか」 諏訪元・山極寿一 )。スフール洞窟やカフゼー洞窟のムスティエ文化は初期クロマニヨン人と結びつくが、ムスティエ文化はネアンデルタール人とも結びつく。とすれば、ネアンデルタール人もまた死後の世界を信じていたかもしれないし、創造的無を本質とする存在だったかもしれない。ネアンデルタール人の埋葬跡と考えられるフランスのラ・フェラシーには、二体の大人と二体の子供が埋葬されており、成人男性は頭部を石板で保護された形になっていたし、女性は腕をまげ脚は体幹におしつけられたような姿勢をとっていた。このような形は死後、紐で身体と脚を縛りつけなければ出来ないといわれ、ネアンデルタール人にも死者の蘇生を恐れるような気持ちが働いていたかもしれないとされる(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。有名なのは、シャニダール洞窟であろう。発見された9体のうち、一体の高齢の男性の人骨のまわりの土壌を調べたところ、たくさんの花粉が見つかり、今日この一帯に住むクルド人やアラブ人たちが、薬草として利用している植物であることから、そのような花に包まれて丁重に埋葬されたシャーマンだったともされている。シャニダール洞窟で注目されるもう一つのものとして、30歳を超えた、ネアンデルタールの社会ではかなり高齢の男性の人骨がある。彼は手足が不自由で、頭蓋骨や手足の骨の異常から、生前大きなケガをしており、しかもリューマチ性の関節炎を患っていたといい、さらに左目の入る眼窩が萎縮していることから、おそらく左目は見えなかったという。そのような人間がこの年齢まで生存できたということは、食べるものを仲間うちで分けあっていたと見られている(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。
ネアンデルタール人における埋葬については、それを否定する研究者もいる。シャニダール洞窟についても、発掘者の靴底について運ばれた、あるいは後から花粉が風で吹き込んだというものや、洞窟に穴を掘って住み着くネズミが持ち込んだという反論もある。ただ、洞窟はネズミの穴だらけで、他の八体の人骨で見つからなかったのは不自然で、引き続き類例を探して検証すべきともいわれ(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)、同じことは風で吹き込まれた場合にもいえるであろう。埋葬跡と見られるものがあったとしても、クラインとエドガはネアンデルタール人の埋葬と見られる跡は時折しかみられず、さらに墓には埋葬品もなく、埋葬の儀式や祭儀を示すようなものがなく、彼らが墓を掘ったのは、不愉快で都合の悪いものを生活の場から捨てるためでしかなかったのではとさえ思われるという(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。もしそうならネアンデルタール人の埋葬も、埋葬というよりは衛生目的とする生存適応的行為だったともいえ、ネアンデルタール人は前本質段階に止まっていたという可能性もある。ただ、その為にいちいち遺体を紐で縛るだろうかという疑問も湧く。東ウズベクのデシック・タシュ洞窟のネアンデルタール人の子供の場合も、遺体のそばには焚き火の跡がみられ、埋葬され、その近くで送り火を焚いたものともみなされ、埋葬儀礼が行なわれていたのではないかとも考えられている。ただこれも、ネアンデルタール人の炉はちゃんとしたものがつくられていたわけではなく、灰だまりというか、火をたいた跡があるという程度のもので、ただ焼けた地面があるだけであり、まわりに石器も出土するこがあることから、炉のまわりで何かやっていたようであるが、家の中の決まった空間で火をたいていたわけではなという指摘もある(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。そうすると、デシック・タシュ洞窟の例も、たまたま遺体のそばで炉跡が見つかったということかもしれない。ただ、その子供の死体のまわりには数頭の山羊の頭が並べられており、角が上に突き出て、まさに子供の死体を守っているようにみえるという(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。
ネアンデルタール人は装飾品を持たなかったというのが多くの研究者の見解であるようであるが、例外としてシャテルペロン文化がある。オーリニャク文化が中央・西ヨーロッパに広がった三万六〇〇〇年~三万七〇〇〇年前、後期シャテルペロン文化も繁栄していたらしく、三万五〇〇〇年前頃まで続いたが、ムスティエ文化と上部旧石器文化が混じったタイプの石器だけでなく、独自の技術を用いて骨製道具と動物の歯や象牙、骨、貝殻に、ビーズやペンダントとしてぶらさげるため穴が開けられたり、溝がつけられたりした個人的な装飾品も作っていた。住居設営跡もみられる。もっとも、このシャテルペロン文化をもってネアンデルタール人が新しい自立期に入っていたことの証拠と単純に見なすことはできないかもしれない。クロマニヨン人を真似たか、装身具を手に入れたにすぎないのではないかなどの議論があるからである(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。しかし、ネアンデルタール人が新しい本質期に入っていなければ、クロマニヨン人の装身具に興味をもたなかったかもしれないし、真似ることも、ましてや独自の技術を開発することもないのではないかともいえる。装身具や芸術品について、クロマニョン人の作品と比べてみれば、出来映えや種類に格段の差があることは確かで(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)、クロマニヨン人なみの説得力のある芸術品はひとつも出ていないし、数もきわめて少なくバラバラにしか出ないことから、この種のシンボル表現がネアンデルタール人の行動にとって本当の重要な要素だったとは考えにくい(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)ともいわれるが、人間が新しい本質期に入っていたかどうかという問題にとっては、質とか数の多さとかは重要な問題ではない。
ネアンデルタール人も赤色オーカーで身体を彩色していたかもしれない。ムステリアンの石器には底の平たい石をえらび上面にくぼみをつけた石器の容器がある。そのなかには顔料がはいっていることがあるから、液体をいれるためではなく絵の具作りに使用したのであって、その石鉢と顔料は身体彩色に用いられたのではないだろうかというのである。酸化マンガンはネアンデルタール人の遺跡に頻繁に認められる(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。もっとも、一般に受け入れられている見解では、オーカーを使って皮をなめし、また木製の道具の表面を加工処理したというものである。ただ、クロマニョンの時代になると皮なめし専用の石器が出てくるが、ネアンデルタール人の段階ではわずかしかなく、皮なめしはもっぱら自分の歯を使っていたともいわれるから(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)、赤色オーカーも身体彩色に使われていた可能性は否定できないのではないだろうか。人間ではないが、ハンガリーのタタ遺跡ではマンモスの牙を丸く切って黄土(オーカー)を塗ったものが発見されている(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。
ネアンデルタール人において、美的要素といえば握斧などの出来映えぐらいであるが、しばしば機能的に要求される必要以上の完全な形態をみせているという。その他の審美的な活動の痕跡は考古学的にはきわめて少なく、イスラエルのクネイトラ遺跡(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)で、裏に同心円状の線がたくさん入っている石器、タタ遺跡では丸く切られて黄土が塗られたマンモスの牙の他に刻線をきざんだ石が見つかっている。クネイトラ遺跡の石器については、それは芸術と呼べるほどのものではないという見解もあるし、同じことはタタ遺跡についてもいえるであろう。クネイトラ遺跡については、ネアンデルタールの化石が伴っているわけでもなく、近郊のカフゼー洞窟でも同種のものが見つかっており、ホモ・サピエンスの作品であった可能性もあるという(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。逆に、ショーヴェ洞窟の洞窟絵はクロマニヨンの作品なのかネアンデルタールの作品なのか、実は微妙なところともいわれ、最後期のころのネアンデルタールは、洞窟内に壁画らしきものを描くなど、すでに芸術活動を実践していたかもしれないともいう(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。ドイツ・マックスプランク研究所などのチームが、スペインのラ・パシエガ洞窟の洞窟壁画は遅くとも6万4800年前に、ネアンデルタール人によって描かれたという発表をおこなっており、スペインの別の2カ所の洞窟壁画も同様の年代と判明したというが(時事通信ネット版 2018/2/23/ 04:36)、その発表はますますその可能性を高めているといえよう。
彼等は動物あるいは自然そのものに特別な興味を持っていたようである。フランスのアルシー・シュール・キュールでは、ムステリアンの石器と一緒に腹足類や貝殻や黄鉄鉱の塊が出ているが、人類最初の博物館とも考えられている(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。博物館は人間が自然と自己の間に区別を設け、自然を外部として対象化しつつあることを示しているともいえる。その自然の対象化は、源初の肯定性の外化がもたらす、自然の外化だったかもしれない。さらに、その外部化・対象化は聖性とも結びついていた可能性も考えられる。スイスの竜の穴では、壁に沿って75センチほどに積み上げられた三つの石灰岩の壁の間に、みな同じ方向に向けて頭骨は頭骨、長骨は長骨というように整然と並べられた洞窟グマの骨の入った石棺が見つかっている。小さい骨はないから、わざわざ熊の死骸から頭と長い骨をとって洞穴に持ち込んだのであって、共伴するムスティエ石器からネアンデルタール人のしわざと考えられている。この種のものはドイツ、オーストリアでも存在しており、おそらく、クマ祭りなどの宗教的儀式の場で、狩猟の呪術儀式が普及していたかもしれないという(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。死者の埋葬からネアンデルタール人も来世の思想をもっていた可能性が考えられるし、熊祭りがあったとすれば一種の神観念があったかもしれず、彼らに宗教活動を認めてよいのではなかろうかと考える人間もいる(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。もしそうなら、ネアンデルタール人はすでに自己放棄の第二段階にあったということになる。
フレデリック・ルノワールは、オットーのヌーメンについて、人間は、この説明できないものに怯えると同時に魅了され、それを突き止め、所有するために、「ヌーメン的なもの」を一カ所に集積し、その際、形が奇怪で、色が特殊な石がその触媒となるが、こうした石の集積の最も古いものとして、スペインの一洞窟で発見された、五〇万年以上前、すなわち前期旧石器時代に遡る人間の顔の形をした石が頂に置かれた石塚があるという(『人類の宗教の歴史』フレデリック・ルノワール)。人間の顔の形をした石が頂に置かれた石塚には、何らかのシンボル的な意味を感じるし、もしそうなら生存に直接関係する物とも思えない。人類は五〇万年前にすでに創造的無を本質とする自立期に入っていた可能性があるわけである。もっとも、イタリアのモンテ・チルチェオの洞窟では、ネアンデルタール人が洞窟の一部に石を並べて仲間の頭骨を置く、そんな儀礼があったと一時は考えられていたが、今ではそうした頭骨は、ハイエナが野外で亡くなったネアンデルタールの頭を洞窟に持ち込んだものとする見方が有力だという(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。石塚の石は、石器を作るために集めておいたもので、頂に置かれた石が人間の顔の形をしていたのは、たまたまそう見ようと思えば思える石が載っていただけなのかもしれない。似たようなものとしてまた、ハンドアックスが数百個単位で出土し、しかも一まとめに詰め込まれたまま、使用された形跡がないアシュール期の遺跡がいくつかある。そのような過剰な石器の製作は石器の製作そのものが目的とされたのかもしれない。その多数のまとまった未使用の握斧については、オスの孔雀が羽を広げるようなもので、相手を惹きつける目印で、うまく伴侶を得たら、男性は、ほかの用済みのものと一緒に握斧も捨てたのではないかという議論もある(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。そのような性選択的な意味を持っていたなら、人類が自立期に入った証拠にはならないが、否応もない力として働く性選択的なものであったとしたら、その痕跡がもっと現代の狩猟採集民に残っていてもいいのではないだろうか。あるいは、それらの石器は単に事前に用意されていたものだったかもしれない。もしそうなら、それは人類が先を見越して行動する能力を持っていたことを示しているだけで、その能力・行動は生存適応の範囲内にあるといえ、やはり人類が自立期に入った証拠とはいえなくなる。未使用らしい握斧が多数集中した遺跡はそれほど多くなく、少数の、しかもいくつかははっきり使用形跡のある握斧が出土した遺跡のほうが普通であるという。ただ握斧は何かを叩き切るのに使ったと思われるが、多くの場合、それにしては大きすぎて使いづらく、握斧が何に使われたかは推測の域を出ないとされ、あるいは生存のための道具だけとはいえなくなる可能性もある。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人の関係も問題にされている。ネアンデルタール人とクロマニヨン人はそんなに違わなかっただろうという人もいれば、両者の間に深い溝を認め、別種とする人もいる。本論的な立場では、創造的無という新しい本質が生物学的身体と切り離して考えられる以上、別種かどうかということはあまり重要ではなく、両者とも創造的無を本質とする存在であっても問題はないともいえる。最近の研究では、現生人類にもネアンデルタール人の遺伝子が入り込んでいることが証明されている(『ネアンデルタール人は私たちと交配した』スヴァンテ・ペーボ)。 また、人間が自立期に突入した絶対年代を探るという意味では、現生人類の祖先にも同じぐらい古い時代の痕跡がある以上、ネアンデルタール人は特に重要でもないということになる。ネアンデルタール人が問題になるのは、あるいはその共通の祖先段階で、人類は過渡期あるいは新しい自立期になっていた可能性も考えられるようになるからである。ゴラン高原のベレカット・ラム遺跡からは、28~25万年前とされる人間の形ともみなせる35ミリの粗雑な溶岩塊の小立像が出てきている(『5万年前に人類に何が起きたのか?』)。また、ヒト化石出土層が三〇万年前頃とされるアタプエルカのシマ・デ・ロス・ウエソス遺跡は、化石出土層位には人骨片しかないうえ、骨格のほとんど全部位がほんの小片にいたるまで全身そろった形でぎっしり詰め込まれており、人工遺物や炉など、人がこの洞窟で生活していたことを示すものは何もないことから、他の人が穴から死体を落としたと考えるのが妥当とされるが、この習慣が単なる衛生上の理由からのものなのか、それとも儀式的なものだったのかが問題になる。クラインとエドガーは儀式・祭儀の可能性も頭から否定できないが、堆積物からは特別な人工遺物も、かつて肉がついていた動物骨も出ていないし、また儀式での供え物あるいは埋葬品と解釈できるものも見つかっていないことから、ネアンデルターネール人と同じように、自分たちの生活圏から遠く離れたところに死体を処分したいという欲求から捨てた、と考えるのが確実なところだろうとする。(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)ただ、もし儀式的なものなら最古の埋葬跡ということになる。
同種殺しと似たようなものとして食人の風習がある。大型類人猿は食糧不足の場合でも仲間を食べることはしないといわれるので、同種殺し以上にこの風習は人類に際立っているといえるであろう。現代人の食人は、イースター島などでは食糧不足から行われたのではないかといわれるが、必ずしも生存のためとはいえず、儀礼的・宗教的の理由から行われている場合も多い。未開人の食人風習の多くは、相手の霊力を自分にとりこもうという呪術的な目的をもっているとされる(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)。食糧不足から生じる食人は、生きるために他人を殺して食糧とするということであれば、個体的には生存適応の範囲内にあるともいえるが、種的には良くても中立、悪くすればマイナスともいえる。儀礼的・宗教的理由からであれば、それは完全に生存適応という範疇からはみ出ているといえよう。
これまでのところクロマニヨン人のどの遺跡からも、食人をおこなったことを示す確たる証拠は出ていないといわれる(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。それに対し、ネアンデルタール人のいくつかの遺跡から、食人が行われていたのではないかと考えられている。もしそれが、生存のためでなかったとすれば、ネアンデルタール人段階で、創造的無を本質とする新しい自立期になっていたとも考えられるわけである。ただ、多くの遺跡には見られず、食人は日常的な習慣ではなく、クロマニヨン人よりネアンデルタール人のほうが厳しい飢餓に見舞われていたからではないかとも考えられているから、ネアンデルタール人の食人はあくまでも生存のためなのかもしれない。食人かもしれないとおもわれる痕跡は、ネアンデルタール人よりさらに古く、約八〇万年前のスペイン北部ブルゴス近くアタプエルカ山脈のグラン・ドリナ洞窟に残っている。TD6層から発掘された人骨は、その二五パーセントが人為的損傷を(一ヶ所から数ヶ所まで)示しており、さらに石器による損傷の多さやつき方も、小型動物に似ていること、損傷痕の範囲や位置をみれば、TD6層の人々がほかのヒトの身体を切り刻んだのは、儀式目的でなく食物にするためだったと考えられることから、ヒトの死体をここに積んだのはほかのヒトであり、ヒトの死体を食べ、あとで動物の残骸や使った道具とともに骨をおいていったと考えられている(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。ネアンデルタール人あるいはそれ以前の人類の食人は、生存のためという可能性が高いと考えられているわけであるが、現生人類に呪術・宗教的食人がある以上、単なる食糧ではなかったとことを示す何らかの証拠が一緒に出てくる可能性もあり、生存目的以外の目的が完全に否定されるわけではないともいえる。ネアンデルタール人あるいはそれ以前から、食人がそれほどめずらしいことではなかったとすると、逆に現代人において食人がタブーとされるのか、あるいは邪術と結びついているのかが問題になる。
ネアンデルタール人が人間と自然を区別して、自然を対象化するようになっていたのかもしれないとしたが、逆に狩猟採集民の社会では動物・自然と人間の一体性という考えが強いといわれる。昔の人間は、人間ではない動物とお互いに相手に変身できたという考えは、狩猟採集民の心に広がっている一つの特徴であり、それは社会人類学の礎石ともいえる研究の対象になった、トーテム的思考の基盤であるとされる(『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン)。人間と人間が食糧としていた動物がお互いに変身できたということは、人間と食糧としての動物との境界はなくなるということであるから、それは人間も食糧となるということであろう。そして、実際に仲間殺しによる食人が行われたとすれば、その人間と動物が同じものであるという考え方が食人風習を作り出していったとも考えられるわけである。このような狩猟採集民の人間と自然の一体性には、もしそれが食人風習などを作り出したのだとすれば、一種の過剰性と結びついているのかもしれないし、もしそうなら何故そのような過剰な人間と動物の一体性が必要だったのかが問われることになる。クロマニヨン人においては、霊界・超自然界との関係で人間と動物は区別されていたかもしれない。多くのシャーマンは、自分たちのヴィジョンのなかで見る精霊動物は、本物の動物の群れと混ざり合っていると信じていて、つまり精霊動物と実際の動物はつながっているともいう(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ』)。それは、人間においては霊界と現実社会の間には膜すなわち区別があるのに対して、動物においては霊界と現実を隔てる膜のようなものはないということであろう。その意味することは、外化された源初の肯定性としての霊界が、動物によって表現されているということである。そこでは、過渡期における源初の肯定性においては人間と動物は一体のものであり、それに対して自立期になり、源初の肯定性が外化されるとともに、人間と動物が区別され、肯定的性格はもはや動物にしか与えられなくなったということである。ただ、源初の肯定性とは人間について成り立つことであり、また外化によって人間の外にあるものとされるなら、動物が源初の肯定性と結びつくといっても、人間と動物の区別性、その外化性が動物・自然にも入り込むはずであり、それが動物・自然の対象化として現れるとも考えられる。
ローネンの説(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)では、道具である以上に、火はシンボルであり、人間が意のままに消し、再生できる唯一の物質であるといい、自意識、および他者に対する根本的な意識を呼び起こすものがあったとしたら、火こそがその刺激となったという。ヒトが火を管理した証拠として、明白な炉の化石にこだわるならば、ヒトが火を支配した最古の証拠として確実なのは、アフリカとユーラシアの洞窟遺跡の二五万年前より新しいものであるが、クラインとエドガーによれば、証拠の必要条件を緩め、焼骨、四方八方に散らばった鉱物灰、焦土の一画、火壺らしきもの、あるいはこれらのセットが不自然なほど頻繁にあることも、証拠に含めてよいとすれば、北京原人の周口店の洞窟、モンタギュ洞窟(炉の洞窟)といみじくもそう呼ばれているケープ・オブ・ハースなどから、人類は五〇~三〇万年前には火を使用していたことになるという。火を管理していたかもしれない最古の証拠は、一部地面が焦げていた一四〇万年前の東アフリカの二つの遺跡や、南アフリカのスワトクランス洞窟での一五〇万年前の人工遺物に時折共伴する炭化骨がある。ただ、前者は単に野火で切り株や草木がくすぶった可能性もあり、後者も骨が炭化していることは明らかだが、洞窟外部から出土しており、自然発火による可能性もあるという。(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)どちらにしても、火の使用跡だけからは、火の使用が生存を超えた意味を持っていたということは難しいであろう。ただ、火が前自立期から使用されていたとすれば、火が源初の肯定性のシンボル的な意味を持っているかもしれない。
第三項 前本質と生存
死後の生活は現世における生存の延長されたものであり、前本質の延長されたものである。前本質と生存は密接な関係があるとしたが、その関係もより深く考察されなければならないかもしれない。創造の情熱にとって生存とは無価値なものであり、創造の情熱と生存の密接な関係ということはあり得ない。利他行動を引き起こす遺伝子は、自分自身はその存在あるいは活動能力を失ってしまうかもしれないが他の同型の遺伝子の増大にとっては有利な状況を作り出すのに対して、創造的無という人間の本質はそのような別の視点からは生存にとって有利というようなことも全くない生存に反する行動をとらせる可能性もあるわけである。創造的無において生存・反生存は半々の可能性をもつものとしてあるといえよう。しかし、そのような創造的無という状態は、進化論的には現実の人類の状態と矛盾しているといえるのではないだろうか。進化論的にいうと、生存にほんの少し有利であることが、生存競争で生き残っていく為に必要なことである。とすれば、時には生存に有利な行動をとらせるかもしれないが、しなくてもいい時に生存に不利な行動をとらせるかもしれない創造的無という状態は、生存に有利な選択と不利な選択の可能性は五分五分なのであり、人類を長い目で見れば絶滅に向かわせるのではないだろうか。それは生存に全く中立的な、生存に有利なことをするわけでも不利なことをするわけでもない遺伝子が淘汰されることなく存続していくということとは違うであろう。少なくとも、人口を飛躍的に増加させていくというようなことは起こりそうにないといえる。しかし、現実には人類は生存を続けているし、その人口も増加し続けている。また、個々人の人生というものを考えても、創造的無においては多くの人が病気や事故という原因を除けば老後まで生きるということもあり得ないのではないだろうか。自殺も創造への可能性を持ってしまう以上、もっと多くの自殺者が出てもいいともいえる。この問題については、自己放棄も考えなければならないかもしれない。最初の自己放棄が生存の過剰性を生み出したとするなら、自己放棄の選択は結局人類の増加にとって有利に働いてきたかもしれないわけである。
もっとも、創造の情熱は生存と関係しないとしても前本質が生存と密接な関係があるとすれば、このような現実の人類の姿を、創造的無という本論の立場でも説明できるかもしれない。少なくとも過渡期においては、生存は一種の実体性として創造的有であったかもしれないし、自立期になっても過渡期における前本質の実体的有性が、多くの人を創造的無の中でも自己放棄者として生存に非適応的な行為より適応的な行為をより多く選ばせているということも考えられるわけである。多くの人が自己放棄者ではなく唯一者となった場合も、自殺も自己放棄とすれば自殺者は少なくなるかもしれない。
創造の情熱あるいは創造的無もまた自我の存在を前提としている。自分が存在しなければ創造の情熱としての自分も創造的無を本質とする自分も存在しないわけであり、また自我が存在していれば創造の情熱ではない自分、創造的無を本質としない自分も存在できるわけである。その意味で、創造の情熱としての自我は存在を超えるわけではない。確かに創造的無において自我は自己放棄=自己の無存在に創造への可能性を見てしまうかもしれない。しかし、自我が本当に存在しなくなってしまえば、自己放棄=自己の無存在の創造への可能性もまた無意味になってしまうわけである。生きている人間にとって存在と生存は密接な関係があるといえよう。そして存在=生存とするなら、創造の情熱・創造的無としての自我も基本的には前提としての存在=生存を維持しようとする存在であり、一方、生存を超えている存在でもあるから、時に生存に矛盾する選択をすることもあるということなのではないだろうか。この事は、唯一者にも自己放棄者にもいえることとなる。死後の世界が本当にあり、自我が死後も存続していく存在だとすれば、存在=生存とはいえなくなる。ただ、その場合は死後の世界と現世との関係も問題になる。あるいは、本論で人間の本質というものも、あくまでも現世における人間の本質以上の意味はないのかもしれない。もしそうなら、死後の世界があるとしても、創造の情熱にとっては存在=生存ということになる。クロマニヨン人やネアンデルタール人が死後の生活を考えていたとしても、それは死後の世界が実際に存在していることとは別の次元の話といえる。もしそれが、現実に存在する死後の世界の直接的な反映であるとするなら、現在のように唯物論が社会の主流になるということも無いのではないだろうか。勿論、唯物論が社会の主流になったからといって、それが死後の世界が存在しないことの証拠となるわけではない。
死後の世界と唯物論という問題にも関わる問題として、唯物論には一つの欠陥があるように思われる。物質的世界以外にも、それとは別の世界が在る、あるいはそう考える人がいるとする。その二つの世界の関係であるが、非物質世界からは物質世界に何らかの作用を及ぼすことができるが、物質世界から非物質世界には何らの作用も及ぼせないということも考えられる。唯物論はそのような可能性を排除するのであるが、合理的に考えれば唯物論よりはそのような二元論的立場の方が支持されるのではないだろうか。何故なら、唯物論では、もし非物質世界が在り、物質界におけるある現象がその非物質世界によって引き起こされたとしても、その現象を物質世界の枠内で考えることになり、当然にもそこからは間違った理論しか出てこないことになる。それに対し、二元論的立場では、もし唯物論が正しかったとしても、物質も無視しているわけではないから、物質が引き起こした現象も正しく物質が引き起こした現象として理解され、物質的な理論が作られる可能性があるからである。このような唯物論の罠から逃れ、かつ唯物論者であろうとすれば、唯物論に世界が物質世界しかない、非物質世界は存在しないということの証明が求められているのだといえよう。現在的にあらゆるものを物質世界内部だけで説明しようとする努力はなされているが、非物質世界の非存在の証明はなされていないといえよう。非物質世界の非存在の証明は悪魔の証明かもしれない。しかし、その場合も考えなけばならないことは、あくまでもそれは唯物論者にとっていえることであって、二つの世界を考える者にとって、実際非物質世界が存在するとすれば、非物質世界の存在は証明可能な問題かもしれないわけである。その可能性まで唯物論者が否定するとすれば、その唯物論者は唯物論の罠に陥っているといえるであろう。唯物論は一つの立場であり、本論的には後の自己放棄の弁証法的展開の第五段階としてのヨーロッパ近代のところで触れることになるであろうけれど、自己放棄の第五段階の中心理念の抱える問題が生み出さざるを得なかった一つの思想にすぎない。
創造の情熱が創造的無としてあり得るのに対して、前本質がある目的を持つとすれば、目的的無とでもいえる状態、すなわち目的があることは確かだがその目的がどういうものなのか、目的を達成するための手段も目的がどのようものかを知る手段も分からなという状態は考えられない。もしそうなら、そのような状態は創造的無と区別できなくなってしまい、二つの本質があるとは言えなくなってしまうからである。新しい自立期において各人が創造的無という場合、各人の創造の情熱すなわち目的は同じものかもしれないし違うものかもしれない。もし違うものだとしても、その目的に対して各人が創造的無としてあるということが新しい自立期における人間の本質とされるわけである。いわば創造的無においては知られていない各人の目的の違いはないものとなるということ、あるいは無視していいものとされるわけである。それ故、創造の情熱としての目的と前本質の目的とは違っているとしても、その目的が目的的無として在る場合には、創造的無と区別することはできないわけである。
それ故、前本質においては何らかの具体性と結びついた目的を持つ、目的的有として在るか、あるいは目的を持たない無目的な存在として在るかのどちらかということになる。本論においては、創造的無に無目的、すなわち総てがどうでもいいという状態を繰り込んだ。すなわち、新しい本質においては目的の非存在ということは無いということになる。もし、前本質においても無目的性を認めないとすれば、目的的無を考えその中に無目的性を織り込むしかないであろう。しかし、それでは創造的無と区別できなくなり、二つの本質があるともいえなくなってしまう。前本質においては目的的有と無目的性の二つの可能性が考えられるわけである。
前本質が目的的有という形で目的を持つ場合、生存との関係は、生存そのものが目的である、生存そのものを目的とするわけではないが生存と整合性がある、生存と矛盾・対立する、生存に関して中立的であるかのどれかであろう。生存そのものを目的とする場合、前本質とは生存そのものということになる。生存との整合性がある場合も、前本質と生存の間に密接な関係が言えるかもしれないし、少なくともそういったからといって問題は起こらないであろう。前本質の目的が生存と矛盾・対立する場合、創造的無以上に人類が絶滅していてもおかしくないといえる。創造的無の場合は生存に不利な選択も次の瞬間には取り消される可能性があるが、前本質の場合はその目的と生存との矛盾・対立は取り消されることはないからである。また、その期間中道具の進歩の停滞、さらには退化があるのではないだろうか。石器を考えても、見られるのは進歩であり、より使い易くすることがその形を美しくしていくという傾向である。美しくなりすぎて非実用的な石器は、その延長線上にある過剰性と考えるなら、前本質の生存と矛盾・対立する目的のもとでも石器の進歩と形態の美しさが進んだということになるが、生存と矛盾・対立する前本質にそのような推進力は期待できないのではないだろうか。生存への無関心は道具の退化をもたらすかもしれないことを考えると、生存と矛盾・対立する前本質が道具の退化をもたらしても不思議ではないであろう。それらを考えると、前本質の目的が生存と矛盾・対立するものとしてあったということは否定してもいいといえるのではないだろうか。同様のことは、前本質の目的が生存に関して中立の場合もいえるのではないだろうか。道具の退化はないものの、その進歩もないであろうし、生存に関係するものに特に注目するということもなかったであろうから、新しい自立期になってからの道具の装飾や非実用的な美しさというような過剰も無かったのではないだろうか。死後の世界というものを考えることもなかったであろう。もし、前本質が生存的には中立で生存とは無関係な目的というものを持っていたとするなら、過渡期以降の人類にもその痕跡が認められてもいいはずである。しかし、狩猟採集民を見ても、中立的ではあるが生存とは無関係な目的ともいえるようなものを見つけることは難しいのではないだろうか。そう考えると、前本質の目的は生存を目的としていたとするか、少なくとも生存と整合性があるという意味で生存と密接な関係があったとみなしてもいいであろう。もちろん、創造的無と自己放棄からくる反生存・非適応的なものも実は前本質の中立性からくるとするなら、そもそも本論の立場は最初から成立しないということになる。
前本質における目的の非存在とは、すべてがどうでもいいともいえるが、あるがままの存在という言い方もできる。もしそうなら、過渡期において前本質が実体的に創造的有ということは、あるがままの存在がそのまま実体的に創造的有、すなわち存在即肯定ということにもなる。また、前本質にもその前提として存在することが在り、無目的な人間もその前提である存在しているということは受け入れ、存在し続けようとするであろう。存在=生存とすれば、存在していることを受け入れ、存在し続けようとする前本質において、存在=生存であるから生存を維持しようとするであろうし、その意味で前本質が目的を持たないということは、前本質が生存を目的とはしていないかもしれないが、生存しようとする存在であり、少なくとも生存と整合性を持つ存在といえるであろう。
自我と生存の関係を考えるとき、進化論を無視することはできないであろう。それはまた本論の立場とも関係する。進化論では適者生存あるいは生存競争という形で生存を問題にする。与えられた環境あるいは生存競争の中で生き延びていくものが進化という形で現れてくるわけである。進化論的には生存ということが総ての生物にとって基本であり、もし人間の本質というものが在るとすればそれは生存ということになるであろう。それ故、人間の本質の変化ということもあり得ないし、人間と他の生物とを区別することもあり得ない。ロバート・オークロープ、ジョージ・スタンチュー(『新・進化論』)によれば、近代生物学はすべての種を等価とみる傾向ではっきりと特徴づけられるという。そして、近代生物学の平等主義的傾向、種の均質化をもたらしたのは、適応論、漸進説そして目的の否定であるという。目的の否定から、自然界では何物も他に従属することはありえないという考えが生じ、適応論の観点から言って、すべての種は等価であって、一つの適応的なタイプを別のタイプよりも高等だとか下等だとみなす理由はないとされ、漸進説はその連続性により種の否定を含意しているという。すなわち、進化論は人間における、あるいは人間と他の生物との間の本質の違いというものを否定しているばかりでなく、本論で問題にしている目的というものの存在もまた否定しているわけである。
ただ、進化論が全く本論の否定になっているかといえば、そうとも限らないかもしれない。特に本質の変化であるが、C・J・ラムズデンとE・O・ウィルソン(『精神の起源について』 )、 は生命の進化を大きく十億年ごとに起こった四つの段階に分けている。第一は生命そのものの誕生、第二は真核細胞の発生、第三は多細胞生物の発生、そして第四が人間の精神の誕生である。彼らは精神を人間の本質とみなしているが、本質としての精神を本質としての創造の情熱へと言い換えることがうまくできるなら、彼らの議論は人間の本質の変化を考える本論にとっても都合がいいということになる。さらにいえば、前本質について総ての多細胞にまで拡大できないとしても、前本質を本質とする生物を人類以外の例えば霊長類や類人猿ぐらいまでその範囲を拡大できるかも知れないともいえるわけである。また、ラムズデンとウィルソンは社会性という点に関して便宜的に四つの頂点を認めることができるとする。群体性の無脊椎動物(サンゴ、カイメン、群体性のクラゲ)、社会性昆虫(アリ、ミツバチ、スズメバチ、シロアリ)、サルや類人猿などヒトを除く社会性哺乳類、そしてヒト自身である。そしてこの四つ目の人間の社会性にはパラドックスがあるという。パクテリアから人間における社会進化の全体を検討してみると、解剖学や生理学、それに脳容量を基準にして作られた進化段階を上昇して行くと、社会性、すなわち協働、利他行動、分業、統合性に直感的に結びつくと思われる諸特徴が質的に低下していくことがわかるが、この社会性無脊椎動物から哺乳類に至る退潮傾向は、ホモ・サピエンスになると部分的に逆転するというのである。人類は、完全に象徴的な言語と大きな記憶力をもち、精緻な互酬性の基礎となる長期的な契約を行うという点でユニークであり、かなり高次な協働と利他行動と分業と社会的統一を達成したからであり、これらすべては、個体のアイデンティティーと幸福に関して、古い哺乳類の遺産を何ら放棄することなく成し遂げられたという。この点に関して、人間の個の主体性は単に哺乳類の遺産を引き継いだというよりは、明らかに人間において個あるいは個体の主体性は強化されているとみるべきであり、それと同時に社会性も強化されているというわけである。このようなホモ・サピエンスの社会性の、それまでの質的低下という進化の傾向性からの逸脱は、個体のアイデンティティーに関して古い哺乳類の遺産を何ら放棄することはなかったというのであるから、哺乳類からヒトへの進化の過程で、個あるいは個体の主体性そのものは維持されつつ、そこに何らかの質的変化があったとも考えられる。それが前本質から創造の情熱・創造的無かもしれないわけであり、本論の立場が入り込む隙間があるかもしれないわけである。さらにそうすると、人類の社会性の強化もそのような本質の変化と密接に関係しているということにもなる。種の否定といっても、現実に種あるいは生物における構造の違いはあるわけであり、漸進的進化の中での創発とでもいえる現象を認めざるをえないかもしれない。適応論については、本論では人類を存続させながら非適応的な要素をも多く含むという人類の在り方を問題にしているともいえるわけであり、そのうちの人類が存続しているという側面だけを取り出せば、人類も他の生物と同じように適応しているともいえるわけである。しかし、それがあくまでも人類の一面をしか見ていないのだとすれば、人類と他の生物の同質ははいえなくなる可能性もあるかもしれないわけである。
第四項 芸術・装飾品についての諸説
遺伝子の突然変異
旧石器時代の文化的大爆発を遺伝子の突然変異に求める説もある。クラインとエドガーによれば、解剖学的構造、具体的にいえば脳の増大が一〇万年前から変わっていないにもかかわらず、芸術のような文化的要素が五万年前に急速に発達してきたことは、脳の増大というより遺伝子変異によって生じた神経系の変化にその原因を求めざるをえず、これが、最も単純で簡潔な説明だという(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。しかし、スペインのラ・パシエガ洞窟の洞窟壁画がネアンデルタール人のものだとすれば、クロマニヨン人に起こった遺伝子変異によって洞窟壁画のようなものが登場してきたという説はなりたたないことになる。デヴィット・ルイス=ウィリアムズ(『洞窟の中の心』)によれば、後期旧石器時代の文化爆発は遺伝子の突然変異とは関係ないという。考古学者は現生人類の行動様式、つまり解剖学的にモダンな人類と結びつけられるもろもろの慣習についての考えを、西ヨーロッパの事例から導きだしてきたが、そのような行動様式の特徴は、アフリカの考古学的な記録を見ると、ヒトという種における行動様式上のモダニティへの移行が、アフリカでは二十五万年前から三十万年前、あるいはもっと前から別々の年代に広大な範囲であらわれていた。このような先行していた潜在力は、ニューロン変化という出来事ただ一点に、西ヨーロッパの「創造の爆発」に火をつけた誘因メカニズムの起源を求めるべきではないことを意味しているとするのである。
社会的象徴
芸術や装飾品の出現を社会的必要と結びつける説がある。例えば、ヴォルグ遺跡の非実用的な石槍や月桂樹葉尖頭器は、後期旧石器時代に単なる機能ではなく、石器の形態が問題になりはじめたということであり、このような発展は、石器の形態が居住地内、もしくは居住地間の社会集団を象徴的にあらわしていた可能性を暗示していると指摘されてる(『洞窟のなかの心』デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ)。ヴォルグ遺跡の石槍のような美しい石器には、見せびらかせるためという目的も考えられているが、狩猟採集民をみるとそのような自己誇示は強く抑制されているので、おそらくそのような可能性は低いであろう。集団の象徴という説からいえば、非実用的に見えるヴォルグ遺跡の石槍も、けっして非実用的ではないということなのであろう。社会集団と結びつけて芸術や装飾品を考えると、宗教と結びつけた説明は本論の補強となるかもしれないが、他の説明は本論の否定になっている可能性がある。集団の象徴説ではさらに集団間の協調のために象徴が必要だったという説と社会的軋轢が集団の象徴を必要としていったという説がある。
社会的協調と結びついた象徴としては、ブッシュマンのクン族ではビーズは近隣の、あるいは遠隔地のバンドどうしに互助関係があったことを表すシンボルとして用いられ、長期間・長距離にわたり社会を安全とする通貨としてあったというが(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)、クロマニョン人にとっても「芸術」は社会的な同盟関係を示すシンボルで、厳しい氷河期を生き延びるために、クロマニョン人は社会的ネットワークと交易ネットワークを発展させたという(『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著)。集団あるいは集団間におけるの象徴の存在は、広範囲の社会的同盟や交易など社会関係を拡大するための道具と看做されるわけである。では何故、協調的社会関係の拡大が必要であり、その中で象徴としての芸術や装飾品が出現したのかといえば、単に氷河時代の厳しい環境というだけではなく、その厳しい環境ににおいてその生存も厳しいものがあり、生存における必要性ということになる。ただブッシュマンは厳しい環境で生活しているが、生存自体が厳しい状態に置かれているというわけではない。彼らの労働時間が短いことは指摘されていることである。重要なことは生存の厳しさであるとすれば、ブッシュマンには集団あるいは集団間におけるの象徴の必要性は無かったともいえるわけである。
社会的軋轢と象徴であるが、ルイス=ウィリアムズは芸術や装飾品は社会的な紛争、圧力、差異意識と結びついているという。彼によれば、芸術と儀礼はたしかに社会的な結束力を高めるのに役に立ったであろうが、それらは他の集団からある集団を区別する何かであり、そうすることで社会的な緊張関係を生みだす可能性を創り出したのである。また身体装飾は単なる「かざり」でも個人的な気分をみたす何かでもなく、それらは社会的な集団や地位を意味するのであり、多量のビーズを身に着けた遺体が発掘されたロシアのスンギール遺跡は、何らかの社会的な階層やリーダーシップの存在を示しているとする(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ)。もっとも、未開民族の首長が人々に物を与えることによってその地位を維持し、ある意味最も貧しいとされることから、スンギール遺跡の例が階層やリーダーシップの存在を示しているかどうかは分からないともいえる。それはともかく、ルイス=ウィリアムズによれば、自然淘汰というダーウィン思想の暗黙の影響下で、イメージ制作は何らかのかたちで、つまり調和的な社会に役立つようなかたちで有用性を担うという推論を繰り返す機能主義的な解釈に見切りを付けなければならないのであり、そのような解釈の道に従うのではなく、イメージの果たした役割と社会的闘争状況におけるイメージ制作の複雑な社会的なプロセスを探求する必要があるのである。彼は、後期旧石器芸術の開花を背後で促したダイナミズムは、ラマン=エンペレールとルロワ=グラン以前に洞窟絵画を研究した、マックス・ラファエルが『先史時代の洞窟絵画』で正しく見抜いていたように、社会区分をめぐる対立的な情景だったと信じている。また、階級なき社会が大きな社会変化につながる内的な矛盾をどのようにして出現させるのかという問いは、マルクス主義理論の長年の課題であったが、この種の同盟理論をめぐるマルクス主義的なアプローチを発展させ、同盟ネットワークのなかの緊張関係が旧石器時代を中期から後期への移行期に導き、ついにアイデンティティを象徴する必要から芸術が誕生したと論じたアントニオ・ギルマンにも注目している(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ)。
一方、ルイス=ウィリアムズによれば、社会区分は必ずしも非適応的ではなく、本当のところ環境に対する複雑な社会的適応を容易にするとされる。広い意味でのアートと宗教は社会が階層化していくなかで同時に生まれたのであり、それゆえにアートと宗教は社会的な区別をするものであったという考えに不安を抱き、アートと宗教は、包括的かつ機能主義的にみて社会の一体化に直接には貢献しなかったので、それらが長く続くことはなかったはずである、と結論づける者がいるかもしれないが、社会区分は必ずしも非適応的ではなく、本当のところ環境に対する複雑な社会的適応を容易にするのであり、彼によれば、社会を前進させたのは、スペクトルを分割するなかで作り出された社会区分そのものである。協調性ばかりでなく対立性もまた適応的なのであり、社会の協調性と結びつく象徴にせよ対立性に結びつく象徴にせよ、象徴は厳しい生存環境が生み出したということになる。厳しい生存環境がそれへの適応として社会区分や差異意識を生み出したとするなら、環境自体は厳しいがそれが生存環境の厳しさにはなっていないブッシュマンに社会区分や差異意識が無くても不思議ではないことになる。ただ、ルイス=ウィリアムズによれば物質文化の諸例と同じく、身体装飾と埋葬は、ともに階層化された社会か、少なくとも差異化された社会の表現や構築と結びついていており、そうした社会は年齢、性別、肉体の強さだけに単純に依拠するものではなかったし、またその社会は、孤立して完結するような、平等主義的な小さな狩猟集団のようなものではなかったというが、グイやガナのようなブッシュマンは平等主義的な小さな狩猟集団であり、彼が言うような階層化された社会ではなかったがそれでも埋葬や装飾品があるのである。ルイス=ウィリアムズは、社会的区分は進化論的に見ても非適応的なものではないというのであるが、ニホンザル→チンパンジー→現代狩猟採集民という流れを考えると、ボスザル的な地位が縮小・消滅していくというのが進化の定向性だったといえるのではないだろうか。それに対し、社会的差異化が後期旧石器時代に出現してきたとすれば、それは進化の定向性からみれば逆行することであり、何故そのような逆行が生じたかという問いは重要であろう。創造的無を本質とする自立期に人間が突入した結果とも考えられるのである。
少なくとも、社会区分や差異意識やそれと密接に関係している社会的軋轢が芸術や身体装飾を生み出したのではなく、すでに存在しているそれらのものが社会が区分化され差異意識が強化され、軋轢が激しくなっていく中で集団の象徴として利用されていったということではないだろうか。このすでに存在していた芸術や身体装飾の利用は、協調的社会関係の拡大においても考えられることである。もしそうなら、改めてそもそも芸術や身体装飾あるいは埋葬が何故始まったのかが問われなければならないことになる。後期旧石器時代のシャーマニズムについて語ることは、その宇宙観について語ることであって、単なる宗教的信念や儀礼といった事柄は付帯的な現象にすぎず、それゆえ後期旧石器時代の生活に関する私たちの理解にとっては何ら重要な意味を持たないし、すべての生活は、経済生活であれ社会生活であれ宗教生活であれ、ある特定の宇宙観のなかで営まれ、かつそれと相互作用しており、それ以外ではあり得ないとルイス=ウィリアムズは言う(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ』)。問題は、その宇宙観は何を基礎にして出来上がっているかということである。後期旧石器時代の宇宙観は、源初の肯定性とさらにはその外化というものを基礎として出来上がったものかもしれないわけである。同じように、ビーズが贈与交換システムで重要な役割を果たすということは、ビーズが社会的に高い価値が与えられていたから可能ともいえるわけで、そのビーズの価値の源泉はどこから来ているのかを問題にすることもできることになる。もしかしたら、贈与交換システムに入り込む前に、ビーズには何らかの価値が与えられていたのかもしれない。もしその価値が生存における実用的価値によっているのだとすれば、その価値は贈与交換システムの中で生じるものということになり、一種の同義反復的な議論になるだけであり、それは直接的な生存からくる価値以外に求めなければならないかもしれないわけである。その場合、源初の肯定性ということは考えられることなのではないだろうか。クロマニヨン人は宇宙観というより、源初の肯定性とより直接的に向き合っていたのかもしれないのである。
ルイス=ウィリアムズ自身も社会的分裂と緊張関係の奥に社会的共通性があることを認めている。彼は集団内では、意識変容状態を含め、意識のあらゆるスペクトルに関して共通の認識を持ち、それに沿って行動することの重要性が共有されていなければならないし、その結果、人々は社会的に共有された心的イメージを進化させることになったというのである。社会的に共有された心的イメージの内容が問題になるかもしれないし、なぜそのような内容が進化してきたのかその原因が問われなければならないかもしれず、さらにそのような進化の中で何故社会的差異化が生じてきたかも説明されなければならない事柄なのではないだろうか。
本論的には対立は過渡期にすでに内在していたし、自立期になってその対立が何らかの形で表面化したとしても、ルイス=ウィリアムズが言っている社会的紛争や差異意識とは区別されなければならないであろう。また、芸術や装飾品は生存適応とは関係ないところから生じてきたのかもしれない。フレデリック・ルノワールは、旧石器時代の洞窟でも、が数多く発見されており、ヨーロッパで前三万年から前二万年の間に腹部、臀部、乳房が強調された豊満な女性像や壁面彫刻が増え、こうした表徴は人間の姿を表わす最初の芸術であり、人類が最初に女性を表現したというのは非常に興味深いという(『人類の宗教の歴史』フレデリック・ルノワール)。それらは、豊饒、生殖への願いをこめたものと解されている(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)が、オーリニャック早期の女性像であるモラヴィアのドルニ・ヴェストニーツェの人形は、骨粉と粘土をかためて焼いたものであり、人類史最古のテラコッタ製品ともされるが、土を焼くとかたくなるという性質を、この東ヨーロッパの石器時代人が知ってから、容器としての土器が現れるまで二、三万年が経過したということは、(『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆)その女性像の製作が生存適応とはかなり離れた動機によってなされたことを示しているようにも思える。それらの女性像は男女の区別が強く意識されたということを意味してるともいえる。もしそうだとすれば、人類の思考に二極性・対極性が生じてきたということであり、源初の肯定性や自己放棄の弁証法的展開が二極性・対極性と結びついていることを考えると、やはり人間が自立期に入ったことを示しているともいえる。ルイス=ウィリアムズは洞窟壁画に男女のような二極性を見るルロワ=グランのような研究を硬直した構造主義的術語と批判してるが、本論的には矛盾性・対極性は源初の肯定性の表現形式ともいえるものなのであり、ルロワ=グラン的二項対立は後期旧石器時代の芸術に現れた源初の肯定性と直接的結びつくものだったといえるのである。ルイス=ウィリアムズが言うように、洞窟の壁が彼岸的な世界との間の膜だとすると、その彼岸的な世界が源初の肯定性の外化であることを、そこに描かれた絵のルロワ=グラン的二極性が保証しているのである。
人口増加
クロマニヨン人たちの社会において集団間に軋轢が生じてきたのが、対立そのものを目的としていないとすれば、氷河期になって資源が少なくなってその少ない資源をめぐって集団間に競争が始まったか、人口が増えすぎて資源をめぐる競争が始まったかのどちらかであろう。資源が少なくなって、その結果少なくなった資源をめぐって集団間に対立が激化していったという考えに対しては、クラストルは懐疑的になるかもしれない。クラストル(『暴力の考古学』ピエール・クラストル)は希少な財を自分のものにしようとする集団同士の競合によって戦争を説明することに対して、食料の探求にくたくたになってほとんどの時間を費やしている未開人が、隣人に対して戦争をするために補う活力と時間をいったいどこから引き出しているのか、これを理解するのは困難であるとする。また、彼によれば今日の研究は未開社会の経済が逆に希少性の経済ではなく富裕の経済であることを示しており、したがって暴力は貧困と関係していないし、未開社会の戦争の経済学的説明は、自らの支点が崩壊するのを目の当たりにするという。
人口増大を考えるなら、集団間の協調が必要になつたのも人口が増え、集団間の接触が増えたからかもしれない。洪積世のヨーロッパの壁画芸術は、人口密度が増大する状況下で社会的なネットワークを結ぶ必要性の結果生まれた(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ 注86 Barton et al. 1994,199)とも指摘されている。人口密度が高くなると集団間の接触がさかんになり、斬新な発想が共有されて知性のまとまりが誕生し、象徴や記号はそれを維持する助けとなってきたというのだ。社会的軋轢説に立とうが社会的協調説に立とうが、重要なことは人口の増大ということかもしれないわけである。ルイス=ウィリアムズは、合理的な予測を立てて、動物の渡りを追うことができた共同体にとっては、ある研究者が推定するように、後期旧石器時代は比較的豊かな時代であり、当時の人口密度は初期農耕共同体のそれと同等だったという(『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ)。豊かな社会においては、当然人口も増加するであろう。
このような人口増加説に対してクラインとエドガーは否定的である。五万年前前後に生じた変化を説明するものとして、技術的進歩、社会関係の変化、あるいはその両者に原因を求める見解を示す考古学者は少なくなく、歴史学者や考古学者がもっと新しい社会文化的変化を説明する際に基盤とする同じ理論を用いることもあって、この見解はなかなか受けがいいが、しかし五万年前の変化に関しては、技術あるいは社会組織がなぜこれほど突然に、根底から変化したか、どのアプローチでも説明できないという。「人口が増加したから」では不充分で、これにもまた詳しい説明が必要になるし、直前のどこかで人口が急増した証拠もない。また、農業革命に匹敵する技術革新によってもたらされたという証拠はなく、遺物を調べても、変化をもたらすきっかけといえる何らかの革新がみえてこないという(『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー)。もし芸術や装飾や埋葬がネアンデルタール人にあったとすると、それらの起源を人口増大に求めることはできないのではないだろうか。ネアンデルタール人は結局絶滅していったのである。
認知的流動性
スティーブン・ミズン(『心の先史時代』スティーブン・ミズン)は旧石器時代の芸術や道具の多様化といった文化的大爆発は、技術的知能、社会的知能、博物的知能、言語知能間の認知的流動性によって可能になったという。ミズンによれば、発達心理学からみて、幼児は、言語、心理、物理、生物という少なくとも四つの領域の行動においては、世界についての直観的な知識をもっているらしく、その心は言語、直感的心理学、直感的生物学、直観的物理学といった独立的で、生得の内容込みの心のモジュールからなるスイス・アーミーナイフのようなものであるという。ただ、そのような心のモジュールは発達の産物でもあり、子供は二歳になるまでは、心に汎用の知能もっている汎用学習プログラムのようなものであり、言語や対象の操作の能力は同じ認知過程に依存していて、物理的対象や象徴を扱うために汎用の学習過程を用いていると見られるチンパンジーの心と同じである。二歳になると、言語や物理や心理や生物についての知識を含む内容込みの心のモジュールが、汎用の学習規則を上回るようになる。さらに、スイス・アーミーナイフのような独立のモジュールからなる心から、やがてモジュールは一体となって動き始め、類推や比喩の利用に典型的に表れるような、複数の領域にわたる連絡を築き上げて、人間の創造性の根幹ともなる。ミズンはさらに、専門的な心のモジュールは進化的選択圧力の中で生じてきたものであり、個体発生は系統発生を繰り返すという考えと結びつけ、人類の歴史を個人の心の発達と平行する、三つの基本構造の時期に区別する。第一期は、汎用知能の領域に支配される心――ひとそろいの汎用学習・意思決定規則。第二期は、汎用知能が、他の領域とは切り離されて動作する、特定の行動領域専用の特化した複数の知能によって補足されている心。第三期は、技術的知能、社会的知能、博物的知能さらに言語的知能という複数の特化した知能が一体になって働いているように見える心であり、それは知識や観念が行動の領域間で融通される心である。この第三期に起こるのが認知的流動性であり、認知的流動性のもとで文化的爆発が可能であるというのである。ビーズやペンダントなどの個人的な装飾品が今日の我々の社会でもそうなっているように、死者の身分、所属する集団、他者との関係といった社会的メッセージを送るものとして機能するのも、それが技術的知能と社会的知能の認知的流動性から生じてきているからである。さらにミズンによれば、狩りをしたり動物の皮を?いだりするための、ありふれて見えたはずの道具も含めて、どんな種類の人工物にも社会的情報が込められるようになった可能性が高く、初期人類にとって狩猟、道具製作、つきあいの領域はまったく別個のものだったが、ここにいたって三者の結びつきは深まり、現代人類の行動からどこか一面をとって、それを三つの領域のうちのある一つだけに属するものとして特徴づけることは不可能になってしまったという。
認知的流動性というミズンの議論は不十分で、もっと意識全体を生じさせる神経構造そのものを考えなければならないというルイス=ウィリアムズの立場もあるが、認知的流動性は人口の増大や遺伝子の突然変異のようなものを必要としないともいえる。ミズン的にいえば、そこに見るべきものは狩猟技術の発達で、その発達は認知的流動性がもたらしたものであって、人口増加や人口密度の高まりはその結果でしかないともいえるのである。認知的流動性という考えは、必ずしも本論の創造的無と自己放棄体系という考えと対立するものではないかもしれない。創造的無はそれまであった諸知能間の壁を壊してしまうかもしれないし、前理念と新しい理念の対立と統合という自己放棄の弁証法的体系は、諸知能間の認知的流動性といった現象を生じさせるかもしれないからである。それに対し、ミズンは道具の多様化や芸術が出現をさせた認知的流動性という心の構造は、環境の変化のなかで自然選択によって遺伝子の構成という形でコード化された基本設計に従って建てられていると考えている。認知的流動性はたった一回の遺伝子の突然変異と結びつけるようなものではないかもしれないが、進化という推進力によって生じてきたもので、技術的知能、社会的知能、博物的知能、言語知能という知能の発達は進化的枠内で発達したものであり、それらの間の認知的流動性も進化の枠内で生じたとされているわけである。自然選択という進化によって生じてきた以上、それらは生存適応的である。技術的知能、社会的知能、博物的知能や言語知能の発達は、直接的に生存を有利にするであろう。そして、認知的流動性も進化的選択圧力のもとで生じるのであり、そのことから認知的流動性から生じる芸術・複雑な技術・宗教もまた生存適応的ということになる。ミズンは実際、認知的流動性がもたらすものがいかに生存適応的であるかを述べている。ミズンの議論からいえば、ヴォルグ遺跡で見つかった非実用的な石槍に生存適応を超えた過剰性を見るのは、事の一面しか見ていないということになる。もっともミズン自身も、認知的流動性があると行動の上でやたらと間違いを犯すことにつながりうるから、そんなことは進化において起こるはずがないというリーダ・コスマイズとジョン・トゥービーの主張を紹介している。本論的に認知的流動性が新しい自立期における自己放棄の弁証法的体系の中で生じたとすれば、創造的無の中で当然生存適応と矛盾する行動が起こっても不思議ではないということになる。
性選択
進化論において性選択は非適応的な形質を発達させたり、他の自然選択と競合したり逆らったりさせるといい、ユーモアや音楽、視覚芸術、言語創作能力、ある種の利他的行動などをもたらしたという説もある。ただ、旧石器時代の装飾がもつ過剰性が性選択によって説明できるかは疑問である。装飾が男女共にみられること、さらにはスンギール遺跡のように大人より男女の子供の方が多くビーズを身につけていたということは、装飾の過剰性が性選択によるとはいえないのではないだろうか。性選択なら両性のどちらかにしか見られるであろうし、子供ではなく大人にとって意味があるであろう。また過剰な戦争というものを考えたなら、それは男ばかりでなく女にとっても甚大な被害をもたらすのであるから、好戦的な男を女が好むといった性選択がもたらしたものとはいえないであろう。戦士が社会的な価値を与えられるとしても、それは女性によって与えられるというよりは、男女共通の社会的な価値といえるのである。少なくとも単純な性選択説からは両性の片方だけに変化をもたらすものは説明できても、男女の両方に生じる変化は説明できないであろう。
引用・参考文献
『ネアンデルタール人の正体』赤澤威編著
『人類文化史1 人類の創世記』寺田和夫・日高敏隆
『カラー版 世界の歴史1 人類の歴史』今西錦司
『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ
『最古の文字なのか?』ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー
『人類の宗教の歴史』フレデリック・ルノワール
『人類発達史』直良信夫
「霊長類における採食技術の進化」山越言 西田利貞編『ホミニゼーション』
『5万年前に人類に何が起きたのか?』リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー
『先史時代の社会』クラーク、ピゴット
「プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか」諏訪元・山極寿一 『現代思想』2016年5月号
『時事通信ネット版』 2018/2/23/ 04:36
『ネアンデルタール人は私たちと交配した』スヴァンテ・ペーボ
『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン
『新・進化論』ロバート・オークロープ、ジョージ・スタンチュー
『精神の起源について』C・J・ラムズデン、E・O・ウィルソン
『暴力の考古学』ピエール・クラストル
『洞窟の中の心』デヴィット・ルイス=ウィリアムズ 注86 Barton et al. 1994,199
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第一項 過渡期から自立期への移行が持つ問題
自己放棄の弁証法的展開によって自己放棄の第二段階は生じるのであるが、それは過渡期には生じないであろうとした。原初の肯定性の崩壊はその実体性によって阻まれるであろうし、また実体的であれ幻想であれ過渡期においては源初の肯定性は此岸的なものとしてしかありえず、それが彼岸的なものにはなり得ないからである。では、自己放棄の弁証法的展開は自立期になってから起こるのであろうか。確かに、新しい自立期においては源初の肯定性の実体性は失われる。自己放棄の弁証法的展開においては、古い基本理念と中心理念の崩壊、その崩壊の中での旧理念の否定がもつ真理性をバネにしての新しい基本理念の定立と中心理念の創出、古い基本理念と中心理念の再定立と、新しい理念と古い理念の統合という過程を考えた。このうちの古い理念の崩壊は、自己放棄の幻想性から自ずと生じるとされた。基本理念・中心理念の自己崩壊性である。自己放棄の弁証法的展開において古い理念の存在が前提となっているわけであるが、問題は自立期に果たして古い理念としての原初の肯定性が存在しているのかどうかということである。
新しい自立期になって自己放棄の弁証法的展開が生じるためには、少なくとも幻想としての原初の肯定性は残っていなければならないし、実体性はともかく、幻想としての原初の肯定性は実体性を必要としないのであるから、新しい自立期になっても残っていそうな気もする。しかし、実体としての原初の肯定性ばかりでなく、幻想としての原初の肯定性も失われるということは考えられないのであろうか。出発点は過渡期においては前本質と創造的無という二つの本質が本質として並立しているという、過渡期特有の構造であった。自立期になってその過渡期的構造が失われるということは、実体的であれ幻想的であれ、源初の肯定性というものそれ自体が失われてしまうということではないだろうか。原初の肯定性とか自己放棄とかいっても、それらは二つの本質の並立という過渡期の構造が見せる多様な姿とでもいうべきものであって、過渡期の構造が無くなってしまえば、それらの姿形も消え失せてしまうしかないわけである。過渡期から創造的無を本質とする自立期への移行は、自己放棄の弁証法的展開の結果ではない。存在するのは二つの自立期とその間の移行期としての過渡期という時間の流れである。その流れは自己放棄の弁証法的展開でもなければ、それによってもたらされるものでもないとすれば、過渡期における自己放棄的なもの全てが失われてしまうということも当然考えられるであろう。
過渡期においても自己放棄性は存在した。そして、過渡期の自己放棄性の中では源初の肯定性は幻想的なものでしかないが、過渡期自身においてはその源初の肯定性は実体的なものでもあり、それ故自己崩壊しないとしたのであるが、逆に実体的でもあるが幻想でもあると考えれば、即ち幻想という視点からいえば、幻想なのであるから自己崩壊も存在するということになる。しかしそう考えても、その自己崩壊が自己放棄の弁証法的展開に結びつくと考えることには問題がある。その自己崩壊は創造の情熱にとって前本質が無であり無ではないといううちの無に帰っていくだけであるということであり、創造の情熱にとって前本質は無→無でない→無でないを創造的無から見れば幻想→自己放棄→自己放棄の自己崩壊→無という循環を作るだけである。そしてその無には無ではないということが再び対置される。即ち、自己放棄の源初の肯定性の幻想性には実体性が、実体性には幻想性が対置されるだけということである。創造の情熱にとって前本質は無であり無でないということに対応して、自己放棄は自己崩壊し自己崩壊しないという二重構造になるわけである。このような二重構造のもとで、自己崩壊といっても無に帰るだけで、その無に対してい無ではないということが対置され、そこにあるのは循環構造だけであり、結局は自己放棄の弁証法的展開が生じないということである。
第二項 過渡期と自立期の連続性
この問題は、過渡期と自立期の間に連続性も認められれば、回避することができるかもしれない。たとえば、過渡期と自立期の間にもう一つの過渡期、過渡期の過渡期を考えてみたらどうであろうか。過渡期の過渡期と自立期との関係は、過渡期と自立期との関係とは異なる。そうすると、過渡期の過渡期とは、過渡期的なものが残った自立期とも考えることもできるであろう。そうだとすれば、そこにおいて存在するのは実体性よりは幻想性の強い源初の肯定性であろう。実体的かつ幻想的な源初の肯定性とその無存在の間に在るものを、実体性・幻想性・無存在という三つの形態で考えるとすれば、存在し得るのは幻想性ということになる。過渡期の過渡期に存在しているのは幻想としての源初の肯定性ともみなせるわけであり、そこでは自己放棄の弁証法的展開あるいは源初の肯定性の外化といったことが可能ともいえる。しかし、過渡期が一つの仮説として成立するなら、過渡期の過渡期も一つの仮説として成立するかもしれないが、過渡期と自立期の間に、新たな過渡期を設けることは、屋上屋を重ねる議論ともいえ、できれば避けたい話である。
過渡期とはもともと古い自立期から新しい自立期への移行に連続性を保障するために導入されたとも考えられることに注目すべきかもしれない。本質というような根本的に異なる性質のものの間には断絶があり、従ってその変化にも飛躍があるともいえるが、それは自我全体に関わる変化でもあり、そのような変化が瞬間的に生ずるということも考えにくい。古い自立期から新しい自立期への変化に連続性を与えるために過渡期があるとすれば、当然過渡期と自立期との間にも連続性がなければならない。過渡期は自立期と区別される。しかし、過渡期と自立期とは区別されるが、二つの自立期もまた区別されるものであることを考えるなら、自立期と自立期は断絶性が基本であるのに対して、過渡期と自立期は基本的に連続性として捉えられるべきものであろう。過渡期と自立期は区別されるが、連続性もなければならず、その連続性こそ強調されてもいいのではないかということである。そうすると、過渡期と自立期の連続性を考えるために、過渡期の過渡期のようなものを挿入する必要はないともいえるわけである。
ただ、過渡期と自立期の連続性が過渡期がもつ過渡期的役割を果たすのかといえば、それも確かとはいえない。連続性においては、自立期になっても存続するものが考えられなければならないであろう。その場合、連続性としては、本質としての創造的無であり、区別性としては前本質の非本質化ということであるとすると、自立期において前本質を肯定化する構造がやはり消滅することになるともいえる。しかし、これは単に過渡期と新しい自立の違いを言っているにすぎないともいえる。過渡期とは創造的無という新しい本質と前本質が並立した状態であり、新しい自立期とは創造的無のみを本質とし、前本質はもはや本質ではないということだからである。過渡期と自立期の連続性には、本質としての創造的無の連続性といったものを超えた連続性が存在しているとも言えるかもしれないわけである。まず二つの自立期を考え、さらにその二つの自立期の間に過渡期を仮定したのであって、その過渡期には二つの自立期の間の断絶性に対して、二つの自立期との連続性が期待されているだけで、その連続性の内容は問題になっていないともいえる。その連続性の無規定性からいえば、そのことから直ちに過渡期と新しい自立期の区別性を前自立期の本質の本質性の消失に求め、連続性を創造的無の継続性に求めるということにはならないし、単に創造的無の連続性だけではない連続性がいえるかもしれないわけである。
第三項 前本質的生活
過渡期と新しい自立期に連続するものとして、創造的無以外にも前本質的生活、あるいは前本質期的存在というものが考えられる。新しい自立期になっても前本質と結びついた一切が消滅するというわけでもないであろう。言えることはそれらがもはや本質ではないということだけである。過渡期において、人類の生活様相は前自立期とまったく同じものであったと考えられる。確かに、過渡期では創造の情熱と自己放棄という要素が加わった。しかし、それらのものが具体的変化をもたらすものではない。何故なら、創造の情熱そのものは創造的無として何ものももたらさないであろうし、また前本質期の本質は本質性を失っていなかったし、前自立期的なものは実体的に創造的有でもあったのであり、自己放棄という視点からみても、それは前本質的なものを幻想であれ創造的有とする形でしか創出できなかったからである。
さらに、新しい自立期においてもその初期においては同じであったかもしれない。新しい自立期とともに一切の前本質的世界が消失したとすれば、創造的無としての創造の情熱は何かを作り出す力はないから、文字通りその瞬間人類はまったく何も無くなってしまうということになるが、その何も無い人類の在り様とはどのようなものだったかを想像できないであろう。つまり、人類は過渡期から自立期に突入しても、依然として過渡期における前本質期的生活様相で生きていたと考えられるのであり、もはや本質とはいえないかもしれないが、前本質的世界、あるいは前本質的規範、前本質的価値体系といったものは過渡期から自立期へと連続していたかもしれないのである。論理的には、新しい自立期とともに創造的有としての前本質とその世界は消滅するかもしれない。しかし、消滅するのはその本質性および創造的有性であって、前本質的世界は存続するであろう。また、自立期とともに自己放棄さえも消滅してしまったとすれば、創造の情熱は創造的無として何も作り出すことはできないのであるから、自立期に何らかの変化があったとしても、それは前本質期的世界内部での変化しか生じようがないともいえるわけである。逆に自立期において自己放棄的な現象、あるいは前本質的な世界内部の変化としては説明できないような変化があったとすれば、それは自己放棄によるものということなり、そのような現象があったとすれば、それは自立期においても、過渡期に存在していた自己放棄が存在していたということになるであろう。
過渡期の前本質と創造的無の並立という共時的構造においては、前本質と創造の情熱とは関係し合い、二つの本質が独立性を保って共存しながら統合されていることから源初の肯定性も出てきたわけであるが、前本質と創造の情熱が関係し合うとは、前本質的生活・世界と創造の情熱も関係し合い、統合されているということであろう。前本質が創造的有であるということは、前本質的生活・世界が創造的有ということでもある。過渡期から自立期になって、前本質は本質性を失うが、前本質的生活・世界は新しい自立期になっても残っているし、新しい自立期になっても存在しているのは前本質的生活・世界のみともいえる。過渡期において前本質的生活・世界が創造的有であり、それが実体的でもあり幻想的でもあるとすれば、自立期になってももはや実体的ではないかもしれないが、幻想として前本質的生活・世界は創造的有であり、自立期になっても原初の肯定性は幻想として残っているということも十分考えられるのではないだろうか。
前自立期から新しい自立期まで共通して存在しているものとしては自我そのものがある。しかし、ここで問題にしているのはその自我のその時々の本質であり、その本質における連続性を考えるとき、自我そのものの連続性はその問題に関わるものとはなりえない。ただ、身体もまた連続して存在しているものであり、身体は生存活動と密接に関係しているのであるから、前本質を生存とするなら本質における連続性と無関係とはいえないであろう。シュテイルナーの唯一者においても、唯一者は自己が存在している限りでの存在者であり、死後の世界が在れば死後も唯一者として存在しているということになるが、シュテイルナーの意識では唯一者の存在は生存している限りでの存在だったといえる。確かに創造的無においては身体も無とされ、その意味で創造の情熱としての自我は身体を超えたものとしてあることになるが、自我の存在の基盤としての身体が否定されるというわけでもないわけである。もちろん、身体存在と生存とは一体のものだとしても、新しい自立期になっても身体が存続しているということが、前本質が新しい自立期においても本質として存在しているということではない。ただ、何らかの形で、例えば幻想という形で前本質的なものが新しい自立期においても残っているかもしれないわけである。前本質期→過渡期→新しい自立期という流れは、前本質のみの時期から前本質と新しい本質の並立期、そして前本質に新しい本質が重なり、前本質が新しい本質に支配される時期ということなのかもしれない。それ故、新しい自立期においては前本質は無とされるのであるが、他方ではそれはまったくの無存在ということでもないということになる。この新しい本質によって無とはされるが存在はしている前本質が、自己放棄によって呼び出されて新しい役割を割り振られるということはあり得るわけである。
第四項 創造への可能性としての自己放棄と連続性
過渡期そのものの性質が与える創造の情熱に対する前本質の有性と、その有性に創造的無をさらに重ねる、創造的無による二重化としての自己放棄に加え、過渡期では創造への可能性として改めて創造の情熱によって自己放棄が選択されてもいるのではないだろうか。過渡期における自己放棄は前本質の創造的有性、その自己放棄性、さらにその創造的無における創造への可能性という三重構造を成しているといえる。この創造の情熱によって創造への可能性を持つ対象としての自己放棄に関しては、新しい自立期にまで維持されることになるかもしれない。少なくとも過渡期と新しい自立期とにかかわらず、自己放棄にはそれが創造への可能性を持つことによって、それを保持しようとする力が働いているともいえる。自己放棄が創造への可能性として在るということは、源初の肯定性が創造への可能性としてあるということである。もちろん、この創造への可能性としての原初の肯定性は幻想としてのそれである。
また、過渡期と新しい自立期の間に連続性を考えると、自立期になって実体的なものとしての原初の肯定性は失われるのであるが、その場合自立期とともに実体性が姿形ばかりか影さえも残さずに総てが消失するのではなく、影のようなものを残しながら実体性が消えていくこともありえるのではないだろうか。もしそうなら、影のようなものが残る分、前本質的生活・世界から実体的肯定性が消えていくという喪失感も生じる可能性がある。この余韻としての喪失感と創造への可能性としての自己放棄・源初の肯定性が結びついて、それが原初の肯定性の外化をもたらすということも考えられる。この場合、喪失するのは実体性であるから、外化した源初の肯定性は逆に実体性を帯びさせられるともいえよう。
自己放棄の弁証法的展開において、まず否定すべき古い理念が存在しなければならず、さらにいえば、崩壊しつつもある程度の時間、古い理念は理念として存続していなければならないのに、自己崩壊するなり、外化するなりするにしても、肝心の実体的であれ幻想的であれ、源初の肯定性そのものが新しい自立期になれば存在しないということになれば、当然自己放棄の弁証法的展開も生じようがないということになる。一方、自己放棄の弁証法的展開が実際にあり、その弁証法的展開が過渡期においては起こり得ないとすれば、自立期においても今や単なる幻想とはなったが、何らかの形で源初の肯定性が残っていたということになる。問題は自己放棄の弁証法的展開が言えるのかどうなのかということにもなる。これまでの人類の歴史をあるいは自己放棄の弁証法的展開という視点から記述しようとすればできるかもしれない。しかし、それは人類史の外面だけを描いているにすぎないかもしれない。実際に、人類の歴史が自己放棄の弁証法的展開としても動いているというためには、その理論が未来を予測し、その予測通りになったことを確認する必要があるであろう。その意味では、自己放棄の弁証法的展開は仮説にとどまっているといえる。自己放棄の弁証法的展開からいえば、現在の人類が此岸的あるいは彼岸的であるなら、未来は彼岸的あるいは此岸的な価値観が色濃い時代ということになる。
第五項 過渡期の過渡期
過渡期の過渡期を考えることは屋上屋を重ねる議論としたが、少しその可能性について考えてみる。これまでの議論は、前本質を本質とする個人、創造的無を本質とする個人、それに過渡期的状態の個人という、個人の状態を前提に話を進めていたといえる。すなわち、社会的にみれば前本質を本質とする人間だけの社会、過渡期的状態に在る人間だけの社会、創造的無としての人間だけの社会を考えていたともいえるわけである。私の頭の中はそういうものだったし、そのような自分の立脚点が崩壊する感じの中で社会という視点から考えれば、過渡期的状態の個人というものを考えずに、前本質を本質とする個人と創造的無を本質とする個人の混在した社会というものが考えられる。それは、例えば最初の創造的無としての人間を考えれば、その人間は前本質的人間の親から生まれるのであるから、そのような混在社会は必然的に生じる。前本質的人間のみの社会→前本質的人間と創造的無状態の人間の混在社会→創造的無状態の人間のみの社会という発展が考えられるわけである。
前本質と創造的無の人間だけを考え、過渡期的状態の人間を考えず、前本質的人間と創造的無である人間の混在する社会としての過渡期を考えた場合、過渡期における源初の肯定性というものがいえるかの、いえるとすればそれはどのようなものとして在るのかということ問題になる。今での議論では、過渡期において二つの本質がひとつの自我の中で統合されていることが、源初の肯定性においては必要だったといえよう。それからいえば、社会的な意味で源初の肯定性が成り立つためには少なくとも社会の統合性というものが必要であろう。また、創造的無からいえば、前本質的なものも創造への可能性としてあり、前本質に対して単に否定的なものと見なすわけではない、一定の受容性がいえるということも重要かもしれない。特に親子関係は重要であろう。前本質的親に育てられた創造的無である子供も、親の持つ前本質性の強い影響のもとに育つわけであり、前本質性を擦りこまれるともいえる。すなわち、二次的に前本質的人間になってしまうということが考えられるわけであり、この二次性の中で源初の肯定性が生じることが考えられる。それはあくまでも二次的なものであるが、鳥の雛への刷り込みが、その雛において本能とほとんど変わらない力を持ってしまうことを考えると、これまで考えてきた源初の肯定性に限りなく近い源初の肯定性ということもいえるかもしれないわけである。
ところで、過渡期的状態の個人というものを考えても、前本質的人間のみの社会→前本質的人間と過渡期的状態の人間の混在社会→前本質的人間と過渡期的状態の人間と創造的無としての人間の混在社会→過渡期的状態の人間と創造的無としての人間の混在社会→創造的無としての人間のみの社会という流れも考えられ、この場合は過渡期も単一なものではなく、過渡期の過渡期というものも考えられるということになるであろう。この社会的に見た過渡期の段階性、過渡期の過渡期の存在といったものが、過渡期から自立になっても過渡期的な源初の肯定性の自立期にへの持ち込みというものを可能とするかもしれないわけである。なお、この前本質的な親、あるいは過渡期的な親でもそうであるが、そのような親に育てられる子供を考えるなら、その子供にとっては親は源初の肯定性と結びついた存在ともいえるかもしれない。特に、母親と子供の密接な関係を考えるなら、その源初の肯定性は母親と強く結びつくともいえる。
現代の自己放棄の体系というものを考えてみる。創造的無という本質でいえば、無において成人も乳児や幼児も代わりはないといえるし、さらにいえば、人間は受精した瞬間に永遠の個我性を持った霊になるとシルバーバーチ霊はいうが、同じように受精した瞬間からその自我は創造的無を本質とするといっても不都合はおこらないともいえる。それに対して、自己放棄の体系は赤ん坊や幼児において、何らかの意味を成しているとは思えないし、子供についてもそういえるかもしれない。自己放棄の体系はある程度成長した人間において意味を持っているといえよう。幼児期は自己放棄の体系という観点からは、一種曖昧な時期ともいえるわけである。幼児期のあやふやな時期を経過して、やがて人間は自己放棄の体系の世界に入っていくと考えられる。この幼児期のあやふやさも問題解決の糸口にはならないのだろうか。たとえば、これを過渡期から自立期になった直前の人間に当て嵌めると、その人間も現代人と同じような人生をたどったか、あるいは現代でいえば幼児期のあやふやな時期のままに、一生を終えたということになるのではないだろうか。どちらにしても、過渡期と自立期の間に、自己放棄の体系という観点から見ると、あやふやな時期が挟まっているということになる。それが過渡期の過渡期的役割を果たしたとも考えられるのである。
その可能性は、さらに個体発生は系統発生を繰り返すという反復説と、親と子供の関係からも考えてみることができるであろう。反復説は、それに依拠しつつスティーブン・ミズンが、先史時代の心の進化と幼児化における心の発達の平行関係を論じていた。その反復説を本論に適用するなら、人間はその成長において、前自立期・過渡期・創造的無を繰り返しすということになる。それを文字通りそのようなものとして考えると、反復説は過渡期と自立期の問題を個人の中で単に繰り返すだけであるから、何の解決策にもならない。しかし、個体発生は系統発生を繰り返すといっても、古い時代の人間も幼児期から成人へと成長しているのであるから、文字通りの反復などありえないわけであり、それは重なり合い、変形された反復でしかありえない。ただ、それが系統発生であるなら、変形された、あるいは擬似的なものであれ、過渡期的状態がそこには何らかの形で反映されていると考えられるわけである。例えば、受精卵の段階ですでに創造的無を本質とする人間が、さらにその発達過程で擬似的に系統発生を繰り返すという二重構造になっているかもしれないわけである。
この幼児期のあやふやさ・曖昧性は前自立期的親と創造期無としての子の関係の中でも考えなければならない。子供のそのあやふやな状態の中で親に育てられるということは、親による刷り込みがさらに大きな力を持つということであろう。
引用・参考文献
『心の先史時代』 スティーヴン・ミズン
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